きょうの午後から明日と「チェンジングライフ・キャンプ」にでかけます。インドネシアと比べると、本当にミニサイズですが、今後も継続していきたいと思います。その中に、悪霊からの解放もあります。「えー、そんなのあるのー、怖い」と思われるかもしれませんが、一部分をつかまれている人がよくおります。よくテレビでは肉体の健康番組が多いんですが、魂の健康とか霊的健康という分野があることをお忘れなく。日本人は肉体ではなく、魂とか霊において不健康な人が多いのではないかと思います。きょうは「霊的束縛からの解放」ですが、どこか、おどろおどろしたお話ではなく、聖書から霊的真理を語らせていただきます。
1.レギオンを宿していた男
この人は「悪霊につかれていた」と、2節と15節に書いてあります。悪霊が人のところに入るレベルをABCの段階とするなら、彼はCであります。なぜなら、イエス様が「お前の名は何か」と聞かれたとき、「私の名はレギオンです」と、悪霊自身が答えたからです。イエス様は悪霊を追い出すために、悪霊に尋ねたわけではありません。そのとき、本人の人格ではなく、悪霊が出てきたわけですから、よっぽど重症だったと思われます。そればかりか、彼は裸の状態で墓場に住んでいました。当時の墓場は洞穴ですから、きっとそこをねぐらにしていたのでしょう。人々は彼があばれないようにつなごうとしました。そこを通る人たちが傷つけられたからです。でも、彼はその鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。彼の力は普通ではなく、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができませんでした。彼は夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていました。悪霊の共通の目的は、とりついている人を滅ぼすということです。その叫びは、おそらく本人の魂の底からの叫びであり、イエス様のところにその声は届いていたのかもしれません。ところで、クリスチャンにも悪霊が入るのかという疑問があります。私が勉強したところ、クリスチャンに入るというよりも、クリスチャンになる前に行った罪や受けた心の傷によって入るという方が正しいと思います。悪霊は理由もなく勝手に入ることはできません。悪霊が入る分野には3つあります。第一は身体の分野です。汚れや情欲など、さまざまな悪習慣から悪霊が入るということです。第二は魂の分野です。犯した罪や、心の傷などから悪霊が入ります。第三は霊の分野です。これは、偶像礼拝、占い、霊能者、オカルトから入るものです。
彼の場合は、身体の分野ではないかと思います。彼はおそらく、いつも汚れたことをしていたのでしょう。そこへ汚れた霊がやってきて、彼を占領し、彼は汚れたことをさらにやり始め、最終的にこうなったと思われます。悪霊がその人の中に入ると、程度差はあれ、社会生活ができなくなり、自分を傷つけ、心の葛藤が大きくなります。悪霊は肉体を持っていませんので、宿るべき肉体をさがしています。でも、先ほど申し上げましたが、汚れた霊が入ったから、汚れた人になったのではありません。実際は、その逆です。彼は、汚れた生活をしていたので、悪霊が「ああー、この人の生活は私の性質とぴったりだ。この人の中にはいりたい」と思ったのです。テレビでよく、ごみ屋敷に住んでいる人がいます。その人はゴミ捨て場からわざわざ、自分の家や敷地内にごみを持ってくるのです。インタビューアが聞いても、その理由がよく分かりません。回りの住民が「臭いとか火災の危険がある」とか、文句を言っても、「我、関せず」という感じです。ごみ屋敷に住んでいるある人たちには、悪霊が入っているように思います。日本は自殺率がとても高い国です。毎日のように、電車の飛び込みやビルから飛び降り、あるいは生徒の自殺があります。もし、ある人が何かの理由で「私は死にたい、死にたい」と思っているとします。悪霊はそこいらを歩いていますので。その声を聞いて、「ああ、この人は死にたいと願っている。私の性質にぴったりだ」と思って入るのです。するとその人は自殺の道へとエスカレートするわけです。あとから出てきますが、レギオンは2000匹の豚を殺すほどの力がありました。また、人がだれかを殺したいほど憎んでいるとします。すると悪霊が「ああ、この人は私の性質にぴったりだ」と思って入るのです。するとその人は包丁でぐさっと刺したりします。あとから、「私はなんと言うことをしたのだろう!」と目がさめても後の祭りです。他に盗み、高慢、悪口、情欲、うそ、怒り、争い、自己憐憫…そういう生活をしていると、悪霊がやってきてその人に中に入ります。すると、もっとその人の生活は悪くなります。タバコ、麻薬、薬、ギャンブル、ゲームなど、中毒性のものも悪霊が入ると、ひどくなります。
