2007.3.11 不信仰に驚かれた マルコ6:1-6

仮りにですが、みなさんが手術を要する病気にかかったと過程しましょう。病院に行かれるとき、近いところを選ぶでしょうか?それとも、隣町の病院を選ぶでしょうか?案外、私たちは近場よりも遠くの病院を選ぶんじゃないでしょうか?なぜなら、近くの病院の悪いうわさを聞いているからです。また、キリスト教会に行く場合、近所の教会に行くでしょうか?それとも、駅をいくつか飛ばして、遠くの教会に行くでしょうか?柏から来られている方もおられますが、亀有と柏の間に、果たして教会がいくつあるでしょうか?近くの教会よりも、遠くの教会でしょうか?病院や教会は、近場よりも遠くの方が良いように思えるのでしょうか?きょうの物語は、灯台も元暗しではありませんが、ナザレの人たちが一番、イエス様のことを知りませんでした。知っていると思っていたのに、肝心なことを知らなかったのです。

1.排斥されたイエス

マルコ6:4に「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」とあります。イエス様はユダヤのベツレヘムに生まれましたが、お育ちになられたのはナザレであります。ナザレは散らされた10部族の地であり、日が当たらない場所でした。ですから、人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言っていました。神様は救い主をエルサレムではなく、そういう目立たないところで養われたのであります。イエス様は大工で生計を立て、30歳になって公生涯を始められました。仏教では出家などと言うかもしれませんが、イエス様の場合は公生涯であります。実は、イエス様がナザレを訪れたのは、これが始めてではありません。そのことはルカ4章に記されています。イエス様はヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされました。その後、御霊によって荒野に追いやられ、40日40夜、悪魔の試みを受けられ、勝利しました。イエス様は御霊の力を帯びて、ガリラヤのカペナウムに行き、宣教と癒しのわざを始めました。その後、安息日に、ナザレの会堂に入って、イザヤ書を読んで、「自分はこのようなメシヤである」と宣言されました。人々はイエス様をほめて、その口から出る恵みのことばに驚きました。しかし、その直後、「なあんだ、この人はヨセフの子ではないか」と言いました。これに対して、イエス様は「エリヤやエリシャも自分の郷里では歓迎されず、他の国で奇跡を行った」と言いました。その言葉に、会堂にいた人たちは、ひどく怒りました。立ち上がって、イエス様を町の外に追い出し、丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとしました。しかし、イエス様は、彼らの真中を通り抜けて、去っていかれました。このマルコ6章の記事は、再び、ナザレに戻られたときの記事であります。では、彼らの反応はどうだったのでしょうか?

6:3「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。ぜんぜん、改善されていません。ここに「マリヤの子」と書いてありますが、ある人たちは、イエス様は私生児じゃないかと思っていたのかもしれません。イエス様の下には、弟が4人おりました。また妹が2以上はいたようです。ナザレの人たちは、「イエスはこの間まで大工だったし、親や兄弟も知っている。あのイエスがなんで、メシヤなんだ。普通の人じゃないか?それにしても、あの知恵や力はどこから得たんだ。おかしいなー、何か裏があるんじゃないだろうか。俺たちは子ども時代からイエスを見ているし、妹たちは嫁いで俺たちの一緒に住んでいる。イエスはただの人間だ。ただの人間が、神がかりになって、新しい宗教を起こそうとしているんだ」と、つまずいたのであります。麻原彰晃ではありませんが、今も、昔も、そのようにして、新興宗教を起こした人はたくさんいます。ナザレの人たちは「大工のせがれが、メシヤだと?エルサレムだったら分かるけど、メシヤがこんな村から出るわけがない。何かの間違いだ」とイエス様に躓いたのであります。しかし、それは人間的な見方であります。使徒パウロはⅡコリントでこのように言っています。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」(Ⅱコリント5:16)。「人間的な標準」とは原文は、肉によってという意味の言葉です。使徒パウロもかつては人間的な標準でキリストを知っていました。彼はキリスト者を迫害し、のきなみ牢獄に捕らえました。なぜなら、ナザレのイエスはキリストではないと思っていたからです。でも、彼はダマスコの途上に、復活のイエスと出会いました。まばゆい光の中で、イエス様の声を聞いたのです。おそらく、神からの啓示が与えられ、イエスがキリストであると分かったのでしょう。パウロは「目からうろこのようなものが落ちた」と言われていますが、霊的な目が開かれたわけです。ここに集まっておられる方は、「目からうろこ」を経験した方々だと思います。

