昔、植木等が、歌いました。「金のないやつぁ、俺のとこへ来い!俺もないけど心配すんなー。見ろよ、白い雲、青い空、そのうちなんとかなるだろー」。そういう無責任な人にはだれもついて行きません。弟子という言葉の意味の中には、その人に人生をかけて従って行くという意味があります。弟子は、おっしょうさんの生き方、考え方、価値観、技術、知識、すべてを学び取って行くわけです。あなたはだれについて行くでしょうか?いい加減な人について行ったらエライことになります。「人生は出会いで決まる」とマルチンブーバーが言いました。きょうは、イエス様に出会って、すべてを捨てて従った、レビまたの名、マタイの物語であります。
1.Follow me
マルコ2:14「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって従った」。レビとは、12弟子の一人マタイのことであります。ですから、この箇所はマタイが弟子としての召命を受けるところであります。マタイはもう1つの名前を持っていました。それはレビです。レビとは、祭司の部族の名前ですから、彼は、今で言うとクリスチャンホームで生まれた子供かもしれません。皆さんの中にクリスチャンホームの人はおられるでしょうか?自分の名前が、聖書の人物や、聖書のみことばから取られたという人はおられるでしょうか?西洋では、ジョン、ポール、ディビッド、マーク、アンドリュー、フィリップ、ジョエルなど、という名前を子供につけます。日本では、イサクとか、ヨシュア、ヨセフ中にはエリヤとかという名の人もいます。また、聖書のみことばから取る人も結構いらっしゃいます。先週、横山家に第三子が誕生しましたが、真実の「真」をつけるそうです。ともかく、親は信仰深い人になるようにという願いをもって、つけるわけですね。しかし、レビは「親父は信仰がすべてだと言うけれど。俺はそうは思わない。やはり、お金がすべてだ」と考えたのでしょう。そして、ユダヤ人が最も嫌う、取税人になりました。取税人とはローマ政府に雇われた、税金取りです。町の門には、収税所が設けられ、そこを通る様々な商品に税金がかけられました。彼らは高い税をふっかけたり、税金を払えない人には、高い利子で貸し付けていました。ですから、人々から「ローマの手先、守銭奴!」などと呼ばれ、大変嫌われていました。しかし、レビ自身は、「人からどう思われようと構いはしない、お金こそすべてだ!ハッスル、ハッスル」と金儲けに励んでいました。
あるとき、イエス様がカペナウムの収税所を通られました。レビは収税所に座っていました。座っているとは、仕事をしているという意味であります。取税人は偉そうに、高いところに座って、通っていく人や品物を見下ろします。そのとき、イエス様が収税所を通過しました。イエス様はレビを見て、「私について来なさい」と言われました。英語の聖書では、たったひとこと、Follow meであります。すると彼は立ち上がって、イエス様に従いました。一瞬の出来事です。1分もかかっていないでしょう。果たして、そんな短い間に、決断ができるのでしょうか?実は、取税人は漁師と違って、一度やめると戻れない職業であります。彼がすっくと立って、イエス様に従ったということは、その仕事をやめるということであります。イエス様はレビに対して、これからの給料のこととか、住まい、福利厚生の話をしていません。これから先、何の保証も提示されていません。たったひとこと、Follow meであります。そして、Followed himであります。ゲー!短すぎる!でも、レビは取税人でありましたので、職業がらイエス様の情報は得ていたと思います。また、イエス様の教えや奇跡的なみわざは、ある程度は知っていたでしょう。おそらく、神の国の福音を聞いてから「お金がすべてだとがんばって来たけど、俺の人生このままで、良いのだろうか!」と足元がぐらぐらしていたでしょう。ただし、決断はまだしていなかった。だって、これまで築いてきた職業とか、人生観、家庭、すべてを捨てなければならないからです。人生の変更を、そんな簡単に決断できるものではありません。ところが、イエス様が目の前を通過するとき、Follow me、私について来なさい、と言われました。あのイエス様がじかに、声をかけてくださったのであります。レビは、条件反射的に、「ハイ!」と、立ち上がり、従いました。決断とはこういうものであります。
