2006.8.20 慎みと恐れ ヘブル12:18-29

夏休みはいかがお過ごしになられたでしょうか?フランスの方では1ヶ月たっぷり休むと聞いたことがあります。仕事も全部休んで、南フランスの方へ下って行き、バカンスを楽しむわけです。休みはとても重要です。なぜかというと、普段、見えないものが見えたり、普段、考えないようなことが考えられるからです。私たちは日々の家事や仕事によって、感覚が麻痺してしまい、ロボットのようになってしまいます。ですから、せめて日曜日は、この世の務めから解放され、みことばに耳を傾けるということは、とても重要です。私たちはどこから来て、どこへ行くのかを確認させてくれるからです。ヘブル人への手紙もいよいよ、終盤を迎えました。最初はとっつきにくい書物だと思いましたが、意外や意外、私たちの信仰を確立させるために、とても有益でした。

1.私たちの憧れ

 ヘブル12:18-21には、モーセが律法をいただいたシナイ山のことが書かれています。ここには、7つの特徴が記されています。「手でさわれる山」「燃える火」「黒雲」「暗やみ」「あらし」「ラッパの響き」「ことばのとどろき」…モーセはその光景があまりにも恐ろしかったので、「私は恐れて、震える」と言いました。主が天から降りて来られるので、山に登ったり、境界線に触れるものは、人でも獣でも殺されると警告を受けました。なぜですか?それは神様が聖であり、人間には罪があるからです。旧約の神様は、罪ある私たちが簡単には近づけない、恐るべきお方であります。しかし、ヘブル人へ手紙の記者は、私たちは、そういうところに近づいているのではないと言っています。22節以降には私たちがどんな所に近づいているのか9つの特徴が記されています。「シオンの山」「生ける神の都」「天にあるエルサレム」「無数の御使いたちの大祝会」「天に登録されている長子たちの教会」「万民の審判者である神」「全うされた義人たちの霊」そして、「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」に近づいています。1つ1つ、解説していくと時間がないので、代表的なものだけを3つだけ取り上げたいと思います。

 まず、シナイ山に対して、シオンの山があります。シナイ山はアラビヤにある、モーセが十戒をいたただいた山です。私たちは律法を守ることによって、神様に近づくことは不可能です。一方、シオンの山とは、ダビデがエブス人から奪い、ソロモンが神殿を建てた場所です。詩篇では、シオンは「安息の場所」「神の御住まい」「巡礼の地」として記されています。民たちは「シオンへ上って、神様を賛美し、喜び、歌いたい」と願っています。かなり前に、こういう賛美が教会で歌われました。「さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。主は道を教え、我らはそれを行く、シオンから御教えが出て、みことばがエルサレムから出る」。シオンとは、エルサレムのことであります。しかし、ヘブル書は、天のシオン、天にあるエルサレムを指しています。ヘブル11章で私たちは「巡礼者である」ことを学びましたが、まさしく、天のシオン、天のエルサレムを目指す巡礼者なのであります。四国にも48箇所の巡礼があります。また、フランスやスペインにも巡礼の地があります。カトリックの人たちは、賛美をしながら、巡礼の旅をします。私もCDで聞きましたが、共同体の歌(テゼ)と呼ばれるとても美しい賛美があります。フランス語、ラテン語、英語とごちゃまぜになっていますが、何ともいえない、魂を掻き立てるような音調になっています。何千人もの巡礼者たちが、ローソクをともしながら賛美している様は圧巻です。当教会のロービーに掲げられている絵は、サンチャゴ・デ・コンポステラ(聖ヤコブ大聖堂)であります。巡礼者たちはフランス各地を出発し、ピレネー山脈を越え、最終地点のサンチャゴ・デ・コンポステラにやって来るのです。それもすばらしいですが、私たちは古い教会ではなく、天の都を目指す巡礼者なのであります。ハレルヤ!

