2006.8.27 兄弟愛をもって ヘブル13:1-9

ヘブル13章で一番有名な聖句は8節です。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。この聖句は、イエス・キリストが2000千年前、この地上で癒しをなされたように、今も、癒しを行なってくださるという意味です。これもすばらしいですね。でも、聖書は肉体の癒し以外にも多くのことを教えています。私は聖書を1章から順番に語っていますが、これを講解説教と言います。一方、テーマ別に聖書のあちこちから語ることを主題説教と言います。両方とも良い点もあれば弱点もあります。もし、私が主題説教を行なうとしたら、8節の「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」を取り上げて、病の癒しを語るでしょう。でも、講解説教の場合は、不得意な分野や語りたくない箇所からも語らなければなりません。でも、これはバランスのとれたクリスチャン生活を築くためにはとても重要です。食事でも「あれが嫌いだ、これが嫌いだ」と偏食すると、体がおかしくなります。ですから、神のみことばも偏食しないでいただくことが重要です。講解説教はそういう意味で、とても役に立ちます。ですから、私は長年、講解説教をしていて、後悔したことがないんであります。

1.兄弟愛をもって

 ヘブル人への手紙の最終章は、パウロの手紙の後半とよく似ています。教理面ではなく、実際の生活について語っています。一番、最初に言いたいことは、何か。それは、「兄弟愛」です。兄弟愛は、ギリシヤ語では「フィラデルフィア」でアメリカの都市の名前にもなっています。兄弟愛は、神様に対する愛によって生まれた、二次的産物であります。二次的と言っても、どうでも良いという意味ではなく、神様を愛する人だったら当然持っていなければならないものです。使徒ヨハネも、Ⅰヨハネ4:20,21でこう述べています。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」。つまり、神様を愛している人は、当然、兄弟をも愛すべきなんだということです。それでは、兄弟とは誰のことでしょう?これは、あなたの隣人、そして主にある兄弟姉妹のことであります。では、何故、命令形で書かれているのでしょうか?これは、ぼーっとしていると、この愛は出てこないからです。「私は愛のないものです。どうか、聖霊によって、私に愛を注いでください」と求めなければ愛せないからです。

ところで、私たちの以前の生活、神を信じていない世界はどうでしょうか。それは一言で言うなら、「カインの末裔」であります。カインは弟アベルを妬みのゆえに殺しました。その後、カインは神様のもとを離れ、城壁のある町を建てました。城壁は人間同志の敵意を表しています。そして、その子孫は牧畜、芸術、工業の先祖になりました。カインの子孫は「○○をした」と言う業績指向です。レメクは「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが兄弟だけではなく、民族、国同士へと広がっていきます。その発端が、城壁であります。アダムとエバはエデンの園に住んでいました。園には城壁がありません。神様が真ん中におられるので、城壁は必要でなかったのです。ところが、カインは神様を信頼しないで、自分の力を信頼しました。その結果、自分を守るために、城壁を築いたのです。城壁は外敵から自分を守ってくれますが、同時に自分が外に出るのを妨げます。私たちも心に城壁を持っています。信頼の置ける人か、そうでない人か城門を開けたり閉じたりしています。特に日本人の場合は、建前と本音を区別して、城壁のまわりに蔦を生やして「城壁じゃなくて草だよー」とカモフラージュしています。教会に来ても、兄弟姉妹になかなか本音を話せない。それは、以前、本音を言ってイヤーな思いをしたからです。もう1つ、兄弟姉妹間を邪魔するものは、カインの業績指向です。人を肩書きや能力で区別します。教会の外は、まさしく業績指向の世界であり、みんながライバルです。ところが、教会に来て、「主の前には、みんな平等です」と言われてもピンと来ない。男性だと社会的地位、女性だと容姿が気になります。たとえクリスチャンになったとしても、霊性、信仰、賜物、奉仕なども妬みの種になります。教会では面と向かって争う事はしませんが、裏でと言いましょうか、水面下でレメクのようなことをするのです。

