ヘブル12:5-11まで、「懲らしめ」という言葉が7回、そして「訓練」という言葉が2回出てきます。新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、11節の「訓練」を除いて、すべてパイデュオー、あるいはパイディアになっています。パイデユオーというのは3つの意味があります。第一は、教育する、教えるという意味です。第二は、正道に導く、訓戒するという意味です.そして第三は、懲らしめる、罰するという意味です。また、面白いことに、パイデイアは、幼子とか子どもと良く似ている言葉です。語源は分かりませんが、幼子や子どもに対する「しつけ」と関係するのではないかと思います。英語の聖書はほとんど、disciplineと訳されており、訓練を受けるという意味があります。私たちは生まれてからある年齢に達するまで、親や先生から教育を受けたり、訓戒を受けたり、懲らしめを受けます。聖書は、父なる神様は地上の親のように、霊的な子どもに対して、懲らしめや訓練を与えると言うのであります。
1.懲らしめの消極的意味
何故、懲らしめが存在しているのでしょうか。愛なる神様が、人間に懲らしめを与えるなんて考えられないという人もおられるでしょう。聖書は、「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからです。神様はあなたがたを子として扱っておられるのです。もし、懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです」と言っています。ということは、神の子どもなら、父なる神様から懲らしめを受けるのが当然であるということです。ここには、肉の親も子どもを懲らしめるということが前提にあります。しかし、私たち日本人には、懲らしめというのは「いけないことをした時に与えられる罰」としか認識がありません。正直、あまり良く分からないのではないでしょうか。私自身も、親や先生から数え切れないほどの懲らしめを受けてきました。食事抜き、体罰、「出て行け」と言われたり、バケツを持たされたり、居残りだったり…。しかし、多くの場合、何がなんだか分からないうちに、罰せられたということがほとんどです。あらかじめ、「こういうことをしたら、こういう罰を受けますよ」と説明があれば良いのですが、やった後に懲らしめを受けたような気がします。自分は、悪くないのに、不当な扱いを受けたという、心の傷の方が残っています。だから私は、大岡越前とか、遠山の金さん、それから水戸黄門などの勧善懲悪ものが大好きなんです。私がクリスチャンになって、とても慰められたことは、神様は義なるお方であり、公平にさばいてくださるお方だということです。もちろん、自分が悪さをしたときには懲らしめを受けるでしょうが、神様はすべてをご存知であり、その上で、正しいさばきをしてくださいます。だから、世界に正当な裁きと報いを与える神様が君臨しておられるということで、安堵感が与えられました。
では、懲らしめとか罰は何故、やって来るのでしょうか。子どもは生まれつき善悪の区別を知っているわけではありません。まず、「してはいけないこと」があります。つまり、正しい規則なり基準があるわけです。「これを越えたら、処罰を受けますよ」と言う「決まり」です。大体、規則というのは自分の身を守るものであったり、他人の権利を奪ったりしないためにあります。たとえば、道路に飛び出したら、怪我する場合もあるし、命を失うときもあります。左右を見てからと注意されていたのに、ボーンと出ちゃった。そのときは、親がお尻をスパンクします。すると、次からは、道路の前に立つとき、お尻を触りながら、右左を見るわけです。人を殴ったり、人のものを盗んだときも、懲らしめを受けるでしょう。そのとき、「ああ、そういうことしちゃいけないんだなー」と身を持って分かります。もう1は、「しなければならないこと」があります。それは、自分の部屋の掃除、持ち物管理、宿題、歯磨きとか、です。これらはすべてその子の責任であります。ところが、親が代わりにやってあげたらどうでしょうか。母親が子どもの部屋を掃除し、学校の持ち物を備え、宿題を代わりにしてあげたらどうなるでしょうか。子どもは「ママ、まだなのー」なんて、突っ立っているだけです。その子が大人になったらどういう人になるでしょうか。責任を人になしりつけ、人を支配する人になるでしょう。その子が自分の責任を果たせるように、親は「自分の部屋は自分で掃除しなさい」と命令を下します。それをしたからと言って、褒美を与えるわけではありません。