つまり、悪霊が身体に入るのは、その人のライフスタイルが原因しているということです。ですから、その人が悪霊から解放されるためには2つのことが必要です。第一は悔い改めです。その生活をやめて、正しいことを行うということです。エディ・レオが日本に来て話したことがあります。悔い改めはメタノイア、方向転換と言います。その当時、ローマの軍隊が行進していると、「メタノイアー」という掛け声で、彼らは方向転換します。「盗み、盗み、盗み」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。ストップ、立ち止まりました。それはただ盗みをストップしただけです。「メタノイア」とは方向を変えることです。つまり、方向を変えて「与える、与える、与える」という生活をすることです。「悪口、悪口、悪口」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。悪口の反対は何でしょう。「悪口をメタノイアー」。「人を建てあげる言葉、人を建てあげる言葉、人を建てあげる言葉」となります。「中毒、中毒、中毒」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。中毒は難しいです。タバコをやめるとか、お酒をやめるというのは難しいでしょう。やめるだけでは、メタノイアーではありません。「中毒からメタノイアー」どうするでしょうか?「イエス様、イエス様、イエス様」とイエス様に中毒になるしかありません。エディ・レオは生活を変えるのは1日や二日ではだめで、最低49日必要だとおっしゃっておりました。何かの数字に似ていますが、新しい生活習慣を作るためにはそれだけ日数も必要だということです。
私もウインドウXPの中にあるゲームにはまりかけたことがあります。スパイダーソリティアというトランプゲームです。仕事のはじめちょっと、一息入れてちょっと、たちまち20、30分ロスします。だから、教会のパソコン、私のパソコンから、すべてのスパイダーソリティアを削除しています。パソコンに入っていないんですからやれません。でも、1週間くらい、「どこからかダウンロードできないかなー」とインターネットをクリックします。でも、幸いなことにないんですねー。すると、もうやる気が起こらない。中毒から解放されたわけですえねー。タバコだって、解放されるためには49日はかかるのではないでしょうか。それが過ぎるとほしくなくなります。メタノイアーした後で、悪霊を追い出すのです。悪霊は、簡単に出て行きます。でも、また近くにやって来て「久しぶりだなー、仲良くしようぜ」と大声で言うでしょう。でも、そのときに、きっぱりとイエスの御名によって抵抗するのです。何度か繰り返しているうちに、小さな声になります。この男性は、イエス様の圧倒的な恵みによって、瞬間的に解放されました。15節には「着物を着て、正気に返ってすわっていた」と書いてあります。さらには、イエス様のお供をしたいというところこまで行きました。解放はあります。でも、霊的に束縛されている人は、それが普通だと思っているのです。長い間、そういう生活を強いられてきたので、当たり前のように慣れているわけですね。でも、解放されると空気までおいしくなります。「生きるってすばらしい」とか、「人を愛することがこうも簡単なのか!」と自分でも驚くでしょう。
イエス・キリストは、悪霊に縛られている者を解放するために来られました。悪霊どもは、イエス様の正体を知っており、非常に恐れています。ヨハネ10:10に「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と書いてあります。盗人とは悪魔のことであり、私たち人間を盗み、殺し、滅ぼすことが目的です。でも、まことの羊飼いであるイエス様は、私たちがいのちを得、またそれを豊かに持つために来られたのです。どうぞ、イエス様によってもっと、もっと解放されましょう。
2.レギオンから解放された男
