2006.12.31 荒野へようこそ   ルカ4:1~14

本日のメッセージはジョン・ビビア著の『荒野で勝利する』という本からかなり引用しました。私はこの本を10月から読み始めましたが、11月頃はとても落ち込んでいました。礼拝出席は、ひところは80~90名だったのですが、あきらかに20名位減少しています。「あの人も来ていない。あの人も来ていない」と思うと、ボディブローを受けているみたいで、だんだん鬱的になります。そして、「来年は牧会20年目だから、安息年をいただこう。礼拝説教以外の奉仕はやめて、これまでのものを整理しょう」という気持ちにもなりました。ところが、11月半ば、この本を読んでいたそのときです。「ああ、私は荒野にいるんだ!日本の教会も荒野にいるんだ」という悟りが与えられました。それが分かったとたん、がぜん元気が出てきました。この本は、「荒野は収穫の時ではなく、刈り込みと接木の季節であり、後にやってくる収穫のための備えの時である」と書いてありました。きょうは、荒野とはどんな時なのかということを3つのポイントで学びたいと思います。

1.荒野は試練の時

 荒野は神からの罰ではありません。ルカ3章後半に書いてありますが、イエス様がバプテスマをお受けになられると聖霊が鳩のような形をして下ってこられました。そして、天から父なる神様が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語られました。つまり、イエス様は父なる神様から、ご承認を受けたのです。その後、イエス様は荒野に行って、誘惑を受けました。ルカ4章1節以降「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」。イエス様は神様から喜ばれていたにも関わらず、聖霊に満たされていたにも関わらず、荒野に導かれました。イエス様は、40日間も荒野で一人ぼっちでした。だれも励ます人もなく、お腹が空いてどうしようもないとき、悪魔の攻撃を受けられたのです。でも、イエス様は神のみことばで悪魔を打ち負かしました。ここから分かることは、神様が私たちを荒野に導かれるのは、私たちを怒って罰するためではないということです。また、イエス様がそうであられたように、荒野は敗北の場所ではなく、勝利の場所だということです。でも、イスラエルの民はそうではありませんでした。彼らは荒野での生活を神からの罰であると見なしました。そのため、彼らはつぶやき、不平を言い、絶えず肉欲に駆られました。時が満ち、いよいよ約束の地に入って征服するという段になって、悪い報告に耳を貸してしまったのです。イスラエルの民は、神の約束と神の全能を信じないで、躓いてしまいました。そのため、本来、短いはずの荒野の旅が、彼らにとって一生のものとなってしまったのです。

 では、荒野とはどのような場所なのでしょうか。申命記8:2「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」。イスラエルの民は、主の大いなる奇跡によって、紅海を渡ることができました。彼らは敵の手から救い出され、喜びいっぱい主に歌い、主の前に踊りました。ところが、それから数日しかたっていないのに、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や子供たちや家畜を、渇きで死なせるためですか」と指導者に向かってつぶやきました。しかし、神様が彼らをエジプトから救い出した目的は、砂漠でさまよわせることだったのでしょうか?いいえ、神様がイスラエルの民を荒野に導いたのは、彼らの心の真の姿を明らかにするためでした。主はイスラエルの民が空腹になるようにさせられました。しかし、その次にはマナで民を養われました。なんだか、矛盾しているように聞こえるかもしれません。彼らは天使の食べ物と言われる、マナを毎日食べました。でも、それが4年間ではなく、40年間も続いたのです。また、彼らは40年ものあいだ、同じ靴をはき、同じ服を着続けました。神様は、イスラエルの民が欲しているものは与えないで、ただ必要としているものを与えられました。そのように、彼らは生きるために最低限必要なものはすべて満たされました。主はイスラエルの民を試すために、彼らのうちにこのような「飢え」を起こされたのです。何を試すためだったのでしょうか?それは民がエジプトに残してきた肉的なものを求めるか、それとも神ご自身を求めるかを試すためでした。残念ながら、イスラエルは「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」とつぶやきました。