それでは、信仰の決断とはどういうものでしょうか?英語で決断はdecisionと言いますが、これはとても強い言葉です。Decisionには、どちらかを選ばなければならないとき、片方を殺して、片方を生かすという意味があります。たとえば、ここに牛乳とコーラーがあるとします。私はどちらを飲むか、decisionしなければなりません。そのとき、牛乳をやめて、コーラーを選ぶのです。いや、私は両方が良いと言って、牛乳とコーラーを混ぜる人はいません。結婚相手をdecisionする場合、A子さんを選んだら、B子さんを捨てなければならないのです。いや、私は両方と結婚したいということは許されません。人々は、それに近いことをするので、結婚が破綻するのです。Decision、決断とは、それほど、強い意味があります。イエス・キリストを信じるとは、人生における最も大きな決断であります。イエス・キリストを信じるとは、自分の人生、自分の将来、自分の主義主張、自分の好み、他の神様を捨てて、キリストを選び取るということであります。これは大変なことであります。しかし、ある人たちは、キリストを信じるけれど、他の神様も信じたいという人がいます。ヤコブ書はそういう人を「二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:8)と言っています。キリストにあって新しい人生を歩き始めたのに、古い生活にまだ未練がある。そういう人は、安定した信仰生活を送ることができません。レビは、古い着物をさらりと脱ぎ捨てるように、その場で決断し、イエス様に従って行ったのであります。ですから、信仰の決断とは冒険であります。キリストを信じるとは、キリストに自分の人生を賭けるということであります。昔、「君は青春に何をかけるか?」「のりたま!」というCMがありました。レビ、マタイは自分の人生を賭けて、イエス様に従ったのであります。
では、レビまたの名、マタイの人生はどうだったでしょうか。彼の性格は、お金のことに細かいということでした。几帳面で、よく記録もしていました。そうでないと取税人は務まりません。マタイはイエス様に関する物語、マタイによる福音書を書き上げました。学者によっては、マタイが書いたのではないという人もいますが、マタイが記録したものをだれかがまとめたという考えは一致しています。そうです。マタイはイエス様の教えをノートにきっちり記録をしました。特に、彼は旧約聖書がイエス様によってどのように成就したのかということに興味がありました。だから、マタイによる福音書のあちこちに「成就した、成就した」という表現があります。また、彼は与える賜物があったようです。聖書のあちこちに、お金をいくら借りたとか、いくらささげたとか、細かく書いてあります。伝説では、彼はエチオピアかマケドニアに行ったという説がありますが、定かではありません。でも、マタイは、マタイによる福音書を残しました。マタイによる福音書は、旧約聖書と新約聖書を結ぶ、大切な役目を果たしています。彼は、彼らしく、神様から用いられたのであります。レビまたの名をマタイは「あの時、決断して良かったなー」とあとから何度も思ったのではないでしょうか。
私も25歳でイエス様を信じる決断をしましたけど、良かったよなーと思っています。もし、あの時、クリスチャンの上司に出会わなかったら絶対、クリスチャンにはならなかったでしょう。もし、私がもっと良い車を買っていたら、ローンの支払いで、会社をやめなかったでしょう。そのまま、会社にとどまり、神学校にも行かなかったし、献身もしなかった。すると、今の家内とも結婚しなかったし、牧師にもならなかったかもしれません。やっぱり、25歳のあのとき、イエス様を信じる決断をし、26歳のあのとき、会社をやめて献身したことが良かったと思っています。会社を辞める前、部屋を掃除しているとき、賛美を聞いていました。「私は道で、まことで、命と主は私に語りかけたー。主の道を歩く、愛と奇跡をこの身に受けながらー」。そうか、イエス様が「私の道で、真理で、命なんだ」と、悟りがやって来て、その場にひざまずき、「イエス様、私を弟子にしてください。一番、小さな弟子でも結構ですから、あなたに、ついていきたいです」とお祈りしました。それが、私の献身の祈りだったんです。会社はそのあと、クリスチャンとしてやっていけないので辞めたわけです。それから、神学校の道が開かれました。イエス様はあなたにも語りかけておられます。Follow me「わたしについて来なさい」。イエス様はあなたの主、あなたの主人として、あなたの人生を導いてくださいます。この方は、あなたに命を与えるほど、愛しておられる、まことの救い主です。どの神様が、あなたのために命を捨ててくださったでしょうか。イエス・キリストの他にはありません。使徒ペテロは言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)。イエス様に人生を賭けるならば、あなたの人生、間違はありません。