さて、きょうの物語を私たちの信仰生活にどのように適用したら良いでしょうか?イエス様はナザレの町からも、肉親からもメシヤ(キリスト)だとは信じられていませんでした。マルコ3章にこう書いてあります。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである(マルコ3:21)。どうでしょうか?みなさんも、自分がクリスチャンであることをお家の方やご近所に表明しておられるでしょうか?よく「家族伝道が大切だ」と言われます。しかし、私たちを良く知っている親族や家族伝道はかなり難しいですね。私はこの7月に郷里伝道に行くつもりです。2年前、1度行きました。病気の癒しに関してはとても反応が良かったです。しかし、個人伝道に対しては反発までは行きませんでしたが、ノーリアクションでした。手紙やメールを送っても、応答なしであります。遊びに行く分には良いのですが、伝道となると厳しいものがあります。果たして今年はどうでしょうか?隣町の教会で証し説教をさせていただきたいとリクエストしているところです。身内や友人はどう思うでしょうか?「ああ、ヤスだったら知っている。大変落ち着きがない子で、よく喧嘩をしていた」とか。「小さいときは青パナを垂らし、きたない格好をしていたなー」。「8人兄弟の7番目で、わがままで、意地っ張りだった」。いろいろ言うでしょうねー。ちょっと、ため息が出ます。みなさんはいかがでしょうか?お家で、自分がクリスチャンであることをちゃんと表明しているでしょうか?子どもが親に伝道するのが一番難しいかもしれません。「この間まで、おしめを換えてもらったり、おんぶしてもらっていたお前に何が分かる。親に対して、お説教かい?偉そうに?」いやー、厳しいですね。牛久の大喜多先生は、ご両親がクリスチャンです。今はやっていないと思いますが、早天祈祷会を開いていました。早天に集まるのは、ご両親と、ご近所の信徒数名です。大喜多先生が毎回、メッセージを語り、祈祷会を導きます。早天が終わると、お父さんがつかつかとやってきて「ひろし、教会のあの問題はどうなっている?」と聞きます。せめて、教会の話題に関しては、牧師と信徒の関係でありたいでしょう。でも、父親が息子を牧師として見るかどうかは、また、別問題のようです。やっぱり「ひろし」なんでしょうか?これは、悪口になるので問題ですね。みなさんは、お父さんやお母さんに対して、クリスチャンとして接しているでしょうか?初代教会は、「すべての民に好意を持たれた」とありますが、あなたは好意を持たれているでしょうか?もしかしたら、偏屈だとか、高慢なやつだと思われてはいないでしょうか?

では、イエス様の場合はどうでしょうか?ナザレの人たちのことはわかりません。でも、家族は後に救われていることははっきりしています。使徒の働き1章で、弟子たち他、120人が二階座敷に集まり、聖霊を待ち望んでいました。使徒1:14「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあります。ペンテコステに聖霊を受けた人たちの中に、母マリヤやイエス様の兄弟たちが含まれていたのです。また、弟のヤコブは初代教会の議長に選ばれました。そして、ヤコブの手紙も新約聖書にあります。また、弟のユダもユダの手紙を書いています。ユダの手紙はこのように始まります。「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ」(ユダ1)。ユダは自分を「キリストのしもべ」と言っています。そして、ユダの一番最後が感動します。これは、祝祷になっています。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」ユダ24,25)。主イエス・キリストがいかにすばらしいお方であるか、修飾語がたくさん付いています。第一はイエス様は「あなたがたをつまずかせないように守ることができる方」と書いてあります。イエス様の家族、兄弟はつまずきませんでした。第二はイエス様は「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」と書いてあります。第三は「私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威があるように」と書いてあります。文法上難しいですが、イエス様が救い主であり神であるとも取れます。結論から言って、イエス・キリストを知るとは、肉眼で見て、手で触って分かるというものではありません。イエス・キリストは救い主であり、神であるとは、やはり聖霊の働きであります。だれでも、聖霊によらなければ、イエスを主であると告白できないのです。

