きょうのメッセージの中に「サタン、悪魔、悪霊」という用語が何度も出てきます。どうか「気持ち悪い」とか「怪しい宗教だ」と思わないでください。西洋の合理主義で汚染されたキリスト教会は、悪魔の存在を認めません。それは、単なる概念だと言います。そうではありません。彼らは人格を持っており、霊的な存在です。私たちは神様から愛されていますが、そのことを非常にねたんでいます。神様には直接攻撃できませんが、神のかたちに創られた人間を「盗み、殺し、滅ぼす」のが彼らの目的です。しかし、イエス様が来られたのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためであります。イエス様は良い牧者であり、羊のために喜んでいのちを捨てるお方であります。
1.サタンにも国がある
律法学者たちは、イエス様が悪霊を追い出していることを非難しました。「イエスは悪霊のかしらベルゼブルであり、子分たちの悪霊を追い出しているに過ぎない」と言ったのであります。それに対してイエス様は、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことが出来ないで滅びます」といわれました。ルカ11:18には「サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう」と書いてあります。ここで注目すべきことは、サタンにも国があるということです。国とは王国であり、王がいて、領民、領土があるということです。王はサタンあるいは悪魔と呼ばれています。イエス様の時代は、ベルゼブルとも呼ばれていたようです。サタンの王国はピラミッド組織であり、位の高い悪霊から、位の低い悪霊がいるようであります。エペソ人への手紙を見ますと、主権、支配、権威、権力という名前があるようです。日本語だとどこにでもありそうな名前ですが、ギリシヤ語になると、迫力があります。サタンの国はどこにあるかと言いますと、おそらく、神様がおられる天の御国と私たちが住んでいる地上の間ではないかと思います。ですから、エペソ2:2「空中の権威を持つ支配者」とも呼ばれています。空中と言ってもジェット機が飛ぶ成層圏ではありません。おそらく、神様がおられる天と、私たちが住んでいるこの世との、中間地帯であり、そこが霊的な世界ではないかと思います。
それだけではありません。アダムが堕落してから、本来人間が持っていた支配権や所有権をサタンが横取りしたと思われます。さらに、サタンは私たちの罪を告訴し、死の恐れを与え、誘惑し、ますます神様から遠ざけようとしています。ヨハネはⅠヨハネ5:19で「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」と述べています。サタンは「この世の君」と呼ばれ、神から離れている人々を支配し、人間が本来所有すべきものを横取りしています。サタンがイエス様を荒野で誘惑しましたが、このように言いました。ルカ4:5-6悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」。イエス様はそのとき、サタンに向かって「馬鹿を言うな!国々と権力と栄光はお前のものじゃないよ!」とはおっしゃいませんでした。イエス様はそのことに対して否定をしていません。「ただ、あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と答えただけであります。サタンは、本来、私たちが神様からいただくことのできる健康、幸い、豊かさ、正義を行う力、自然界を支配する権威を横取りしているのです。しかも、サタンは地獄に道ずれにしようと罪を犯した人間を握って放しません。エジプトのパロ王は、イスラエルの民を奴隷にして離しませんでした。彼らを酷使し、自由を与えず、所有していました。まさしく、パロはサタンを象徴しています。
