前回は、31日の礼拝説教と、元旦礼拝が続けざまにあって、気がついたら年が明けておりました。でも、このように説教できるというのは幸せであります。神様の召しがあっても、会衆が誰もいない場合は、やはりきついですね。会衆に励まされて、毎週、調子に乗って話せるというのは牧師みよりであります。今年は日曜日が52週ありますが、よろしくお願いします。ところで、新約聖書はギリシヤ語で書かれています。14-15節の構造を見ますと、2つのかたまり分けられます。1つは、「12人を任命された。彼らを身近に置くために」となります。もう1つは、「彼らに福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせて遣わすために」となります。もちろん、これが絶対正しいとは言いませんが、2つに分けた方が、分かりやすいということです。
1.身近に置くため
イエス様が12人を選ばれたのは、身近に彼らを置くためであります。「身近に」は、ギリシヤ語ではメタであり、物理的距離ではなく、人格的な関係を表しています。たとえば、このマイクが私の近くにありますが、マイクと私とは人格関係はないのであります。しかし、相手が人格を持っているならば、お互いに意思の疎通が生じます。ですから、ある英語の聖書は、「イエスのコンパニオンとして、12人を任命された」と訳しています。コンパニオン?どこかで聞いたことがある呼び名でありますが、これは「同伴者」という意味であります。では、なぜ、イエス様は12人を身近に置いたのでしょうか?それは、12人がイエス様と共にいて、体験的に学ぶことができるためであります。西洋の教育は教室スタイルですが、イエス様の場合は職人式でした。学校は生徒たちが全員、前の先生を見ています。先生は教科書や黒板を使って教えますが、知識の伝達が主であります。一方、職人式とはどういうものでしょうか?調理、寿司、和裁、陶芸、華道、茶道、歌、楽器、柔道、空手・・・仕事から芸術、スポーツにいたるまで職人式であります。イエス様は寝食を共にしながら、弟子たちにすべてのことを伝授したのであります。そこには、技術や教えだけではなく、人格的なものも含まれます。彼らはイエス様からどうやって祈るかも見て学びました。病の癒し方や悪霊の追い出し方も見て学びました。弟子たち自身でやってみましたけど、最初は失敗しました。パリサイ人や律法学者との問答は突然、前触れもなくやってきました。イエス様の知恵あるお答えに感動しました。たとえ話も側で聞き、あとからその意味を尋ねました。残念ながら、神学校は大量生産するために、西洋の学校スタイルを真似ています。3か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、教会にポンと派遣します。これは、イエス様の弟子訓練とはかけ離れております。だから、途中でやめる牧師が多いのです。すばらしいことにインドネシアのアバラブ教会は、体験的に教えています。「体験的に教え、体験的に学ぶ」これがセルチャーチの1つの鍵であろうと思います。
もう1つ、イエス様がなされたことは、小グループで弟子たちを訓練したということです。イエス様が12人を選ばれたのは、新しいイスラエルを作る意味もあったでしょう。でも、私は身近に置ける数の限界が12人だからではないかと思います。これが100人であったら一度に交わることはできません。100人や200人は会衆でありますが、12人は小グループであります。他にも小グループは様々な治療に用いられています。また、キリスト教以外の新興宗教には必ずと言って良いほど小グループがあります。イエス様は小グループを作って教育された先駆者的な存在であります。サラン教会の元牧師の玉(オク)先生は、小グループの利点を5つあげています。第一は、自己を開放することが容易です。参加している人は、「ああ、みんな同じような悩みを持っているんだな」と帰属意識が生まれます。第二は、相互の学習をあげることができます。自分が他の人から学び、また他の人は自分からも学ぶことができます。「ああ、私も他の人にも大切な存在なんだ」ということを発見します。第三は、模範という要素です。小グループの中では、模範が指導者だけに限られていません。「ああ、最近、あの兄弟変わったなー」と、他の兄弟から刺激を受けて見習おうとします。第四は、グループへの愛着心を高めます。グループのメンバーが互いに心を通わせ、それぞれ大切な存在として受け入れ合うようになります。グループへの愛着心が高まれば、高まるほど、その集まりが生産的になります。第五は、いわゆる「カタルシス」と呼ばれる治療効果があります。イエス様はペテロとゼベダイの二人の子をゲツセマネの園に連れて行きました。そのとき、「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目を覚ましていなさい」といわれました。イエス様はご自分の感情を分かち合わないではおられませんでした。このように小グループは、感情を吸収するスポンジのような役割をします。