なぜなら、その子の責任だからです。たとえば、おもちゃを片付けなかった場合どうするでしょうか。親はしばらくおもちゃを預かるとかして、罰を与えるしかありません。「キッズ・バウンダリー」を書いた、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントはこう言っています。子どもは生まれながらにして、善悪を見分ける術を持っているわけではない。子どもにとって、心地よいことは「善」であり、いやなことは「悪」なのである。そんな子どもたちを、幸せで意義のある人生を送れるような人間に育てるためには「ルール」が必要なのである。「してはいけないこと」「しなくてはならないこと」をきちんと見極められる人間、他人に思いやりを持ち、社会で自分の役割をきちんと果す人間となるためのルールを、この本では説いていく。そのためのプロセスこそ「人格形成」なのである。
私はこういう理路整然とした「ルール」を教えてもらえませんでした。それなのに、いっぱい叩かれ、いっぱい叱られ、いっぱい罰をうけました。私の心は父や母、兄たち、学校の先生、職場の上司などに対して恨みが一杯残りました。「何でだよー。俺は悪くないのに何でだよー」という疑問符が頭の中にいっぱい残ったままで大人になりました。私のクリスチャンになる前の人生は「チクショー」と「何でだよー」が口癖でした。なんか、お笑い系に、「チクッショー」とか「何でだよー」と言うのがいますね。しかし、クリスチャンなってしばらくしてから、「ルールの源は、神様なんだなー」と分かりました。それは、神様がこの世界を創造したとき、自然界の法則だけではなく、道徳的な法則も作られたということです。ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。もし、善悪のけじめを知らないで、あるいは無視して大人になったらどうなるでしょうか。この世界がその人に対して、懲らしめを与えるようになるでしょう。人は蒔いたものを刈り取らなければならないのです。たとえば、私が任せられた仕事をしないとします。そうすると、給料はカットされ、職場を追われてしまいます。また、時間には遅れる、果した約束は守らない、人に責任をなしり付けるならどうなるでしょうか。友達が去っていき、だれからも信用されなくなるでしょう。運動しないで、食べ続けるならば、心臓に負担がかかり、病気になるでしょう。人のものは自分のもの、「俺は何をやっても自由なんだ」とやってしまったら、最後には刑務所で学ぶしかありません。人は、悪いものを蒔けば、滅びを刈り取る。つまり、その人は、「痛み」を与えられて初めて気付くのです。ある意味で、「痛み」は良いものなのです。痛みが与えられて、「ああ、私は神の法則に反した」と言うことが分かるからです。神の愛は無条件です。しかし、神の祝福は条件付きです。私たちが正しい選択をして、責任を持って生きるならば、必ず実りが与えられます。仕事が与えられ、給料はアップし、良い友達が増え、健康が与えられ、人々からも感謝されるでしょう。残念ながら、生まれつきの私たちは頑固なんです。損失、痛み、怪我、入院、離婚、失業、破産、喪失、失敗、孤独…そういう高い授業料を払わなければ、学べないという、愚かなところがあります。でも、神様の御手は休むことがありません。その人が悔い改めて、正しい道に戻るまで、ぎゅーっと圧力がかかるのです。ある人は、プライドが完全に砕かれ、謙虚になるまで、荒野を旅することになります。中には、病院に入院したり、鉄格子に入り、どん底まで落ちないと目を覚まさない人もいます。
でも、みなさん、懲らしめは良いことなんです。その人が痛みを通して、神様の道に立ち返ることができるからです。放蕩息子も、お金がなくなり、友達が去り、ききんが来て、豚飼いになりました。「豚の餌で腹を満たしたい」と思ったときに、父の家を思い出したのです。詩篇119篇にこのようなみことばがあります。67節「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」。71節「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。人のせい、あるいは神様のせいにして恨むことも可能です。でも、「ああ、あの痛みや苦しみは、神様の法則を学ぶためだったんだ。ありがとうございます。私は頑固なラバにならないで、あなたの御声に従います」。そのように、足を返して、従うなら、こんどは、祝福の法則がその人に及ぶのです。