 次に解せないのは、「天に登録されている長子たちの教会」です。イエス様は70人の弟子たちにたいして、「ただあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われました。神様のもとにはいのちの書があり、イエス・キリストを信じた人たちの名前が記されています。嬉しいですね。みなさん、今、住んでいるところは現住所ですが、あちらが本籍なんですよ。区役所では私たちが死ぬと、戸籍が抹消され、「この世にはもういない」ということになります。火葬されちゃって、墓の中に埋葬されちゃうのですか。そうではありません。本籍地である、御国に帰るんです。あちらが私たちの安息の地であり、ゴールなんです。でもここに「長子たちの教会」と書いてあります。どういう意味でしょうか?長子とは、真の子どもである神の御子イエスしかおりません。でも、イエス様を信じる者も、その特権に預かることができるということです。何と、この教会に属している人は、約束の相続者であり、「長子」だということです。何と、調子の良い話でしょう。私はいつも「8人兄弟の7番目」だと言います。しかし、天国へ行ったら、「長子、長男」なんですね。私は説教の中で「8人兄弟の7番目だ」と枕詞のように言います。でも、これは、地上だけのことです。もう、天国では使えないセリフです。ところで、長子とは、旧約では初子という意味です。初子は、その一族の代表、一族の祝福のかしらです。初子が良ければ、一族がみな良いということになります。ここにおられる皆さんも、「長子」であり、「初子」です。あなたの家族にとって、あなたは祝福の基、祝福の管、祝福の源になりうる存在です。日本では仏壇を守るとか、守らないとか言いますが、そういう後ろ向きな話ではありません。これから先のことと大いに関係があります。十戒には、偶像礼拝をする者は4代まで呪われるけれど、主を愛し、主の命令を守る者には、恵みが千代まで及ぶと約束されています。ハレルヤ!あなたは今、おられる家族の祝福の基です。あなたは今、住んでおられる地域の平和の子です。

 3つ目に取上げたいのは「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」であります。「イエスの血」は、ヘブル書の主題であります。私たちが神様に近づくとき、必要なのはイエスの血です。シナイ山は律法を象徴しており、私たちが神様に近づくとき、「お前には罪がある」と責め立てます。そのため、だれ一人、聖なる神様のところには近づくことができないのです。罪人にとって、神は「恐れて、震える」存在です。でも、新しい契約の仲介者イエスが来られました。彼はご自身の血を携えて、至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、神様はイエス様の血の注ぎを受けている人であるなら、もう裁かれないのです。さらに、イエス様の血は、私たちの良心をもきよめてくださり、大胆に神様のもとへ近づく信仰が与えられます。「私はいろんな罪を犯したけれど、イエス様の血によってきよめられたんだ。アーメン」と近づくことができます。ですから、神様のところに近づくために必要なのは、私たちの良い行ないとか、宗教的な儀式ではありません。キリストの血であります。私たちが罪を犯したときに、私たちの良心と悪魔が私たちを責め立てます。「お前はクリスチャンなのに、あんな恥ずかしい罪を犯した。あんなひどい罪を犯した。あんな卑劣な罪を犯した。もう、神様の前には出られないぞ!」と告発されます。そのため洗礼を受けたクリスチャンでさえ、その声にやられて、教会に来れなくなります。彼らが天国に行けないとは申しませんが、うなだれて、巡礼の道をトボトボと歩いている状態です。キリストは罪の代価を支払ってくださいました。そればかりか、私たちを責め立てる債務証書を十字架に釘付けされたのです。ですから、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」巡礼の道を歩むのです。私たちはキリストの血を忘れてはいけません。

ゴスペルを歌っていますと、キリストの血を賛美している曲が非常に多いですね。今、練習している曲が、Precious is the blood「尊い血潮」という歌です。直訳するとこんな歌詞です。「おお、あがないの血!私のために流されたイエスの血。救いの血、きよめの血、カルバリーから。おお、神の小羊は十字架に付けられた!私の罪のために彼は血を流し、死なれた。ああ、何と尊い血潮だろう」。私たちが神の御前で誇れるのは、私たちの信仰とか私たちの行ないではありません。私たちが誇れるのは、私たちの罪のためにながされた、キリストの血です。キリストの血こそが、大胆に、聖なる神様に近づくことのできる根拠なのです。大祭司が血を携えて、至聖所に入られたように、私たちもキリストの血によって神様の近くに行くことができるのです。キリストの尊い血潮を賛美いたしましょう。キリストの血によって、私たちの良心がきよめられ、キリストの血によって悪魔は黙るしかないのです。アーメン。シオンの山、天のエルサレムに向って、胸を張って、巡礼の旅を続けましょう。