それにしても、イエス様が選ばれた12人は、種々雑多な人たちのように思えます。ペテロは少しおっちょこちょいで、自己主張が強い人です。ヤコブとヨハネは怒りっぽかったんでしょう。だから「雷の子」とあだ名を付けられました。マタイは元取税人でありローマの手先でした。熱心党員シモンはローマを倒したいと思っていました。トマスは疑い深くて、イスカリオテのユダは裏切り者でした。イエス様はあえて、衝突するような輩を集められたように思えます。人間的には同じようなタイプが集まると良いように思いますが、違う人がいるということは本当は良いことなんです。グループ・ダイナミクスと申しましょうか、足し算ではなく、掛け算式にパワーアップします。夫婦も違う者どうしの方が、よりパワーがあるんであります。教会もそうであります。「神様、なんで、あんな人を身近に置いているんですか?」と言いたくなることもあるでしょう。牧師もイエスマンばかり集めて、違った人を排除する方が気分的にも良いでしょう。でも、違う人が集まって、一致することがダイナミックなパワーを生み出すのです。たとえば、オーケストラを考えて見ましょう。ピアノが良いと言っても50台のピアノを一斉に弾いたらどうなるでしょうか?バイオリンもカッコいいですが、50台鳴らしても平面的であります。そこに、チェロ、ピコロ、オーボエ、クラリネット、トランペット、ティンパニー、トライアングルが加わりますと、ザ・ダイナミック・サウンドになります。日本人はダイナミックさが足りないのは、すべてが画一的だからです。学校も会社も同じ人を作りたがります。日本人はトヨタとかソニーなど、製品を生産するのは得意ですが、独自なものを作り出すことができません。なぜなら、「人と違うと変」という教育を小さいときから叩き込まれているからです。イエス様がいろんな人を選ばれたのは、同じ人にするためではありません。もちろん、イエス様の愛とか品性は、似るべきであります。でも、個性とか、賜物、やり方の違いは尊重されました。福音書には4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの書き方はすべて違います。4つの違ったイエス様が表されています。でも、イエス様を4つの方向から表すとき、もっと立体的でダイナミックになります。ハレルヤ!
彼らはそれぞれ違っていました。しかし、イエス様を囲んで、互いに愛し合い、互いに受け入れあうことを学びました。この形って何でしょう。この形こそ教会ではないでしょうか。私は子供のころから、自己主張の強い子でした。なぜなら、8人のうち1人ですから、生存競争が激しいんです。学校では先生から「静かにしろ」とか「それはダメ」「あれはダメ」とよく叱られました。私は、集団行動がとても苦手でした。しかし、教会は一応集団であります。この世の人たちは、「最も窮屈なところがキリスト教会だ」と思っているんじゃないでしょうか。なぜ、このような者が教会で牧師(一応指導者)となっているのでしょうか。それは、第一に、イエス様との命の関係があるからです。イエス様からありのままで受け入れられ、愛されているからです。でも、イエス様との関係だけでは教会としては、まだ不十分であります。問題は、この先であります。クリスチャンは変人のように見えます。いつもニコニコしていて、決して怒らない。本当でしょうか?勇気を出して、兄弟姉妹のところに出て行くと意外とそうじゃないんですね。弱さや欠点、個性もあります。頑固な人もいます。「あれでも、クリスチャン?」と躓くような人もいますね。でも、自分がイエス様から受け入れられ、愛されているように、その人もそうなんです。その人も神様の目から見たら、大切な人なのです。こういうことを少しずつ体験していくときに、「教会ってこうなんだ」と分かってきます。教会の大憲章、「一番大切な戒め」は何でしょうか?「伝道しなさい、奉仕しなさい、献金しなさい」。ではありません。「互いに愛し合いなさい」であります。12弟子たちがイエス様から一番、学んだことは何でしょうか。イエス様の愛を体験し、イエス様の愛を分かち与えることであります。彼らはイエス様の愛で、愛し合うことを訓練されたのであります。先ほど引用しました韓国のサラン教会の、「サラン」は愛という意味です。サラン教会は弟子訓練の教会ですが、「愛の教会」と命名しました。その理由は、愛し合うことが弟子として最も重要だからです。私たちもイエス様の側にいて、イエス様から愛を学びましょう。そして、イエス様からいただいた愛で、隣人を愛していきましょう。愛の共同体こそが、本当のキリスト教会であります。
2.派遣するため
