2006.11.5 癒しよりも勝るもの マルコ2:1-12

中風といいますのは、原語のギリシア語では「片方がゆるむ」という意味があります。いろんな原因があると思いますが、脳卒中の後遺症ために、半身が麻痺してしまったというケースが最も多いようです。新約聖書では、福音書のほかに、使徒9章にも記されています。いずれも、長期間床についたままの病人として記されています。今はどうか分かりませんが、私が住んでいた秋田は、この病気にかかる人が、全国で最も多い県でした。東北の人は、塩辛いものをいっぱい食べるので、高血圧の人が多いようです。きょうは、四人の人が、中風の友人をイエス様のところにお連れするという美しい物語です。

1.彼らの信仰を見て

 マルコ2章1、2節「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」。イエス様がおられるところには人々が集まって来ます。いちいち、呼ばなくてもそこにイエス様がおられたなら、人々は集まってくるのです。ここに、教会の秘訣が隠されているような気がします。私たちの集会に主の臨在があるなら、世の人たちは「私も行ってみよう」と、集まって来るのです。ハレルヤ!その日も、戸口まで人々があふれていました。そのとき、一人の中風の人が4人の人にかつがれて来ました。でも、群集のゆえにイエス様に近づくことができません。普通だったら、「ああ、だめかー。また出直そう」と、諦めるところです。でも、彼らは諦めませんでした。なんと、人の家の屋根にのぼり、屋根に穴をあけ、中風の人を床にねかせたままその状態で、イエス様のまん前に降ろしました。ロープはどこから持ってきたのでしょうか?素手で、屋根をはいだのでしょうか?もし、私が家の持ち主だったら、「やーねー」と、怒るでしょうね。その地方は、雨がそんなに降らないので、屋根は平らで、穴をうがつのは簡単なのかもしれません。穴を開けてまで、イエス様に近づこうとしたんですから、ものすごい根性です。イエス様は5節で「彼らの信仰を見て」と書いてあります。ですから、根性ではなく、信仰であります。しかも一人の信仰ではなく、「彼ら」ですから、4人の友人の信仰でしょうか。いや、運ばれてきた中風の人自身にも信仰があったと思います。なぜなら、床に寝かされたままで、イエス様にお会いするというのは、信仰が必要です。日本人だったら、「格好が悪いから嫌だ」と断るでしょう。でも、彼は見苦しいままでも、イエス様のところに近づこうとしたのです。ですから、彼自身にも、信仰があったと思います。

 私はこの箇所で強調したいことは、ここにセルの原型があるということです。彼らは会議を開いて、「中風の人がいるので、イエス様のところに連れて行こう」と決めたわけではありません。今の教会なら、役員会か、委員会で「だれとだれが、何日に集まって、その人を連れて行こう」と決めるでしょう。しかし、聖書の人たちはそんなゆうちょなことはしていません。牧師や役員会からの指示ではなく、「友達が困っているから、なんとかしてあげよう」と思ったのです。「イエス様がカペナウムに来られたらしいぞ。みんな、あいつをイエス様のところにお連れしようぜ!」と携帯かなんかで、呼び出して、自主的にやったのです。これがセルです。上からの命令や管理のもとで動いているのではありません。愛によって、主の導きによって動いているのです。聖書は、教会をからだにたとえています。かしらはキリストで、からだは私たちです。手も足も、かしらから命令を受けて動きます。それと同じように、1つ1つのセルが、かしらなるキリストの指令を受けて動くのです。教会って何でしょう?教会は建物でも委員会組織でもありません。人のかたまりであり、セルです。セルが教会なんです。しかし、教会が不特定多数の会衆、群集になるとこういうわけにはいきません。セルのない大教会は、牧師や役員会、なんとか委員会のもとで動きます。人々は、愛で動いているのではなく、使命で動いているのです。その点、セルは重荷をもった人たちが、自主的に行動します。私は大教会で育ちました。そして、今も大教団の中に属しています。前は、「大きいことはいいことだ!」と大きい教会を目指してきました。もちろん、今でも目指しています。でも、ただ大きいのでは困ります。中に命がなくてはなりません。その命に相当するものが、セルという少人数のグループであると信じます。彼らは互いに祈り、互いに重荷を負いあい、互いに戒め、互いに励まし、互いに愛し合います。こういう小さなかたまりがあってこそ、大きな会衆になれるのではないでしょうか。イエス様はマタイ18章で、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われました。ですから、二人、三人が、教会の最小単位であると私は信じます。ここには、4人と1人の中風の人、合計5人が登場しますが、イエス様は彼らの信仰を見て、罪の赦しと病の癒しを与えたのであります。

