きょうから、しばらくマルコによる福音書から連続して学んでいきたいと思います。マルコの1章の前半は、バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授け、またイエス様ご自身も洗礼受けた箇所です。きょうはこのところで、洗礼式があるのですから、神様のご計画としか言いようがありません。神様は一人の魂をも軽んじられないお方です。ですから、洗礼式の日と洗礼のメッセージが重なったわけであります。ハレルヤ!きょうは、洗礼にはどのような意味があるのか、3つのポイントでお話したいと思います。
1.罪の赦しのバプテスマ
バプテスマ(洗礼)の第一の意味は、罪の赦しであります。4、5節「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いたそこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」。旧約聖書には、祭司たちが奉仕をするとき水によってからだをきよめたという記事があります。しかし、水によって罪がきよめられるという記事は1つもありません。人の罪をきよめるのは、きよい動物の血でありました。肉のいのちは血にあり、罪は血によってでしかあがなわれることはありません。水をかける、あるいは水に浸すということは、血によって罪がきよめられたということの象徴ではないかと思います。イザヤ書1:18「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」。緋色、つまり赤の色は、一度、染めたらなかなか落ちないそうです。人間の罪も水で洗って、きれいさっぱり忘れられるということはありません。なかなか落ちない、緋のような、紅のような罪をどのように取り除くことができるのでしょうか。それは逆説的ですが、キリストの血が注がれることによって、消え去るのです。キリストの血が罪あるあなたを覆い隠し、罪がどこにあるか判らなくなるのです。そして、神様から見たなら、あなたは雪のように、羊の毛のように潔白な人になることができるのです。これは人がキリストによって、義と認められることと同じであります。
私たちはこのときに、罪を告白する、つまり罪を悔い改める必要があります。私は大川先生から勧められ、洗礼を受ける前の週、これまで犯した罪をレポート用紙に書き連ねました。行商屋のおばさんからソーセージを盗んだこと。兄の貯金箱を盗んで、それを山の上で壊して、お菓子を買ったこと。まあ、小さな罪から大きな罪まで、思い出す限り書きました。なんと、レポート用紙3枚にもなりました。それを、土曜日の夜、告白し、日曜日の朝、川原でその紙を燃やしました。でも、本当に罪がわかったのは、洗礼を受けてクリスチャンになった後であります。今は、そういうことを人には勧めていません。では、洗礼を受ける前にどんな罪を告白し、どんな罪を悔い改める必要があるのでしょうか?それは、自分が犯した個々の罪ではありません。あなたが神の前で罪人であることを告白することなんです。つまり、私は「部分的ではなく、丸ごと罪人です。頭からつまさきまで不完全な罪人です」ということを認めることなのです。では、悔い改めとはどういうことでしょうか。悔い改めは、ギリシヤ語ではメタノイアーと言います。この語には罪を懺悔するという意味はありません。そうではなく、方向転換、change of mindであります。思いを変える、心を変えるという意味であります。どんなふうに思いを変えるのでしょうか?「私は今までは神を信じない罪人でした。でも、これからは神を信じて従います」ということなのです。自分が罪人であることを認めず、神様を求めない人には、洗礼はさずけられません。どうでしょうか?きょう洗礼を受けられる方々にお聞きします。「あなたは罪人ですか?そして神様を必要としますか?」。アーメン。きょうの洗礼式は、洗濯で言うと、罪人の丸洗いです。丸洗いしたあと、しみや汚れがあるかもしれません。1つ1つの罪は、今後、洗礼を受けてからなさってください。それは根気のいる作業です。自分ひとりで神様の前に告白して解放されるものもありますが、ときには信頼のおける人に罪を告白しなければならないときもあります。特に悪習慣などのこびりついた罪は、どうしても人の力も必要です。でも、きょうは、丸洗いですから、ご安心ください。私はイエス・キリストの御名によって、あなたの罪は赦されましたと宣言します。あなたは今日限り、罪人から義人になるのです。なぜなら、キリストの血があなたの罪を洗い流し、キリストの血であなたの罪が覆われたからです。オーハッピイ・ディという歌がありますが、まさしく、イエス様があなたの罪を洗い流してくださったのです。
