2007.2.4 向こう岸へ渡ろう マルコ4:35-41

地球温暖化も手伝ってか、最近は冬なのに暖かいです。梅も例年よりずっと早く、開いているようです。いつもは、足にしもやけができて痛くなるのですが、今年はそうでもありません。感謝すべきなのかどうか、複雑な感じがします。きょうも、マルコによる福音書から学びたいと思います。この福音書の文体はとてもシンプルですが、それだけリアルで、力強く迫ってきます。

1.信仰の所在

 イエス様と弟子たちは何度かガリラヤ湖を渡りますが、きょうの記事はよく知られている箇所です。イエス様は舟の上から群集にお話をなされました。おそらく、湖のほうから陸地に風が吹いていたので、オーディオセットなしでも人々に届いたのではないかと思います。お話も終わり、夕方になったので、イエス様は弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」言われました。ところが、湖の真ん中くらいまでくると、激しい突風が起こりました。舟は波をかぶり、水でいっぱいになりました。こういうことは、ガリラヤ湖ではよくあることです。なぜなら、この湖は海抜マイナス200メートルなので、空気の温度差で、突風が起こることが良くありました。弟子たちの多くは漁師だったので、そういう嵐も経験していたでしょう。ところが、その日の嵐は度を越していました。水が舟に入り、今にも沈みそうです。弟子たちが水をかきながら、ふっとイエス様を見ると、なん船尾のほうで、枕をして眠っておられるではありませんか。この非常時に何をのんびりしているのだろう。弟子たちはイエス様を揺り起こしながら「先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と言いました。彼らはこの嵐がイエス様のせいだと思ったのでしょうか?それとも、イエス様にも水をかいてくれと願いたかったのでしょうか?よくわかりませんが、ぐうぐうと眠っておられるイエス様に腹が立ったことは確かです。39-40「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」。

 ここで1つ疑問が起こります。嵐と信仰とは何の関係があるのでしょうか?弟子たちに信仰があったら、その嵐を乗り越えることができたのでしょうか?答えは「はい」です。弟子たちは目の前の嵐を怖がって、信仰をどこかに起き忘れてしまったのです。ルカ8:25で、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われました。ここで問題になるのは、信仰とは何かということです。信仰とは「神様の約束のことばに信頼を置く」ということです。イエス様は最初、弟子たちに何とおっしゃったのでしょうか?35節「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。これは一種の提案とも取れますが、そうではありません。ロゴスなるイエス様が弟子たちに約束のことばを与えたのです。イエス様が「向こう岸へ渡る」とおっしゃるならば、途中、何があっても渡れるのです。イエス様はたぶん肉体的に疲れを覚えて眠っておられたと思います。でも、それだけではありません。イエス様は父なる神様を信頼して、休んでおられたのです。ハレルヤ!ところが弟子たちは自分たちが元漁師なので、「向こう岸ですね。あいよ」てなわけで、何も考えないで漕いだのです。つまり、イエス様の「向こう岸へ渡ろう」というおことばを信仰によって受け止めていなかったのです。だから、嵐が襲ってきたとき、たじろいでしまったのです。では、信仰とは何でしょうか?信仰とは、イエス様が語られたことば、レーマに信仰を置くということです。レーマとは、今、私に語られる特別な言葉です。これを握っていたなら、彼らは何が起こったとしても、向こう岸に渡ることができたのです。韓国のチョーヨンギ牧師はロゴスとレーマをはっきり分けています。ロゴスと言うのは、聖書に書かれている神様のことばです。これはだれにでも当てはまる神様のみこころを示している一般的なものです。一方、レーマとは、今、私に個人的に語られる神様のことばです。英語では前者をwritten word、書かれた言葉、そして後者を spoken word、語られた言葉というふうに区別しています。マタイ4章でイエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。神の口から出ることばは、ギリシヤ語では、レーマになっています。今日の私たちは、「ロゴス」である聖書を読んで、今私に語られる神のことば「レーマ」をいただきたいものです。イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのです」かと、問うておられます。今、私たちに語っておられる神のことば「レーマ」に信仰を置くべきであります。

