2006.7.2 信仰とは ヘブル11:1-6

人は、だれでもある程度の信仰をもっています。みなさんは、「今日の朝10時半から、礼拝がある」と信じてここにやってきました。飛行機に乗るときも、「この飛行機は落ちないで、目的地に到着する」と信じて乗ります。「落ちるかもしれない」と、疑う人は、飛行機には乗りません。レストランに行って、水を飲んだり、ディッシュをいただくとき、毒味をしません。しかし、この手の信仰は、経験や習慣から来るもので、あらためて「信仰」と呼ばなくても良いレベルのものです。けれども、すばらしいことに、クリスチャンになりますと、神様から信仰が与えられます。そして、神様は、「この地上でその信仰を用いて、生活しなさい」と言われます。私たちはこの手によって、いろんなものをつかみます。信仰は、見えないものをつかむ、もう1つの手であります。また、私たちはこの目によって、いろんなものを見て判断します。信仰は、見えないものを見る、もう1つの目であります。皆さんも、こういう能力をいただきたいと思われるでしょう。

1.神からの信仰

 ヘブル11:1には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書いてあります。この文章を見ると、「信仰」と「望んでいる事がら」と2つのものがあります。「信仰」とは神からの保証、神からの確信であります。ですから、この信仰を「神からの信仰」と呼びたいと思います。そして、もう1つは「望んでいる事がら」であります。これは、人間の側からの望み、願い、求めと言っても良いでしょう。別の言葉で言うなら、「人間の信仰」であります。マタイ7章には「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されています。でも、皆さん、求めたら必ず与えられるでしょうか?皆さんにお尋ねいたします。「これまで、神様に求めたものが全部与えられた」という人は手を挙げてください。では、「これまで、神様に求めたものが50%は与えられた」という人は手を挙げてください。それでは、「求めたものが20%から30%くらいは与えられたかな?」という人は手を挙げてください。なぜ、求めたものが全部、与えられないのでしょうか?おそらく、「それは、神様のみこころにかなわなかったからでしょう」と答えるでしょう。では、「たくさーん求めて、その中から、神様のみ心にかなうものが、いくつかあればいいや。下手な鉄砲数打てば当たる式」で良いのでしょうか。私はこのみことばから、このように考えます。私たちが望んでいる事柄、つまり私たちの側からの信仰だけでは不十分だと言うことです。もう1つ必要なのは、神からの信仰、神からの保証が必要なのです。この2つが合わさったとき、100%可能なのでありす。

 聖書に信仰に関したいくつかの例があります。イエス様が湖の上を歩いて、ペテロたちが乗っていた舟に近づきました(マタイ14章)。その時、ペテロは「主よ。私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言いました。ペテロは、水の上を歩いてイエス様のところに行きたいと望んだのであります。ペテロはイエス様に求めました。すると、イエス様は「来なさい」と言われました。これはイエス様の約束であり、保証です。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。なんと、ペテロは水の上を歩いたのです。多くの人たちは「ペテロはおぼれた」「ペテロはおぼれた」と言いますが、何歩かは歩いたと思います。なぜ、ペテロが水の上を歩くという奇跡を体験したのでしょうか。それは、第一にペテロが望んだということです。何と言う、大胆な信仰でしょうか。しかし、それだけでは水の上を歩くことはできません。第二は、イエス様が「来なさい」とみことばの約束を与えたということです。これは、イエス様からの信仰であります。チョー・ヨンギ牧師が神学生だったころこのようなことがあったそうです。三角山での癒しの集会があったので、多くの人々が集まってきました。私も参加しました。集会の途中で激しい雨が降ったので、あちこちで泥水が激しく流れる被害がでました。ちょうど集会に参加していた二人の若い女性が山を降りていく時に、この土砂の急流に行く道をふさがれてしまいました。その時点で引き返すか、土砂が流れ終わるまで少し待ったらよかったのですが、彼女たちは聖書でペテロが水の上を歩いたことを思い出して祈り始めました。「主よ、ペテロも水の上を歩いたと言われたのに私たちにできないことはないと思います。主よ、信じます。」そう祈って濁流となった川を渡るうちに急流に巻き込まれてしまいました。後で彼女たちは下流で死体となって発見されました。そのとき多くの人たちが、「乙女たちが本当に信じたのになぜ死んだのだろうか。なぜ父なる神様は彼女たちを助けてくださらなかったのだろうか」と考えました。正直言って、私もそう思いました。ところが今になって考えてみると、彼女らの信仰は人間の側の信仰であり、彼女たちは父なる神による信仰が臨んでいない状態で、勝手に奇跡が起こると信じて行動したのでした。ペテロが水の上を歩いた時は、イエス様がそう命じられたのです。そして、ペテロの心に、父なる神による信仰が与えられました。それで水の上を歩くことができたのです。

