2006.12.3 手を伸ばしなさい マルコ3:1-12

12月に入りましたが、クリスマスのお祝いは、教会よりも、この世の人たちが早いようです。しかし、彼らは25日終わると、すぐ、しめ飾りの準備をします。年が明けるとクリスマスはどこかに行ってしまったかのようになります。私たちは、年末年始に関係なく、クリスマスシーズンとして、イエス様のご降誕をお祝いします。と言いながら、きょうの聖書箇所は、クリスマスのメッセージになっていません。それでも、私たちに必要な神からのメッセージであることをご期待ください。

1.安息日の意味

 ユダヤ人たちは、安息日を厳格に守っていました。安息日は、今の土曜日です。彼らは会堂に集まり、律法の書から学び、礼拝をささげました。安息日の起源は、創世記にあります。神様は6日働いて、7日目に休まれました。十戒の4番目に「どんな仕事もしてはならない」と、人間だけではなく家畜も休むように命じられています。一般に、「働け」という命令は聞いたことがありますが、「休め」という命令はあまり聞かないですね。人間は神様から「休め」と命令されなければ、休めない愚かな生き物なのかもしれません。この命令は、私たちの霊、心、肉体を健康に維持するための神様の恵みでありました。ところが、イエス様の時代、安息日の律法には、細かな規定が設けられていました。煮炊きしてはいけない。何キロメートルは歩いてはいけない。「○○してはいけない」という、戒律になっていたのです。他の律法もそうですが、制定されたときの精神が失われていました。ですから、マルコ2章でイエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」とおっしゃいました。そして、きょうの箇所は、安息日に癒しをしても良いかどうかです。パリサイ人たちは、律法の専門家で、ある人たちはサンヒドリンの議員でもありました。彼らの見解は、「安息日に癒しなどしてはならん!」でした。この世では、いろんな法律や条令がありますが、結構、否定的なものが多いですね。今、いじめをどのようになくすか議論されています。しかし、その多くは先生や生徒に対する罰則と関係しています。処罰を与えれば、いじめがなくなるということではないと思います。いじめは、日本の文化から来たものです。ですから、「人ではなく善悪を基準として生きること」あるは「ひとりひとり違って良い」「陰口ではなく面と向かって話すこと」など、人格的な教育が必要であろうと思います。聖書は「あなたの隣人を愛せよ」と根本的な解決を与えておられます。

 ところで、片手のなえた人が会堂の中におりました。パリサイ人たちの関心は、イエスがこの人を癒して安息日を破るかどうかにありました。「じっと見ていた」とありますが、片手のなえた人のことではなく、イエス様を訴えるために見ていたのであります。その人が気の毒だとか、「何とか良くなればな-」ではなく、愛のかけらもない冷酷な人たちでした。イエス様は彼らに聞きました。マルコ3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。イエス様は、安息日を○○してはならないという、戒律から解放しました。「安息日にしてよい」は、原文では、「安息日に善を行うことは、法にかなっている」という意味であります。もちろん、安息日に善を行うこと、安息日にいのちを救うことは、法にかなっています。なぜなら、手のなえた人は安息日であっても、安息がなかったからです。マタイ12章で、イエス様はこのとき、1つのたとえを話されました。マタイ12:11,12「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」つまり、イエス様は「手のなえた人は、穴に落ちている羊のような存在である。癒してあげるのは、法にかなったことである」と言ったのです。イエス様は、「きょうは安息日だから、明日、いやしてあげる」とはおっしゃいませんでした。イエス様は、きょう、安息日をその人に与えてあげたのです。