イエス様が12人の弟子たちをみもとに呼び寄せられたのは、ずっとそばに置くためではありません。弟子たちに福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせて遣わすためでありました。弟子訓練のゴールは派遣であります。訓練ための訓練では意味がありません。弟子訓練は、派遣することが目的なのであります。イエス様は2つのミニストリーを弟子たちに与え、そのために遣わしました。第一のミニストリーは、福音を宣べ伝えることであります。そして、第二のミニストリーは、悪霊を追い出すことであります。しかし、キングジェームス訳の聖書は、「病を癒し、悪霊を追い出すために」と書かれています。この理由は、他の福音書を参考にしているからでしょう。ちなみに、ルカ9:1には「イエスは、12人を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え・・・」となっています。つまり、悪霊の追い出しと病の癒しの両方が取り上げられています。しかも、ルカ福音書は権威だけでなく、力も授けられたとなっています。とにかく、弟子たちは2つのことを行うために派遣されました。第一は福音を宣べ伝えること、第二は病を癒し悪霊を追い出すことであります。さて、私たち教会は、クリスチャンは、この2つを行っているでしょうか?聖書を神のことばと信じている教会でさえも、「病の癒しと悪霊追い出しの時代は終わった」と寝ぼけたことを言っています。残念ながら、福音派の多くの教会は、福音を宣べ伝えることだけしか行っていません。もし、そうであるなら、それは命令違反であり、ミニストリーの半分しか行っていないことになります。皆さん、福音宣教と病の癒し及び悪霊追い出しは、ペアーなんです。この2つを引き離してはならないのです。なぜなら、福音を宣べ伝えるときに、必ず、悪しき霊との戦いが生じるからです。その証拠に、使徒パウロが新しいところに伝道しに行くと必ず妨害にあいました。直接的にはユダヤ人でしたが、背後で邪魔していたのは悪魔であります。なぜなら、福音が宣べ伝えられ、人々が救われるということは、悪魔の国が侵略されていることと同じだからです。敵が、自分の持ち物が奪われているのを、指をくわえて待っているわけがないでしょう。だから、福音宣教と悪霊追い出しはパックなのです。この2つを引き離してはいけないのです。
使徒パウロは何と言っているでしょうか。Ⅰコリント2:2では「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」と言いながら、すぐ後の2:4に何と書いてあるでしょう。「 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」とあります。この二つは一見、矛盾しているように思えます。しかし、そうではありません。十字架の福音を宣べ伝えるときに、御霊と御力の現われが伴うということです。「御霊と御力の現われ」とは、病の癒しと悪霊の追い出しのことであります。福音を宣べ伝えるとき、悪霊が声を出して出て行かないかもしれません。でも、人が悔い改めて十字架の福音を信じるときに、内部では政権交代があることは確かです。主イエス・キリストを心に迎えるとき、古い支配者は出て行かざるを得ないのです。では、なぜ、悪霊が出て行かないままでも、クリスチャンでありえるのでしょう。これが一番、難問であります。第一に考えられることはクリスチャンになる前に犯した罪が原因しています。たとえば偶像礼拝やオカルトをして悪霊と契約を結んでいたときです。神様は真理を大切にしますので、それが正しい契約であるならば、理由もなく反故にはできません。やはり、本人がそれを悔い改め、悪霊との契約を断ち切る必要があります。第二に考えられることは心の傷であります。拒絶、恐れ、虐待、貧困、辱め、失敗などがあるでしょう。これは悔い改めというよりも、傷ですからイエス様の癒しを受けるしかありません。本人は思い出したくないために、蓋をしている場合がよくあります。第三は怒りとかさばき、内なる誓いなど、悔い改めていない罪であります。これは光の中に出さないといけません。エペソ5:13,14「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」とあります。このように悪霊の足場となるものが、3つがあります。でも、一人で祈ってもなかなか解放されません。だれか、兄弟姉妹の助けが必要であります。自分の手足が縛られているのに、どうやって自分でほどくことができるでしょう。他の人がいれば、はさみやナイフで、簡単に切ることができます。みなさん、そのために教会があるのです。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあるのはそのためです。クリスチャンになる前に犯した罪、心の傷の癒し、悔い改めてない罪、これらが、悪霊が好む生ゴミであります。カラスやねずみは生ゴミがあるところに出没します。カラスやねずみだけを追い払ったとしても、生ゴミがあれば、またやって来ます。悪霊も同じで、まず、生ゴミを出すしかありません。その後、悪霊は簡単に出て行きます。
