2006.7.9 アブラハムの信仰 ヘブル11:7-19

私が最初に教会を訪れたのは、バイブルクラスでした。英語をただで勉強できるということで、東林間にあるバプテスト教会に行きました。そこは、外人がたくさん来ており、なんとなく鹿鳴館のような感じがしました。先生は英語の聖書から、「エィブラハム」「エィブラハム」と何度も語っていました。私は「ああ、アブラハムとは、アメリカの大統領のことだろう?それにしても、なぜ、大統領の名前が聖書に出てくるのかな?」と不思議に思いました。かつて、そういう者が、偉そうに、聖書を語るようになったんですから、神様も不思議です。ローマ人への手紙や、ガラテヤ人への手紙に出てくるアブラハムの信仰は、「信じて義とされた」ということです。これを信仰義認と言いますが、信じたときに、救われるということです。でもこれは、信仰のスタート地点でありまして、ゴールではありません。きょうは、私たちクリスチャンの最終地点、ゴールは何かと言うことをヘブル11章から共に学びたいと思います。

1.来世信仰

 来世観というのは、ほとんどの宗教にあります。でも、キリスト教の場合は、直線的な歴史観を持っています。やがてこの時代は終わり、新しい時代になるということです。言葉を換えて言うなら、この世が終わり、神の御国が到来すると言うことです。イエス様は開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。イエス・キリストと共に、神の国がこの世に楔形に突入してきたのです。目にはまだ見えませんが、御国への招待が始まったのです。イエス様は、神の国の豊かさ、神の国の法律、神の国に入るための条件などを、できるだけ分かりやすく教えられました。とにかく「神の国のために、国民を集めているので、ぜひ、入ってほしい」と招いてくださったのです。残念ながら最初に招待されていたイスラエルの民は、招待を断りました。その次に、イエス様は異邦人である私たちに、「だれでも良いからは入って欲しい。私はそのために十字架に付き、贖いを成し遂げた」とおっしゃってくださいました。みなさんは、いつまでも、この世に住んでいられると思いますか。あるいは、この世が22世紀、23世紀と、いつまでも続くと思われますか。聖書は明確に、「この世はまもなく終わる」と告げています。それだけではなく、神様は、私たちが移り住むべき、御国を用意しておられるのです。

 ヘブル人への手紙は、アブラハムを例に取り、信仰によってそのことを受け止めなさいと勧めています。ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」。なんと、アブラハムは、行き先を知らないで、出発したのです。また、創世記12:1には「その後、主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい」と書いてあります。これを日本風で言いますと、「生まれ育った実家も、親族も捨てよ」ということです。とっても、過激で、仏教の出家と似ていますね。クリスチャンになるとは、出家することなんでしょうか。「ワー」、家から通っている、「あなた」「あなた」「あなた」は、どうなんでしょうか。ジョンバニヤンの「天路歴程」にはこのように書かれています。ある人が、一冊の本を読んで「この都は天からの火で焼かれ、恐ろしい破滅を迎える」ということが分かりました。彼は妻や子供たちに、「ここは危ないから、直ちに出発するんだ」と告げました。ところが、家族の者はひどくあきれ、頭が狂ったと思って相手にしませんでした。彼は「救われるためにはどうしたらよいか。どの方向に行くべきか」悩んでいたときに、伝道者が現われ、くぐりの門を示してくれました。彼は滅亡の都、自分が生まれ育った町を捨てて、天のエルサレムを目指す旅を始めるのです。続編では、彼の妻と子供が旅立つというストーリーになっています。とにかく、クリスチャンになるためには、一度、地上のすべてのものと縁を切る必要があります。イエス様は、ルカ14:26で「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」と言われました。しかし、昔の口語訳では、「憎む」ではなく「捨てる」と訳されていました。弟子たちも、イエス様から召命を受けたとき、網も、舟も父も捨てて、イエス様に従って行ったのです。日本人は先祖とかお墓に縛られて、悪魔の思う壺です。みなさん、古いものを一度捨てなければ、新しいものは得られないのです。クリスチャンとはこの世を捨てて、新しい神の国に生きる存在です。神の国はそれだけの価値があるのです。

