2006.9.3 宿営の外に出て ヘブル13:10-17

9月に入って朝夕に秋の気配を感じます。私は今週末から、常夏の国、インドネシヤに行ってまいります。1週間で4つのセミナーが開かれます。教会の勢いを祝福する、私生活の勢いを祝福する、街と経済の勢いを祝福する、そして新しい世代の勢いを祝福するという盛りだくさんのプログラムになっています。日本の教会は勢いも推進力もありませんので、うってつけかなーと思います。向こうでのセミナーと滞在費は安いのですが、飛行機代が高い。原油の高騰がこちらにも響いています。きっと元を取ってきますので、旅の安全のためにどうかお祈りください。ヘブル人への手紙はいよいよ最終ですが、ここには3つの勧めが記されています。簡単に言いますと、「旧約時代の儀式は終わったけれど、新しい時代の私たちにはこういうことがありますよ」ということなのです。ヘブル人への手紙はだれが書いたか分かりませんが、旧約聖書と新約の私たちをつなぐ、とても大切な役割を果しています。

1.宿営の外に出て

10節に「私たちには1つの祭壇がある」と書かれていますが、そこにささげられるものは、動物ではなく、尊いイエス・キリストであります。ここで、強調されていることは、イエス・キリストの体が門の外、つまりエルサレムの市外で苦しみを受けたということです。だから、私たちの祭壇はエルサレムの神殿内にはもはやないということです。エルサレムに無ければどこにあるのでしょうか。それは、天のまことの聖所にあるということです。ヘブルの記者は、地上の聖所が天の聖所の模型であり、私たちが近づくのは、天の聖所であることを明らかにしています。ですから、13、14節でこういわれています。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」一般的に、ヘブル書が書かれたのは、紀元70年のエルサレム崩壊前ではないかと言われています。紀元70年には、ローマによって、エルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは世界中に散らされます。しかし、キリスト教徒たちは地上のエルサレムには未練はありませんでした。彼らは散らされて、迫害されながらも福音を宣べ伝え、天のエルサレムを目指して行ったのであります。ですから、私たちも、地上のエルサレムにはこだわらないで、永遠の都を目指そうということであります。

ところで、ヘブル13:12「宿営の外に出て」は、近代宣教の父、ウィリアム・ケアリーが引用した言葉であります。宗教改革時代には、プロテスタント教会は大した伝道活動を行っていませんでした。もう、自分のことでいっぱい、いっぱいだったからです。一方、ローマカトリックは、イエズス会や他の会は、アジアや南北のアメリカ大陸に宣教に出かけました。しかし、1792年、靴を修理しながら伝道していたウィリアム・ケアリーが『異教徒を回心させるために資産を用いるキリスト者の義務について』という本を出版しました。ケアリーはその中で「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というキリストの大命令は今もすべてのキリスト者に適用されていると論じました。そして、同じ年に、ノッキンガムの年会で「神のために大いなることを期待せよ!そして、神のために大いなることを企てよ」と説教しました。彼がインドへ行くと言い出したとき、「果たして、未開人が救いに選ばれているのだろうか?」と、疑問視する者さえいました。そのときに、彼は「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出る」と言ったのです。彼にとって、宿営の外とは、イギリスから出ることだったわけです。翌1793年、ケアリーはインドへ出発しました。しかし、インド宣教はたやすいものではありませんでした。なんと、7年間も宣教を続けていたにも関わらず、誰として救われていませんでした。さらには、子どもが死に、妻はその後、狂い死にしてしまいます。また、彼が聖書の印刷の為に建てた印刷所が全焼。しかし、彼は、それを神様が更に大きな計画を与えてくださっているんだと考え、その悲劇をも感謝しました。まもなく、ロンドン宣教協会やスコットランド伝道会が立ち上がり、本格的に宣教師を送り出すようになりました。

私たちにとって、宿営地とは気持ちの良い教会であります。教会の中にいれば、迫害を受けたり、馬鹿にされることはありません。霊的なことをストレートに話すことができて、交わりも楽しいです。しかし、一歩、外に出ると、日本は異教徒の世界です。クリスチャンは人口の1%未満ですから、肩身の狭い思いをします。教会堂では「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言えても、家庭や職場では、とてもいえません。イギリスの教会が自分のことでいっぱい、いっぱいであったように、私たちも自分の生活でいっぱい、いっぱいです。もし、クリスチャンが伝道を忘れ、自己充足的に生きるならば、霊的ないのちを失います。宣教とか伝道は、ゆとりがあったらするというものではなくて、信仰生活と同時進行のものであります。私たちには2つの使命があります。1つはキリストに似た者となるということです。そしてもう1つは、イエス様が与えた宣教命令を果すということです。この命令は、マタイ28章とマルコ16章に記されています。「出て行って、福音を宣べ伝え、人々をキリストの弟子にする」ということです。出て行くところは、必ずしも海外ということではありません。職場、学校、家庭、地域社会が、あなたが行く宣教地です。パウロはⅡコリントで、「私たちはキリストの使節である」と言いました。