2.罪人を招くために
レビは取税人仲間を集めて、フェアウェル・パーティ、お別れ会を催しました。なぜなら、取税人は一度やめたら、元に戻れない職業だったからです。しかも、レビはこの機会を通して、みんなにイエス様を紹介したかったのです。お別れだけではなく、伝道の意味もあったんですね。ですから、レビはありったけのご馳走をみんなにふるまいました。職業仲間の友達の友達、また、その知り合いもやって来て、いっぱいになりました。マルコ2:15-16、それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」そのことを喜ばない人たちがいました。それは、パリサイ派の律法学者たちでした。パリサイとは、分離するという言葉から来たと言われています。「あいつらと違って、俺たちは聖いんだ」と、罪人や汚れた人たちから離れていたわけです。ユダヤで一緒に食事をするということは、共に1つになるという意味ですから、彼らは絶対、そういう人たちとは食事をしませんでした。しかし、イエス様は彼らと食事を共にし、ある人たちから「大酒飲みの友人」とまで馬鹿にされました。イエス様はだれよりも聖いお方でした。しかし、不思議なことに、取税人や罪人たちが気楽にイエス様のところに来ることができました。日本では、聖さを強調する教団がありますが、どこかパリサイ派に似ています。「自分たちは聖い。あんたらとは違う。寄らば、切るぞ!」みたいな、ところがあります。イエス様はだれよりも聖いお方でしたが、だれでも容易に近づくことができました。本当の聖さとはとは、そういうところにあるのかもしれません。
イエス様はパリサイ派の人たちに言いました。マルコ2:17、イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様は、ここで分かりやすい比喩を話されました。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。病人は自分が病気だということを知って、「ああ、医者のところに行かなければ」と思ってやって来ます。丈夫な人あるいは、病気に気づいていない人は、医者のところに決して行きません。実際は病気なんだけれど、本人は「俺は健康だ!」と思っている人も医者には行かないですね。これを正しい人と罪人にたとえるとどうなるでしょうか。正しい人は救い主を必要としません。「ああー、自分は罪人だ」と分かる人は、救い主を求めてやって来ます。でも、どうでしょうか?パリサイ派の人たちは、「自分は正しい、罪なんかない」と思っていたのです。でも、実際は罪があることを気づいていないのかもしれません。イエス様は思いっきり、皮肉を言っているんじゃないでしょうか。イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。取税人や罪人たちは、「自分には罪があるので、イエス様が必要だ」と思っていたので、イエス様のところにやって来ました。それを、イエス様は「お前らは罪があるので、汚らわしい」とは言わないで、むしろ、彼らを歓迎したのであります。じゃあ、一緒に交わることによって、イエス様の聖さが汚されてしまうのでしょうか?そうではありません。イエス様の聖さが、彼らの罪に打ち勝って、彼らの方が聖くなるのです。これが、イエス様の聖さです。罪に打ち勝ち、罪を洗いきよめる聖さです。ハレルヤ!これは、イエス様にしかできません。