2.生まれ変わりのバプテスマ
バプテスマ(洗礼)の第二の意味は、生まれ変わりであります。これはヨハネのバステスマにはないことです。これは、イエス・キリストの御名によるバプテスマであります。このことは、ローマ6章に書いてあります。パウロはローマ6:3で「キリストにつくバプテスマを受けた私たちは、みな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」と言いました。キリストにつくバプテスマとはどういう意味でしょうか。それは、キリストにもぐりこみ、キリストと一体になるということです。ギリシヤ語のバプテゾーという動詞は「浸す」とか「浸る」という意味であります。ですから、バプテスト派の教会は、洗礼とは頭までどっぷっりと水に浸すことなんだと主張します。それも間違いではないと思います。しかし、本当の意味は、キリストの中にどっぷり入り込むということであります。どういう意味かと申しますと、キリストと一体化するということです。さらに、ローマ6:5-7をお読みいたします。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
つまりこういうことであります。私たちがキリストの中に入るとき、時間を越えて、キリストと同じ様なことが起こります。キリストが死なれたとき私たちも一緒に死んだのです。パウロはそれは私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて死んだんだと言います。古い人とは罪の性質をもっている生まれながらの人であります。生まれながらの古い人は、改善不可能です。十字架に行って死ぬしかありません。だれでも、キリストにつくバプテスマを受けた人は、古い人に一度死んだのであります。それからキリストは3日目によみがえられました。そのとき、私たちもキリストと共によみがえったのです。罪のからだが滅び、あなたは新しい人になったのです。あなたは新しく生まれることによって、罪から解放されたのです。つまり、バプテスマとは、キリストの死と復活にあずかることなのです。ハレルヤ!キリスト教は生まれ変わりの宗教です。人は教育や修行によってだんだん良くなるのではありません。一度死んで、新たに生まれ変わるのです。森の石松は「馬鹿は死ななけりゃなおらない」と歌いました。私たちも一度、古い人に死ななければなりません。実際に死ぬと終わりですが、キリストにつくバプテスマは、それを可能にするのです。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。キリストによるバプテスマを受けた人は、前の人ではありません。一度、死んで、生まれ変わった存在なのです。
私は高校生のとき自分が大嫌いでした。自分で自分を変えたいとも思いました。しかし、自分の意思で自分を変えるということは不可能です。でも、イエス・キリストはそれを可能にしました。キリストにつくバプテスマは、古いあなたを死なせ、新しいあなたに生まれ変わらせるのです。もう、以前のあなたではないのです。私たちがよく飲む1リットルの牛乳があります。パックの裏には、200度で2秒間殺菌したと書いてあります。どうやってやるのか分かりません。おそらく、あの牛乳は2秒間の間に一度死んで、新しくなったんでしょう。バプテスマも同じです。あなたも、一度、死んで、生まれ変わるのです。神学では、それを不連続の連続と言います。あなたの生命というか人生が一度、遮断されたのです。そして、あなたの新しい人生が新たに始まったのです。でも、これまで生きてきた古い記憶は残っています。別人になったわけではありません。では、何が変わったのでしょうか。あなたの性質が変わったのです。昔、アメリカで禁酒法というのがありました。「もう、酒を造っちゃいかん!」という法律ができ、お酒を造る工場とう工場が取り壊されました。しかし、人々は樽とかビンにお酒を入れて、床下や屋根裏に隠しておいたのです。それを空けてはちょびちょび飲んでいました。でも、酒蔵や酒の工場が壊されたので、酒がなくなるのは時間の問題でした。それと同じように、キリストにつくバプテスマを受けた人は、罪を生産する工場が壊されたのです。でも、酒瓶や樽が体の中に隠されています。聖書はそれを肉と呼んでいます。でも、すばらしいことが起きました。罪を生産する工場が壊されたのですから、あなたが変わるのは時間の問題です。あなたはきよめられるのです。栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられていくのです。