レギオンとは、もともとローマの軍団の呼び名で、その数は6000人でありました。一軍団は6000人の兵卒であります。その中に、千人隊長が6人、百人隊長が60人いるわけです。イエス様が十字架の前に捕らえられました。そのとき、ペテロに「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:53)と言われました。原文では、「12レギオン以上の御使い」となっています。単純に計算して、72,000の御使いということです。この男性がレギオンを宿していたわけですが、私はそれだけではないと思います。この一軍団の悪霊どもは、その地方を支配していたのではないかと思います。なぜなら、10節に「自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した」と書いてあるからです。レギオンはおそらく、ゲラサの地方を支配する悪霊であり、その地方の人々の上にも何らかの支配権を持っていたと想像できます。なぜなら、その地方の人たちは、男性が解放されたことより、2000匹の豚が死んだことを残念がり、イエス様に「この地方から離れてくださるように願いました。彼らは、イエス様がその地方にいたら、もっと被害が多くなると恐れたのでしょう。彼らはイエス・キリストよりも、レギオンの支配下にある方がまだ良いと勘違いしていたのでありましょう。このように、町や地方を支配している悪霊の力を要塞と呼んでいます。日本においても、悪魔の手下であるレギオンが、各地方を支配しているのではないでしょうか。たとえば、大阪ではダンジリ祭りがあります。そこに住んでいる人たちは、ダンジリに参加しなければ男じゃないと思っているでしょう。これは1つの要塞であります。また、諏訪では、御柱というのがあります。そこに住んでいる男性は、御柱で死んでも本望だと思っているのではないでしょうか。これも1つの要塞であります。こういうものは、地方にたくさんあります。北陸では鬼のお面をかぶって、太鼓を叩くでしょう。秋田では、なまはげとか梵天というのがあります。豊後高田市の裸祭りというのもあります。はたから見たら、異様ですが、祭りに参加している人たちは、エクスタシーを覚えているようです。だいたい、祭りと結びついており、何かを奉納するわけでしょう。まさしくレギオンの下にあります。そこから、引越しして都会に住んでいる人は、その影響下から解放されるので、教会に来やすいということがあるのかもしれません。
本当にその地方の祭りや因習にとりこまれている人は簡単に救われません。クリスチャンになったら、村八分にされ、孤立してしまうからです。そして、その地方を支配するレギオンは、その人たちの思いをくらまし、キリスト教がまるで悪いものかのように思わせています。それが要塞であります。ですから地方の教会も、セルという共同体がものすごく重要です。クリスチャンになって、町の人たちから追い出されても、新しいコミュニティに属せば良いからです。日本人のコミュニティは、本音と建前のうわべだけの世界です。彼らはいつも世間体を気にして生きています。でも、クリスチャンのコミュニティは愛と真実の世界です。この世界に入ることによって、人の目を気にせず、のびのびと生きることができます。私は今年の7月に郷里伝道に行こうかと計画しています。2年前に行きましたが、義理の姉は、世間体を気にしています。でも、実際は長男が家に寄り付かないので、問題を抱えています。先祖代々のお墓を守ることよりも、今、生きている人のほうがよっぽど大事ではないかと思います。家内の実家のまわりには、教会が1つもありません。そういうところに住んでいる人たちは、信仰を持つのが本当に困難だと思います。本日のテキストを見ますと、そういう困難な地方に、イエス様はこの男性を遣わしました。18-20節。「それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」。彼はイエス様にくっついて行きたかったのですが、それは許されませんでした。その代わり、家と家族のところに帰り、証しなさいと命じられました。そこで、彼は、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めたのであります。彼は1人の宣教師であります。自分の家で証をし、その地方にも言い広めました。すごいことだなーと思います。
最後に、この箇所には、私たちが証をする際に、とっても重要なポイントが語られています。私たちはどのように信じたかを個人的にあるいは、公に話す機会があるでしょう。ある人は、自分がどれだけ苦労したか、どれだけ悲しい思いをしたか、自分の過去を語ります。それももちろん必要でしょう。でも、私たちの証のゴールというか、中心ポイントは何でしょう?それは、19,20節に書いてあります。「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。そして、彼は「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた」と書いてあります。「自分が」ではなく、「イエス様が何をしてくださったか」であります。