昔、本田路津子さんという歌手がいました。今は、ゴスペルシンガーです。彼女は名前が「るつこ」ですから、クリスチャンです。ヒット曲のひとつに「小さな手」という歌があります。彼女は、会場のみなさんとよくこの歌を歌うそうです。「ひとりの小さな手、何もできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる何かできる」。なんと6番まであります。「ひとつの主のからだ、枝、枝、ちがうけど。でもみんながひとつに結ばれて、強く生きる、強く生きる」。ハレルヤ!協力の協は十字架のもとで力を合わせると書きます。一人の力は弱くても、みんなが力を合わせれば、すごいことが可能になります。それは、私たちの力というよりも、イエス様が真ん中で働いてくださるからです。イエス様は私たちの信仰を見ておられます。

2.どちらがやさしいか

 この物語で不思議に思うことは、イエス様が中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われたことです。彼も含めた5人は、体の癒しを求めて来たはずです。なのに、罪の赦しを最初にいただきました。イエス様のことばを聞いて、律法学者たちは心の中で考えました。7節、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神を汚しているのだ。神お一人のほか、誰が罪を赦すことができよう」と心の中で理屈を言いました「理屈」とは、原語では「考える、思案する」という意味ですが、ここでは文句とかつぶやきに近いと思います。イエス様は超自然的に彼らの思いを見抜き、このように言われました。9節、「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。ここで、質問です。人々の目では、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、歩け」と言うのとどちらがやさしく見えるでしょうか。また、どちらが劇的でしょうか?中風の人が起きて歩く方が、難しくて劇的に写ります。なぜなら、人の目に、はっきりと分かるからです。では、罪の赦しはどうなのでしょうか。「あなたの罪は赦された」と言われたとしても、外見的には何も変わらないし、本当に赦されたかどうかも分かりません。もう一度、お聞きします。罪の赦しと体の癒しはどちらがやさしいのでしょうか。人々の目から見たら、罪の赦しの方が簡単で、中風の人が立ち上がるのが難しいのです。なぜなら、中風の人に「起きて、歩け」と言っても、もし、そうならなければ、赤っ恥をかくしかないのです。律法学者たちはなぜ、心の中で理屈を言ったかと言うと、こうです。「イエスはペテン師だ。中風の人が歩かないと恥をかくので、だれにも分からない罪の赦しを宣言したのだ。ああ、罪の赦しは神しかできないことなんだ。それにしても、なんという神への冒瀆だろう!」。

 10節、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。イエス様は、あとから中風の人を癒してあげました。これは1つの証明だったのです。さきに、「あなたの罪は赦されました」と言っても外見的には何も見えないし、何も起こりませんでした。しかし、神の子イエスが、罪の赦しを宣言したときに、確かに、彼の罪は赦されたのです。目には見えなかったかもしれませんが、神の側では、彼の罪はそのとき完全に赦されたのです。イエス・キリストのことばには、そういう権威があるのです。イエス様は、彼の罪がご自分の宣言で赦されたことを証明するために、今度は彼に命じました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」12節、すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。つまり、こういうことになります。イエス様が命じたら、彼の体はたちまち癒され、立ち上がることができました。それと同じように、イエス様が「あなたの罪は赦されました」と言われたとき、罪の赦しが彼のうちに成就したということです。目には見えませんでしたが、確かに、彼の罪は赦されたのです。つまり、この人は最初にイエス様から罪の赦しをいだだき、あとで、肉体の癒しをいただいたのです。

