2006.10.22 神の国の福音 マルコ1:12-31

福音とは、グッド・ニュース、喜びの訪れという意味です。ギリシヤ語では、エゥアンゲリオンと言いますが、元来、戦争で勝ったという知らせであります。当時は戦争で勝つと負けるのでは天と地の違いでした。もし、兵士たちが戦争で負けたなら、町はのっとられ、市民はみんな奴隷になってしまいます。でも、勝ったならば、その国の領土と領民、すべてのものが自分たちのものになります。昔、マラトンの戦いというのがありました。アテネ軍とペルシア軍が戦いました。激戦のすえアテネ軍は勝利しました。この勝利の伝令となったエウクレスはひたすら走りつづけ、群衆に「われら勝てり」と告げて絶命しました。彼が急いだのには理由がありました。アテネではこのとき、ペルシアに対する抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にありました。命をかけて伝えた「われら勝てり」の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱も予想されたわけです。マラソンの由来は、マラトンの古戦場からアテネ市まで、彼が走った距離が、約四十キロあったからであります。新約聖書には「福音」という言葉が、110回ほど使われていますが、それはどういう喜びの訪れなのでしょうか。

1.イエス・キリストの福音

 キリストの福音、あるいはイエス・キリストの福音は、新約聖書に10回近く用いられています。しかし、初代教会の頃は、わざわざキリストの福音と言わなくても、「福音」のひとことで十分通じました。福音と何かということが、短い文章で定義されていたようです。それはⅠコリント15:3-5節です。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」。福音とはキリストの死と復活であります。使徒パウロはこの福音をたずさえて、小アジア、ヨーロッパへと伝道旅行しました。パウロだけではありません。ステパノの迫害によって散らされた人たちが、福音を伝え、あちこちに群れができたと思われます。しかし、マルコは「キリストの死と復活だけじゃないよ。それは、イエス・キリストに関する福音なんだ」と、バプテスマのヨハネが現れたところまでさかのぼって、イエス・キリストの物語を書きました。何のためでしょう。イエス様が召天して30年たち、十字架と復活だけが宣べ伝えられ、キリストの人格とかみわざが排除されていました。人々は、「救われるために、十架と復活を信じれば救われるんだ」と、オートマティカルな、安直な福音を持っていたのではないでしょうか。神学はとても重要ですが。一歩間違うと教義とか信条だけが強調され、キリストとの出会いがなくなります。マルチン・ルターはものすごい罪の呵責からキリストと出会い、信仰義認を発見しました。しかし、ルターの後継者たちは、こういう内容を唱えれば、正しい信仰を持てるんだと信仰箇条とか、教理問答書を作り上げました。するとどうでしょう、熱心な信仰が冷め、頭だけの信仰になったのです。これはジョン・ウェスレーの後継者も同じであります。キリストに出会った、あの、燃える心がなくなって、信条主義になったのです。

 マルコはペテロの通訳者として、各地を歩き回りました。ペテロはギリシヤ語があまり得意でなかったんでしょう。マルコは、ペテロの説教や体験談を聞いて、「十字架と復活にいたるまでの、キリストの物語を書きたい」と思ったのでしょう。そして、十字架と復活まで、キリストがどのように地上を歩まれたのか、そのことを知って、キリストに出会ってもらいたいと願った。だから、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と言う書き出しで、福音書を書いたのです。「イエス・キリストの福音のはじめ」とは、イエス・キリストが十字架にかかるまで、どのような生き方をされたかということであります。ですから、聖書神学者はマルコによる福音書を「詳細な導入を持った受難物語である」と、言っています。その目的は何でしょうか。あなたもキリストに出会ってほしいと言うことです。人が救われるためには、十字架の福音であるけれど、それと同時に生けるキリストに出会ってほしいということです。現代はあまりにもインスタントリーです。コインを入れれば、缶ジュースが出てきます。パソコンもアイコンを押せば、ぱっと開かれます。カードを使えば、何でも買うことができます。車の大半はオートマチック車です。最近は鍵を差し込まなくても、エンジンがかけられます。救いも「4つの法則」を用いて、5分間で語ることができます。「神、罪、キリスト、信仰、わかりましたか。それではお祈りいたしましょう」とインスタントリーになりかねません。福音は十字架と復活が中心ではありますが、それだけではないということです。そこにたどりつくために、キリストのとの出会いが必要だということです。