 つまり、信仰とは自分だけの望み、自分だけの願い、自分だけの求めだけではダメなのです。その後に、私たちは神様からの信仰が臨むまで待たなければならないのです。しかし、残念ながら私たちは、「イエス様が、かなえられたと信じます」とすぐやってしまうのです。私はこれで何度、失敗したでしょうか。私が、この教会に赴任したとき、第一回目の礼拝でこのように宣言しました。「この教会は、3年後、100名の礼拝になります。ならなかったらやめます」。5年たっても、10年たってもなりませんでした。なんと、あれから19年もたってしまいました。どうしたら良いんでしょう。チョー先生が、信仰をもって宣言すればそうなると言ったので、その後、何べんも宣言しました。300名とか、1200名とか言いました。ぜんぜん、なりません。ということは、あれは、私の信仰であって、神様からの信仰ではなかったのかもしれません。もう1つ、痛い、失敗があります。私は8人兄弟で、3人の兄がいました。上から2番目の兄は、今から16年年くらい前に亡くなりました。朝一番、お寺の屋根を塗装しようと登ったのは良いのですが、そのまますべって落ちてしまいました。もう一人の人は、まだ支度中で、梯子をおさえていなかったのです。兄は脳挫傷で、救急病院に運ばれました。連絡を受けたのは、確か金曜日であったと思います。私はすぐ秋田に向かいましたが、電車の中で、ホセア書6章の「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。・・・主は暁のように確かに現われる」というみことばが与えられました。私は「大丈夫だ、兄はきっと治る」と信じました。そして、ICUで兄の頭に手を置いて祈りました。義理の姉にも、「祈ったから、きっと助かる」と断言しました。ところが、土曜日の朝3時頃、亡くなったのです。何と言うことでしょう。小学校1年生を下に、3人の子どもを残して亡くなりました。私は病院の廊下に座り込み、「そんな馬鹿な!主は癒されると約束したのに!」と、文句を言いました。もう、がっかりです。「あの信仰は、あのみことばはウソだったのだろうか」と、しばらくの間、失望と不信感に悩まされました。今、思えば、あの信仰は神からのものではなく、自分勝手に信じた信仰ではなかったのではないかと思います。

 それでは、神からの信仰を得るためにはどうしたら良いのでしょうか。第一は、勝手に信じないで、神様に聞くということです。聖書は、神様の約束に満ちています。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」。ペテロがイエス様から、約束のことばを求めたように、私たちも聖書からみことばを求める必要があります。もちろん、みことばの代わりに、はっきりとした確信が心にやってくることもあります。第二は、願いが与えられたら、確信が来るまで祈るということです。私たちの願いは、自分勝手なものもあるし、野心から出たもの、欲望・・・いろいろあります。それを神様の前に差し出して祈るのです。すると、聖霊の火によって不純なものは焼かれてなくなります。本当に神様から出たものだけが残るのです。そして、祈れば祈るほど、確信が出て来て、最後には平安がやってきます。「やった!」あとは、信じて行動すれば良いのです。たとえば、結婚のことを考えてみましょう。女性は一生に少なくても3回は神様に祈るそうです。第一回目は結婚のとき、第二回目は出産のとき、第三回目は死ぬときだそうです。女性にとって、結婚は一大イベントだということが分かります。そのとき、信仰が必要なのであります。しかし、その信仰は神からの信仰ではなくて、人間的な信仰かもしれません。つまり、「お互いに好きだから」「経済力がありそうだから」「イケ面だから」という信仰です。ちなみに、できちゃった結婚は信仰ではありません。あれは、観念したとか、しょうがないというレベルのものです。でも、みなさん、結婚には神様からの信仰が必要です。「このパートナーは、神様が与えてくださったんだ。二人は神様が結び合わせたんだ。他にはいない。アーメン」。こういう、神様からの信仰があると、簡単には離婚できません。いや、離婚という選択肢はもうないんです。人間的な信仰で結婚してしまった人は、後からでも良いですから、神様からの信仰をいただいてください。昔は「子はカスガイ」と言いましたが、今では、そうではありません。どうぞ、聖書のみことばを読んで、神からの信仰をいただきましょう。