 神様が荒野に導かれる理由は、申命記8:2にあるように「あなたの心のうちにあるものを知るためです」。悪魔が私たちを荒野に導くのではなく、神ご自身が私たちを荒野に導かれるのです。その理由は、私たちを試みるためです。それは、私たちの心の真の姿を明らかにするためです。ジョン・ビビアが本の中でこう語っています。「現代においても、神は教会を荒野へ導きいれられます。今、教会は荒野にいます。イスラエルの民に行われたように、主は私たちが主の御顔を求めているのか、それとも主の御手を求めているのか試しておられます。主の御顔とは、主のご性質と品性を象徴しており、主との交わりを意味します。一方、主の御手とは、主が与えられる物や主の力を象徴しています」。私たちは祝福をくださる神様を求めているのでしょうか?それとも、祝福そのものを求めているのでしょうか?もし、神様が自分に何を与え、何をしてくれるのかと、ただ何かを得ることばかりを求めていくなら、乾いた荒野で倒れてしまうでしょう。しかし、主ご自身を求めていくなら、祝福も力もあとから着いてくるのです。ある人たちは、自分が欲しいと願っているものが与えられている限りは、幸せであり、喜んで主に仕えます。しかし、乾いた荒野の季節になると、心の中の動機が露にされるのです。

2.荒野は清めの時

 マラキ3:2-3に「まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁(あく)のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」とあります。神様はここで、祭司を練り清めることを、金や銀を精錬する過程になぞらえて述べておられます。純金はやわらかく、しなやかで、腐食の心配もありません。しかし、他の金属(銅、鉄、ニッケルなど)と混ざると硬くなり、曲げにくく、腐食しやすくなります。外側は黄金色に輝いていても、純金は自然界にはほとんど存在しません。なんらかの不純物が含まれており精錬しなければ、純金にはならないのです。これを私たちにたとえますと、不純物とは罪であります。教会に集っている多くの人たちは、みかけは敬虔であっても、心はかたくななのです。この世のシステムや価値観が教会に入り込んでいます。イエス様は金を精錬するように、ご自分の教会をこの世の影響からきよめるのです。金を精錬する場合は、まず金を粉々にし、溶剤と呼ばれる物質を混合します。次に火の中に入れ、高熱で溶かすと、溶剤と混じり合った不純物が表面に浮き出てきます。金は比重が大きいために底に沈むので、表面に浮上した不純物を取り除きます。精錬のために神が送られる火は、試練と艱難です。この試練の火の熱が、私たちのうちに与えられ、不純物が分離させられるのです。黙示録21章には、「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」と書かれています。いったん炎の試練によって精錬されると、私たちは透明な人間になるのです。透明な器は、自らの栄光を表すのではなく、中身の栄光を外に表します。つまり、私たちが精錬されるならば、この世は、私たちのうちにおられるキリストを見ることができるのです。荒野とは私たちの心の動機や計り事を精錬するために神が用いられる坩堝(るつぼ)なのです。

 純金はとってもかっこう良い感じがしますが、純金になるまで大変です。精錬のためには火だけではなく、溶剤が必要です。溶剤とは、同じ信仰仲間の肉的で未熟な者たちか、あるいは家族の者たちです。ヨセフに嫉妬していた兄弟たちは、「見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(創37:18-)と言いました。結果的にヨセフはエジプトに奴隷として売られました。エジプトは、ヨセフにとって、まさに荒野でした。ヨセフは、兄たちへの復讐心に燃えて、どうすれば仕返しができるかを考えながら、エジプトでの日々を送ることができたでしょう。この間、15年から17年の歳月が流れ、あらゆる人間的な望みは消え去りました。ある人たちは、「このような荒野に置かれ、夢が成就しないのは、牧師(家族や友人や配偶者)のせいだ」と言うかもしれません。詩篇105:17-19「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」。「彼を試した」とは、彼を精錬したということです。神様はヨセフを精錬するために、ヨセフの兄弟たちの怒りを用いられたのです。つまり、ヨセフの見た夢が成就して、やがて来る大飢饉のときに、自らの家族のみならずエジプト全体を導く指導者となるためです。自ら進んで荒野を探さなくても、必ずや神様はあなたを荒野に置かれます。神様は牧師、兄弟姉妹、家族、あるいは配偶者を用いられます。「ああー、これでは神様が与えてくれた夢から遠ざかる一方だ!他の人がミニストリーやその他の領域で、昇進、昇格しているのに、夢に近づくどころか、反対方向へ突き進んでいるようだ!」いいえ。神様はあなたを精錬しているのです。あなたの中にある不純物を取り除こうとしておられるのです。これは私自身にも言えることです。