 アブラハムにとって最終のゴールは、カナンではありませんでした。たしかに、カナンの地にイスラエルの12部族が住み、そこがイスラエルになりました。アブラハムから天の星のように、海べの砂のように、数多い子孫が生まれました。でも、アブラハムのゴールはこの地上にはありませんでした。11:13以降にはこのように書いてあります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷(こきょう)を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」アブラハムのゴールは、天の故郷、天の都でありました。ハレルヤ!そして、この地上で彼らは、自分たちをどのように見ていたのでしょうか?「地上では旅人であり、寄留者」です。寄留者とは、原語では、「一時、異郷(他国)に滞留している人、通り過ぎる人」という意味です。英語では、pilgrimですから、ピリグリム・ファーザーというアメリカに移民した人たちを思い浮かべます。英国の聖書は、aliens(アライアンス)となっています。aliensとは、「外国人、ある国に住んでいてまだその国の国籍・市民権を持っていない人」です。「異星人、宇宙人」という意味もあります。うわー、ゆこりん星から来たという小倉優子を馬鹿にできないですね。先日、李ヨンス先生が来られていましたが、長い間、日本に住んでいながらも、韓国籍の外国人であります。私たちも、この世では、天国籍を持つ、外国人であります。皆さーん、私たちクリスチャンは、この地上では、宿無しの寄留者なんです。ホームレスの人たちと、あんまり変わらないです。数年前に、山谷で一人のホームレスが死んで、お葬式をしたそうです。そこで、歌ったのが「故郷」と言う歌だったそうです。私はそれを聞いて、「なんで、讃美歌じゃなくて、『故郷』なんだ。あまりにも、人間的じゃないか」とムカッときました。だけど、調べてみましたら、故郷を作曲した岡野貞一氏はクリスチャンでした。14歳で洗礼を受け、オルガンに親しむ。宣教師に音楽の才能を認められ、その勧めもあり、東京音楽学校に進み、1900年に卒業、のち教授となる。「尋常小学読本」や「尋常小学唱歌」などを編纂した。ずっと本郷に住み、42年間、毎週日曜日には本郷中央教会堂でオルガンを弾いた。つまり、故郷は、信仰とは無関係じゃなかったということです。ハレルヤ!

 私たちはこの地上では、旅人であり、寄留者であることを忘れてはいけません。私たちの本当の故郷は、天の故郷、天の都なのです。ある金持ちが、死ぬときにこうしてくれと遺族にたのみました。彼は土地も財産も名誉も持っていた大金持ちでした。ところが彼は、自分の遺体の両手を、こういうふうに、開けさせたということです。つまり、「天国には1セントも1握りの土地も持っていけないよ」と言うことを伝えたかったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。ところが、一瞬にして、すべての財産と10人子供たちを失いました。その時に彼はこう言いました。「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と。私たちはこの地上では、管理者です。決して、所有者ではありません。お金も、土地も、家も、家族も、自分の命さえも、一時的に預かっているに過ぎないのです。管理者に大切なことは、忠実さです。聖書は、この地上で、あなたにゆだねられたものに、如何に忠実であったかによって、御国における所有物に差が出て来ると書いてあります。イエス・キリストを信じるならばだれでも天国に行くことはできます。しかし、『天国は本当にある』という本に書いてありました。「すべての人が大邸宅に入れるわけではない。心から主を愛し、神様に忠実であった人だけである」と。皆さん、イエス様に忠実に生きるならば、光輝く大邸宅が用意されています。そこには備え付けの家具があり、美しい庭があります。天国には美しい川があり、魚がたくさん泳いでいます。果樹園もあり、一年中、実がなっています。花園があり、森があり、あるところには動物が住んでいます。喜びと楽しみが満ち溢れ、不足なものは何1つありません。私たちはそういうところに行くのです。どうぞ、この地上では、旅人であり、寄留者であることを覚えておきましょう。この世は仮住まいで、あちらが永住の地です。イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。・・・自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:19,20)と言われました。