 新約聖書で安息日は日曜日です。もちろん、厳密にはそうではありませんが、教会の歴史において、そのようになりました。でも、この日曜日、教会で奉仕している人もいます。私は月曜日、休めますが、一般の方はこの日曜日、一種の労働を提供していることになります。日本の多くの教会は、日曜日が安息の日ではなく、多忙な奉仕の日になっています。奉仕者にとって、日曜日は、月曜日にまさる労働の日になるわけです。だから、疲れがとれない。疲れがたまりっぱなしという場合もあります。ぜひ、注意していただく必要があるのは、日曜日、安息することを忘れてはならないということです。日曜日、安息することは罪ではありません。もちろん、週休二日制の方は、土曜日休みなので、日曜日の奉仕が可能かもしれません。でも、日曜日しか休めない方がたくさんいらっしゃいます。ぜひ、安息してください。問題は、安息日、私たちで言う日曜日の使い方です。伝統的な教会は、「日曜日は聖日だから、絶対、礼拝を休んじゃいけない。洗濯も買い物も、旅行もしてはいけない」と言います。すると、それは、イエス様の時代のパリサイ人に逆戻りしていることになります。聖日は「○○してはいけない日」ではありません。「善を行うこと、いのちを救うことをして良い日」なのです。さっき「奉仕をしている人に対して、休めよ」と言ったことと反しますが、逆に、奉仕をして癒しにもなることがあります。平日は全く違ったことをしている人が、日曜日、別の奉仕をすると疲れるでしょうか?これが意外と疲れない。筋肉や頭も、普段使わないところを、日曜日使う。すると、かえって体や精神が良くなるんです。しかし、奉仕が律法主義になると、倍、疲れます。「あの人は奉仕をしていない」「なんで、私だけが奉仕するのよ!」と思ったとたん、マイナスのエネルギーが発生します。どうか、奉仕は喜んでいたしましょう。喜んでできる範囲で結構です。極端に言うば、昼食がなくても、週報がなくても、賛美がなくても、聖書を読んで礼拝すれば良いのです。

 21年前、アメリカに2ヶ月ほど滞在したことがあります。日本から5人でかけましたが、3人が牧師でした。アメリカ人と日曜日礼拝に行きました。むこうは、9時からが大人の日曜学校で、10時半から一般の礼拝です。だから、2つ出るんです。礼拝で奉仕をしている人は、70代くらいのシルバーの方々でした。彼らのほとんどはリタイヤしている人たちですから、時間があるわけです。賛美だけは、若い人でしたが、アッシャーも、受け付けも、献金係りもみんなシルバーでした。日曜日の午後は教会の活動はありません。昼ごはんを食べてから、お家に帰ってきました。ホストの人たちは、ゆっくり休んでいます。私たちは「えー?日曜日の午後、こんな暇で良いの?」と不思議に思いました。その家の中庭には、プールがありました。飛び込み台もついていました。3人の牧師たちは、何時間も飛び込み台から、プールへ飛び込みました。なんかがっついているという感じでした。アメリカの教会を旅してわかったのですが、奉仕は平日が多いようです。たとえば、水曜日は聖歌隊の練習、金曜日は家を開放してセル集会を持っていました。日曜日は、日曜学校と礼拝だけで、午後は休むんです。それに比べ、日本の教会は日曜日の午後も、会議とか、プログラムがあります。きょうもありますけど…。私が台湾に行ったとき、台湾で最も古い教会でしたが、役員会が午後8時で終わらない。月曜日の午前まで持ち越しになったと聞きました。20人以上の長老たちが、「こうじゃない、ああーじゃない」と会議しているわけです。日本でも、こういう教会、たくさんあります。

 今から25年くらい前、岸義紘先生が、「日曜日だけが、聖日礼拝の日じゃない。月曜日でも、火曜日でも、水曜日でも構わない」とある本の中で書きました。そうしたら、福音派の大御所がものすごく怒って、岸先生を糾弾しました。そのため、岸先生の本は全く売れなくなり、超教会の奉仕は干され、大変だったようです。新約聖書の中に、「日曜日が安息日であり、日曜日に聖なる礼拝をささげよ」とはどこにも書いてありません。日曜日、礼拝をささげるのはイエス様の復活から来ています。復活を記念するために慣習的に、日曜日に礼拝を行うようになりました。でも、初代教会の頃はどうだったでしょうか。使徒2:46,47「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。初代教会は、毎日、礼拝をささげていたのです。奴隷たちは、日曜日も働いていました。休みなんかないのです。ですから、朝早く、あるいは夜遅くに、公の礼拝を持っていたようです。それはともかく、神を礼拝することは、律法や義務以上のものであります。それは、特権であり恵みだということです。だから、毎日、礼拝しても良いということなのです。礼拝というと何かのプログラムを思い出しますが、そうではありません。真の礼拝は、神様と親しく交わり、神様をあがめることです。そのとき、賛美とか聖書が必要かもしれませんが、中心的なことは神との交わりであります。神様と親しく交わることが苦痛でしょうか?神様と交わることによって、喜びや信仰、命、力、祝福が与えられます。ですから、真の安息、真の礼拝は、神様と日や時を選ばず、交わることであります。公の礼拝も大切ですが、まず、日々の礼拝、個人的な神様との交わりを持ちましょう。5分でも、10分でも可能であります。目をつぶって、「主よ。感謝します…」とたったひとときでも、礼拝になります。どうぞ、月1回とか、週1回といわず、日々、礼拝のときを持ちましょう。そうするなら、魂も体も安息を得ることができます。また、霊も強められます。