あなたは「自分は正しい、イエス様なしにやって行ける」と思っているでしょうか。そういう人にとってイエス様は不必要であります。逆に「私は罪人です。イエス様なしではやって行けません」と思っているなら、イエス様はあなたを大歓迎なされます。イエス様がこの世に来られた使命は、人々の罪を負い、その罪を贖うためでありました。あなたはイエス様が必要ですか?それとも「間に合っています!」と断るでしょうか。日本人の多くは、「結構です。間に合っています」と答えるでしょう。なぜなら、「自分はまんざら悪くもない」と思っているからです。イエス様は、正しい人ではなく、罪人を招くために来られました。先週、教会は天国の出張所であると申し上げました。教会は人々の罪の赦しを宣言し、その信仰告白を認めるところです。教会が認めたなら、それは、天国でも認められるのです。たいていの教会の入り口は「どなたでも、歓迎します!」と書いてあります。でも、下の方に小さく、見えない字で、こう書いてあるのかもしれません。「イエス様は罪人を歓迎しましたが、刑に服しているような本当の罪人は困ります。すぐ自分の罪を悔い改める、やや罪人を歓迎します」。わー。私たちクリスチャンは知らぬ間に、パリサイ派の人たちになってしまいます。あわれみの心を忘れ、律法でさばいてしまうのです。イエス様は歓迎しても、私たち教会が、嫌がるのです。実際、パウロという人物は、キリストに出会って、劇的な回心をしました。しかし、教会はパウロを怖がって、迎えようとしなかったのであります。これが、私たちの弱さであります。
イエス様は「自分の罪を聖めてからいらっしゃい」と言ったのではありません。また、イエス様は「お酒をやめてからいらっしゃい」「悪い癖を直してからいらっしゃい」と言ったのでもありません。また、イエス様は「洗礼を受けて最後まで従う気持ちがあるなら、いらっしゃい」と条件をつけたのでもありません。イエス様は「罪あるままで、そのままで良いから、いらっしゃい」と招いておられるのです。イエス様の招きは無条件であります。ただし、1つだけ条件があります。「自分には罪があり、イエス様なしではやってゆけない」という心があるかどうかです。イエス様以外にも、解決があると思う人は、招かれても来ないでしょう。イエス様にとって、大きな罪も小さな罪も問題ありません。イエス様にとって、救えないような、大きすぎる罪はないのです。紡績工場の話です。昔、多くの女性たちが、紡績工場で働いていました。ある女性は機械に糸が絡んでしまったので、自分で部品をはずして、直そうとしました。でも、よけいに糸が絡まり、最後に収集がつかなくなりました。その後、技術者を呼びました。彼女は「私は一生懸命、やってみたけれど、うまくいきませんでした」と言いました。技術者は彼女に言いました。「あなたがやるべきことは、機械の修理ではなく、私を呼ぶことでした」。罪を解決できる専門家は、だれでしょう?十字架にかかり、あなたの罪のために死なれた主イエス・キリストしかおられません。イエス様は「あなたの罪は赦されました」と言える権威のある方です。神様ですから、人の罪を赦すことがおできになります。でも、みなさん、神様がなんでもかんでも「赦すよ」と言ったら、神様じゃありません。神様は義なる方ですから、罪であるなら裁かなければならないのです。神様の前には、どんな小さな罪でも、罪は罪です。ただで赦すわけにはいきません。罪を赦すためには、代価が必要なのです。旧約時代は、そのため、羊、ヤギ、牛などのきよい動物をいけにえとして捧げました。動物を自分の身代わりとして差出し、その命である血を注ぐことによって、罪が赦されたのです。新約時代はどうなったでしょう。イエス・キリストが神の仔羊として、来られました。イエス様が「あなたの罪を赦すよ」と言った背後には、イエス様が罪の身代わりになるという根拠があったのです。父なる神様は、イエス様の贖いによって、あなたの罪をただで赦すのです。ある人が、「ああ、私は結構です。イエス・キリストは不要です」と言ったとします。その人は、終わりの日、イエス様なしで、神様の前に立つしかないのです。その人がいくら自分で「正しい」と言っても、神様の義にはかないません。神様の義が太陽だとしたら、人間の正しさはほたるの光みたいなものです。ぜんぜん、かないません。では、どうしたら良いのでしょう。イエス様の義をもらえば良いのです。義という漢字は、羊の下に我と書きます。羊がいなければ、我という罪ある人です。でも、罪ある人が、神の仔羊なるイエス様をいだくならどうでしょう。神様の目から見たら、「あなたは義です。罪はない」と見られるのです。ハレルヤ!
今も、イエス様は両手を広げて、あなたを待っておられます。罪あるままで、汚れたままで良いのです。よく、見ると、イエス様の両手には、釘跡があります。十字架にかかられたしるしです。Come!イエス様は、あなたを招いておられます。イエス様のもとに行きましょう。Follow Him.
イエス様に従っていきましょう。