 「恵みによって救われたクリスチャンが何故そんなことを!」と言いたくなります。その第一の原因は、私たちはこの世で生まれ、この世の価値観の中で育って来たからです。だから、自然と自分を守る城壁が出来上がり、危ない人は排除するのです。では、そういう防衛システムは解除すべきかと言うと現実は不可能です。では、どうしたら良いでしょう。アガペーの神の愛を受けて、新生したクリスチャンは、愛を学ぶ必要があります。なぜ、神様が地上に教会を置いているのか、それは互いに愛し合うことを学ぶためであります。もし、神様との愛だけで充分であるならば、教会は不要です。イエス様を信じたら、即、死んで、天国に直行すれば問題ありません。でも、この地上に肉体の寿命が来るまで置いているのは、2つの理由があります。1つはキリストに似た者となるためです。言葉を換えると愛の人になるということです。もう1つはキリストが与えた使命を全うするためです。使命とは福音を宣べ伝えることです。残念ながら、一人でクリスチャンをやっているなら、決して愛の人になることはできません。いろんな人と関わっていく中で、愛の人として成長していくわけです。では、兄弟愛を持つためにはどうしたら良いでしょうか?私たちは自分が持っている城壁をできるだけ低くすべきであります。生垣か柵くらいにしないといけません。そのためには、城壁なる神様を信頼しましょう。詩篇で「主は私たちの城壁、要塞、守り」であると度々、記されています。ですから、私たちは主を信頼すればするほど、城壁が低くなり、どんな兄弟姉妹とも交わることができるようになるということです。もう1つは、業績指向をなくし、関係作りにもっとエネルギーを費やすということです。

私はこれが非常に苦手です。父から「人を利用してでも良いから偉くなれ」と教育されました。しかも、8人兄弟の7番目で、父や母から、比較されて育ちました。まあ、劣等感の塊みたいな存在だったわけです。人はみなライバル、「くそ!負けてたまるか!」。将棋、メンコ、運動会、学校の成績でも、競い合って育ちました。でも、世の中には、上には上がいるもので、育ちとか才能の前では屈服するしかありません。最後に残るものは、意地と根性であります。そういう、敵意プンプンの人が、クリスチャンになって驚くことは「神の愛」であります。私が最初の頃とても驚いた聖句があります。それはローマ5:7、8です。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。イエス様は、正しい人とか、価値ある人のために死んだのではありません。何のメリットもない罪人のために死んでくださいました。私は罪の中にどっぷり浸かり、「神なんか信じているヤツは自分が無くてかわいそうな人だ」と馬鹿にしていました。しかし、イエス様の無私の愛、省みを求めない愛に驚かされました。こんな愛、親からもだれからも受けたことがありませんでした。「しかし私がまだ罪人であったとき、キリストが私のために死んでくださった」。こちらが信じるか、信じないかも分からないのに、死んでくださった。いや、たとえ死んでも価値の分からない者のために、死んでくださったのです。世の中に、「脱帽」という言葉がありますが、まさしく、イエス様の前に脱帽であり、城壁をぶっ壊されたという感じでした。もう、自分とか意地とか関係なくなりました。しかし、これは初めの段階であり、教会生活を通して、愛を実際に学ぶしかありませんでした。私の最初の宿敵は、副牧師でした。私よりも年下でしたが、既に神学校を卒業して奉仕をしていました。彼は非常に細かくて、女みたいに思えました。私はどちらかと言うと、大雑把で、どんぶり勘定です。「まあ、神様は水と油みたいな存在を良く置かれたなー」と思いました。和解のきっかけは、長男の誕生です。家内は看護婦として働いていたので、副牧師の奥さんに生まれたばかりの長男を午後5時まで預かってもらいました。ちょうど、副牧師の奥さんも同じ年の女の子を育てていたので、経済的にその方が良いという大川牧師の勧めでした。私としては人質を取られたという感じになり、信仰的に先輩の副牧師に従うしかありませんでした。しかし、そのお陰で、私は従順を学びました。最初の私は主任牧師の大川先生の言うことしか聞けませんでしたが、副牧師の言うことも聞けるようになりました。今、思えば、そういう環境で、私の自我も砕かれていったのかなーと思います。