2.復活信仰

 アブラハムに、100歳のとき、イサクが与えられました。待ちに待った、約束の子供です。ところが、神様はアブラハムに対して、「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、私が示す山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを私にささげなさい」(創世記22:2)と言われました。そのときイサクはおそらく30歳くらいではなかったかと思います。これは、アブラハムにとって、イサクにとっても大きな試練でした。イサクもよく黙って縛られたものだと思います。130歳のアブラハムが、主が、「お前を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたと、イサクに告げたらどうなるでしょうか。「おやじ!とうとう、もうろくしたか。神様が人間をいけにえささげよ、という訳ないだろう」と、老人を投げ飛ばして、逃げ去ることもできました。でも、そうしませんでした。アブラハムはモリヤの山に行くまで考えたでしょう。「神様が人間をいけにえとしてささげよとおっしゃるなら、それは偶像の神様と同じじゃないか」。また、「もし、イサクが死んだならば、子孫が空の星のように、海辺の砂のように多くなるという約束はどうなるんだ。そんなはずはないだろう」。しかし、アブラハムは文句を言わないで、黙々と従いました。アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが手を伸ばして、刀(かたな)を取って、自分の子をほふろうとしたその時です。主の使いが「アブラハム。アブラハム」。「はい、ここにおります」。主は、「あなたの手を、その子に下してはならない。今、私はあなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで私にささげた」と言われました。このところは、アブラハムの100%の従順が記されている有名な箇所です。

 でも、ヘブル人への手紙の記者は、アブラハムの信仰をこのように解き明かしています。ヘブル11:19「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」。そうです。アブラハムは、たとえここで、イサクが死んだとしても、神様は死者の中から復活させることが出来ると信じていたのです。つまり、アブラハムは本気で、刀を息子に振り下ろそうとしたのです。ところが、「待て!」であります。アブラハムは霊的に死者の中からイサクを取り戻したのです。つまり、切っても切れない人間の情を捨て、「これは神様からのものである」と受け止めたということです。イサク自身は、一度、死を通過したので、そこで100%の従順を学びました。イサクの人生は、アブラハムやヤコブとは違い、穏やかな人生でした。彼は若い時、モリヤの山で、一発で、きよめられたのです。だから、イサクの性格は、温順で柔和であり、人と争うことをしませんでした。せっかく掘った井戸がペリシテ人に奪われても、また新しい井戸を掘りました。またその井戸が奪われても、次の場所で、新しい井戸を掘りました。ここで学ぶことは、アブラハムもイサク自身も、神様が死者の中からよみがえらせることもできると信じたことです。これが復活信仰です。世の中の人は、「死ぬ気になればなんでもできる」と言います。しかし、クリスチャンは違うんです。キリストにあって一度死んで、新しくよみがえった存在です。つまり、一度、死んだんです。一度、死んだ存在ですから、もう死ぬことが怖くはないのです。むしろ、「死の様に等しくなったときに、復活できる」という逆転の信仰があります。使徒パウロは、Ⅱコリント4:10-12でこのように言いました。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」。つまり、私たちが死の様に等しくなるとき、なんと、キリストの復活のいのちが現れ出てくるという事実です。死にそうになるけれど、死なない。それは、私たちがイエス様の死をこの身に帯びているからです。私たちはこの地上で、「病気をしたり、怪我を負ったり、あるいは年とってもうだめだ」というときがあります。その時に、キリストの底力、復活の力が現れ出てくるのです。このたび、青木信子姉がご長男を出産しました。37時間も苦しみ、最後は、強硬手段に出たということを聞きました。具体的には分かりませんが、青木姉はそこで、文字通り、腹をくくったのであります。「来るなら来い!槍でも鉄砲でも持って来い!」。そして、勝利が訪れました。葛葉姉のときも、似ていますね。「勝利!」という言葉がぴったりです。クリスチャンは一様にして、「もうだめかな?」と死を覚悟したときに、復活の力が底から湧き上がって来るのです。ハレルヤ!このように、復活の力は、生きているときも味わうことができるのです。