 人の罪を赦すのは、神様しかできません。しかし、律法学者たちは、イエス様を神であるとは認めませんでした。この一連の記事の中で、イエス様はご自身が神であることを証明されたのです。イエス様が「あなたの罪は赦された」とおっしゃるなら、中風の人が直るように、罪は赦されたのです。確かに、罪の赦しは目には見えません。でも、神様の側から見るなら、その人の罪が赦されたのです。私たちも罪の赦しが必要です。しかし、それが人間ではダメなのです。なぜなら、同じ罪人だからです。でも、罪がないお方で、そして神であられるならば、それが可能です。私は洗礼式で必ずと言って良いほど、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言します。これは、この物語から引用したみことばです。昔、口語訳を使っていました。口語訳では「子よ、あなたの罪はゆるされた」となっています。あれは、私が赦すのではなく、主イエス・キリストの名代として行う、赦しの宣言であります。その根拠はマタイ18章にあります。イエス様は「あなたがたが地上でつなぐなら、それは天上においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天上においても解かれているからです」と言われました。教会は、イエスの御名によって、人の罪を赦す権威を神から賜っているのです。それって、すばらしいことだなーと思います。市役所や区役所の出張所がところどころにあります。主張所で手続きしても、オンラインで本局につながります。教会は天国の出張所です。ここで、罪の赦しを宣言するならば、天国でも「OK,この人の罪は赦されました」となるのです。私たちは罪の赦しと救いをいただいていることを感謝しましょう。やがて、天国に行って、いのちの書を見たとき、「ああ、本当だった。私も罪が赦され、私の戸籍もちゃんとあった」とわかるでしょう。ハレルヤ!アーメン。

3.癒しよりも勝るもの

 みなさんは、罪の赦しと体の癒し、どちらがすばらしいと思うでしょうか。罪の赦しは永遠のものですが、肉体の癒しはこの世だけのものです。私たちはたとえからだが癒されても、いずれは年老いて死ぬんです。なぜなら、この体は地上だけのものだからです。癒しもすばらしいです。でも、罪の赦しのほうが勝るのです。キリスト教で「救い」は、ものすごく広い意味があります。病気が癒されることも救いです。苦しみから解放されることも救いです。でも、一番の救いは、罪が赦されて永遠の命が与えられることです。ですから、罪の赦しは、病の癒しよりも勝ると言えます。4人の人が協力して、一人の中風の人を運んで来ました。群集のため近づけなくても、あきらめず、屋根に穴を開けて、病人を吊り降ろしました。イエス様は彼らの信仰を見て、思わず、体の癒しよりもすばらしい、罪の赦しの方を最初にあげたのです。一時的な体の癒しではなく、永遠に至る罪の赦しの方をあげちゃんたんですね。4人と中風の人は、最初はそれが分からなかったかもしれません。「あのー、罪の赦しじゃなくて、体の癒しを求めたんですけどー」と、微妙に感じたかもしれません。でも、イエス様はもっと根本的で重要なものを差し上げたのです。ハレルヤ!ときどき、神様はAを求めたのに、Bを与えることがあります。結婚相手もそういうときがあります。私はより美人な彼女を選びたかったのに、こっちだったとか。あるいあ、私はよりハンサムな彼を選びたかったのに、こっちだったとか。イザヤ書55章に「私の思いは、あなたがたの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・私の道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い」とあります。私と家内は、この間の11月1日で、結婚25周年、銀婚式になりました。おそらく、「お互いに、結婚するならあの人だ!」と決めていたかもしれません。そんなことは、私も家内も絶対、言いません。言えはしません。でも、両者とも思っているんじゃないでしょうか。「神様の思いは、私の思いよりも高い」と。当教会では、若い方々が結構いらっしゃいますが、どうか、自分の思いや好みではなく、神様の思いに従ってください。そうすれば、間違いありません。間違いない!

 話題は変わりますが、私はいわゆるカリスマの牧師です。カリスマと言ってもカリスマ美容師とか、カリスマ主婦ではありません。大教会のカリスマ牧師もいないわけではありません。しかし、カリスマの本当の意味は、「聖霊の賜物」という意味です。教会の世界では、「癒しとか預言、奇跡を信じて行う人をカリスマ」と言います。ある教会は、「それは変だ!」と反対するし、ある教会は「それはもっともだ!」と賛成します。海外では、カリスマは当たり前ですが、日本では「変だ」とか「危ない」と思われたりします。とにかく、私はイエス様や使徒パウロのように、病の癒しや悪霊の追い出し、預言や異言、奇跡など、大歓迎であります。ある人たちは、癒しを全く認めないで、罪が赦されたんだからすばらしいと言います。そして、癒しや悪霊追い出し、異言や預言を軽蔑して、もっぱら罪の赦しの救いだけを強調します。私は、そっちの方がおかしいと思います。私は、肉体の癒しを認めた上で、「罪の赦しの方がすばらしいんだよ」と言うなら文句を言いません。イエス様は癒しをたくさんした上で、なおかつ、永遠の救いに至る罪の赦しも与えました。ある教会は、「永遠の救いが与えられたんだから、病気や苦しみを我慢しましょう。天国に行くまで十字架を背負って行きましょう」と言います。しかし、この物語で、イエス様が「あなたは罪赦されて、天国に行けるのだから、中風のままでも良いですよ。我慢しなさい」とやっていません。イエス様は、罪が赦され、なおかつ、肉体が健康であるように願っておられます。だから、中風の人を、即座に癒されたのです。ハレルヤ!でも、もう一度、言わせていただきます。肉体の癒しもすばらしいですが、罪赦され、天国に行ける方がもっとすばらしいのです。