最近、「内面の癒しと解放」ということが強調されてきました。私もこれに関してはとても興味があり、皆さんにも紹介して来ました。私たちが癒され解放されるということはとても重要なことであります。しかし、もし自分たちの内側だけを見ていたら、宣教命令を果すことはできません。皆さん、「内面の癒しと解放」をクリスチャンのゴールにしてはいけません。これは天国まで続けなければならないものですが、同時に、私たちは未信者の魂が救われるように、外に向って働きかける必要もあります。世の中の多くの人たちは、精神的に病んでいるか、ギリギリ何とか社会生活をしています。そのときに、「内面の癒しと解放」と言う切り口が大変伝道のために役に立つということも確かです。ですから、「内面の癒しと解放」を自分のためにも使うし、同時に、周りにいる未信者の方のためにも用いていくべきです。矛盾しているようですが、内面ばかり見ていると、癒しと解放がなされません。しかし、外に目を向けると、自分の癒しと解放も進んで行くということも確かです。イエス様は「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言われました。つまり、教会が自己充足的に生きるならば命を失い、キリストのために命を失うなら生きるということです。シンガポールのコンヒーがこの間の九州阿蘇聖会で「教会は人々を救いに導くために存在する」と強調しました。彼の牧会する教会は1989年から20人でスタートし、現在22,000人の教会へと成長しています。私たちの教会もセルも人々を救いに導くために存在していることを忘れてはならないと思います。もし、内側だけにエネルギーを向け過ぎますと、かえって病気になります。私たちは恥を受けることを非常に恐れます。でも、キリストのゆえに受ける恥は弟子として勲章ものであります。伝道すればするほど、恥を受けます。でも、恥と正比例して、人々がキリストに導かれるでしょう。1つも恥を受けないで、キリストを宣べ伝えるなどと言うのは、この世ではありえません。どうぞ、辱めを恐れないで、救霊のために宿営の外に出て行きましょう。きっと、イエス様が力強く働いてくださることに驚くことでしょう。

2.賛美のいけにえ

旧約時代、動物や地の産物を神様の前にささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、いけにえは不要になりました。ところがどうでしょうか。15、16節「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」。罪のいけにえはキリストによって完成されたので、もうささげる必要はありません。でも、これからは賛美のいけにえつまり、御名をたたえる唇の果実を絶えず神様にささげなければならないということです。私たちはこの聖日礼拝において、約30分間、賛美を致します。これは、礼拝の準備とか説教の前菜ではありません。私たちの賛美と感謝は、神様に対する「いけにえ」だったんです。「いけねー、そうだったのか?」と気づいた方もおられるかもしれません。アフリカか東南アジアだったか忘れましたが、土着の人たちは以前、偶像の神様に動物とか果物をささげました。彼らは福音を聞いて、クリスチャンになりました。その後、彼らは神様の前に何をささげたのでしょうか。彼らは1週間一生懸命練習した賛美と踊りを主の前にささげました。みんな、とても真剣な顔つきで、主の前で、力一杯、賛美し踊りました。聖書に「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くしてあなたの主を愛せよ」とあります。私たちもいい加減に、賛美をささげてはいけません。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」賛美をささげる必要があります。

 日本では夏祭や秋祭があります。この地域でもそろそろ御神輿を担ぐのではないでしょうか。彼らは偶像の神様に力いっぱい踊り、力いっぱい山車を引っ張り、力いっぱい何かを奉納します。大阪ではだんじり、長野では御柱などと言うのもあります。秋田では梵天というのも競って奉納します。彼らは半端じゃありません。本当に力の限り踊り、命をかけて奉納します。その点、クリスチャンは上品過ぎるとは思いませんか。静かなオルガンの音に合わせ、譜面どおりに歌おうとします。譜面どおり歌うことは悪いことではありません。でも、賛美が神様にささげるささげものだと言うことを理解をしているかどうかです。礼拝は祭典であり、セレモニーではありません。だから、力一杯、喜びにあふれ、賛美をささげるべきであります。ビデオでみたことがありますが、アフリカの教会では、踊りが賛美に付随しています。賛美と踊りを分離することは不可能なようです。あのダビデ王も、神の箱の前に、賛美して踊りました。あんまり踊り狂ったので、半ケツ状態ではなかったかと思います。ダビデはそれだけ、神様を愛したのであります。