 最後に、「これは型です」と書いてありました。何の型なのでしょうか。これはしいて言えば、キリストの復活の型であります。愛するひとり子としては、イサクもイエス様も同じであります。両者とも、いけにえとしてささげられました。何と、考古学的には、モリヤの山とイエス様が十字架にかかられたゴルゴタとは、ほぼ同じ場所だということです。両者とも死に渡されました。ところが1つだけ違うところがあります。イサクの場合は、「待て、もうわかった!」とストップがかかりました。しかし、イエス様の場合は、「待て!」がなかったのです。父なる神様は御顔を隠したので、暗黒が地上を襲いました。イエス様は「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。イエス様は霊的にではなく、実際に、死に渡され、陰府に落とされたのです。ここが、イサクとの違いです。でも、皆さん、イエス様が死んで、三日目によみがえったおかげで、何が起こったでしょうか。私たちもイエス様のように復活できるという、保証になりました。イエス様が二度と死なない、栄光の体によみがえられたのです。イエス様は死人の中から最初によみがえられた初穂です。と言うことは、私たちも、もし、死んだならば、朽ちたままでは終わらないということです。何と、栄光の体で、復活できるのです。ハレルヤ!ギリシヤ世界では、霊魂の不滅と言って、霊魂は永遠に生きると信じられています。もしかしたら、仏教や他の宗教でも、霊魂は永遠であると言うかもしれません。でも、キリスト教の決定的な違いは何かというと、この肉体が復活するということです。皆さん、救いとは、魂がどこか知らないところで、ぷかぷか、永遠に生きているという意味ではありません。事実、キリストがよみがえられたように、事実、私たちも栄光の体でよみがえるのです。日本は7月15日から、もしくは8月15日から、お盆であります。3日くらい地獄の釜が休みになり、そこから死んだ人たちがお暇をいただいて地上に戻ってくるというのであります。それを一時、お迎えして、また送るのであります。何と言う、馬鹿馬鹿しいお話でしょうか。生協でも、お盆セットが売られています。生協はクリスチャンの賀川豊彦師が創設者です。きっと、賀川豊彦先生が天国で嘆いておられることでしょう。

 きょうは、来世信仰と復活信仰について学びました。結論的には、この世は永遠の備えだということです。この世は仮であり、むこうが本物です。レビ記にはきよい動物と、きよくない動物がしるされています。きよい動物が食べることができ、きよくない動物は食べられません。きよい動物とは、食べ物を反芻して、ひずめが分かれているものです。羊やヤギ、牛などです。ブタはひずめはありますが、反芻しないので、汚れた動物です。うさぎは反芻しますが、ひずめがないので汚れた動物です。私たちにとって反芻とはみことばを反芻することです。また、ひずめとは、困難な山を登れる足であります。また、爬虫類はすべて汚れた動物です。なぜなら、腹を地べたにくっつけているからです。でも、蝶のようにずっと飛んでいるのもきよくありません。その点、バッタはきよいんです。なぜなら、地上をぴょんぴょん跳ねているからです。良いのは地上にべったりとした生活ではなく、あるいは修道院のような世離れした生活でもありません。私たちは地に足をつけつつ、天を目指して、身軽な生活をしたいと思います。魚では、うなぎとかうろこのない魚は泥の中でじっとしている汚れた魚です。一方、うろこのある魚はきよい魚です。うろこのある魚は、水に逆らって進み、絶えず新鮮な酸素を取り込むことができます。私たちはこの世の流れに逆らってでも、神様の御旨に従って生るのです。私たちの最終的なゴールは、この地上にはありません。私たちのゴールは、天の故郷(こきょう)であり、栄光の復活であります。