 みなさんも、クリスチャンになったからと言って、すぐ愛の人になれるわけではありません。神様はあなたの隣に苦手な人物を何人か置いておかれます。あなたがその課題を卒業しない限り、ずーっと、付きまといます。あなたが「もう、いや!」とその場所を離れても、神様は別の場所にちゃんと新手を用意しておられます。唯一の方法は、苦手な人と和解し、愛を学ぶことであります。不思議なことに、キリストの十字架は敵意の壁を取り除き、聖霊様が神の愛を注いでくださいます。そこで、一番必要なのは、「へりくだり」であります。「へりくだり」は、たった5文字ですが、これほど難しいものはありません。でも、「へりくだり」が分かりますと人間関係がうまくいきます。神様はあなたが愛の人になるようにと、あえて、そのような環境におかれたのです。あなたにとっての宿敵は、兄弟姉妹の場合もあれば、ご主人、奥様、姑、息子や娘、同僚、そして牧師かもしれません。わー。もし、相手が牧師だったら可愛そうですね。「ああ、この教会は嫌だ!」と別の教会に行けばどうでしょうか。もう一回り上の強敵を神様は用意してくださるでしょう。あなたはこのレッスンを修了しない限りは、一生、気の合わない人によって苦しめられるでしょう。では、どうすれば良いのでしょう。それはへりくだって、父なる神様とキリスト様に学び、愛の人になることです。最後に、マタイ5:44-48を引用いたします。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

2.むさぼりに対する注意

 ヘブル人への記者は私たちが「2つのむさぼりに注意せよ」と教えています。第一は性的むさぼり、第二は金銭のむさぼりです。牧師職を失墜させるのは、「性的罪と金銭問題だ」と何べんも聞いたことがあります。しかし、それは牧師だけの問題ではありません。主にある兄弟姉妹も同じ穴のムジナなのです。なぜなら、この2つは、私たちの霊力を削ぎ、神様から離れさせるために悪魔が一番用いる手段だからです。悪魔は未信者をこの2つの罪のとりこに成功しました。だが、その人がクリスチャンになったからと言って誘惑の手を弱めるようなことはしません。なぜなら、この2つの罪は、未信者であってもクリスチャンであっても、有効な悪魔の策略だからです。これによって数え切れない聖職者と聖徒たちが墓場に追いやられました。「むさぼりの罪」とは何か、それは限度を越えるということです。性的な罪であるなら、夫婦以外の異性と関係を持つということです。金銭面では、「今、持っているもので満足せず、必要以上に求めることです」。どちらも、神様が定めておられる限度を越える罪です。旧約聖書では、この罪を「ペシャ」と言いました。英語では、transgression、日本語では違反と訳されています。つまりこれは、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」であります。