 私たちが力一杯、神様を賛美したらどうなるでしょうか。ネヘミヤ8:10「あなた方の力を主が喜ばれるからである」。別訳では「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」とあります。主を賛美することと、力とが関係しています。これは、私たちが主を喜び、賛美すると、悪魔が敗走するということです。悪魔は賛美を非常に嫌がります。悪魔が好むものは、悲しみと怒りとつぶやきです。でも、私たちの唇を、感謝と賛美のために使うならどうでしょうか。悪魔が逃げ去り、代わりに主の祝福が臨みます。私たちは特別な理由が無いのに、鬱的になったり、失望落胆することがあります。はっきりいってそれは悪霊です。悪霊が耳元で否定的なことを囁き、あなたはそれを聞いて、気が沈みます。だまされてはいけません。私たちは主を賛美することによって、敵の罠と束縛から解放されます。「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」とは、まさしくそういう意味なのです。できれば、これを週一回、公の礼拝でするのではなく、個人のディボーション、セル集会でもすべきであります。私も最近、集会の前に賛美をするのを怠っていました。だから、主の油注ぎがないんですね。つまらない集会になってしまいます。賛美は公の集会だけではなく、小さな集まりでも必要です。賛美は礼拝であり、賛美は神様へのささげものです。このことを実行していくならば、悪しき者の罠と束縛から解放され、主の大路を歩いていくことができるでしょう。アーメン。

3.指導者たちに従え

 17節「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」少し前の、7節にもこう書いてありました。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」旧約時代は祭司や預言者、あるいは王様が指導者でした。では、新約時代はどのようになったのでしょうか。マルチン・ルターが、クリスチャンは万人祭司であると唱えましたが、指導者はいないのでしょうか。私は指導者とは、上とか下、偉いとか偉くないということではなく、機能的なものであると信じます。目が顔の上にあるのは、偉いからではなく、高い所にあると良く見えるからです。足が体の下にあるのは、劣っているからではなく、体を支えるためであります。私たちはこの世の社会の考え方を捨てなければなりません。指導者は、神様が教会のために与えた賜物だということです。ローマ12:8「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでしなさい」と書いてあります。また、エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…」。

 新約時代はイエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが偉いのであります。でも、イエス様は体なる教会が、健康に成長し、また機能するように、霊的な指導者を立てました。でも、ある人たちは、「教会ではすべての人が平等だから、だれからも指図は受けない」と言います。しかし、それは間違いです。たとえば、私は人間的には指導者ではありません。生まれてこの方、自分がそういう能力があると考えたこともありません。でも、神様は、不思議なことに聖書を用いて牧会するように召してくださいました。もちろん、人格的にかけたところがあるかもしれません。でも、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。気持ち良いですね。でも、ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と書いてあります。イエス様の時代、律法学者とかパリサイ人たちは、ひどい指導者たちでした。人に無理な重荷を負わせ、自分は指一本触れようとしませんでした。イエス様は「忌まわしいものだ」とさばかれました。ですから、指導者は自分の教えと自分自身にいつも気をつけていなければなりません。でも、みなさん、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。もう、何べんも言ったかもしれませんが…。なぜなら、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」大牧者はイエス様ですが、牧師は中牧者です。群の見張りをしています。群を離れた羊は危険ですね。でも、「私は大丈夫、ほっといてくれ」と羊は言うのです。群、つまり教会から離れると、霊性がものすごく下がります。しまいには、世の中の人と全く変わらなくなります。一番怖いのは、イエス様が世の終わり、この地上に来られたとき、分からないことです。なぜなら、霊的に眠っているからです。「だから、目をさましていなさい」とイエス様もパウロも警告しています。どうぞ、「信仰があぶないなー」「信仰が弱っているなー」という時こそ、教会を離れず、指導者の声に耳を傾けましょう。

 きょうは、ヘブル書から3つのポイントでメッセージいたしました。日本の教会が、クリスチャンが何故、元気がないのでしょう。リバイバルが来たら、教会は何をやっても栄えるでしょう。でも、「今の日本は、何をやってもうまくいかない」と働き人は、みな失望落胆気味です。でも、今日、語られた3つのポイントは、低迷したキリスト教会から脱却する道です。復習しますと、第一は、宿営の外に出るということでした。これは、辱めを受けることを恐れないで、出て行くという伝道であります。短く言うと、油注がれた伝道です。上から油が注がれているなら、ちょっとやそっと、イヤな思いをしても関係ありません。力強く、初代教会のように福音を証することができます。第二は、さんびのいけにえです。当教会はこれに目覚めて、かなり力を入れています。が、もっと会衆が力を尽くして主を愛する「さんびのいけにえ」が必要です。賛美は私たちの力であります。ですから、これを油注がれた賛美と言いたい。どうぞ、みんなで油注がれた賛美を主にささげましょう。そして、第三は、指導に従うです。これは指導者と従う人、両方の問題です。日本は共依存の構造で、指導者に盲目的に従う所があります。それではいけません。従う人は、自分で考えながら従う、かしらなるキリストに聞きながら従うことが大切です。もちろん、指導する者もかしらなるキリストに聞き従う必要があります。ですから、これは油注がれた指導と言えるでしょう。旧約時代は、祭司と預言者、そして王様に油が注がれました。しかし、新約においては聖徒たちに聖霊による油が注がれると約束されています。しかし、この油注ぎは、この世に押し流されているクリスチャンは受けられません。主イエス・キリストに全面的に従い、主の栄光を現そうとする人に与えられます。私たちは油注ぎが必要です。油注ぎこそ、低迷したキリスト教会を勢いづける力です。油注がれた伝道、油注がれたさんび、油注がれた指導を求めていきましょう。