2.懲らしめの積極的意味
12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」第一のポイントは「懲らしめ」の消極的な意味でした。第二のポイントは「懲らしめ」の積極的な意味です。それは、訓練とか、鍛錬と言った方が良いかもしれません。聖書をみますと、神様は人を用いる前に、必ず、訓練を与えます。生まれつきの人をそのまま用いるということは、まずありません。神様はその人にふさわしい試練を与え、ある年数を経た後、はじめて舞台に立たせるのです。旧約聖書で、そういう人たちを上げたら、枚挙のいとまがないほどです。一番、有名な人はヨセフです。創世記37:3以降「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった」。イスラエル、またの名をヤコブと言いますが、ラケルから生まれたヨセフが可愛くて、可愛くて仕方がありませんでした。「そでつきの長服」とは、王子様のように働かなくても良いということです。おまけに、ヨセフは夢を自慢して、兄弟たちに告げます。麦の束の夢も、星の夢も、ヨセフを兄弟たちが拝むようになるという夢でした。それでなくても、憎んでいたのに、他の兄弟たちは「ヨセフを殺そう」まで思いました。結局、ヨセフはエジプトに奴隷として売られました。彼は最初、ポテファルの家で仕えました。主がヨセフと共におられたので、主人の家が祝福されました。ヨセフはその家と全財産の管理を任されました。ところが、ポテファルの妻が誘惑してきたので、ヨセフは上着を残して外に逃げました。ポテファルの妻は「あの男が私にいたずらをしようとしました」とウソをつきました。ヨセフは捕らえられ、こんどは監獄に入れてしまいました。そこでも主がヨセフと共におられたので、すべてのことが任せられました。ある日、王の家来の夢を解き明かしてあげました。ヨセフは事情を話し、監獄から出たら「パロに私のことを話してくださいね」と頼みました。ところが、彼はそのことを忘れました。それから2年後、パロが夢を見ました。不思議な夢で、だれも解き明かすことができません。家来は、「ああ、そう言えば、夢を解き明かすヘブル人がいた」と思い出し、ヨセフはパロのところに呼び出されました。
そのとき、ヨセフは何と言ったでしょう。「私ではありません。神が知らせてくださるのです」と答えました。ヨセフは13年も奴隷生活をしてすっかり砕かれたのです。以前だったら、「この私が解き明かして差し上げましょう!」と威張って答えたかもしれません。もう、以前のヨセフではありません。彼はパロの夢を解き明かし、「7年間の豊作のあとに来る、大飢饉に備えよ」と告げました。パロは「さとくて知恵のある者は他にいない。エジプトの全土を支配させよう」と、自分の指輪をヨセフにはめさせました。ヨセフは奴隷から宰相(総理大臣)になったのです。ききんが、カナンにも及んだので、兄弟たちが穀物を買いに来ました。あの夢のように、兄弟たちがヨセフの前にひれ伏しました。兄弟たちは目の前の総理大臣が、ヨセフだとは全く分かりませんでした。ヨセフは何度も兄弟たちを試しますが、とうとう最後には、身分を明かします。兄弟たちはビックリして、「ああ、きっと俺たちは殺されるぞ!」と恐れました。ところがヨセフは何と言ったでしょう。「神がいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。ききんはあと5年続きますから、父上をはじめ、みんなエジプトに来てください」と言いました。あの我ままで、高慢なヨセフはどこに行ったのでしょうか。13年間の奴隷生活が、ヨセフをそのように変えたのであります。神様はヨセフをエジプトの総理大臣にするために、訓練したのであります。詩篇105:18,19「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」英語の聖書には、He was tested by the Lord’s command.「主の命令によって、テストされた」となっています。わー、たまったもんじゃないですね。神様は私たちを用いるため、その前にテストされるということです。いやですねー。