まず性的な罪はヘブル13:4です。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」。聖書は性的な関係は夫婦だけのものであると教えています。つまり、夫婦以外の肉体関係は、不品行であり、また姦淫であります。先週の火曜日は夜遅く、河口湖に1泊旅に行きました。有悟の夏休みが終わりなので、水曜日休みを取って出かけた訳です。私は朝、散歩にでかけることを日課にしています。なんと、斜め向かいのホテルから若いカップルがいそいそと出てきました。それから、ホテルに戻ってチェックアウトする際、大学生とおぼしきカップルが隣の部屋から出てきました。他にもそういうカップルがいました。私は、「明らかに、彼らは結婚していないなー」と思いました。この世では、こういうことが当たり前になっているのでしょうか。たとえ、彼らが「将来、結婚の約束をしているんです」と言ったとしても、それは神が定めた限度を越えています。それは不品行の罪であります。必ず将来、その罪を刈り取るときがきます。エディ・レオ師が「結婚生活がうまくいくか、いかないかは、結婚前の生活にある」と言いました。これは、名言だなーと思います。結婚前に築くことは、肉体関係ではなく、友情の関係であるからです。友情関係が良く出来ていれば、それから後の結婚関係が良くなるんです。肉体関係は友情で築き上げられた夫婦をサポートする神からの接着剤であります。また、伴侶以外の肉体関係は、神様と相手の信頼を裏切る多大な罪です。しかし、これがまた世の中に蔓延しています。私のところに、迷惑メールが数限りないほど来ますが、そのほとんどが「不倫のすすめ」であります。日本は、そういう意味では、ソドムとゴモラであります。私たち男性は、ソドムとゴモラの中で生活しているわけです。だから、いやおうなしに、1日、24時間、性的誘惑の攻撃を受けているということになります。この手の罪は、最初は甘くて美味しいんです。しかし、その時だけです。箴言にこう書いてあります。箴言2:16節以降「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。彼女は若いころの連れ合いを捨て、その神との契約を忘れている。彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。」箴言5:3以降「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている」。箴言のある部分は、ソロモン王が書いたと言われています。ソロモンは、知恵と富と地位のあるイスラエルの王でありましたが、女性に失敗しました。あのダビデもそうでした。わー、こうなると、男性はみんなこの罪に弱いということになります。クワバラ、クワバラです。誘惑に打ち勝つための秘訣は何でしょうか。それは、誘惑には近づかないということです。もし、万が一、誘惑にはまりかけたら、ヨセフのように、上着を残してでも、その場から逃げるということです。誘惑と勝負してはいけまません。あなたは、誘惑と話し合ってはいけません。なぜなら、私たちは誘惑に非常に弱いからです。

 第二のむさぼりの罪は金銭の問題です。ヘブル13:5「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」。金銭を愛することが、いかに危ないかは、聖書のいたるところに記されています。福音書でイエス様は「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と言われました。また、パウロはⅠテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」と言いました。と、言いながらも何故、私たちはお金に頼ろうとするのでしょうか?それは、お金は現実的であり、神様は目に見えないからです。では、金銭のむさぼりとは何でしょう。それは、神様が「今、持っているもので満足せよ」と言っているにも関わらず、「もっと欲しい」と願うことです。そのことは、「私は神様よりも、金銭を信頼します」ということなのです。ヘブル13:5で「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」と、何故、イエス様の言葉がくっついているのでしょうか。「満足せよ」という根拠には、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言う約束があるからです。私たちはお金があれば、もっと幸せになれると勘違いしがちです。でも、そのお金を稼ぐために、家族との団欒を犠牲にしたり、真理を曲げてしまったらどうなるでしょうか。時々、乳飲み子を保育園に預けて、パートに出かけるお母さんをみかけます。私は「ああー、6才くらいまで、せめて3才までは、親の元で甘えさせたら良いのになー」と思います。日本では、家庭を犠牲して働くことが美徳とされてきましたが、今、大きな代償を支払わされています。その1つは、「ひきこもり」であります。「ひきこもり」は幼いとき、親との絆がないために現れる精神的な病気であります。父親は「俺はお金を得るため、外で必死に働いたんだ。子どものことはお前に任せたのに…」と言います。しかし、それは大きな間違いです。子育ては母親だけの問題ではなく、父親が社会性とか価値観を与えるために、とても重要な役割を負っています。母親だけに子育てを任せると、「良い学校へ行けば、良い人になる」という教育ママを作ることになります。日本は経済的豊かさを偶像にしてきました。そのため、今、大きな、刈り取りを迫られています。極端なことを言うと、裸電球でも幸せになれます。私は、インドネシアとかシンガポールに行ったことがありますが、経済的には多少貧しくても、人間関係が豊かでとても幸せそうでした。おそらく、フィリピンやカンボジアでも同じじゃないかと思います。重要なことは、神様が与えておられるものに満足し、感謝をするということです。そうです。むさぼりの罪に対する、一番の対策は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という神様に感謝する生活であります。