2006.11.26 新しい皮袋 マルコ2:18-28

先週は福澤先生をお招きして特別伝道礼拝がもたれました。数えてみたら、12年ぶりでした。先生は、「死ぬ前に、また呼んでくださいよ」と言われました。やはり、伝道者をたまにお呼びしないとダメですね。十字架の意味とか、救いの大切さが鮮明にさせられます。説教を聞いて、涙をながした、なんて久しぶりじゃないでしょうか?食事で言いますと、先週のは、ごちそうでしたが、本日は、いつもの定食であります。いつもごちそうを食べていますと、カロリーオーバーになって、メタボリック・シンドロームになります。ですから、本日は30分でいただける、健康食になっています。

1.新しい皮袋とは

 イエス様は、短い2つのたとえを話されました。最初は、「新しい布切れで古い着物の継ぎ当てはしない」ということです。今はそんな人はいませんが、昔は継ぎ当てをするのが当たり前でした。私も子供のとき、ひじとか、ひざなんか、継ぎ当てしたものを着ていました。また、イエス様の時代の生地は、今と違って、質のよいものでありませんでした。最初、洗うとぎゅっと縮み、着ているうちに伸びてくるというものでした。ジーンズも最初洗うと、一旦縮みます。それから、だんだん伸びてははきやすくなります。もし、古い着物に新しい布切れを継ぎ当てしたらどうなるでしょう。最初はいいんですが、洗うと新しい布切れが縮んで、古い着物を引き裂いてしまいます。新しい布切れは、伸縮性があるので、古い着物の継ぎ当てには合わないということです。もう1つは、「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れない」ということです。昔は羊やヤギの中身を取って、まるごと皮の袋にしました。そこに水やぶどう酒を入れたわけです。先日、ボジョレー・ヌーヴォーが解禁になったようです。飲んだことはありませんが、すこし炭酸が入っているようです。新しいぶどう酒は、まだ発酵中であります。もしこれを堅くて古い皮袋に入れたらどうなるでしょうか。もう、パンパンになって、古い皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もダメになります。新しいぶどう酒は、やわらかくて伸縮自在な新しい皮袋に入れるべきであります。しかし、イエス様は継ぎ当ての仕方とか、ぶどう酒の保管の仕方について教えているわけではありません。これは、たとえですから、本当の意味があるはずです。

 マルコ2章の後半を見ますと、断食や安息日のことが書いてあります。当時は、さまざまな宗教的な義務があり、細かい決まりごともありました。日本でも仏教や神道の儀式で、何回おじぎをするとか、順番はどうするんだとかというきまりがあります。宗教というのは、ややもすると、慣例とか作法が中心になり、その中にある精神が失われがちであります。断食は、食を断ってまでも、神様の御声を聞こうとするすばらしい行為であります。人生の岐路に立たされ、決断を要するときには、断食して祈ると神様のみこころがよくわかります。でも、当時は断食することが1つの習慣になっていたようです。断食は神様に近づき、御声を聞く良い時です。でも、ユダヤ教徒たちが「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか?」と文句を言いました。それに対してイエス様は、19節で、「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです」と言われました。さきほど、断食は、神様の御声を聞くためにあると申し上げましたが、弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様が彼らの真ん中におられたので、何かあれば「主よ、助けてください!」と求めることができたのです。でも、やがてイエス様が取り去られた時は、弟子たちは断食して祈り求めました。安息日の規定もそうであります、安息日を定められた三位一体の神様が共におられました。だから、安息日の主に、「してよいことと、してはならないこと」を聞くことができたのです。ユダヤ教徒たちは断食や安息日、いろいろな宗教的な義務は果たしていたかもしれませんが、その精神を失っていたのです。宗教的な儀式は数を重ねていくうちに、新鮮味がなくなります。やがては、1つの型となり、「神様に近づく方法はこれしかない」と固執するようになります。さらに、そのようにしていない人たちをさばくんです。「どうして彼らは断食しないのですか?」「どうして彼らは安息日を破っているのですか?」これは、あきらかに、宗教的な高慢であります。