2.手を伸ばしなさい

 イエス様は片手のなえたひとに、「手を伸ばしなさい」と言われました。そうすると、彼は手を伸ばし、彼の手は正常な長さになりました。イエス様はその人に命じたのであります。彼はイエス様の御声を聞いて、従いました。手を伸ばしてみたら、伸びたんです。おそらく、彼は手だけではなく、腕からなえていたのではないかと思います。ですから、手をぐっと伸ばしたとたん、腕の長さも延びて、もう一方の手と同じ長さになったのではないかと思います。ここで重要なのは、この人が従順であったということです。もし、この人が「いやです!」と断れば、伸びなかったでしょう。でも、この人はイエス様の「手を伸ばしなさい」という力ある御声を聞いて、「はい、そうですか!」と、伸ばしたのではないかと思います。彼は深く考えないで、権威あるみことばに、従っただけなんです。「そうか」と思って、伸ばし始めたとたん、伸びたんです。ここに、癒しのヒントがあるように思います。アメリカ・インディアンのメル・ボンド師が癒しをなされるとき、こういうことをおっしゃいます。「あなたは祈らないでください。ただ、リラックスして、受け取りなさい。受け取ることに集中しなさい」と。そしてもう1つは、アクションです。やってみるということです。メル・ボンド師は「体を曲げてみなさい」とか「歩いてみなさい」と言います。先生が当教会に来られたときのことでした。一人の女性が癒しを求めて先生の前に出ました。その人は足が痛くて、タクシーで駅から教会まで来ました。メル・ボンド師は、祈ったあと、その女性に「さあ、この通路を走ってみなさい」と言われました。その女性は「医者から、走っちゃダメと言われています」と答えました。先生は「あなたは神様の言うことに従いますか?それとも医者の言うことに従うのですか」。その女性はゆっくり歩きましたが、走ることはしませんでした。アクションしなかったのです。聖書の男性も、「いや医者から禁じられています。親から禁じられています」と断れば、伸びなかったでしょう。でも、彼は素直に従ったのです。手を伸ばしてみたのです。そうしたら、伸びたのです。ヤコブ書には、「行いのない信仰は死んだものである」と書かれています。本当の信仰と行いがくっついています。「信じたら、そのまま行う」こういう単純さに力があります。

 私は、「腕を伸ばしなさい」というイエス様の声は、日本の教会に、私たちの教会にも言われていることではないかと思います。ヘブル12:12「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」と書いてあります。私をはじめ日本のクリスチャンの手足は衰えて縮んでいるようです。頭だけが大きいという感じがします。私もひきこもりとか、バウンダリー、共依存、解放ということを結構、学びました。でも、臨床例が少ない。つまり、実際に行っていないということです。この間、2人の姉妹がエリヤハウスに行ってきました。1週間、休まずに通わなければなりませんので、大変です。でも、あのエリヤハウスは学びだけではありません。後半の2時間くらい、実践があるんです。5人くらいの人が、交代、交代でミニストリーをします。聞き役と補助、それから何も言わないで祈っている人がいます。何も言わないで祈っている人は、神様に聞いていますので、これも大切な奉仕です。とにかく、エリヤハウスに出た人は、体験的に学ぶので、身につきます。ですから、講義だけではなく、実際にやってみる。そうすると、霊的な手と足が伸びるわけです。日本の牧師に多いのですが「セミナーに出たら終わり。その本を読んだから分かった」。でも、実際に行うのはめんどうです。人を相手にすると、順番どおりいきません。だから、ついつい、テキストだけになってしまうんです。「腕を伸ばしなさい」というイエス様の命令は、「1つ学んだら、1つ行え」ということではないかと思います。水泳はクラス・ルームでは習えません。実際に、水の中に入って、身につくわけです。ですから、癒しも、伝道も、祈りもやってみて、身につくという世界です。