2.私たちへの勧め

 こういう恵みに預かっているのだから、「注意しなさい」と25節以降に述べられています。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか」。ヘブル人への手紙に何箇所か共通して書かれていることがあります。それは、「救いを得ているからと言って、慢心するなよ」ということです。改革派の人たちは、絶対的な選びを信じていますので、「一度、信じた者は滅びない」という神学に立っています。私も、どちらかと言うとそういう立場ですが、ヘブル人への手紙を読む限りは、信仰は機械的なものじゃないなーという感じがします。どちらかと言いますと、信仰は機械というよりは、生き物です。弱ったり、強くなったり、上がったり、下がったりします。私たちの体も、元気なときもあれば、弱ったりするときもあります。私たちの心、精神状態もそうですね。やる気満々のときもあれば、憂鬱で何も手につかないときもあります。では、信仰を恵まれた状態にキープする秘訣は何なのでしょうか。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」。だれが語っておられるのでしょうか。25節の半ばには「天から語っておられる方」と書いてあります。まず、わかるのはシナイ山から語られる声ではありません。モーセはとどろきのことばを聞いて「私は恐れて、震える」と言いました。そういう、さばきの声ではなく、優しい、慈しみの声であります。私は牧師になっても、教会が大きくならないので、神様は「何をやっているんだ。歯がゆいぞ!」と仁王立ちしているように思えました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んで、いや、そうではないということが分かりました。父なる神様は私の姿を見て「そんなにがんばらなくて良いから、もっと気楽に。お前が何かしたからとか関係なく、私はお前を愛して、受け入れているよ」と言っているように思えたのです。

先週、大和の大川牧師から9月に行なわれる教会成長セミナーにお誘いを受けました。セミナーの前、チョー先生を囲んで、20人くらいの牧師が一緒に昼食をしようということなんです。先生から即座に「礼拝、何名集まっている」と聞かれました。「80名くらいかな」。「どうして100名いかないんだろう」。「どうしてでしょうかね。本当に不思議ですねー」。「早天やっているの」。「いいえ、個人個人でディボーションしています」。「それじゃー、いい加減になるなー」。そういうやりとりをした後、大川先生はあの路線で行くんだろうなーと思いました。私はある時から、教会成長を最終のゴールにしなくなりました。いわゆる、業績指向から解放されました。確かに、人数が集まっていないのは、問題かもしれません。でも、日本は、牧師と共依存の教会が多いし、そういう教会が大きくなるようです。みんな、牧師の一声に従います。日本人は、自分で考えるより、上からの指示に従うように生まれ育っています。だから、教会もそのような文化を取り入れて、牧会しています。文化を変えるよりも、文化を利用したほうが教会は大きくなるかもしれません。でも、真の教会はキリストのからだです。信徒一人ひとりが、からだの器官です。からだの器官はどこから指令を受けるかと言ったら、頭です。頭は牧師ではなく、キリストご自身です。ですから、信徒一人ひとりはキリストに聞いて行動すれば良いのです。牧師の顔や役員さんの顔を恐れることは全く必要ありません。天の声、聖霊様の声に従う、これが成長したクリスチャンの生き方です。いつまでも、クリスチャンを子どもにしておくのは問題です。これは、一教会を批判したのではなく、日本の教会の現状を言ったまでです。日本の教会のほとんどは小さいので、牧師たちは「神様は私を怠け者と思っているんじゃないだろうか」と縮こまっているのではないかと思います。本当はそうではなく、「小さいところでも忠実にやっているなー」とほほえんでいるのではいでしょうか。人間はさばきとか律法に対しては卑屈になりますが、恵みと励ましに対しては奮起します。