 ですから、マルコによる福音書は1章から、キリストとの出会いの記事が書かれています。16節以降を見ますと、シモンとシモンの兄弟アンデレが出会いました。シモンとは使徒ペテロのことであり、マルコ福音書の影の著者であります。17-20節「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った」。いきなり、4人の人が、キリストと出会って、弟子になります。その出会い方はものすごく過激であります。「私について来なさい」と言われただけで、何もかも捨てて、イエス様に従ったのです。彼らは何を捨てたのでしょうか。網です。網は、魚を獲る道具、飯の種じゃないですか。網を捨てたら、どうやって生きていけるのでしょうか。シモン・ペテロは結婚していたので、家庭もありました。それから、ヤコブとヨハネは何を捨てたのでしょうか。父ゼベダイと雇い人、そして舟を捨てました。今で言うなら、親族と従業員、会社を捨ててイエス様に従ったということです。「わー」、本当に過激であります。彼らは、給料はいくらかとか、福利厚生はどうなのか、退職金は出るのかなどと聞いていません。

だけど、この箇所で言われていることは、キリストのとの出会いであります。シモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、そしてヨハネの4人が最初のキリストの弟子であります。つまり、福音を信じるとは、こういうことなんだとマルコは言っているのです。キリストに出会ったら、キリストに何もかもゆだねて従うということが、福音を信じるということなのです。これは、「4つの法則」のインスタントリーな救いではありません。自分の生命を賭ける、自分の一生を賭ける必要があるのです。キリストを信じたらその職業をやめなければならない場合もある。キリストを信じたら家族との絆を捨てなければならないこともあるということなのです。イエス様は「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者はわたしの弟子になることはできません」(ルカ14:26)と言われました。あるたちは、イエス様を信じても弟子になろうとしません。彼らは、持ち物や財産、親族や肉親、そして自分の命が可愛いのです。手放したくないのです。だから、キリストを信じても、弟子になろうとしません。すると、その人たちどうなるのでしょうか。困難がやってきたとき、躓いて、結局はキリストからも離れます。なぜでしょう。そういうものを手放なかったからです。ですから、キリストを信じたらイコール、キリストの弟子になるしかないのです。「キリストは信じるけど、弟子にはなりたくない。俺の、私の人生をエンジョイしたい」。そういう人は、遅かれ、早かれ、躓いてしまうでしょう。ですから、イエス・キリストの福音とは、過激なんです。この過激な福音を信じた者だけが、過激なクリスチャンになれるのです。皆さん、中途半端なクリスチャンにならないで、すべてをささげてキリスト従う、過激なクリスチャンになりましょう。もし、あなたが最初からキリストの弟子として従うなら、決して躓くことはないでしょう。イエス様はあなたがささげたものよりも、はるかにすばらしいものを与えてくださいます。新しい仕事、新しい父母、新しい夫もしくは妻、新しい子供、新しい親族、新しい命をあなたに任せてくださいます。何が変わったのでしょうか。あなたは、それら一切の所有者ではなく、管理者になったのです。所有者は神様でありイエス様です。イエス様はすべてを捨てて、私に従って来なさいと招いておられます。これが、イエス・キリストの福音です。

