2006.12.17 イエスの国 ルカ1:26-33

先週に引き続き、クリスマスのメッセージをお届けします。クリスマスは牧師泣かせでもあります。なぜなら、話す箇所が決まっているので、「ああ、またか」という人たちが多いからです。でも、不思議なことは、同じような話でも、神様が示してくださるポイントが毎年違うということです。ポイント、つまり強調点が違うと、同じようなメッセージでも新鮮に感じます。この世の中は、たくさんのデコレーションでクリスマスの飾りつけをします。ライトアップも、発光ダイオドーを使っているせいでしょうか?とっても鮮やかです。クリスマスソングも奏でられています。でも、残念ながらメッセージがありません。そこにメッセージがなければ、ただの風景であります。クリスマスは風景ではありません。神からのメッセージがそこにあるべきです。

1.おめでとう

 御使いが突然、マリヤに現われて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。このシーンは、受胎告知として知られ、絵にもなっています。でも、何が「おめでとう」なのでしょうか?まず、マリヤにとっておめでたいことは何かということを見ていきたいと思います。マリヤはナザレの町の一処女でした。おそらく、十代後半かと思われます。そのマリヤがメシヤを生む母として選ばれたのです。イザヤ書には、乙女からメシヤが生まれるという預言があります。しかし、その当時の人たちは、どれほどその預言を信じていたか分かりません。でも、イスラエルの女性たちの間では、メシヤの母になれることは最も光栄なことであるという、言い伝えはあったと思われます。その証拠に、ひとりの女性が、マリヤをほめている箇所があります。ルカ11:27、ひとりの女が声を張り上げて「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。また、マリヤ自身も、喜んで賛美しています。ルカ1:47-48「「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」。この賛美のとおり、マリヤは歴史上、全人類の中で、最も幸いな女性だと思われているのではないでしょうか。全人類で、メシヤの母になる確率というのは、何兆分の一の確立です。ジャンボ宝くじどころではありません。カトリック教会では、聖母マリヤとして、礼拝の対象にまで高められています。やっぱり、「おめでとう、恵まれた方」と言えるのかもしれません。

 でも、マリヤはすべてがおめでたかったわけではありません。いくつか、おめでたくないこともあったはずです。マリヤはヨセフと婚約中でした。ユダヤでは婚約は結婚と同じくらいの重さがありました。結婚前に、他の男性との間に、子供ができたらどうなるでしょうか?もう、これは姦淫罪で、石打ちの刑で殺されます。マタイによる福音書を見ると、ヨセフは秘かに離縁しようと思っていたと書いてあります。昔も今も、処女が聖霊によってみごもるなんてことは、信じられないことであります。「私は聖霊によって子供を宿しました」などと言っても、「馬鹿も休み休みに言え、そんなことがあるはずないだろう。この大嘘つき!」と言われるのがおちです。それは、現代も同じキリスト教会であっても、処女降誕を信じないクリスチャンがいます。「処女降誕はその当時の神話から来たものである。十字架と復活さえ信じていれば救われるのだから、処女降誕は信じられなくても良い」という教会がいっぱいあるんです。マリヤにとっておめでたくないことは、人々から誤解を受けるということでした。婚約破棄、石打ちの刑、私生児を生んだみだらな女と呼ばれる。こういうリスクがあったということです。

 では、マリヤから私たちが学ぶべきことは何でしょうか?マリヤは人々からどう思われようが関係なく、神のみこころがなるように自分をささげたということです。マリヤは「どうしてそのようになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と疑いました。でも、御使いから「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われて、従いました。38節以降、マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。げー、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えました。「本当に」は、原文では、behold「ご覧下さい」であります。「ご覧ください、主のはしためを」であります。マリヤはヨセフにも相談していません。即座に、親戚のエリザベツのもとに行きました。そしてそこで3ヶ月過ごしました。ヨセフやナザレの町の人たちはどう思うでしょうか?そんなの関係なく、マリヤは主のみことばにまっすぐ従ったのであります。こういうところが日本人に弱いところであります。日本人は神様がどう思うかではなく、人々がどう思うかに焦点を合わせがちであります。もう、子供のときから「人様から笑われないように」「人様に迷惑かけないように」「人様から後ろ指さされないように」…。人、人、人であります。特に、地方の人たちは、洗礼を受けてクリスチャンになるということができません。それでも、ときどき、細川ガラシャのように、座敷牢に入れられてでも、信仰を持つ人がいます。みなさんは、どちらの方に焦点を合わせているのでしょうか?人でしょうか?それとも神様でしょうか?