 もう1つ、28節に命じられていることがあります。「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。この天も地も揺り動かされて消えてなります。だが、私たちは揺り動かされない御国を受けています。私たちは、この世の移り変わるようなものに土台しないしてはいけません。先週、小泉首相が靖国神社を参拝しました。私は高校野球を見ていましたが、突然、そちらの中継に切り換りムカッときました。先日の「リバイバル新聞」にとてもうがった解説が載っていました。「靖国問題の霊的核心は死者との交流にあるが、国の代表による参拝は、霊的悪影響も大きい。一方、政治面で言えば、中国や韓国の圧力によって国の態度を変えるのは間違っている。だが、米国の圧力には易々と屈してきたのも同じ首相である。日本は戦中は天皇を崇拝して戦いの動力と為し、戦後は経済を崇拝してきた。その結果、国家神道を基盤とした「神国」はキリスト教国アメリカに叩きのめされ、今や経済も米国の巨大な資本に飲み込まれようとしている。そんな国の民は、まるで最後の砦でもあるかのように、キリスト教だけは入らない。私見だが、キリスト教を受容すれば日本人が日本人でなくなり、米国に魂まで売り渡してしまう、といった感覚があるように思う。日本宣教の課題の1つは、大多数の日本人が「キリスト教は西洋の宗教だ」と思い込んでいる点にある。これはある意味、日本の教会が西洋的な教会形成をしてきた結果だとも言える。神学も音楽も教会堂も、西洋の模倣が強い。しかしすでに、キリスト教は西洋の宗教ではなく、南米やアジアにその重心を移している」。日本沈没という映画が上映されているようですが、この日本は経済的にも沈没してしまうということでしょうか。私たちは日本の宗教とか日本の文化というよりも、世の終わりが来ても、揺り動かされないものに土台を置かなければなりません。それは、聖書のみことばであり、礎石なるイエス・キリストご自身であります。

 ヘブル人への手紙は、「私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」と勧めています。私たちが信仰にとどまり、天のエルサレムに向うために、忘れてならないものがあります。それは自分がどんなところから救われたかを思い出して、感謝することであります。ある人たちは、せっかく救いを得たのに、何故、躓くのでしょうか?彼らは「信仰は捨てていない」と言うかもしれません。しかし、胸を張って、巡礼の旅を続けているとは思えません。私は自分がどんな所から救い出されたのか?かつては滅びの中にあったのに、御国に入れていただいた。罪に汚れ、希望もなく、ひどい状況から、救われたんです。そのことと比べたら、「教会がどうだとか、牧師がどうたったとか、兄弟姉妹がどうだ」なんて関係ないですね。私は子沢山の、貧しい家に生まれ、罪と汚れと傷を、腹いっぱいを受けていた人生でした。過去がひどかったからこそ、イエス様の救いが何よりも有難かった。今では、生まれと育ちがひどかったことを感謝しています。なぜなら、その分、イエス・キリストによる救いがかけがえのないものになったからです。私は牧師になったことは、さほど喜びではありません。罪赦され、神の子どもとされたことが一番の喜びであり、感謝なことです。牧師は神様から与えられた、召しに過ぎません。もう、10年数年後には牧師でなくなるかもしれません。でも、クリスチャンであることは、なくなりません。何故、感謝ができないのでしょうか。何故、信仰的に後退してしまうのでしょうか。それは、自分がどんなところから救われたかを忘れているからです。自分がまるで、救われるのに価値があったかのように誤解しているからです。傲慢な人は、自分にまるで救われる価値があったかのように思っています。それは大間違いです。私たちはこの世の中に捨てられていた、死んでいた存在なんです。長生きすれば70、80歳まで生きるもしれないけど、その後は、永遠の滅びに行く存在だったのです。私たちは道端に転がっている石ころだったのです。都会には石ころがないので、車の排気ガスですね。そう、排気ガスだったのです。それなのに、イエス様と出会ったお陰で、救いを受けて、御国に入れていただいた。これは夢物語です。世の中に、こんなうまい話はないんです。ですから、私たちは救いの原点、自分がどんなところから救い出されたのか忘れてはいけません。イザヤ51:1に「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。これは、あなたがどんなところから救い出されたのか、忘れるなよという聖句です。もし、私たちが一方的なあわれみによって救われたということを感謝しているならどうなるでしょう。28節後半、「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。奉仕はおまけです。ほんの小さな感謝の現れです。奉仕しているのではなく、奉仕させていただいているのです。神様に用いられていることを誇ってはいけません。私たちが誇るのは、私たちを泥沼から救い出してくださった主イエス・キリストを誇るべきなのです。もし、このことを忘れなければ、救いから漏れることなく、御国に凱旋できるでしょう。