 もう一人の例は、ダビデです。ダビデは預言者サムエルによって王となるための油を注がれました。ダビデは巨人ゴリアテを倒した後も、イスラエルに勝利を与え続けました。ある時、女性たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサム18:7)と歌いました。そのとき、サウル王の真の性質が顔を出して、怒りと嫉妬が顕わになりました。それまでサウルにとって、ダビデは自分の王国を支える貴重な存在でした。しかし、今やサウルにとって、ダビデは自分を脅かす脅威となったのです。サウルは自分の王位を守るために、ダビデを殺そうとしました。ダビデめがけて槍を投げつけたり、捕らえるために軍を派遣したのはそのためです。なんと、16年ものあいだ、サウル王は、荒野に身を潜めているダビデを追って、ほら穴からほら穴へと捜し回りました。ダビデは、「私のどこがいけないのでしょうか」と、きっと思ったことでしょう。ダビデはサウルを愛し、心から尊敬していたはずですが、神様は、ダビデを精錬するために、サウル王の狂気を用いられたのです。私たちは「サウルもサムエルから油注がれていたではないか」と思うかもしれません。若くして王に選ばれたサウルは、最初は謙遜で、自分を小さい者とみなしていました。ところが、主の前にまだ精錬されておらず、その心がまだ砕かれていませんでした。成功と権力が与えられた時、サウルの真の姿が顔を出し始めたのです。ここから分かることは、「神の人」に作り変えるのは、油注ぎではないということです。御霊の賜物は一瞬にして与えられますが、御霊の実(神の品性)はそうではありません。実が育て上げられるまでには時間がかかります。まず、種が地面に蒔かれ、それ自体は死ななければなりません。一方、賜物は育てる必要はありません。それは与えられるものだからです。でも、実は養われて身についていくものであります。荒野とは、人が精錬され、内側に神の品性を身に着ける場所です。

サウルはさばかれて死にました。しかし、ダビデはかつて神に仕えた人の死を決して喜びませんでした。むしろ、自分を殺そうと何年ものあいだ追い掛け回した男の死をいたみ悲しんだのです。なぜ、こんなことができたのでしょうか。ダビデは苦しみの炉で試され、練り清められ、砕かれた人となったからです。肉の人サウルと清められたダビデの決定的な違いは何でしょうか?サウルは王国を追い求めました。一方、ダビデは神様を追い求めたのです。私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか?成功でしょうか?それともミニストリー、幸せな結婚、神の祝福、癒し、繁栄でしょうか。そうではなく、私たちは神を追い求めるべきなのです。

3.荒野は準備の時 135-202

 イザヤ40:3-4 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」。荒野もしくは荒地は、主の道を整えるところです。そこでは、すべての山は低くされ、すべての谷は高くされます。聖書では、山は人間の強さを表しています。モーセは40歳の時、イスラエルの民をエジプトの束縛から解放する召しを受けていると悟りました。モーセは、王子として育てられ、エジプトの最高の知恵を知識によって訓練されました。その当時、エジプトは地上の最強の王国であり、エジプトほどの先進国は他にありませんでした。モーセは、自分には指導者としての能力が備わっており、また、イスラエルに対する誠実さも持ち合わせていることをなんとかアピールしようとしました。しかし、その結果、イスラエル人を苦しめている一人のエジプト人を殺してしまったのです。突然、神の「偉大な救済者」は、自分の命を守るためにミデヤンの荒野に逃げ込みました。モーセは、砂漠の奥深くで、懸命に他人の羊の世話をしていました。それも、2,3年ではなく、なんと40年ものあいだです。なぜ、主に召された人が、砂漠で40年の歳月を「むだに過ごした」のでしょうか?神様は、肉なる山を低くし、曲がった場所をまっすぐにされ、でこぼこした場所を平らにされるのです。モーセが、40年ものあいだへりくだり、神様の精錬の火を受けた後、主が現れました。出エジ3:10-11