でも、みなさん。こういうことは信頼関係がなければ不可能です。また、本人のプライドが邪魔します。プライドが高ければ高いほど、悪霊からの解放はむずかしくなります。もう、途中であきらめて、教会に来なくなります。そういう状態で、いまでも、荒野をさまよっている人が大勢います。彼らは「今でもイエス様を信じているよ」と口では言うかもしれませんが、勝利がありません。敵に欺かれたまま、教会をうらみ、牧師をうらんでいます。私は昨年もインドネシアに行くことができました。アバラブ教会では、解放のキャンプは必須課程であります。「イエス様を信じます」と言ったら、洗礼を受ける前でも、キャンプに参加します。実はそういう人の方が多いんです。何十年もクリスチャンをやっている人は来ません。本当に、信仰に入ったか、入らない人が多いんです。ですから、当教会でも1年に1回は実施したいと思います。一応、計画としては、2月11日、12日にあります。11日の礼拝後、近くの研修所に出かけ、1泊します。どうぞ、参加してください。参加者がないとこの計画もおじゃんです。昨年の1月は石原先生をお迎えして、この所でミニ・キャンプを持ちました。昨年は通いでした。通いはダメです。1日目がしんどいと、2日目にもうやって来ません。悪霊がやっと出かかったのに、チャンスを逸してしまったんですね。そういう悪霊は免疫ができてしまうので、2回目は、腰をすえてかからないとなかなか出て行きません。中途半端に終わった人の特徴は、解放のミニストリーをものすごく憎むようになります。いろんな理由をあげて、自分を正当化しようとしても、聖霊様と自分がよく知っています。自分の闇の部分に光を当てましょう。明らかにされたものはみな、光になるのです。
最後にこのことをお話ししたいと思います。イエス様が弟子訓練をしたのは、派遣するためでした。「派遣」「送り出す」、とても厳しいことばです。でも、これがないと私たちはいつまでもナヨナヨしたクリスチャンです。癒しも解放も、「派遣」というゴールがあると、シャキッとします。派遣というゴールがないと、いつまでも癒されたい、いつまでも解放されたいという地点に留まってしまいます。「まだ、癒されていないのでできません」「まだ、内側に問題を抱えていますからできません」。残念ですが、この地上で100%癒されることも、100%解放されることもありえません。完全になるのは天国に行ってからです。この意味は、別に罪を持ったまま、心に傷をもったままでも良いということではありません。どこに焦点を当てるか、どこにフォーカスするかであります。私たちはイエス様に似ることを目指しながら、同時にイエス様のミニストリーを成すのであります。カウンセリングは自分の過去と自分自身に焦点を当てるために、どうどう巡りになる危険性があります。それも必要ですが、「派遣される」というゴールが必要です。不十分でも良いのです。欠けがあっても良いのです。弱さがあっても良いのです。開き直るわけではありませんが、そこにこそ神の恵みと栄光が現れるのです。イエス様がパウロに言いました。「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は弱さの中に完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と。自分の内を見ている限りは、必ず暗いところがあるものです。しかし、光であられるイエス様を仰いでいくときに、暗さは消え去るのです。逆もまた真なりであります。昨年、ベン・ウォンが本郷台に来られました。「私は空手、テッコンドーが大好きです。よく、私はお尻を蹴ってあげます。苦しむ事は良いことです。外から苦しみがやってくると、自分の弱さとか傷がどうのこうのという暇がありません。困難と闘っているうちに、自然と癒され、自然と解放されるのです」。このようなことをおっしゃっていました。
一見弱そうな女性も、お母さんになると強くなるのはそのためです。子育てをしているうちに心も体も強くなるんです(葛葉姉?)。あそこが痛い、ここが痛いなんて言っていられません。無我夢中であります。私たちも、イエス様に夢中になり、イエス様のミニストリーに夢中になるとき、弱さや傷からも解放されるのです。何事もバランスが大切です。昨年も申しあげたことがあります。それは、アップ・イン・アウトであります。アップは上ですが、イエス様を仰ぐことです。インは内側、自分のことや兄弟姉妹のことです。そして、アウトは外、この世に向かって派遣されることです。今年もプ・イン・アウトのバランスをとりながら進みたいと思います。