でも、中には「私はイエス様は信じるけど、バプテスマ(洗礼)は受けないよ」という人がたまにいます。交通事故とか病気で余命いくばくもない人なら別ですが、命がまだある人はバプテスマを受けなければなりません。これは主の命令であり、恵みだからです。もし、イエス様を信じた人がバプテスマを受けなければどうなるでしょうか。そうすると、その人の古い人が、新しい人を飲み込んでしまうことになります。昔、ローマの時代、十字架の次に恐ろしい死刑の方法がありました。それは、死んだ人を生きた人に抱き合わせるという方法でした。ある人がだれかを殺したとします。死体を持ってきて犯罪人の顔と顔を向かい合わせて、ロープで縛ります。片方の体は死んで腐乱しています。片方はまだ生きています。さて、問題です。生きた人の命が、死んだ人の中に入って、死人を生かすでしょうか。それとも、死んだ人の死の毒が、生きている人の体に入って、生きた人を死なすでしょうか。もちろん、死の力が強いのです。犯罪人はやがて死ぬのです。イエス様を信じますと言いながら、バプテスマを受けない人にも同じことが起こります。バプテスマによって古い人が処理されていないので、古い人の罪の力が、その人を支配するのです。古い人にはそれだけの破壊力があります。だから、イエス様を信じた人は、洗礼を受けなければならないのです。あなたが、一度、死んだならば、罪のからだは滅び、罪の奴隷ではなくなるのです。
3.聖霊のバプテスマ
マルコ1:8「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」その方とはだれでしょうか?はい、イエス・キリストです。それでは、イエス・キリストはいつ人々に、聖霊のバプテスマをお授けになられたでしょうか。イエス様はこの地上におられたときは、聖霊のバプテスマを授けることができませんでした。弟子たちに、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言いましたけど、その時ではありません。イエス様が人々に、聖霊のバプテスマを授けたのは、ご自身が天にお帰りになった後であります。使徒2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」。そうです。天にお帰りになられたイエス様が父のみもとから、聖霊をこの地上にお注ぎになったのです。そのことが実際に起きたのは、2000年前のペンテコステの日であります。すばらしいことに、2000年前から、イエス様を信じる者には、聖霊のバプテスマが与えられるようになったのです。水のバプテスマも確かに必要です。でも、もっと受けなければならないのは、聖霊のバプテスマであります。バプテスト教会は、水のバプテスマをものすごく強調します。それも大切ですが、もっと大切なのは、聖霊のバプテスマであります。では、どのようにしたら、聖霊のバプテスマを受けられるのでしょうか。
そのヒントは使徒19章にあります。パウロがエペソに来たとき教会の信者たちに尋ねました。使徒19:2-6「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。ここには不思議な現象があります。エペソの人たちは、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。罪の赦しのバプテスマです。ペンテコステの日から、おそらく20年以上たっていたことでしょう。でも、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていなかった。そのため、聖霊が与えられていなかったのです。でも、どうでしょうか。彼らが、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。そして、パウロが手を置くと異言を語ったり、預言をしました。彼らに聖霊の賜物が現れたのです。これを分析するとどうなるでしょうか。エペソの人たちが主イエスの御名によってバプテスマを受けたときに、彼らは聖霊のバプテスマを受けたのです。彼らの内に聖霊が入ったのであります。これは、以前、私たちが学んだ、ギリシヤ語ではエン、英語ではINであります。内側に聖霊が宿ったのです。でも、こんど使徒パウロが按手したら、聖霊が上から臨んだのであります。これはギリシヤ語では、エピ、英語ではUPONであります。パウロが按手したので、彼らは聖霊に満たされ、その結果として、異言や預言を語ったのです。