使徒パウロは「信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14:23)と言いました。この世的には「覚悟ができているかどうか」と言うかもしれません。しかし、信仰とは自分自身に頼るのではなく、神様の約束あるいは神様ご自身に頼ることです。たとえば、お産の場合、この世の人は、必死の覚悟でお産をするでしょう。そのとき、医者やお守りや身内を頼るし、自分自身でも覚悟を決めます。クリスチャンの場合はどう対処するでしょうか?最近は、当教会でもベビーブームで、同級生がたくさんいます。クリスチャンのお産の場合はこうだと思います。私は経験がありませんが、姉妹方はこう祈るのではないかと思います。「自分の命も赤ちゃんの命も神様のものです。父なる神様がきっと無事に生ませてくださるに違いありません。主よ、助けたまえ!アーメン」と臨むのではないでしょうか?つまり、クリスチャンは、覚悟だけではなく、信仰によって臨むということです。みなさん、信仰が必要です。特に、一生を左右する出来事はそうであります。進学もそうです。就職もそうです。結婚もそうです。手術を受けるときもそうでしょう。家を建てることもそうでしょう。事業をはじめるときもそうでしょう。そればかりではありません。信仰生活で栄光から栄光へと成長するとき、必ず信仰が必要であります。まさしく、「信仰から出ていないことは、みな罪です」。では、なぜ、それらのことを信仰によって決断する必要があるのでしょうか?もちろん、信仰によって決断したのに、失敗したり、うまくいかなかったことがあります。でも、信仰によって決断したことは、後になって、後悔したり、壊滅状態にはならないということです。ローマ8:28にすばらしいみことばがあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。私は口語訳の方が好きです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。もし、私たちが信仰によって始めたらなら、たとえ失敗したとしても、神様が万事を益としてくださるのです。

 35節のイエス様がおっしゃる「さあ、向こう岸へ渡ろう」は、1つのチャレンジかもしれません。こっち側は従来慣れ親しんで来た生活です。これに比べ向こう岸とは、まだ知らない未知の世界です。年をとってくるとだれでも保守的になります。「これまでも、いろいろやって試してみたけど結局はうまくいかなかった。また、同じだろう」ということで、チャレンジすることがおっくうになります。実は3月からセルチャーチのコーチングが始まります。ベン・ウォン先生が年に4回ほどお越しになり、いくつかの教会をコーチしてくださいます。でも、実際には日本の教会が日本の教会をコーチするわけです。自分ところの教会の実情を見せて、コーチしてもらうというのは、恥ずかしいところがあります。ですから、「私の教会をコーチして」という申し込みはとても少なくて、計6教会であります。実は私というか、当教会も他教会をコーチするコディネーターになっているんです。「自分の教会もままならないのに、どうなっているの?」というご批判を受けそうです。でも、皆さん、人のお世話をして、一番、教えられるのは自分だということです。関西では昨年から始めており、4人のコディネーターがいますが、本当に良かったと感想を述べておられます。自分の足りないところや弱さを見せ合い、それで共に成長していくわけです。日本人は内側を見せるのが苦手で、教会にまでこういう文化が入り込んでいます。うわべでは「ハレルヤ!恵まれています。何も問題ありません」という顔をしています。でも、内側では中毒や悪習慣で悩んでいる人が多いのです。どういう訳か、こういうものは他の人に分かち合って、祈ってもらわないと解決されなんです。姉妹方は結構、簡単にオープンになれます。しかし、男性はこれが簡単にできない。なぜなら、これまで虚栄心とプライドで生きてきたので、弱さを出したら自己崩壊する恐れがあるからです。だから、鎧兜あるいは裃(かみしも)を脱いで、共に交わること。これが新しいチャレンジではないかと思います。つまり、「向こう岸へ渡ろう」とは、外面的な事業とか奉仕ではなく、もっと霊的なことがらではないかと思います。

 パワーフォーリビングに、創設者の夫、デモス氏の証が載っていました。彼は10代からギャンブルに懲り、24歳で事業が成功し大金持ちになりました。その頃には競馬場やナイトクラブ、カントリークラブをまわるのが日課となっていました。しかし、あるとき、弁護士がイエス・キリストの話をしてくれて、これこそ私が今までずっと探し求めてきたものだと悟って、イエス様を受け入れました。彼はそれまで、スリルと興奮を毎日、味わってきました。が、彼は最高の刺激や興奮とは、自分が信じているこの信仰を他の人と分かち合うこと、そして彼らが救い主イエスを見出す姿を見ることだと分かりました。彼は「今の私にとって、当社の保険商品で何百万ドルという売り上げを上げるよりも、神様の永遠に続く生命の保険について他の人に伝えることの方がすばらしいことなのです!」と証しています。自分がイエス様によって解放され、この喜びを他の人に分かち合う。これこそが、「さあ、向こう岸へ渡ろう」という1つの適用ではないかと思います。