 私はマリヤが「いいえ、私にはできません」と断ったら、次の女性にチャンスが回ったと思います。でも、神様はだれか女性の協力が必要だったのです。なぜなら、エバの汚名を注ぐのは、やはり、女性でなければならなかったからです。創世記3章に「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と預言されています。数年前、パッションという映画が上映されました。あの映画はカトリック教会の思想が背景にあるのではないかと思いました。その特徴として、母マリヤがずーっと登場しました。また、蛇が荒野の誘惑のとき、そして十字架のときも出て来ました。最後にサタンが踏みつけられ、「あー」と頭をかかえているシーンがありました。まさしく、創世記3章を現しているようでありました。イエス様が第二のアダムだとしたら、マリヤは第二のエバなのかもしれません。はっきり言うと神学的に問題になるかもしれないので言明はしませんが…。マリヤはエバのできないことをやったのです。エバは「自分が知恵を得て神のようになりたい、自分が美しくなりたい」と自己中心的でした。しかし、マリヤは自分のことはともかく、「神のおことばどおりこの身になりますように」と自分をささげました。ここに大きな違いがあります。マリヤが贖ったとは言いませんが、女性の代表として、汚名を挽回したことは確かであります。そういう意味で、マリヤは「最も偉くて、最も幸いな女性」と言えるのではないかと思います。

 男性も含めて、私たちが学ぶべきことは、神様への従順ということであります。「おめでとう。あなたがこのことを行うように選ばれましたよ」。「いいえ。私はそんなことはイヤです。だれか、他の人にやらせてください!」。そうすれば、チャンスはだれか他の人に行ってしまうでしょう。しかし、神様が直接、肉声で声をかけるということはまずありません。他の人を通してだったり、思いの中に浮かぶことかもしれません。そこいらへんは、信仰であります。私の長所でもあり短所でもあるところは、「今」のチャンスを生かすことです。私は信徒のとき、牧師から奉仕を頼まれたら「はい、わかりました。やってみます」と答えました。ちょっと共依存的なところがあったかもしれせんが、奉仕を断ったことはありません。また、「今がチャンスだ」と思ったら、即実行してきました。子供たちの大学も「ここはどうかな」と勧めました。勧めた分、責任もありますが…。この会堂や牧師館の建築も「今だ!」と思ったとき実行しました。結婚もそうだったかもしれません。亀有教会に赴任したのも、「まず、行ってみよう」でした。もう、19年もたってしまいました。ゴスペルクワイヤーも「じゃあ、やってみたら」でした。もちろん、人の意見を聞いたり、慎重に検討することも大切です。でも、神様が「今、あなたに!」とお声をかける時ってあるのではないかと思います。もちろん、ファーストチャンスをなくしたら、セカンドチャンスは永遠に来ないということではありません。問題は、「信仰によって立つ」、「信仰によって決断する」ということです。「何も決断をしないで失敗するよりは、何かをして失敗するようが良い」とロバート・シュラー牧師が言いました。もちろん、神様の御声もありますが、悪魔の声もありますので、見極めも大事です。ですから、祈って、神様にお聞きして、「これだ!」という確信を得たら決断すれば良いのです。独身男性も、「この人だ!」と思ったらアタックしたら良いでしょう。奉仕やセルも「これだ!」と思ったら、やってみたら良いですね。もし、たとえ失敗しても、神様はちゃんと別の道も備えてくださいます。祈って始めたことであれば、神様は万事を益としてくださいます。「できない!」諦めてしまえば、すべての道が塞がれてしまいます。しかし、「主にあって可能だ!」と信じれば、色んな道が開かれてくるものです。マリヤのすばらしさは、「これだ!」と決めたら、一身に従ったことです。