ペンテコステ派は、「異言や預言を伴うものが、聖霊を受けたしるし、すなわち聖霊のバプテスマである」と言います。しかし、私はそうは思いません。聖霊のバプテスマとは聖霊を内側にいただくことであり、ペンテコステの日、以来、だれにでも起こることである。つまり、主イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることには、聖霊を受けることが含まれているということです。ヨハネのバプテスマを受けただけでは、聖霊を受けることはできません。でも、イエス様が天にお帰りになり、ペンテコステの日、天から聖霊を地上に注がれました。それ以来、イエスの御名によって、バプテスマを受けるなら、罪のゆるしばかりか、付録として聖霊も一緒に受ける権利が与えられるということです。では、異言や預言は何なのでしょうか。それは、聖霊が上から臨み、聖霊に満たされたときに起こるものであります。一人で祈っていてそうなる人もいます。でも、一番、手っ取り早いのは、預言者や使徒的な人から按手してもらった時です。よくパウロは手を置いています。テモテにも霊的賜物が与えられるように手を置いています。でも、私は聖霊のバプテスマ、イコール、異言や預言とは考えません。そういう目に見えるしるしばかり求めると罠にはまります。だれでもイエス様を信じる者は、つまりイエスの御名によってバプテスマを受ける者は、内側に聖霊を受けることができるのです。これがイエス様が与えるといわれた、聖霊のバプテスマです。でも、みなさん、聖霊の満たしを経験し、御霊の賜物を求めることも忘れてはいけません。
先月、私はインドネシアに行ってまいりました。そのとき、バプテスマの講義を受けたのちに、87名の人が実際に水のバプテスマを受けました。すごかったですね。それから昼ごはんを食べ、午後の集会がはじまりました。午後、何があったかと言いますと、聖霊の満たしを受け、御霊の賜物を現すときを持ったのです。エディ・レオがこのように言いました。「あなたがイエス・キリストを信じたとき、すでに心の中に聖霊を受けたのです。聖霊が私たちの心にすでにおられることを信じましょう。聖霊は私たちが完全に神のものとなったということの証印です。さらに、神様はあなたを聖霊で満たしたいと願っておられます。そのためには、2つのことが必要です。第一は満たしてくださるように明け渡すことです。第二は、信仰をもって心の蛇口を開くことです。」つまりこういうことなんです。イエス様を信じた人にはすでに聖霊が宿っています。聖霊はあふれたいのです。あなたが心の蛇口を開くなら、聖霊の賜物があふれてきます。インドネシアではそのとき95%以上の人に異言が出てくるそうです。すごいですね。
しかし、きょうはバプテスマ、洗礼式ですから、聖霊の賜物まで行かなくても結構です。最後におさらいをいたしましょう。バプテスマにはどのような意味があったでしょうか。第一は、罪のゆるしです。バプテスマによって、あなたの罪が洗いきよめられるのです。でもそれは、キリストの血によってです。キリストの血があなたの罪を洗いきよめるのです。罪のゆるしを信仰によって受け取りましょう。第二は、古い人に死んで新しく生まれ変わることです。あなたは信仰によって、キリストの内にもぐりこむのです。もぐりこんだだけで、あなたはキリストの死とキリストの復活を経験します。キリスト・イエスにつくバプテスマを受ける者は、古い人は一度死んで、あなたは新しい存在になるのです。洗礼を受ける人に言います。「古い人はきょうでおさらばです。あなたは新しい存在になれるのです」。第三は、主イエスの御名によるバプテスマは、聖霊のバプテスマを受ける権利を得ます。洗礼を受けることによって、あなたは神様のものとなります。そのとき、神様はあなたに聖霊による証印を与えてくださいます。それはイコール、聖霊があなたの内にお住みになるということです。神様は天にもおられますが、同時にあなたの内にもおられるのです。ハレルヤ!聖霊があなたの内に住んでおられるなら、今度は聖霊に満たされ、聖霊の賜物が現れるように求めましょう。神様はあなたの目が見たこともない、耳が聞いたこともないようなすばらしい体験を備えておられます。