でも、みなさん、サタンの国が自滅するほど恐ろしいものがあります。サタンすら怖がるものは、何でしょうか?24-26節「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます」。なんと、分裂あるいは内輪の争いは、サタンの国をも滅ぼすほど力があるのです。もちろん、サタンは神様を怖がっていますが、それとは別に、分裂も怖がっているということです。みなさん、分裂や内乱は国を滅ぼします。記憶に残っているのは、カンボジア、アフリカのルワンダやブルンジであります。多くの人が殺され、国は荒れ、数え切れない難民を生み出しました。そして家も内輪もめをしたら潰れてしまいます。新聞では夫と妻、親と子、兄弟同士の内輪もめによる殺人が報道されています。そして、教会も内輪もめや分裂で簡単に潰れてしまいます。だいたい、教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、たくさんの戦争をしてきました。1つの地方教会も分裂や内輪もめがあります。牧師と長老同士が争うということがよくあります。牧師側につくか、役員側につくか?よくあるケースです。「追い出すか、追い出されるか!」であります。内輪もめをしますと、弱い信者や信仰的に若い信者が躓きを受け、散らされてしまいます。プロテスタントは「反抗する」という意味がありますが、教会は一致を保つよりも、どちらが正しいか争ってしまう傾向があります。共通しているところははるかに多いのに、小さな違いに目が行ってしまいます。
当教会はセルチャーチであり、セルチャーチを目指している教会でもあります。セルチャーチの特徴の1つは、フラットなリーダーシップです。信徒が自主的に活動できるように、牧師が権威を委譲、譲り渡しています。しかし、教会の多くはピラミッド型、縦型のリーダーシップです。このリーダーシップは会社でも学校の部活でも見られます。また、日本の家庭は家長(父)を頂点とした縦型のリーダーシップです。この間、石原先生がこのようなことをおっしゃっていました。「自分たち夫婦は最近、よく喧嘩をする。教会ではフラットなリーダーシップだが、家に帰ると縦型のリーダーシップになる。なぜかというと、自分の親しか見ていないので、ついついそうなる。これまでは家長として妻や子供たちを上から押さえつけてきた。しかし、家でもフラットなリーダーシップになろうとした。ところが、そうしたら妻が何でも言うようになった。だから、夫婦喧嘩が増えた。」ということです。日本の教会は縦型のリーダーシップが大半を占めていると思います。はっきり言いますが、亀有みたいに何でも言えるような教会は珍しいのであります。だいたい、牧師あるいは長老たちが教会をコントロールしています。日本の大きい教会は、言っちゃわるいですが、カルトになっています。牧師に対して、「ノー」と言ったら、教会を出るしかありません。しかし、亀有教会では「ノー」と言ってもいられる教会であります。でも、みなさん。地域教会の牧師に霊的な権威が与えられていることを忘れてはいけません。権威というのは、いわば傘のようなものであります。権威に従う人には、同時に守りが与えられます。でも、権威をふっとばすならば、雨がどんどん当たるようなことが起こります。家庭の父も、頭としての神からの権威があるのです。お父さんが正しい権威を行使していれば、傘の下で妻や子供たちが安全なのであります。ところが傘に穴が開いていれば、そこから雨が漏ってきます。ところが、妻が頭になってリーダーシップを取ったらどうなるでしょうか。それは、傘を上下逆にかぶるようなものであり、子供がおかしくなります。それに雨水が傘にたまって大変なことになります。ですから、いくらセルチャーチがフラットなリーダーシップとは言え、神様が与えた霊的権威を重んじなければならないということです。
なぜ、私はこんなことを言うのでしょう?自己弁護しているのでしょうか?何割かはあるかもしれませんが、本質はそうではありません。私たちの周りには敵の王国があるのです。いや、私たちは悪魔が支配しているこの世で生きているのです。たとえクリスチャンであっても、神の法則をやぶるなら、そこから悪霊が入り込んで、ある部分をつかまれてしまいます。さばいたらさばかれます。人の罪を赦さないなら、自分も赦されません。両親や指導者を敬わないなら、守りが与えられません。これらはみんな神様が定めた法則です。法則に違反したところだけ、悪魔が攻撃してきます。第一のポイントでは、内輪もめの怖さを学びました。どうぞ、分裂や内輪もめを避けて、平和を保ちましょう。神様は父・子・聖霊の共同体の神様です。私たちも恵みによって、組織体ではなく、共同体を作りましょう。
2.サタンより強い者