 Ⅰヨハネ5:14は、神からの信仰を定義するようなみことばです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」つまり、絶対的にかなえられる願いは、神様が願っているものを求めたら良いのです。神様が自分に願っていることをつかまえ、それを求めたら、100%かなえられます。この信仰が与えられたなら、目で見えなくても、手でさわらなくても、「すでに得た」と信じることができるのです。イエス様は、ラザロをよみがえらせるとき、このように言われました。ヨハネ11:41「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」。そのあと、「ラザロよ。出て来なさい」と墓穴に向かって、叫ばれました。イエス様は、父なる神様に祈り求めていません。ラザロが生き返ることは、父のみこころだということを完全に知っていたので、死人に命じただけです。私たちも、神様のみこころをつかまえ、神様が私たちに願っておられることを求めたいですね。これが、神様からの信仰です。そして、祈りは、神様のみこころをたぐり寄せるロープのようなものです。たとえば、岸に船を着けるときは、船からロープを渡します。岸にいる人は、ロープの端を杭にまきつけます。船に乗っている人はそのロープをたぐり寄せます。するとどうでしょう。本当は、船が陸地に近づいているのに、まるで陸地が船に近づいているように感じます。それと同じように、私が願い求めるなら、神様のみこころが近づいてくるのではなく、私たちの願いが変えられて、私たちが神様のみこころに近づいていくのです。これが神様からの信仰です。ですから、自分だけの信仰にとどまっていないで、神からの信仰が来るまで、待ち望みましょう。

2.神に喜ばれる信仰

 ヘブル11:5,6「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神様に喜ばれる信仰とはどのような信仰でしょうか?6節を良く見ると、「神に近づくものは、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださることとを信じなければならない」と書いてあります。ここには、2つのことを信じる、それが神様に喜ばれる信仰だと書いてあります。第一は、神がおられるという信仰です。これは、神様の存在を信じるということではありません。世の中には、「私は神の存在を信じるよ」と言う人がたくさんいます。だからと言って、彼らに正しい信仰があると思ったら大間違いです。ヤコブ書には「悪霊どもでさえ、神を信じて恐れおののいている」と書いてあるからです。この意味は、神がどこか遠くにおられるというのではなく、神様が私と共におられるということを意識して生きるということです。先日、来られたエディ・レオ師は、「神の臨在とは、神の顔と言う意味である」と教えてくださいました。神様の顔が目の前にあるつもりで、生活をするならどうなるでしょうか。滅多なことは出来ません。でも、本当の意味は、神様がどんな場所でも、共にいて祝福してくださるということです。私たちは、1日の生活、どの時間においても、神様の御顔に照らされて、生活するなら、祝福が途絶えることはありません。学校でも、仕事中も、夫婦間でも、料理をしても、寝ているときも、神様を覚える。すごいことが起こるでしょう。箴言3:5,6に「心を尽くして主により頼め、自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とあります。これが、神様と共に歩む信仰であります。