2.イエスの国

 1章31-33節「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」ここで注目したいことばは、「国」であります。イエス様は「ダビデのような王様で、国をとこしえに治める方だ」と言われています。このところは、ダニエル書7章の引用であります。ダニエル7:14に「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と書いてあります。イスラエルの人たちは、こういう預言を知っていました。そして「やがてダビデのような王様が現われて、イスラエルの国を復興させるんだ」と信じていたのです。しかし、彼らのメシヤ観は非常に地上的でした。イエス様は本当に困って、公に宣教することが困難な時がありました。あの12弟子たちもそうでしたが、ローマ帝国を倒し、この地上にイスラエルを立てるということが望みだったのです。しかし、イエス様の国はそういう地上的なものではありません。では、目に見えない、精神的な架空の国かというとそうでもありません。イエス様の国は2段階で来るということです。このことが分かりますと、聖書がよく分かります。

 第一段階回は、目に見えない国であります。国というギリシヤ語はバシレイアと言って、王的な支配という意味であります。33節の「国」はバシレイア、王国であります。いわゆる、カントリーではありません。バシレイアはキングダムであり、神の国のことを指すのです。私は「天国」という言葉よりも、「神の国」の方が好きです。「天国」は、日本で本当に誤解されています。死んだ人が行くところが「天国」だと思われています。とんでもありません。天国とは、神の国であり、神の支配という意味です。話が戻りますが、第一段階回の国は、イエス様と一緒に目に見えない「支配」としてやって来たのです。本来、王国でありましたら、王様がいて、臣民がいて、領土があるはずです。民もなく領土もないのに、王様一人しかいないというのは、怪しい王様です。でも、神様はイエス様を王とする、神の国を作ろうとご計画されました。なぜなら、アダム以来、この地上は罪にまみれ、滅びに向かっているからです。このままですと、すべての人が罪と死の中に飲み込まれてしまいます。そこで、父なる神様は時満ちて、ひとりの女から、メシヤを誕生させました。父なる神様は、やがて来る神の国の住民を、まず集めようとされたのです。順番が逆と言えば、逆かもしれませんが、まず国民を集め、その次に領土を作るという計画でした。当時のメシヤ観は悪を裁き、イスラエル王国を建てる人物でした。しかし、イエス様はそうではなかったのです。イエス様は平和の君として来られたのです。イエス様は人々に「罪を悔い改め、神様と和解するように」勧めたのであります。世の人たちは、「なんと弱いんだろう!あれでもメシヤか」と疑いました。あげくのはて、十字架に付けられて殺されました。弟子たちは「もう、おしまい」と思いましたが、そうではありません。イエス様の十字架と復活により、人々が信じるだけで、神の国に入ることができるようになったのです。イエス様は「恵みによる救い」という道を開いてくださったのです。今年は、恵みの年、2006年目ということになります。まもなく、恵みの年、2007年目です。しかし、いつまでも恵みの年が続くわけではありません。

 第二段階回は、目に見える国であります。聖書をそのまま読むと、この国はさらに2段階でやってくるようであります。最初は御国、つまり1000年王国として、この地にやってきます。私はこの地球が核戦争でおしまいになるとは思いません。この地球は世の終わりにおいて、回復されると信じています。でも、すんなりと御国が建てられるわけではありません。ヨハネ黙示録などに書いてありますように、世の終わり、反キリストとの大戦争があります。空から星が落ちてきたり、疫病がはやったり、太陽が暗くなったり、とにかく大患難のときがやってきます。そのとき、私たちはどうなっているかわかりません。教会の人たちは患難に会わないで、天に引き上げられるという説もあれば、患難の後だという説もあります。奥山実先生は、目をさまして携挙を信じている人だけが、引き上げられる。たとえクリスチャンでも、携挙の信仰がない人たちは残されるとおっしゃっています。本当かもしれません。世の終わりの終わりに、イエス様が雲に乗ってやってこられます。雲とは栄光という意味があります。栄光のうちにやって来るということです。もう、優しいイエス様ではありません。目は炎のように燃え、口からは両刃のつるぎが出て、足はしんちゅうで、髪の毛が白い。まあ、ヨハネはイエス様を見て、死人のようになったと言っています。再び来られるイエス様は、今度は世をさばくために来られるのです。御使いたちと一緒に、信じない者たちをさばくために来られるのです。そのときには、恵みもあわれみも通用しません。神の復讐と怒りがこの地上をおおい尽くすのです。そういう意味で私たちは、神を恐れなければなりません。御国は1000年、回復のときとしてこの地上に訪れます。目の見えない人は見え、足なえは歩き、おしは歌います。この地上は不公平であり不条理がまかり通っています。しかし、御国において、すべてがチャラになり報われるのです。クリスチャンも忠実さによって、治める町の数が違うと書いてあります。しかし、1000年後、こんどは新しい天と新しい地が創造されます。おそらく、この地球も太陽系もなくなり、全く新しいところで、永遠に住まうのです。やっとそこで、神の国が完成するのです。私たちはじかに神様を見ることができ、栄光の姿で永遠に暮らすのです。永遠という言葉は、神の国にぴったりであります。