イエス様は1つのたとえで霊的真理を伝えようとしておられます。「家を略奪する」という少々、乱暴なたとえであります。3:27「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです」。ここで言われている「強い人」とはだれでしょうか?「強い人」とは、サタンであります。では「家財」とは、何でしょう。これは、人間とか、人間が本来所有していたものであります。それは、健康とか幸い、豊かさ、正義を行う力、自然界を支配する権威ではないかと思います。この箇所をルカによる福音書11章を見ますと、もっと詳しくわかります。ルカ11:21,22「 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」。ここには、「もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つ」と書かれています。「もっと強い者」とは、主イエス・キリストであります。「武具」とは、サタンが人の罪を訴え、罪の中にある者を支配する力のことでしょう。「分捕り品」とは、マルコの「家財」と同じで、人間と本来人間が所有できたものであります。サタンはアダムの堕落以来、神が人間に与えたものを横取りしているわけです。人間はサタンの持ち物であり、奴隷と理解した方が良いでしょう。まさしく、エジプトのパロ王のもとにいたイスラエルの民であります。イスラエルの民がエジプトを出るとき、何が決めてだったでしょう?そうです。羊が殺され、家のかもいと柱に血が塗られました。過ぎ越しの出来事であります。不思議なことに、イエス様が十字架にかけられたのは、過ぎ越しの日であります。バプテスマのヨハネはイエス様に対して「見よ、神の小羊」と言われました。でも、イスラエルの民はエジプトを脱出して万歳だったわけではありません。カナンに入って戦い、先住民を追い出さなければなりませんでした。ジョン・ウィンバーは『力のいやし』という本でこう語っています。「イエスは十字架の上で完全にサタンを打ち破りました。その勝利によって、私たちはサタンへの権威を授けられたのです。しかし、キリストが再臨されるまで、私たちは与えられた権威を行使しなければならないのです」。つまり、イエス・キリストの十字架と復活により、サタンの王国が、決定的な敗北を喫したということです。でも、完全に私たちが勝利するのはキリストの再臨時です。キリストによる完全な勝利が来るまで、私たちは悪しき霊と戦わなければならないということです。でも、戦うための神からの権威がクリスチャン一人ひとりに与えられます。
マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」私たちに「イエス・キリストの御名の権威」が与えられているということは、ものすごいことなんです。水戸黄門の、印籠みたいなものであります。「ひかえー、ひかえー、この紋所が目に入らぬか!」であります。また、マタイ28:18「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命ぜられています。イエス様がいっさいの権威を与えたのは、11弟子だけにではありません。ここには、私たちも含まれているのです。でも、現実は、私たちが悪霊を追い出せそうにもないし、その権威もあるかどうかも分かりません。ですから第一に必要なのは信仰によって、神様からあらためて権威をいただくということです。私は何度も、キリスト教の聖会に出かけ、「権威を受け取りまーす」と告白したり、講師から祈ってもらいました。そういうことも悪いとは言えませんが、もっと、単純ではないかと思います。イエス様を信じて、聖霊が内側に宿ったときから、その権威が与えられていたんじゃないかと思います。とにかく、聖書に約束されているので、「あらためていただきまーす」と言えば良いのではないかと思います。第二は力をつけるということです。日本語に「修練」とか「百戦錬磨」という言葉がありますが、イエスの御名の権威を用いていくときに、実力がついてくるのではないかと思います。キリストの御名とは、いわば剣のようなものです。剣の使い方も、初心者だと、「えーい」と振り回すのは良いのですが、自分の足を切ったりします。本来は悪霊を切るべきなのに、人を傷つけたりするかもしれません。愛知県の新城市には、リバイバル神学校というのがあります。この学校は、悪霊との戦い方を教える、変わった学校であります。「変わった」と言えば叱られますが、日本のキリスト教会では、めずらしい分野であります。ま、それだけ目が開かれ、「日本の宣教のためにはこれしかない!」と思っているからでしょう。