 キリスト教会はペンテコステ以来、新しいぶどう酒を保持してきました。新しいぶどう酒とは、福音の喜び、聖霊の働き、神様の豊かな臨在と言うことができます。一方、皮袋はそれを入れる入れ物です。教会では、それを「恵みの手段」と呼んでいます。私たちは、目に見えない霊なる神様に近づくときにどのようなことをするでしょうか?まず、賛美をします。でも、どんな賛美をするでしょうか?中世の初めは、グレゴリーチャントを歌っていました。やがて、コラール、讃美歌・聖歌、ワーシップソングと、時代とともに変わります。また、聖書の訳も時代と共に変わります。中世はヴルガータというラテン語訳しかありませんした。やがてキングジェームス訳が現われ、分かりやすい日本語で読めるようになりました。お祈りも中世は聖職者だけが祈ったり、祈祷文を使っていました。今では、聖霊によって自由に祈ることが主流になっています。一番問題になるのは、礼拝形式であります。中世のミサは、聖職者による格式ばった礼拝でした。しかし、宗教改革以降、会衆参加型の祭典的な礼拝になりました。教会では、他に祈祷会、早天祈祷会、断食祈祷会、リバイバル聖会など、たくさんの集会があります。賛美や聖書、礼拝形式、さまざまな集会は、みんな皮袋、入れ物であります。でも、どうでしょうか?あるとき、そのやり方で主の臨在があった。聖霊様がものすごく働いた。私たちも喜びに満たされた。すると、そのやり方が定着していきます。何十年、何百年もやっていると、もう「これしかない!」と独善的になり、そうしていない人たちや教会をさばくのです。みなさん、これは宗教の霊であります。宗教の霊は、自分たちの手段を神格化して、神様をその型にあてはめようとします。「神様、この形をしているんですから、来て働いてください」と、要求するのです。同時のユダヤ教は、まさしくそういう状態でした。古い皮袋では、イエス様の福音、聖霊の働き、神様の豊かな臨在を受け入れることができなかったのです。

 私はホーリネスの神学校に2年ほど通っていました。そこでは、毎週、金曜日リバイバル祷告会というのがありました。有志の男性たちが、学院の二階に集まります。二階座敷が良いんです。ペンテコステの日、二階座敷に聖霊が下ったからです。私の同室の先輩が、その会をリードしていたので、出ないわけには行きませんでした。学生たちは手拍子を打ち鳴らし、声を張り上げて聖歌を歌いました。お祈りの仕方も、ひざに手をこすりながら「あー神様。アーメン。そのとおりです。ハレルヤ!」、手をパチンとならしながらやります。これは、昭和5年頃、リバイバルが起きたころのスタイルをまねているわけです。その当時は、大声をあげ、手を打ち鳴らしてお祈りしました。その形だけが、学院の中に残っているわけです。これはホーリネスだけでなく、右から左まで、ペンテコステ派から改革派まであります。改革派はリフォームドと言って、「絶えず改革していく」という意味があります。しかし、宗教改革時代の型を変えることができないでいます。みなさんは腕組みするときにどうやるでしょうか。これを逆にやるとどうなるでしょうか?なんか自分の腕じゃないような気がします。また、お祈りのとき組む手はどうするでしょうか。右と左の上下を変えるとどうでしょうか?なんか自分の手じゃないように感じますね。これは、宗教の霊です。一旦、身につくと、「これしかない」と思うようになるのです。