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。かつて自信に満ちていたモーセと同じ人とは思えません。モーセは恐れを感じました。彼は、長い荒野での生活を経て十二分にへりくだっており、神様が介入されなければ、また惨めにも失敗するということをよく理解していました。たとえ偉大なエジプトの知恵であっても、モーセをイスラエルの解放者として整えるには不十分でした。神様の大きな仕事を成し遂げるためにモーセを整えたのは、不毛で寂しい、砂漠の奥深い地においてでありました。40年前、モーセは自分で自分を遣わしましたが、「私はあなたを遣わそう」と今、神様が遣わされるのです。

 『荒野で勝利する』という本の中に、著者自身の証が書いてありました。ジョン・ビビアは1979年、大学の友愛会で救われました(私と同じ頃です!)。4ヵ月後、朝の礼拝で神の御霊が彼に臨み「私はあなたを説教者に召した!」として語られました。「はい」と応答するやいなや、彼の人生に炎が燃え始めました。即座にキャンパスで伝道し、毎週、新しい人が救われました。彼は大学をやめて聖書学校に行きたいと思いました。ある夜、いやいやながら学校の宿題をしていました。そのとき、思わず工学の本を壁に投げつけ、大学を退学して聖書学校に入学する決意をしました。幸いなことに、彼のために弟子訓練をしていたダンが、一緒に祈ってくれました。そのとき、神様は「私の定めた時に」と語られました。ジョン・ビビアは大学を卒業し、7000人もの大きな教会のメンバーとなり、会場係りの奉仕を始めました。また、夜に開校されていた聖書学校にも通い始めました。2年後、彼は助手として雇われました。しかしその時、1年だけという約束で働き始めました。なぜなら、「私は説教者として召されているから」とその理由も説明しました。彼の仕事は、教職者たちの車を洗い、ガソリンを満タンにし、牧師の靴を磨き、使い走りをし、教職者たちの子供を学校に迎えに行き、二人の幼稚園児にスイミングを教えるなど、あらゆる雑用をこなしていました。結局、その仕事は1年どころか、4年半も続けることになりました。主の召しに対して「はい」と応答してから、すでに8年が経っていました。彼はまさに、荒野にいたのです。実は、彼が教会で奉仕をしている間、3度ほど説教者となるチャンスを得ました。ちょうど、そのとき、ヨハネの福音書を読んでいました。ヨハネ1:6の「神から遣わされたヨハネという人が現れた」という文がページから飛び出してきました。「あなたは、ジョン・ビビアによって遣わされたいのか、それとも神によって遣わされたいのか」という主の語りかけが聞こえてきました。彼はすかさず、「主によって遣われたいのです」と答えました。ある朝、外で祈っている時、「主よ、もしあなたがご再臨された時に、私がまだ教会の車を運転し、牧師や牧師夫人のために使い走りをしていたとしても、『主よ、私はあなたのために従いました』と胸を張って言えます。その6ヶ月後、フロリダ州の大きな教会のユースパスターに就任しました。彼は説教者としての召しに応答して、その務めを果たすためには、彼の性質が変えられなければなりませんでした。彼のうちに神の品性が形作られるために、荒野へ導かれたのです。ユースパスターになるために必要な荒野の訓練はそのときに完了しましたが、その後も霊的昇進の度に、まずそれにふさわしい準備期間を経なければなりませんでした。

 モーセも荒野で40年間の訓練を受けました。その後、神が命じられたこと以外は何も行わないという新しいモーセが誕生しました。イエス様ご自身も、公生涯の前、荒野で試みを受けられました。イエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」私たちも主の例にならい、自分のやり方で事を行うのではなく、御霊に導かれて、神様の方法で行いたいと思います。ジョン・ビビアはこのようにまとめています。「たとえ主のためであっても、主の導きもなく、主の御力を与えられないまま行おうとするなら、それは無益な試みです。荒野とは、私たちにこの教訓を教えるために、神が導き入れられる場所なのです。内なるものは永遠の価値を生み出さないということを真に学ぶなら、主が召されたミニストリーを始める準備ができたのです。つまり、荒野は、将来のミニストリーのために整えられる場所なのです。」