今日、私たちは歴史の教科書や、聖書、あるいは考古学の文献でイエスが地上におられたということを知ることができます。でも、本当に救い主であり、神であるキリストと出会えるのは、恵みであります。父なる神様が、召してくださらなければ、だれ一人、みもとに来ることができません。聖霊が啓示を与えてくださらなければ、だれ一人、イエスは主であると告白できないのです。ですから、これは知識の問題ではありません。知識のまるでない幼子でも、イエス様を救い主であると信じることができるのです。大人はなまじっか知識があるので、逆に、信じられないのです。だから、イエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」(マタイ18:3)と言われたのです。

2.不信仰に驚かれたイエス

マルコ6:5「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」。「それで」とは、不信仰であります。イエス様は6節で「彼らの不信仰に驚かれた」とあります。げー?イエス様は他の町々では、中風の人を癒し、手のなえた人を癒し、長血の女性を癒し、死人さえよみがえられました。しかし、ナザレでは何一つ力あるわざを行なうことができず、風邪とか腹痛を癒されただけでした。なぜでしょう。「どうせ、まやかしだろう。大工の子せがれが、何ができるんだ」。人々は、信仰をもって求めなかったのです。イエス様は、彼らの不信仰に驚かれました。不信仰は、ものすごい力があります。イエス様の力を締め出すほどの力があるということです。海外から多くの伝道者が日本にやって来ました。チョーヨンギ師、アナコンディア、ベニーヒン、それからメルボンドなど。私も何度も行きましたが、目覚しい癒しや奇跡は起こらないですね。アルゼンチンやアメリカでは、そうかもしれませんが、日本では小さな癒ししか起こりません。一度、アナコンディア師が、「めがねをはずしてください。近眼が癒されるように」「新しい歯が生えるように」と祈りました。でも、日本では癒しがあまり起こりません。なぜでしょう。私たちの頭の中には、「眼鏡があるから」「歯医者に行けば治るから」とあまり、危機感がありません。しかし、アルゼンチンとかアフリカとかは、医学が発達していないので求め方が違うんです。私たちの回りにはたくさんの医療施設やお薬があるので必死に求めません。だから、癒される率が低いのではないかと思います。特にクリスチャンが癒しに関しては不信仰です。日本の教会は、癒しや奇跡に関して、あまり良い印象を持っていません。だから、むしろ、未信者の方が癒されるのです。教会の外で、癒しをした方が、ものすごく高い比率で起こります。おおー、未信者に対して、癒しや奇跡が起こるように、祈りましょう。そうすると、イエス様を信じる度合いが高くなります。

次に、病の癒しや奇跡ではなく、私たちクリスチャンの不信仰ということを考えたいと思います。私たちは神様に求める前に、頭や心の中で既に決めているものがあります。自分の中に既にある思いがあり、それが邪魔になって、次のステップに進めないのです。たとえば、男性が良く言う言葉があります。「男性は仕事が忙しくて勉強会に出られない。平日なんか、セルの集まりが持てない」と言います。私もそう言われると、「確かになー」と引き下がってきました。しかし、男性の一日を振り返り、24時間、仕事をしているでしょうか?テレビや新聞は見ていないでしょうか?お酒を飲んで、ぼーっとするときはないでしょうか?私は何に献身するかが問題だと思います。献身とは英語でコミットするといいます。私はこれにコミットすると決意すると、時間はどうにでもなるのです。でも、「仕事が忙しくて」と言い訳すると、もう信仰も工夫も湧いてこないのです。それは、一種の不信仰です。インドネシヤやシンガポールの男性セルは10時から12時過ぎまでやっていました。また、私たち牧師は「日本の伝道は難しい」とよく言い訳します。しかし、ギャラップ調査によりますと、クリスチャン人口は4%、キリスト教が好ましいという人が23%もいるということです。私たちは教会堂に来ている人の数を数え、0.5%だとか言います。でも、外には潜在的なクリスチャンが思ったより多くいるということです。伝統的な教会は、「教会に来なさい」といろんな催しをしてきました。しかし、聖書は「彼らのところに行きなさい」と命じています。先週、セル教会のために、コーチング関東というのがありました。香港からベン・ウォンをお招きして学びを受けました。彼は「教会に人を集めて、礼拝をささげるのは旧約の時代である。新約の時代は、私たちクリスチャン自身が教会である。だから、われわれがこの世に散らされて、そこで生きた礼拝をささげるべきだ。まなじっか、教会堂なんかないほうが良いんだ。牧師室も会堂も焼けてしまえば良いんだ」と言っておりました。ものすごい、強烈なメッセージでした。