サドルバック教会のリック・ウォレン牧師は、教会でどういう音楽を用いるか、これが一番難しいと言いました。伝統的な讃美歌かそれともコンテンポラリーな曲か?選ぶ曲によって、教会に来る年齢層が左右されてしまうということです。リック・ウォレン師は、サドルバック教会がターゲットとする年齢層を30代半ばの中流階級に絞りました。彼は「みんなに合わせるために、いろいろなジャンルの音楽を混ぜると、みんなが気持ち悪くなる。だから、いずれかのジャンルに選ぶ必要がある」と言いました。日本の教会は「みんな」という言葉に弱いですね。みんなに合わせようとします。大型のデパートだったら、豊富な品を揃えてあるので、いろんなお客さんに合わせることができます。しかし、小さな小売店が生き残るためにはどうしたら良いでしょうか。店が狭いんですから、どれを専門に売るか、どのような消費者を対象にするか決めなければなりません。これをマーケティングでは「差別化」と言います。大和キリスト教会は別ですが、日本の教会はほとんど小売店のようなサイズです。すべての人のニーズに合わせるために、何でもかんでもできるわけがありません。全部をやったら、全部がだめになります。ですから、自分たちの信仰と賜物と人員によって、どういう人を伝道していくか決めなければならないのです。私はリック・ウォレン師の考えを取り入れ、ゴスペルに来る若者をターゲットにしぼって、賛美も礼拝形式も変えました。そのとたん、礼拝の途中で帰る人も出ました。私は「日本で教会が生き残るために差別化をしなければならない」と思っています。日本の教会は、ますます高齢化が進んでいます。先週、福澤先生がおっしゃっておりました。昨年のプロテスタント教会の統計ですが、受洗者が1年で1教会平均1.14人。受洗者0の教会が全体の65%。牧師も高齢化が進み、牧師の平均年齢が64歳。信徒の年齢は50歳以上が70%。牧師は年間で100名リタイヤしています。牧師のいない教会がますます増えてくるということです。日本キリスト教団は、高齢化と無牧の教会が一番顕著です。すごいですね。これから、教会の生き残り、サバイバルが激しくなります。神の教会だから、人数は関係ないと甘ったれたこと言っておられません。教会そのものがなくなるんです。ですから教会は、若者たちが救われるように、皮袋をたえず変えていく必要があります。私たちはだまっていても天国に行けます。でも、日本は、99%が救われていないのです。多少、賛美がうるさくても、若い人が救われて教会を盛り立てていくなら、喜ぶべきではないでしょうか。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきなのです。クリスチャンを何十年もやっていますと、皮袋が堅くなります。新しい皮袋とは、柔軟であることです。主の前に、柔らかい、教えられやすい心です。

2.新しいぶどう酒を入れるために

 みなさん、新しい皮袋も大切ですが、新しいぶどう酒の方がもっと大切です。皮袋とは、さまざまな手段であります。そして、ぶどう酒は本質であります。いくら、皮袋を新しくしても、中身がなければ、それは絵に描いた餅であります。私は1990年から小牧者訓練会の弟子訓練を教会に取り入れました。そして、1995年からセル教会に変えていきました。セルというのは、セルチャーチ・ムーブメントで、信徒が主体で動く教会です。これまでは、教会はピラミッド型で動いてきました。さまざまな違いはありますが、監督や牧師、あるいは長老会が、教会を動かしてきたのです。ある教会は、教団や伝統、あるいは行事やプログラムによって動かされています。しかし、教会を動かすのはかしなるキリストであり、聖霊様であります。でも、日本のある教会は、カルト化して、特別な霊の器が牛じるということが行われています。でも、教会の主体は信徒であり、それを動かす聖霊様であります。そういうことで、私はセルチャーチこそ、本当の教会だと意気込んで、10年余り進んでまいりました。セルチャーチは中国や南米のボコダ、シンガポール、インドネシアに栄えています。最近は台湾、香港、タイ、オーストラリアにも頭角を現しはじめました。今から6年前、インドネシアのエディ・レオ師と出会い、「ああ、これこそ教会の本質だ。これこそ教会の使命だ」と分かりました。そして、聖書的な教会に近づけば、近づくほど、セルチャーチしかないなと思うようになりました。

では、教会の本質的なものって何なのでしょうか。何があれば教会なのでしょうか。教会は建物ではありません。ヨーロッパの教会のほとんどは、観光地になっています。インドネシアの教会は1999年、たくさんの教会が焼き討ちにあいました。それまでは教派教団で争っていましたが、建物が焼けて、一緒に集まるようになりました。教会は牧師が必要でしょうか?中国の教会は、牧師のいない教会がたくさんあります。あるところは、聖書も讃美歌もありません。それでも、教会はのびています。教会はたくさんのプログラムを行っています。こういう週報も必要でしょうか?松戸の岡野先生は、教会を大きくするため、たくさんのプログラムをやりました。映画会、英会話、クッキング、音楽会、特別講演会…でも、ぜんぶやめたそうです。1990年、やめたというか、信徒が誰も来なくなり、教会がつぶれたわけです。それからは、家ではじめました。講壇もなくて、こたつで始めたんです。週報も刷りません。でも、今、すごいです。特別なことをしていないのに、家族ごと救われているそうです。教会という名前ではなく、「グレース・ホーム」(恵みの家)にしています。岡野師は2つのことを強調します。第一はイエス様の弟子として生きること。第二は家族として互いに愛し合うこと。ものすごくシンプルです。教会にはいろんな伝統とか制度があります。しかし、それがいつの間にか、手かせ足かせになって、キリストの御声を聞こえなくさせています。私は教団が聖書的であるとは思っていません。聖書のどこに、教団を作ることを勧めている箇所があるでしょうか。イエス様の頃、パリサイ派やサドカイ派、エッセネ派という教団がありました。イエス様はそういう人たちを嫌いました。むしろ、「恐れるな。小さな群れよ」と少数の弟子たちを大切にされました。教会の最小単位は、「二人、三人であります」。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と約束されているとおりです。教会はあまりにも、この世的になり、すべてを複雑化してしまいました。制度も複雑、講義も複雑、組織も複雑、儀式も複雑化して、肝心の聖霊様を締め出しています。反対に、自分たちが決めたものに、聖霊様を押し込めようとしています。私は、教会という入れ物をもっと本質的なものにしたら、新しいぶどう酒があふれ流れてくると思います。