2.このお方はだれだろう

 マルコ4:39「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」。イエス様はまるで人格があるように、風と湖を叱りつけました。こういうことも考えられます。イエス様と弟子たちが向かっている目的地は、ゲラサでありました。マルコ5章に書いてありますが、そこにはレギオン(大勢)という悪霊がいました。もしかしたら、ゲラサの悪霊どもがイエス様一行を亡き者にしようと嵐を起こしたのかもしれません。だから、イエス様はこのような叱り方をしたのかもしれません。とにかく、イエス様は自然界をもコントロールできるお方であります。イエス様が命じたあと、風はやみ、大なぎになりました。弟子たちはどう感じたでしょうか?マルコ4:41彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」「大きな恐怖に包まれて」は、原文では、「大きな恐れで、恐れた」となっています。弟子たちは、腰を抜かして、震えがとまらなかったでしょう。「イエス様って、こんなことができるんだ。すげぇー」。大漁の奇跡のときは、ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏しました。今回は、イエス様が自然界を支配するのをまざまざと目撃しました。弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」と言いましたが、心の中では、「イエス様はもしかしたら神様じゃないだろうか?」という、思いが膨らんだことでしょう。イエス様に出会うというのは、こういうことを言うんじゃないでしょうか?遠藤周作の本などには「同伴者イエス」という、私たちの弱さを理解してくださるイエス様が強調されています。残念ならが、そこには神であるイエス様は描かれていません。私たちと同じレベルの、人間イエスであります。もちろん、イエス様は私たちと同じ人間になられました。しかし、忘れてはいけないことは、イエス様は同時に神であられたのです。

 私たちはいったいどういうお方が私と共におられるのかということを知る必要があります。イエス様は天と地を創造し、所有し、支配できるお方であります。自分でお造りになったのですから、変なことをするならば、叱りつけ、静まらせることもできるはずです。クリスチャンの中に、「私にはそんな信仰がない」とか「信仰が弱い」「信仰が小さい」と言う人がいます。しかし、信仰とはそんなに難しいものではありません。信仰の大小は、イエス様をどういうお方として信じているかということと正比例するのではないかと思います。ある哲学者はイエス様を「痩せ細ったガリラヤ人」と言いました。新興宗教の人たちは「十字架で見苦しい死に方をした教祖だ」と言うでしょう。クリスチャンであるなら、そこまでは思わないかもしれません。でも、イエス様はどのくらいの大きさなのでしょう?私は2000年に初めてインドネシアに行きました。一人の男性とセルリーダーのご夫妻が交互に証をしてくれました。その男性は、脳腫瘍のため病院に入院しました。でも、その手術はとても困難で、一度はやってみたものの終了しませんでした。医者は、「少したってから、また手術しますから」と彼に言いました。彼はお金がなくて、病院に行きませんでした。そのためますます症状が悪化し、日常生活もままならなくなりました。彼はセル集会に出席し、みんなから祈ってもらいました。セルリーダーのご夫妻も手を当てて祈ってくれました。そのときその男性はまぼろしを見ました。目の前に、とてつもなく大きな足がありました。あまりの大きさに、驚きましたが「この方はきっとイエス様だ」と直感しました。彼は「イエス様でしょうか?でも、あんまり大きいのでお姿が見えません。もっと小さくなってください」とお願いしました。すると、シュルシュルとイエス様が小さくなり、私たち人間と同じサイズになりました。そこで、彼は「イエス様!」と見上げると、顔はまばゆいほど輝いて、見えなかったそうです。イエス様が手を置いて祈っておられるような感じがしました。彼はあまり教育の無い人で、それから病院にも行かないで、半年くらいたちました。しかし、身内の人が勧めるので、病院に行って検査をすることにしました。お医者さんはびっくりしました。以前、頭の中にあった腫瘍がまったくなくなっていたのです。「このような奇跡はいっぱいありますよ」とセルリーダーの奥さんがご主人をだまらせて、言いました。「ご主人よりも、奥さんの方が強いなー」と思いました。それはともかく、男性がイエス様の足が大木のように大きかったという証が印象的でした。