2.神の国の福音

 マルコ福音書1:14には「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた」と書かれています。しかし、キングジェームス訳は“preaching the gospel of the kingdom of God,”「神の国の福音を宣べ伝えた」と訳されています。また、マタイ4:23「御国の福音を宣べ伝え」と書いてあります。どちらにしてもそうですが、イエス様が伝えたメッセージの中心テーマは、神の国でありました。イエス様は「神の国が近づいたので、悔い改めよ」と言われたのです。つまり、この場合、福音とは神の国に入れることです。では、神の国とはどんなところですか?そのため、イエス様は、神の国の制度、神の国の法律、神の国の豊かさなどを人々に教えられました。でも、教えただけではありません。神の国はどういうものかをデモンストレーションされました。神の国には病気も死もなく、平和で、すばらしいところであることを人々に見せたのであります。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、難しい話なんかよりも、証拠を見せてみろ!」という人たちもいたでしょう。だから、イエス様は十字架にかかって死なれる前に、町々、村々を歩いて、神の国がどういうものなのかを教え、またデモンストレーションしたのです。秋葉原の駅前でも、調理器具とか何か、デモンストレーションしています。テレビショッピングでも、化粧品とか健康食品をモンストレーションしています。「わー」とか、「オー」などと言いますが、だいたい、あそこに登場する人たちは、はじめからスマートで美しい人たちなんですね。使用前、使用後をちゃんと見せてほしいですね。それはともかく、イエス様は神の国がどんなところなのか、教えるだけではなく、人々に見せてあげました。

 それが、1章23節以降に書かれています。マルコ福音書の1つの特徴は「すると」とか「すぐに」という接続詞が多いことです。イエス様は休む間もなく、行動しています。1:23-26は、悪霊の追い出しです。汚れた霊につかれた人が会堂にいたんです。その人は、悪霊につかれていたにもかかわらず、会堂に来て神を礼拝していました。そして、だれひとり、悪霊を追い出すことができなかったのです。イエス様が来られるまで、悪霊は隠れていることができました。しかし、イエス様は、彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われました。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。これはどういうことでしょうか。イエス様が神の国の力を持ってこられたので、悪霊は留まっていることができなかったのです。神の国とは、神の支配という意味であり、悪霊は追い出されるしかないのです。ハレルヤ!ある教会は、今でも、悪霊をのさばらせています。残念ながら、教会の中に悪霊が隠れています。長い間、悪霊をのさばらせています。なぜでしょう。それは、神の国の福音を語っていないからです。キリストの福音は、罪の赦しと救いを与えてくれます。これもすばらしいですね。でも、神の国の福音には、悪霊の追い出しが含まれています。その人に、神の国が力をもってやって来たら、悪霊は同居できないのです。

それから、イエス様は何をなさっておられるでしょうか。1:29「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした」。私はこの箇所が大好きです。イエス様は、今で言う礼拝メッセージを終えて、シモン・ペテロの家庭を訪問しました。ペテロの奥さんのお母さんが病気で寝込んでいました。彼女はもしかしたら、「うちの婿は、頭がおかしくなった。網も舟も捨てて、キリストに従うなんて無謀すぎる。これからの生活は一体どうなるんじゃ。ああ、耶蘇教はきらいじゃ!」と思っていたかもしれません。いや、そうでなかったかもしれません。はっきりわかりません。でも、イエス様がわざわざ、来られ、しゅうとめの手を取って起こされました。すると、熱がひき、元気になりました。どのくらい元気になったかと言うと、イエス様ご一行をもてなすくらいに元気になったのです。すごいですね、即座に癒されたのです。ルカ4章にも同じ記事がありますが、ルカはこう書いています。ルカ4:39「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた」。ここでは、「熱をしかりつけた」と書いてあります。イエス様は「熱がひいて、病気が治りますように」と祈ってはいません。熱をしかりつけています。おそらく、「熱よ、去れ!」と言いながら、彼女の手を取ったのではないかと思います。これが神の国の福音です。しゅうとめも、人々も大喜びしました。マルコ1:27「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。』こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。」イエス様の評判は、その教えだけにあったのではありません、神の国をデモンストレーションしたからであります。人々は、「神の国には、病気さえも治す力があるんだ。いや、神の国には病気なんか存在しないんだ」ということを目で見て分かったのです。私たち、教会は神の国の福音を語るべきであります。