セル教会をはじめた当初は、初代教会こそが理想の教会だと思っていました。しかし、エディ・レオやベン・ウォンと出会ってから、いや、そうではないと思うようになりました。教会の原点は創世記にあったのです。聖書はマタイによる福音書が最初ではなく、創世記が最初です。ハレルヤ!創世記1:27,28「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」。なんと、教会のはじめは、神様ご自身にあったのです。神様は人をご自身のかたちに創造されたとあります。神様のかたちとは何でしょうか?ここに私たちクリスチャンが個人として、また集団として、生きるべき鍵がしめされています。もし、私たちが神のかたちを回復するならば、そこに新しいぶどう酒が注ぎ込まれると信じます。新しいぶどう酒とは、イエス様の福音、聖霊の働き、神様の豊かな臨在であります。新しいぶどう酒を入れるための第一番目は何でしょうか?神様のかたちを具体的に現されたのは、イエス・キリスト様であります。イエス様は私を見たものは父を見たのと同じだと言われました。ですから、私たちクリスチャンがイエス様の似姿に似ることが重要であります。しかし、イエス様の品性を真似るということはとても困難です。私たちは人の罪を7の70倍も赦すことはできません。2回か3回が限度です。でも、イエス様のライフスタイルを真似ることはできます。イエス様のライフスタイルを真似ていくうちに、イエス様に似た者となっていくのです。そのために、私たちは上との親しい関係を求めなければなりません。上とは、父なる神様、イエス様、聖霊様であります。

 新しいぶどう酒を入れるための第二番目は何でしょう?神様のかたちとは何でしょう。神様は父・子・聖霊の三位一体の神様です。父と子と聖霊が互いに愛し合って1つになっています。これが教会のプロト・タイプ、原型であります。神様はご自身のかたちに似せて、男と女とに彼らを創造された。「男と女」って何でしょう?私は家族だと思います。家族という共同体こそが、教会のあるべき姿だということです。家族は会社ではありません。何ができるとかできないかではなく、存在そのものを受け入れて愛します。教会は会社ではありません。団塊の時代の牧師たちは、会社と同じように教会を大きくしようと頑張ってきました。そうではありません。神様ご自身が互いに愛し合うかたちをもっておられます。もし、私たちが互いに愛し合うなら、そこに神様が「ああ、これは私が好むかたちだ」と、来てくださいます。パウロはコロサイ1:27で「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。「あなたがたの中」とは、個人個人という意味ではなく、「あなたがたの間に」という意味です。私たちの間におられる、イエス様が栄光の望みなのです。

 新しいぶどう酒を入れるための第三番目は何でしょう?神様は創世記で「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」とお命じになられました。それは、ご自身のかたちを増やせよ、ということです。それは、イエス様のかたちを増殖させていくということです。神様は「外に向かって、宣教の働きを進め、この地を支配せよ」とおっしゃるのです。マタイ28章でイエス様はお命じになられました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。イエス様のかたちを増殖するとは、イエス様の弟子を作るということです。まず、自分がイエス様の弟子になります。さらに次の人に、バプテスマを授け、すべてのことを教え弟子にします。それで終わりではありません。次の人が、新しい弟子を作るまで見届けるのです。自分の子供ではなく、孫ができるなら、本当の父です。みなさん、父になりましょう。男性も女性も、霊的な子供を育てる霊的な父になりましょう。私たちがこの3つのことにフォーカスしていくとき、3つのことを目指すとき、私たちは新しいぶどう酒をもる皮袋になることができるのです。第一は自らがキリストに似た者になること。第二は家族のような共同体を作ること。第三は神のかたちを増殖させること、すなわち弟子を作ることです。