神様はあなたを愛するがゆえに、そして、あなたを用いたいがために訓練を与えます。どのように、でしょうか?それは試練というノミをもって、あなたを砕くのです。ここに掘り出された岩の塊、原石があります。岩自身は、「私はこう見えても才能はあるし、立派なものよ。だれからも指図は受けないわ」と思っているかもしれません。ところが、神様は試練というノミを持って、こっちからカーン、あっちからカーン、そのたびに、「ワー、痛いよー。やめてくれー!」と叫びます。しかし、簡単に止まないんです。さらに、上からも、横からも、斜めからもカーン。「神様、ひどいじゃないかー。やめてよー!」泣き叫びます。しかし、長い年月がたって、その岩は、見事な彫刻に生まれ変わります。これが、神様の聖さにあずからせるということです。先週の水曜日、ボクシングの世界タイトルマッチがありました。亀田三兄弟というのが、とても人気があり、たくさんの芸能人、スポーツ選手も観戦に来ていました。彼はすごい態度がでかくて大口を叩きます。それが若い女の子にも人気があるようです。日本人の価値観、どうかしていると思います。試合が始まり、第一ランドでノックダウン。彼は立ち上がり善戦しました。素人目で、「負けたかな」と思いましたが、判定勝ちをしました。TBSには、抗議電話やメールが4万件も届いたそうです。対戦相手は「彼はボクサーとして、人間として、学ばなければならないことがたくさんある」とコメントしていました。ボクシングは強ければ良いと思うかもしれませんが、人間としての成長も必要だということです。私は以前、大きい教会は良い教会だと考えていましたし、また、そういう教会を目指していました。でも、神様はクリスチャンとして一人ひとりはどうなのか、牧師はどうなのかということをごらんになっています。
かなり前になりますが、レイモンド・エドマンという人が『人生の訓練』と言う本を書きました。冒頭にこう書いてありました。「現代は訓練を忘れた時代である。昔から守られてきた人生における訓練の道はくずれ、そのために、社会をささえる大切な基礎がぐらついてきている。…私たちは、訓練によってのみ得られる、キリスト者としてのしっかりした人格を身に付けるために、霊的、精神的、肉体的、社会的な訓練を受けなければならない」。その本には、31種類もの訓練が述べられていました。弟子としての訓練、危険に対する訓練、敢行(危険を承知であえて行なうこと)の訓練、暗黒における訓練、決断の訓練、晩年における訓練、中傷における訓練、自己弁護についての訓練、欠陥における訓練、遅延における訓練、喜びについての訓練、信頼性の訓練、欲望についての訓練、孤独を通しての訓練、絶望における訓練、ささいなことにおける訓練、成し遂げる訓練、困難における訓練、逆境における訓練、失望における訓練、識別力の訓練、不平不満を制する訓練、軽蔑に耐える訓練、病気による訓練、幻滅に対する訓練、出世についての訓練、逸脱についての訓練、権力を行使する訓練、疑いについての訓練、忍耐の訓練、任務遂行の訓練…わー、ざっと31です。箴言も31章ありますが、1ヶ月も31日です。ということは、毎日、訓練だということです。その本の中で、一番印象的だったのが「遅延の訓練」と言う項目でした。遅延とは、神様が約束を遅らせることによって、私たちを訓練するということです。アブラハムは約束の子が与えられるまで、25年もかかりました。ヨセフはエジプトで13年間も、奴隷として生活しました。モーセは荒野で40年間過ごし、80歳になったときには、「私は一体何者でしょう?」と言いました。ダビデは次の王になるための油注ぎを受けたのに、サウル王から命を狙われ、ベツレヘムの山腹をさまよい歩きました。預言者エリヤは、3年間、からすとやもめによって養われました。あのイエス様ですら、ナザレで、30年間も沈黙の日々を過ごしました。使徒パウロも10数年間、アラビアとダマスコで過ごしました。中国伝道で有名なハドソンテーらは、6年間熱心に伝道したすえ29歳で健康を害し、5年間、ロンドンの寂しく貧しい一角で「祈りと忍耐の生活」を過ごしました。本はこうまとめています。「あなたも遅延における訓練を受けているだろうか。活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よき友情を得るためにしばし忘れられ、良い機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか。遅延はあなたの真の奉仕に力を添え、その足取りを早めてくれるものである」。
さまざまな懲らしめや訓練は、聖徒たちを整えるために、神様が計画されたものです。父なる神様は、愛するわが子だからこそ、懲らしめ、むちを加えられるのです。いま、あなたが受けている試練も、神様があなたを整えるために許可されたものなのです。ですから、それらを訓練として耐え忍び、平安な義の実を結ばせていただきたいと思います。