 J.Bフィリップスという聖書学者が「あなたの神は小さすぎる」という本を書いています。どうでしょうか?あなたの神様はどのくらいの大きさでしょうか?もしかしたら、携帯にぶらさげるマスコットのような大きさですか。それではお守りです。等身大の大きさでしょうか。イエス様は私たちと同じ大きさだったと思いますが、それは、私たちのために凝縮されたお姿であります。私はイエス様は、バレーボールの大きさ位の地球をごらんになっているのではないかと思います。「なんだ、この地球は!」バシッと叩けば、地球は終わりです。でも、イエス様は愛なるお方なのでそんなことはしません。あなたの神様はどのくらいの大きさでしょうか?私はここ数年、経済的な問題に苦しんでいました。長男のアメリカ留学がずいぶんと答えました。長女は卒業しましたが、次男がめでたいことに今年の春から大学です。心のガリラヤ湖に嵐がやってきました。「私たちの舟は大丈夫だろうか、沈むんじゃないだろうか」と家内と恐れました。結論から言えば、なんとかなりそうなんですが、神様は大変、ユーモアがあるなーと最近思うようになりました。私たちは悲壮感いっぱいで、「どうなるんだ!」と青い顔をしているんですが、神様はほほえんでいるようです。昨年はジャンボ宝くじを10枚買って、夢を託しました。1億円は当たりませんでしたが、なんと1万3千300円当たりました。面白いなーと思いました。それから、先週ですが、ジャパン・ホームバジューが新装開店のため、ポイントカードを清算する機会がありました。店員が機械を通してやってくれるんです。500円の金券が計20枚も出てきました。「やった!」と思って、ズボンとか靴下とか買いました。半分を息子にやりましたが、猫グッズを買っていました。とにかく、神様はユーモアがあるなーと思うんですね。私たちはあまりにも深刻になりすぎます。大能の神が共におられるのに、乞食みたいな生活をしている人もいないわけではありません。全能の神が共におられるのに、弟子たちのように「死んでも何とも思わないのですか!」と怒っている人もいるでしょう。もしかしたら、深刻になりすぎるのは、不信仰の表れかもしれません。ヨブという人は、全財産と10人の子供をいっぺんに無くしました。彼は何と言ったでしょうか?「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、ひれふして神様を礼拝しました。もちろん、彼はそれから悩みました。でも、彼は「主の御名は、ほむべきかな」と言ったんですね。すべての所有者は神様です。私たちはただ、一時的に預かっているにすぎないのです。でも、ちょっとこのように見方を変えたらどうでしょうか?神様は全宇宙の所有者です。私たちがイエス様を信じると、全宇宙の所有者である神様の子供となるのです。父なる神様は、私たち子供にどのくらいの相続を与えようとしておられるのでしょうか?莫大な量ではないでしょうか!

 パワーフォーリビングに「ベン・フーバー」という人の証が書いてありました。お母さんは未婚で私を産んだので、私はとても苦労しました。学校に通い始めるとクラスメートにあだ名をつけられるようになりました。それは決して呼ばれてうれしい名前ではありませんでした。遊び仲間からのからかいにあまりにも深く傷ついた私は、休み時間や昼食の時間は独りでどこかへ行っていました。それよりもさらにひどく傷ついたのは、土曜の午後に街中へ出かけて行く時でした。まわりの人間が、皆、私のことをじろじろ見るのです。誰もが私の本当の父親が誰なのか知りたがっていました。私が12歳ぐらいの頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。私は礼拝にはいつも遅れて行っては早めに抜け出していました。ところがある日、牧師が祝福の祈りを早く終えたので、早めに抜け出そうと思っていたのに、皆と一緒に教会から出て行かなければならなくなりました。私は、教会にいる礼拝者全員の視線をひしひしと感じました。ようやく教会の扉にたどり着いたと思ったとたん、肩に大きな手が置かれました。見上げると、牧師が私をまっすぐ見つめていました。「坊や、君は、誰だね?誰の子供かね?」昔からのあの重い気持ちが再びのしかかってきました。まるで大きな真っ黒い雲のような重々しさでした。牧師までも私を見下しているんだ、と。しかし、牧師は私を見下ろしながら、私の顔をじっくり見ていました。そして、まるで私に見覚えがあったかのように、大きな笑みを見せました。「ちょっと待てよ。君が誰だか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は、神様の子供だ!」そう言うと、彼は私のお尻をポンと叩いて、こう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って自分の物だと主張しなさい」。ベン・フーバーは私生児でしたが、後に、テネシー州の知事に選ばれました。