私がまだ求道者だった頃、25歳だったと思いますが、大川先生のお話をぜひ聞かせてあげたいと、彼女を無理やり誘いました。一回でいいから、だまされたと思って…と連れて行ったわけです。するとどうでしょう。その日の礼拝は、大川先生ではなく、教団のY先生でした。私はメッセージを聞いているうちに腹が立ってきました。この先生は、自分が何をしたかと自慢話をしているように思えたからです。祝祷が終わるやいなや、「こんな教会二度と来るもんか!」と捨て台詞をはいて、二人で出てきました。彼女はそれっきり行きませんでしたが、職場の先輩が礼拝のカセットテープを聞かせてくれました。車で、一回、教会の前までは行くことができましたが、入ることはできませんでした。その日は、『新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ』という説教題が掲げられていました。「ああー、聞いてみたいなー」と思いました。結局、躓いた期間は2ヶ月間で、再び、教会に通うことになりました。それから、その教会の祈祷会にも職場の先輩に連れられて続けて参加しました。メッセージの前、20-30分間、教会の方々が立ち上がって証をしました。その話を聞いて、また奇妙な思いにかられました。「それは、自分勝手にそう思っているんだろう!客観性が何もないなー!この人たちはなんとおめでたいんだろう!」今、考えると私自身が霊的なことを理解できなかったのかもしれません。でも、みなさん、自分が体験したことを、だれもが分かるように伝えるのは本当に難しいことです。
それからかなりたって、小牧者訓練会で、証の仕方ということを学びました。証は3つのポイントが必要で、それはキリストに出会う前、キリストに出会ったいきさつ、そしてキリストに出会ってからどうなったかということです。キリストに出会う前とは、自分が罪の中で苦しんでいたことです。このとしはどうしても「私が○○した」「私がこうだった」と主語は「私」になります。確かにキリストに出会う前は暗かったでしょう。でも、「殴ったら血がどばっと出た」とか、聞いた人が怖がるようなところを強調してはいけません。どうしても、自分がどんだけ大きな罪人だったか話したいのはわかります。でも、中心はそれではありません。キリストが自分に何をしてくださったかであります。証の最後は、主語が「私が」ではなく、「イエス様が○○してくださった」と、神様の方に行くべきであります。「イエス様が私の罪をあがなってくださった」。「イエス球が私を解放してくださった」「イエス様が私を変えてくださった」。そうすると、栄光が自分ではなく、神様のものになるからです。あるとき、ミッション・バラバの証を聞きました。みんなもとヤクザですから、麻薬を売ったとか、出入りでだれかが死んだとか、ものすごく刺激的な内容でした。もちろん、そういう劇的な回心をなさる人もいます。でも、人々の中には、そんなひどい状況ではなくて、平凡な生活の中から救われる人も大勢います。ですから、「普通の生活をしていたけどイエス様を信じた」という証も必要なのです。全部が全部、映画やドラマのようにならなくても良いのです。聖歌に「罪咎を赦され」という賛美があります。英語の歌詞は、This is my story, this is my song, praise my savior all the day long.であります。これは、「私の物語、私の歌です。私の救い主を一日中、ほめたたえたい」という内容です。自然界にはいろんな花があります。バラやゆりのように派手なものもあるでしょう。でも、野菊やマーガレットでも良いのです。昔、「マーガレットってどんなに美しい花なのだろう?」と思いましたが、日本の野菊そっくりでした。つまり、証の仕方には良い悪いはあるかもしれませんが、証の内容には良いとか悪いというのはないということです。「こういうところから神様が救ってくださった!」それは、だれにでも胸をはって言えることであります。
この男性は、私はかつて裸で、墓場で住んでいました。鎖を断ち切り、人々を傷つけ、自分をも傷つけていました。夜な夜な、墓場で叫び、自分がだれかも分かりませんでした。しかし、あるとき、イエス様が湖の向こうからやってこられたのです。私はレギオンに囚われて何もできませんでした。しかし、イエス様は力ある声によって、レギオンに出て行くように命じてくれたのです。すると、私は何十年かぶりに正気にもどりました。かつては狂人のような私でしたが、イエス様が私をあわれでくださったのです。彼はそれをデカポリスの地方で言い広めました。イエス様は彼を証人として、あるいは宣教師として、その地方に派遣したのです。