みなさんの中に、自分は「人々や仕事あるいは環境に振り回されて生きている」という人はいませんか。二十ねずみが丸いはしごをくるくる回っている姿を見たことがあるでしょうか。あのような具合で、一生懸命、動いていることは動いているのだけど、疲れるばかりで達成感がないという人はいませんか?きょうは、そういう人たちのためのメッセージです。実は、日本人のほとんどがそういう生き方をしているんです。ひょっとしたら、日本人はみな、二十ねずみかもしれません。短い人生を、そんな風に生きているんです。いや、本当は、生きていないのかもしれません。なんか、周りに振り回され、惰性で生きているのかもしれません。
1.イエスの奉仕の源泉
まず、わかることは、イエス様はとても忙しい生活をしていたということです。先週は、マルコ1章の後半から学びましたが、安息日に説教し、午後はシモン・ペテロの家を訪問しました。その日の夕方はどうだったでしょうか?マルコ1:32以降「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」人々は、日が暮れてからわざわざ集まってきたのにはわけがあります。その日は安息日でしたので、働くことが禁じられていました。歩く距離も定められており、旅行もできなかったのです。また、ユダヤでは日没から日没までが一日でした。つまり、日が沈むと次の日になります。彼らは安息日が終わったので、歩くことができ、遠くの人たちもイエス様のもとにやって来られたのです。おそらく、イエス様は夜遅くまで、病人を癒したり、悪霊を追い出したことでしょう。では、次の朝はどうだったでしょうか?36-37節「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております。』と言った。イエス様は朝早く起きて、祈っておられました。父なる神様と親しく、交わっておられたのです。祈りが終わったか終わらないうちに、弟子たちが自分を探しに来ました。そして、「みんながあなたを探しています」と言いました。おそらく、病を癒してもらいたい人や悪霊を追い出してもらいたい人が、朝から集まってきたのではないかと思います。
では、イエス様はどうなされたのでしょうか。38節、イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』」「あれ、あれ、あれ?」と思いませんか。その村の人たちが、病を癒してほしいとやって来たのに、イエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう」と言いました。「イエス様、ちょっと冷たいじゃないですか!」と文句が出そうであります。私だったら、「ああ、ここに腰を据えて、ミニストリーをしようじゃないか」と言ったかもしれません。しかし、イエス様はそうではありませんした。弟子たちに、「さあ、近くの別の村里に行こう!」と言ったのです。なぜでしょう?それは、父なる神様と相談したからです。イエス様は父なる神様と交わりながら、きょうは何をすべきか、優先順位を決めたのです。「きょうは、別の村に行って、福音を伝えるんだ」という導きを得ていたのです。つまり、イエス様は人々の必要に振り回されて生きていたのでありません。そうではなく、ご自分で決めて、主体的に生きていたのです。イエス様は祈りの中で、父なる神様といろんなことを話し合っていたと思われます。そして、父なる神様から奉仕の力をいただいて、一日を歩まれたと思います。なぜでしょう?イエス様は神様でありましたが、完全な人間でもありました。イエス様は私たち人間の模範となり、私たちにどのように生きるべきかを教えられたのです。ヨハネ5章にそのことを表すみことばがあります。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。イエス様は「自分から何も行うことができない」と言われました。もちろん、イエス様は神様だったので、癒しも奇跡もできたんです。でも、「自分からは何もできない」と言われました。