 旧約聖書のエノクと言う人物は、四六時中、神様を覚え、神様と共に歩んでいました。彼は最後どのようになったでしょう。エノクは神に喜ばれ、何と、死を見ないで、天に移されました。この人類史上、死なないで、天に移された人は、そうはいません。神のしもべモーセも死にました。神の友アブラハムも死にました。神から愛されたダビデも死にました。エリヤは竜巻によって、天に上りました。生きたままか分かりません。でも、エノクは、はっきり、死を経験しないで天国に移されました。エノクは他の人たちと比べ、長く生きませんでした。ある人がもし、30歳で死んだなら、「あの人は祝福された」と言わないでしょう。しかし、エノクはそうではありませんでした。エノクは神が自分と共におられることを喜びました。仕事をするときも、旅に出かけるときも、家庭においても、神様を歓迎し、認め、従いました。そのことが神様にとっても喜ばれたのです。どれほど喜ばれたでしょうか。エノクは、死を見ないで天に移されたのです。私たちも、エノクのように、神様が私と共におられるという信仰をいただきたいです。しかし、現実はどうでしょうか?この間、「運転免許証の更新のお知らせ」が来ました。中を開いたら、「違反」運転免許試験場で手続きと書いてありました。「えー、おかしいなー。違反したのは、3年以上も前のことじゃないか!もう、ゴールドだろう!」。「むかー」っときました。インターネットで調べたら、なんと5年間無事故無違反が対象でした。警察に対して、そういう制度に対して怒りが湧きました。それから、何日か経ってこういう思いが来ました。「ああ、暗いビデオを見て、講習を受けると、安全に気を配るだろうな。しかし、これまでよく人身事故起こさなかったなー。主の憐れみだなー。嬉しくはないけど、自分には必要なんだろうなー」。そのうち、試験場に行く覚悟ができました。私は思いがけないことが起こると、「なんでだよー」とかーっとなります。これは、クリスチャンになる前の私の人生が、不条理だらけだったからです。だから、不条理な出来事にまみえると、「えー?」「おいおい」「ウソだろう」と叫ぶんです。そういう時こそ、神様の御顔を覚えるべきです。父なる神様はどんな顔をしているでしょうか。「大丈夫、大丈夫。このことも益にしてあげるから。心配するな!」。皆さんも、神様の御顔を意識してください。素晴らしいことが起こります。

 第二番目の神様に喜ばれる信仰は何でしょうか。11:6後半、「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。そうです。神様はご自分に求める者には、必ず答えてくださることを信じる信仰であります。皆さんは、父なる神様が、善なる神様であることを心から信じているでしょうか。それとも、気難しくて、ケチで、あてにならない神様でしょうか?マタイ25章にタラントのたとえがあります。1タラント預かっていたしもべは何と言ったでしょうか。「ご主人様、あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」。よくも、しゃあしゃあと言えたものです。このしもべはご主人を、「ひどい方だ」と信じていたので、預かっていたタラントを用いなかったのです。あなたは、父なる神様をどのように、思っていらっしゃるでしょうか。大きいなことを求める人は、「神様が本当に偉大である」と信じている人です。小さなことしか求めない人は、「神様にはできっこない」と信じているからです。

イエス様がエリコに来たとき、盲人の乞食が「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。取り巻きたちは「うるさい、だまれ!」とたしなめました。彼はますます「ダビデの子よ、私をあわれんでくださーい」と叫び立てました。イエス様は立ち止り、彼を側に連れてくるように言いつけました。彼は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエス様のところに来ました。当時、その上着は「あなたは公に乞食をしても良い」というお墨付きの記しでした。ところがこれを脱ぎ捨てたということは何を意味するでしょう。「もうこの上着は不要になる」という信仰の現われです。イエス様は彼に「私に何をして欲しいのか」と問われました。すると、盲人は言いました。「先生、目が見えるようになることです」。彼は、イエス様にとんでもないことを求めました。すると、イエス様は彼に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。この男性は、「イエス様は私の目をきっと開けてくださる」と信じて求めたのです。イエス様は「私にそれが出来ると信じてこの男性は求めたんだなー。大した信仰だ!」と関心したことでしょう。もし、この男性が、「イエス様は、忙しそうだから、お手すきなときに結構ですと」と、遠慮したならどうでしょうか。イエス様は十字架についてお亡くなりになる寸前だったので、この次はなかったのです。「パワー・ローマ書」という本に、すばらしいことばが書いてありました。「主の御前で、偉大なことを求めよ」。主の御前で、偉大なことを求めましょう。神様は信仰をもって、ご自分に近づく人に対して、喜んで答えてくださいます。使徒パウロは、「信仰から出ていないことは、みな罪である」(ローマ14:23)と言いました。ですから、仕事、結婚、子育て、勉強、奉仕、買い物、車の運転、美容と健康、あらゆることを、信仰をもって行ないましょう。