 問題は、この地上に生きている間です。イエス様は神の国の門を開けてくださいました。もちろん、イエス様ご自身が門であります。でも、神の国はこの肉眼では見えないんです。神様も見えません。わかるのは、聖書の約束と、イエス様の贖いであります。もう1つしいて言うならば、教会であります。教会は完全ではありませんが、神の国がどういうものであるか示してくれます。よく、マンションを新築するとき、他の場所にモデルルームを建てます。外はプレハブか何かですが、中に入るとそのまんまという感じがします。教会もある意味では、天国に似たモデルルームです。教会の中で偉い人はいません。牧師自身の気持ちとしては、偉い人として扱われたいのですが、聖書的には兄弟姉妹と同じです。貴族と平民の身分の差もありません。社長も従業員も関係ありません。たとえ、ここに大統領が来たとしても、一人の兄弟であります。神の国は愛が支配しているように、教会も愛が支配しています。神の国には病気や死がありません。同じように、教会にも癒しがあり死に打ち勝つ神の命があります。漢字検定協会では、2006年を表す感じは「命」だということでした。しかし、聖書では肉体の命ではなく、復活の命があります。復活の命、神の命がより大事なのであります。神の国は豊かです。ですから、教会も豊かであることを嫌ってはいけません。清貧に甘んずるというのは、聖書的ではありません。与えて貧しくなるのは良いことです。でも、はじめから貧しいのでは、人を助けることも、献金もできないからです。

 イエス様は、準備ができたら迎えに来るとおっしゃいました。ヨハネ14;2,3「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」。イエス様は私たちのために、永遠の住まいを用意しておられます。お墓が永遠の住まいだったら、悲しいですね。そうではなく、あちらです。やがて来るのです。私は23歳で建設会社をやめました。もうずいぶん前のことなので、藤沢か八王子の現場か忘れました。とにかく、ボーナスをもらってやめたんですから。12月、失業していたので、寒さがよけい身にしみました。通りから、レストランとかで食事をしている風景を見ると本当に寂しくなりました。まもなく、私は町田に引っ越して、なんとかその町で住もうと思いました。隣町に同郷の友人がいて、彼女も与えられました。残念ながら、裏切り裏切られる形になりました。しかし、私は座間教会に導かれ、新しい兄弟姉妹が与えられました。26歳のクリスマス、青年会の兄弟姉妹と一緒にお祝いしました。古い教会でしたが、私にとってはホームという感じがしました。そして、一番、変わったことは、私はクリスチャンであるという身分が与えられたことです。働いている会社が問題ではなく、自分は神の子供であるという誇りがありました。そして、行くべき天の住まいがあるという希望が与えられました。その当時、トム・ジョーンズの「思い出のグリングラス」という歌がはやりました。その曲は、確か、故郷に帰る歌だったと思います。なつかしい我が家に帰る歌です。「ああー、自分の故郷は秋田じゃなくて、天国なんだなー」と思いました。

クリスマス、イエス様が来られたのは、あなたを御国に迎えるためです。どうぞ、その御国への招待を受けようではありませんか。そこには、先に天国に行った懐かしい人もいます。「再会」というのは、スナックの名前ではなく、本当は天国のためにある言葉です。天国で再会できるのです。この地上はいつまでも続きません。神様が備えておられる、御国のマンションで共に暮らそうではありませんか。