 また、「腕を伸ばしなさい」というイエス様の声は、「活動の幅を外の世界まで広げよ」という意味にもとれます。また、伸ばすというのは、ストレッチとかリーチアウトと言い換えることができます。教会というか私たちのクリスチャンは、この世の人々に対して、もう少し腕を伸ばしても良いのではないかと思います。これは「世の人たちと関係を作り、何らかの働きかけをせよ」ということでもあります。信仰生活を10年、20年やっていますと、友達がみなクリスチャンで、未信者と余り会わない。たとえ会っても、信仰の話はしないということが多いのではないでしょうか。商売の世界においても、顧客を広げることは必須であります。保険でも、車でも、携帯でも、新商品を作って腕を伸ばすということをしています。その点、教会はどうしても保守的になり、「あれもうまくいかなかったから、これもうまくいかない」と、チャレンジ精神がなくなります。私も50歳を超えましたが、そういうところがあるなーと思います。やる前から、「わかった」みたいな所があります。これではいけません。マンネリ化はどこにでもありますね。夫婦関係もマンネリ、セルグループもマンネリ、賛美もマンネリになる傾向があります。新しい分野を開拓する。今までやったことのないことをやってみる。そういう、チャレンジ精神、イノベーター精神が新鮮さを保つ秘訣であります。確かに嫌な思いもするでしょう。失敗もするかもしれません。人から笑われるかもしれません。でも、成功よりも、失敗から多くのことを学ぶことができます。何かにチャレンジすると、私たちの頭も活性化します。当然、普段使っていない筋肉も使います。いろんな分野で、腕を伸ばしてみましょう。

 先週の金曜日、本郷台キリスト教会にベン・ウォン先生が来られました。香港のセルチャーチの先生で、当教会から私を加え、10名参加しました。平日ですから、ほとんどの兄姉はお仕事を休んで参加したわけです。これがまたすごいチャレンジを受けました。ベン先生は世界と日本の宣教リサーチを提示してくださいました。不思議なことに、それは人間の危機こそ、教会を生み出すチャンスだということです。インドネシアもそうでしたが、アメリカの洪水もそうでした。建物が焼けたり、壊された後、本当の教会が生み出されるということです。ベン先生はとても過激なことをユーモアたっぷりに話します。「教会は焼けてなくなった方が良いんだ。教会があるから、教会という建物の中に、閉じこもってしまうんだ。牧師も牧師室に閉じこもっていないで、外に出なさい。イエス様は建物の中にいただろうか。また、神学校の中で、弟子たちを訓練しただろうか。もし、イエス様が牧師と入れ替わったならどんなことをするだろうか。きっと、外に出かけるだろう。だから、牧師も1日に3人の人と会いなさい。クリスチャンは教会の外で活動しなさい。賛美も教会の外でしなさい。教会堂があるから、ダメなんだ。だから、燃えてなくなれば良い」と言いました。いやー、過激だなーと思いました。その理由は、教会の外には大勢の未信者がいるからです。ギャラップ調査によりますと、日本のクリスチャン人口は6%だということです。私たちは教会堂にいるクリスチャンしか数えません。しかし、自称クリスチャンが結構いるということです。彼らは、教会は嫌いだけれど、イエス様は好きなんです。日本人は、アメリカと比べ、人生観に問題を持っています。しばしば自分はなぜ存在しているのか疑問に思う若者が85%。いつも自分がなぜ存在しているか理解できている若者は、13%しかいません。教会の中にはそういう人はいないんです。自分の存在と人生の目的を知っています。でも、教会の外には、人生の意味を持たないでさまよっている人たちが大勢います。ですから、私たちは手を伸ばすべきであります。イエス様は「手を伸ばしなさい。伸ばしたら、手応えがあるぞ」とおっしゃっています。いや、「私は仕事をしていますから、家庭がありますから、そんなことできません」と言うかもしれません。そうではありません。今、あなたが置かれている場で、ちょっとだけ手を伸ばせばよいのです。ミッションとミニストリーはすべてのクリスチャンに与えられている使命です。そのとき、イエス様がご一緒に、働いてくださいます。