私はコーチング関東で、久しぶりに小笠原先生とか菅谷先生と親しく交わることができました。二人の先生は「キリスト教会はここ10年間、心の癒しに集中してきた。教会が心の癒しやカウンセリングをするとをすると、そういう人たちだけが集る。牧師やスタッフがそういう人たちに時間を取られ、伝道がまったく進まなくなる」と言っておられました。そういえば、私も弟子訓練の前に、心の癒しが必要だとやってきました。すると、いつの間にか、癒されなければ何もできないという考えになります。ベン・ウォン先生は、「私は心の癒しはしない。蹴飛ばすと治る。聖書は自我に死ねと言っている」。イエス様も使徒パウロも、外に出歩いて、いろんな人を捕まえ、弟子にしました。私は「牧師室から外に出る必要がある。世の人々と出会って、キリストの弟子になるように、リクルートしなければならない」と思いました。みなさんは、「これは難しい、不可能だ」と頭から決め付けていることはないでしょうか「体が弱いから」「もう年だから」「女だから」「お金がないので」「私の親は救われない」「私の夫は救われない」…これは、不信仰です。私たちが不信仰に陥っているなら、どんなに偉大なイエス様も何もできないのです。私たちは自分ができないから、イエス様もきっとできないだろうと信じているのです。私たちは不信仰の石をどかさなければなりません。

ヨハネ11章には、ラザロの物語が書いてあります。ラザロは死んで4日もたっていました。墓に収められ、すでに腐敗が始まっていたのです。もう、だれの目にも不可能でした。ヨハネ11章39節以降には、このように書いてあります。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:39-40)。イエス様は、「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見る」とおっしゃっています。では、信じることを現す行為は何だったでしょうか。何をもって信じることを表すのでしょうか?そこで彼女らは、石を取り除けました。不信仰の石を取り除けたのです。すると、イエス様は大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれました。イエス様は石をどけなかったのです。石をどけたのは人々です。そして、死んだラザロをよみがえらせたのは、イエス様です。私たちの人生において、これは無理だと、大きな石でふたをしていないでしょうか。その石がある限り、イエス様は奇跡を起こすことができません。その石とは、自分の経験であったり、医者の言うこと、ある偉い人の言ったことかもしれません。でも、みんな人間的な見方であります。私たちは人間的な見方を捨てなければなりません。この世で生きていると、いつの間にか、人間的な見方でものごとを見てしまいます。Ⅱコリント5:17に何とかいてあるでしょう。Ⅱコリント5:16からまずお読みいたします。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」これが16節です。では、次の17節です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。人間的な標準を捨てましょう。キリスト様はもっともっと偉大な方であります。そして、私たち自身もキリストにあるなら、古いものは過ぎ去り、新しく造られた者なのです。「新しく造られるであろう」ではありません。すでに新しい被造物になったのです。聖書の預言はみなそうです。なる前に、そうなると断言します。神様は私たちをそういうふうに見ているのです。視点を変えましょう。人間的な目ではなく、神様の目で見ましょう。できないと言えば、もうそこでおしまいです。でも、主にあってできると信じるならば、そこから道が開かれます。