 今から、19年前、私が亀有教会に赴任して間もない頃です。当時、銀行員の中野兄が教会におられました。良く聞くと、ある年、受洗者が一人もいないので、「なんとかクリスマスのとき洗礼を受けてくれないか」と二人の長老さんから頼まれて洗礼を受けたというのです。二人の長老さんは会社の会長であり、預金をその銀行にたくさんしていた、いわばお得意さんだったんですね。中野兄はボランティア精神もしくは営業精神でクリスチャンになったのかもしれません。中野兄は、クリスマスかイースター、特別集会しか来なかったそうです。私が赴任してから、中野兄に礼拝の中で、ギターで賛美してくれるように頼みました。あるとき、中野兄のお父さんが末期の肺がんであると聞きました。早速、ご自宅を訪問し、癌が癒されるように祈りました。お父さんは荒川の畳屋さんで、しゃきしゃきの江戸っ子でした。新聞紙を「ひんぶんひ」と言う?。とても頑固な人でした。何が原因か忘れましたが、「あんたがいくらおがんでも治らない。賢二も教会にやらんし、あんたも来なくて良い」と怒りました。それから数ヶ月たち、入院してしまいました。そのときは、何も言わないで、花束だけ起きてきました。だけど、いよいよ危ないというとき、また伺いました。行ったちょうどその日、面会謝絶の札がかけられました。そのとき、無理槍、中に入って、「イエス様を信じて天国に行きませんか?」と質問しました。いわゆる引導を渡したわけです。お父さんは、酸素マスクをしながら、「はい」とうなずいてくれました。アーメン、とそこでお祈りして帰ってきました。中野兄弟がその晩の10時頃、仕事から帰って、病院に立ち寄りました。中野兄の顔をみるなり、人差し指を天にあげてうなずいたそうです。中野兄は、そのとき、何の合図なのか分かりませんでした。でも、あとからイエス様を受け入れたことを聞いて、「ああ、あれは天国にいける」というサインだったんだと分かりました。それから、まもなく、お父さんは天に召されました。実は、中野兄は、癒しで有名な高円寺の新井宏二先生にも、お祈りを依頼していました。先生は都合がつかなくて、病院には来られませんでした。中野兄がお父さんがイエス様を信じて、召されたことを告げました。そのとき、新井先生はこうおっしゃったそうです。「病気が癒されなかったことは残念だけど、救われたんだったら、もっとすばらしいじゃないか」と。アーメンです。それから、中野兄弟の信仰は本物になり、神様に献身しました。土曜日から来て、聖日礼拝の準備をし、子供たちともよく遊んでくれました。卒業はできなかったかもしれませんが、JTJの通信に学び、教会のため一番よく働きました。そのときは赴任したばかりで大変でしたが、今、神戸にいる井上神学生と中野兄弟と私で、三位一体のようにがんばりました。学校でしたら「大変よくできました!」という、桜の判子を押されるでしょう。

 4人と癒された中風の人はどうなったでしょうか?おそらく、神様を喜び、神様に仕える生涯を送ったことでしょう。そして、あとからこのように言ったと思います。「あのときは、床のまんま降ろされて格好悪かったよなー。でも、『屋根に穴を開けよう』なんてだれが言ったんだ」。「俺だよ、俺!」。「だけどよー、あとからみんなで屋根を修理したんだよなー。家主も、一緒に喜んでくれたよ」。「俺たち、あとから教会作ったんだよなー。今じゃ、大きい群れになっている。感謝だなー」。「だけど、俺たちの教会堂は、屋根に天窓ついているんだよなー」。「そう、屋根からも出入り可能なんだぜ!」。本当かどうか分かりません。でも、本当のことは、イエス様はあなたの罪を赦す救い主です。そして、イエス様はあなたの病を癒す癒し主です。今も主は生きておられ、障害を乗り越えてでも近づく人には、良いものをお与えになります。神様は求めるものには、求める以上のものを与えてくださることを信じましょう!アーメン。