イエス様は父を見て行い、父に聞いて行い、父から力をいただいて生きておられたのです。なぜ、でしょう?私たちの模範となるためです。私たちもイエス様のように、父なる神様と交わり、導きと力を得るなら、イエス様のような生き方ができます。そうすれば、人々や環境に振り回されないで生きていくことが可能になります。申命記28:13「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。あなたは尾にはならないでかしらになる」と書いてあります」。あなたは尾になりたいですか、それとも、かしらになりたいですか。
では、どのようにしたら、あなたを取り囲む環境に対して、尾にならないでかしらになることができるのでしょうか。それは、神様と交わる時を持つ、つまりディボーションを持つということです。ディボーションとは、個人的に神様と交わるということです。その中には、聖書を読むことや、祈りや礼拝が含まれます。忙しいとは、心が滅びると書きます。イエス様は忙しかったのですが、どんな時でも、父なる神様との交わりの時間を確保しました。イエス様はその時間がなければ、様々なミニストリーができなかったのです。あなたはイエス様以上でしょうか?父なる神様と1週間に1度だけ交わるだけで、やっていけますか?中には、1ヶ月に1度という人もいるかもしれません。この間、新聞に「週末のプチ修行、プチ出家」という記事を見ました。ちょっとご紹介します。「みなさん、最近、疲れていませんか?忙しい現代人。ストレス、人間関係など、心の悩みは耐えない。そんな中で今、注目されている場所が。町の中にたくさんありながら、なかなか身近に感じづらかった場所!それはお寺!街中で自分をリセットし、リフレッシュできる貴重な場所、として、週一回のプチ修行が見直されている。座禅や写経など、気軽に出来る場所も増えている。体験者の90%が女性。それも20~40代の今までお寺になじみの薄かった世代がほとんどだとか」。彼らは、煩悩と戦い無の境地をめざしています。東洋の禅とか瞑想は、交わる対象がはっきりしていません。しかし、私たちはそうではありません。私たちには、はっきりと交わる対象がおられます。それは私たちを創り、私たちを愛しておられる人格をもった神様です。私たちは無になるのではなく、父なる神様のみこころを求めます。そして、みこころに沿った行いをするのです。
イエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」と言われました。それは、父なる神様と交わった結果、そうなったのです。その村にとどまって、癒しや教えをなすことは良いことでしょう。でも、イエス様はたとえそれが良いことであったとしても、まず、父のみこころを行おうとしたのです。神様は私たちに良い事をしなさいとは望んでおられません。そうではなく、神様は「私のみこころを行え!」とおっしゃるのです。ハレルヤ!ですから、神様と交わって、一日の優先順位を立てることが重要です。何がベストか、何を優先すべきということをつかむのです。そうすると、あなたは尾になることはありません。でも、多くの人たちは、「私はサラリーマンです。上司の命令は絶対です」「私は営業マンです。お客さんを無視できません」と言うでしょう。たとえ、そうであっても可能です。神様にそのことを打ち明け、神様からそのことも含めて、導きと力を仰ぐのです。でも、突然、邪魔が、割り込み入るかもしれません。割り込みもOKです。ディボーションした結果、神様があなたと共におられるからです。ディボーションしている人は、神様が共におられるなーという信仰が継続します。だから、予定が狂わされても平気です。イエス様も、2章20節で、らい病の人、重い皮膚病の人が、突然やって来ました。でも、イエス様はどう対処されたでしょうか。41、42節、イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。アーメン。イエス様は「そんなの予定にないよー」と断りませんでした。余裕があったんですね。ハレルヤ!