使徒パウロも、イエス様と同じことをしました。Ⅰコリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」。アーメン。使徒パウロは、Ⅰコリント1章において、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言いました。しかし、それと同時に、「御霊と御力の現われ」を用いたのです。「現われ」と言う言葉は、デモンストレーションであります。パウロは、十字架の福音を語りながら、同時に聖霊と力をデモンストレーションしたのであります。残念ながら、日本の教会の多くは、十字架の福音は語りますが、神の国の福音を語っていません。神の国の福音を語るなら、御霊と御力をデモンストレーションしなければなりません。しかし、アフリカ、インドネシア、アメリカ、中国、シンガポール、アルゼンチン、韓国…つまり、リバイバルが起こっている国では、神の国の福音を語り、御霊と御力をデモンストレーションしています。日本だけが、知的なキリスト教であります。知的な面ももちろん必要ですが、力もなければなりません。この間、ナイジェリアから、ビショップ・イダ・ホサという女性が来ました。新越谷でゴスペルの奉仕があり、私たちはその集会の前に賛美をささげました。その女性が40分くらいメッセージしたんですが、あまり知的ではありませんでした。説教の組み立てとか、みことばの解き明かしもなく、ただ声が大きいだけとしか感じませんでした。最初から最後まで、大声で叫んでいました。しかし、彼女には、日本人説教者がないものがありました。それは、御霊と御力であります。彼女にはパワーがありました。あれだったら、悪霊は出て行かざるを得ないし、病気も治るだろうなーと思いました。ゴスペルの、ノンクリスチャンのメンバーは躓いたんじゃないかなーと恐れました。でも、分かる人には、分かるだろうと、主にゆだねました。

 イエス様を信じる道は、大きく分けて2つの道があります。第一はイエス・キリストの福音であります。これは、聖書の福音を聞いて、キリストと出会い、イエス様を信じる道です。これは、知的な人が好む道であります。もう1つは、神の国の福音を聞いて、実際に体験して、イエス様を信じる道です。しかし、どちらの方が多いでしょうか?インドやインドネシアでは、後者の方で、90%の人たちが、実際に癒しや奇跡を体験して、イエス様を信じるそうです。また、みことばだけを聞いて、イエス様を信じる人は、たったの10%です。日本には、みことばを聞いて、イエス様を信じたという人が多いようです。でも、クリスチャンの総人口は、たった1%であります。何か、そういうところにも原因があるのではないでしょうか。日本は、新興宗教がさかんです。創価学会、天理教、立正佼成会、霊波の光、阿含宗…みんな癒しと奇跡があります。しかし、日本のキリスト教会は、「そういうものは、ご利益宗教だ!」とつっぱねました。しかし、癒しや奇跡を排除するということは、イエス・キリストと使徒パウロが語った、神の国の福音を否定することです。新興宗教の人たちは悪霊の力でやって、人々をまことの神から引き離します。私たちキリスト教はそれを、指をくわえて、眺めていて良いのでしょうか。私たちこそ、神の霊によって悪霊を追い出し、病を癒し、力あるわざを行うべきではないでしょうか。もちろん、キリストの十字架しか、救いはありません。でも、イエス様が宣べ伝えた福音は、もっと豊かなものであり、もっと力強いものでした。日本人も、外国の人も、根本的には変わりません。神の国を実際に見せてくれたら、信じるという人が多いのではないでしょうか。私たちはイエス・キリストの福音も語ります。と、同時に、神の国の福音も語り、神の国をもっとデモンストレーションすべきであります。神の国の救いは、天国に行くことだけではありません。肉体も癒され、心も癒され、経済的にも満たされ、家庭も回復されることであります。イエス様がヨハネ10章でこのように言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。アーメン。