でも、みなさん。「悪霊はどこにいるか」と神社へ行って探さないでください。悪霊と戦うためにわざわざ出かけるというのは反対です。そういう機会があったら、勇敢に戦うのです。普段は、主イエス・キリストを仰ぎ、イエス様に従うことを志しているなら悪霊は怖くないのです。そして、なんでも悪霊のせいにしてはいけません。私たちの罪が原因して招いてしまった出来事も多いのです。一番重要なのは、犯した罪を悔い改め、へりくだってイエス様に従って行けば大丈夫なのであります。ヤコブ4:6-7「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」。つまり、私たちが神様に従った分だけ、悪魔に対する権威が増し加わるということです。自分がちっとも、神様に従わないで、「悪魔よ。退け!」と言っても、向こうは「あかんベー」と馬鹿にするでしょう。神様はもちろんそうですが、悪魔も私たちの隠れた生活や心の思いを知っています。その部分をきっちり、神様に明け渡して、きよめてもらうなら平気であります。あとは、イエス様の御名の権威が与えられているのですから、これを信頼するしかありません。使徒パウロはエペソ6:17,18「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と命じています。アーメン。
さきほど引用した、ジョン・ウィンバーは「サタンの国を略奪せよ」と過激なことを言っています。略奪という言葉が過激なら、回復という言葉を使っても良いでしょう。本来、父なる神様が私たちに与えたかったものはたくさんあるはずです。それを、悪魔が横取りしている状態です。家庭が破壊されているため、社会全体がおかしくなっています。すべての病気が悪霊から、とは言いませんが、そういうものもあります。特に精神や情緒的な病気は、悪霊が握っている部分が多いと思います。イエス様が新約聖書で悪霊を様々な呼び方で呼んでいます。病の霊、おしとつんぼの霊(差別用語ですが)、汚れた霊、奴隷の霊があります。他にも、死の霊、分裂の霊、貧困の霊、怒りの霊と呼ばれるものもあるようです。しかし、これらは悪霊の固有名詞ではなく、こういう悪さをするということであります。ということは、私たちが日常、意識していない分野で、悪霊にやられているなーということであります。でも、何度も申し上げていますが、意識過剰にならないようにしてください。これは罪や傷があるために、起こる現象であり、もとが良くなれば解決することであります。大切なことは、父なる神様はこういうもと反対のものを与えようとされているということです。神様が下さっておられる聖霊は健康をもたらす霊、人の話を聞ける霊、聖い霊、自由の霊、命の霊、一致の霊、満足を与える霊、柔和をもたらす霊であります。イエス様の御名にはこういうものを悪魔から奪回する力があります。同時に、聖霊は神からの賜物を実際に供給してくださるお方であります。イエスの御名と聖霊の中に、すべてがあると言っても過言ではありません。ですから、私たちは日々、イエス様をあがめ、聖霊に満たされることを求めるならばOKなのであります。でも、この世においては戦いがあります。人を通してであったり、思いがけない出来事を通してであったり、ある場合は何も原因がないのに攻撃を受けることすらあります。大切なことは、私たちは未だ戦いのある「この世」で暮らしているということです。いくらサタンが十字架によって大打撃を受けたとはいえ、まだ、生きています。こうやって、世の中に悪い事件が増え続けているのは、背後に操っている奴がいるということです。「敵の存在を認めながら、イエス様を見上げ、みことばに従う」もう、これしかありません。
主の祈りで「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。悪というのは漠然とした、一般的な悪のことではありません。英国の聖書には、evil one「悪いもの」となっています。だから、現代訳聖書では、「悪魔から救い出してください」と訳しています。そうです。私たちは日々、父なる神様によって、悪魔の攻撃から守っていただく必要があるのです。くれぐれも、敵は人ではないということです。パウロは「血肉との戦いではない。悪しき霊との戦いである」と言っています。背後にいる悪霊が問題なのであって、その人自身ではありません。悪魔は私たちに疑いをかけ、人間同士が分裂し、人間同士が争うように仕向けるのです。悪魔こそが、分裂や仲たがいを与え、神の教会を滅ぼそうとしているのです。家庭や夫婦の間も同じです。あなたの敵は夫でも妻でもありません。あなたの敵は牧師でも、役員でも、信徒でもありません。背後で糸を引く、悪魔・悪霊が敵であることを覚えましょう。どうぞ、悪魔の惑わしや疑念、欺きに用心しましょう。これがいったん、マインドに植えつけられるとなかなか去りません。マインドの中で根を張り、いつかは破壊的な実を結びます。どうぞ気をつけましょう。神の愛と聖霊と神のみことばで、心の中を満たしましょう。