どうぞ、私たちもイエス様のように、父なる神様と個人的に交わるディボーションの時を持ちましょう。イエス様は父なる神様を見て、聞いて、力をいだだいて行動しました。イエス様の奉仕の源泉は父なる神様だったのです。私たちもそのようにしたら、環境の尾にはならないで、かしらになることができるのです。ハレルヤ!アーメン。
2.ディボーションの実際
①静かな場所
後半は、ディボーションをどのように行うのか、お話したいと思います。ディボーションは、「静思のとき」とも呼ばれています。英語では、Quiet Time、まさしく「静かなとき」であります。ですから、一番はじめに必要なことは、静かになれる時と場所を探さなければなりません。イエス様の場合、どうなされたでしょうか?「朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈った」と書かれています。イエス様が泊まっていたお家には、静かな場所がなかったからかもしれません。だから、朝早く、外へ出て、一人になれるところを探しました。あなたにとって、ディボーションのためにとれる、静かな場所と時間はどこでしょうか?朝が一番良いと思います。なぜなら、一日のはじまりだからです。主婦の方は朝早くおきて、お弁当を作らなければなりません。そういう場合は、お掃除やお洗濯をし終わった後でしょうか。ビジネスマンはどうでしょう。通勤の電車の中、昼休み、寝る前でしょうか。我が家もそうですが、テレビがずーっと付いています。テレビはかなり邪魔ですね。新聞やテレビを見る時間はあるけれど、聖書を読む時間がないという人が結構います。私たちはまず、神様から情報を得なければなりません。どこでも良いですから、せめて30分くらい、ディボーションのために確保しましょう。
②聖書を瞑想(黙想)する
瞑想と言っても、東洋の禅や瞑想ではありません。私たちは聖書を読みながら、全知全能であり、私たちを愛しておられる神様と交わります。私たちの神様は父なる神様であり、対象がはっきりしています。私たちは聖書を読みながら、静かに、神様の御声に耳を傾けます。少年サムエルのように「しもべ聞きます。主よ、お語りください」という姿勢です。瞑想することは、みことばを反芻することにたとえられます。牛、ヤギ、羊などは、食べ物を反芻します。彼らの胃は4つの部屋から出来ており、それぞれ第一胃、第二胃、第三胃、第四胃というそうです。草などを、口で租借し、胃に送って部分的に消化します。再び口に戻して咀嚼します。そういう過程を繰り返すことで食物を消化するわけです。これを反芻と言います。私たちも、聖書を開いて、何を書いてあるのか、どういう意味なのか、みことばを反芻するわけです。しかし、昔の人たちは、ディボーションと言うと、人が書いた本を読んで、それから祈りました。「荒野の泉」とか、有名な説教者の一日一章、みことばの365日などいろいろあります。でも、それはみことばの加工食品です。本来のディボーションは、自分だけでみことばから、直接、教えをいただきます。借り物は忘れますが、自分で苦労して発見したものは忘れません。自分で発見した喜びも、伴います。「聖書を自分で読んでも、間違って解釈するんじゃないだろうか?」と心配しないでください。聖書は聖霊が書きました。同じ聖霊があなたのそばで、家庭教師のように教えてくださいます。なぜなら、聖霊は真理の御霊だからです。ヨハネ16:13には「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きいれます」と書いてあります。
③瞑想の具体的な順番です
まず、最初は観察です。普通、10節とか、1章くらいの長さを、静かな心で読みます。ノートに気づいたことを書くのは良い助けになります。繰り返し出てくることばとか、ピーンとしたことば、これは大事だと思えることばを、チョロチョロと書きます。なぜ、ノートに書くか、それは眠気防止と集中力を高めるためです。観察はあまり気張らないで、フラットな心でやります。何回か読むうちに、自然に心の中に入ってきます。
その次は、教えをいだだきます。観察した中から、これが「私に対する教えだなー」というものを1つか2つゲットしましょう。他のだれかさんのためではありません。自分のためなんです。どういう教えがあるのでしょうか。昔、「幸いな人」という本でディボーションをしていましたが、その裏表紙にこう書いてあります。示された罪はないか。約束、慰め、励ましは何か。避けるべき行動、習慣、警告はないか。従うべき命令はないか。ついていくべき模範は何か。また、神様はどういうお方か。これら全部の項目を見つける必要はありません。ある日は、約束をいただいた。また、他の日は、避けるべき罪を示された。それで、良いのです。あまり欲張ると、実行できません。
その次は、適用です。教えられたことに対して、自分がどう従うかです。自分の具体的な生活に照らし合わせてみます。「この約束とは私の生活のどういう約束なのか?」「避けるべき罪とは、どういう罪なのか?」「隣人を愛せよとは、だれのことなのか?」「では、どういうふうに愛を現すのか」。結構、そこまでやるのは苦痛です。私などは教えで終わりのときがあります。でも、適用まで行かないと生活が変わりません。信仰「と」生活ではダメなんです。信仰は信仰、生活は生活、この人は2心の人であって、安定がありません。それは、みことばを行わないからです。私たちは「信仰生活」と2つがくっついていなければなりません。「信仰生活」となるのは、みことばを実生活において適用する人です。
最後は祈りです。できれば、声を出して祈るのが一番です。もし、与えられた命令があるならば、「従います!」と宣言しましょう。約束をいただいたなら、「信じます!」と言うべきです。やめなさいという警告をいただいたなら、「○○をやめます!」と宣言します。だれかを赦しなさいと示されたら、「○○を赦します!」と宣言します。保証や慰めをいただいたら「主よ、感謝します!」と告白しましょう。これは、恵みの宣言です。昔、イスラエルでは、「ヨベルの年」というのがありました。ヨベルの年には、角笛を吹き鳴らします。これは50年に1度訪れる、恵みの年です。奴隷が自由になり、借金は棒引きされ、失った土地が回復されます。父なる神様は私たち神の子供に、回復させたいものがたくさんあるのです。だから、祈りの宣言によって、角笛を吹き鳴らすのです。するとどうなるでしょうか。あなたを取り囲む環境が変わります。閉ざされていた道が開かれます。難しい問題に解決の光が与えられます。そして、あなたに神様の力と知恵、そして愛と希望と信仰に満たされます。私は幸いに、礼拝堂が隣接していますので、恵みの宣言が可能なんであります。どうか、あなたのディボーションを、恵みを宣言するところまで行ってください。そのとき、アーメンとハレルヤ!をはっきり言いましょう。アーメンとハレルヤ!を言えば、言うほど、あなたの内に恵みと信仰がいっぱいになります。ついでに、結構にもなります。内蔵や気管の弱い方、鬱的な人、ぜひ実行してみてください。アーメン、ハレルヤ!
私は早天祈祷会に救われてからすぐ行きましたから、12年間くらい出席しました。しかし、1991年くらいから、このディボーションに切り替えました。早天祈祷会はどちらかというと義務的で苦痛でした。しかし、ディボーションは自分のためにやるんですから、とても幸せな時間です。メッセージもディボーションをしてから変わりました。それまでは、いろんな解説書を見比べ、良いと思われるところをくっつけてメッセージを作りました。でも、他人からいただいたものなので力がありません。ですから「ご参考までに」とか「こう書いてあります」としか言えません。でも、ディボーションをして神様から直接いただいたメッセージには確信があります。今は、全世界のほとんどの教会がディボーションのすばらしさを認めています。私は昔、人に教えるために聖書を読んでいましたが、ディボーションはそうではありません。私自身の霊的な養いは、ディボーションが一番基本的であります。これは私の生命線、ライフラインです。
ついこの間、こういうことがありました。新約を終えて、創世記からまた読み出しました。創世記4章で、カインはアベルのささげ物だけが受け入れられたので、とても怒っていました。神様はカインにこのように警告しました。創世記4:7「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」。カインはその怒りを治めるべきでした。でもそれができませんでした。カインは怒りにまかせて、アベルを打ち殺してしまったのです。その夜のことです。私は家内にあることに対して怒りを覚えました。家内は何も問題なさそうにスヤスヤ寝ています。私は家内の顔を一発、バキっと殴りたい衝動にかられました。私の父は、よく、母を殴っていました。私は子供のときからそういう光景を見て悲しくなり、父のようなことはしまいと思っていました。しかし、私には父と同じ血が流れているのです。だから、一発、殴りたくなりました。そのとき、創世記のカインのことが思い出したのです。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」、アーメン。ああ、カインのようなことをしてはいけない。私はこの罪を治めるべきであると思いを替えました。私は起きて、牧師室に行き、アバラブのテープを起こす作業をしました。私の霊的な父はエディ先生です。エディ先生のメッセージをパソコンで打っているうちに、すっかり良くなりました。でも、あのとき、罪に負けたなら、彼女に深い傷を負わせていただろうなーと思います。本当にディボーションをしていて良かったなーと思いました。
日々のディボーション、不思議なことに、その日の、ちょうど良いみことばが与えられます。しかも、前もってです。詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。