2006.7.23 信仰によって ヘブル11:24-31

ヘブル11章には、「信仰によって」という表現がざっと数えてみたら、18回もあります。「信仰によって」というところを省いて読んでも、文は通じます。おかしな文章になりません、むしろ完璧です。ただし、「小説聖書」みたいに、ただの物語になってしまいます。では、「信仰によって」という言葉を、他の表現に置き換えたらどうなるでしょうか。たとえば、日本人が好む、「根性」ではどうでしょうか。24節「根性によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み・・・苦しむことを選び取りました」。なんとかなりそうです。他に、「努力によって」とか「気合によって」とできるかもしれません。でも、後半に続く事柄が人間のわざを越えていますので、やはり無理があります。きょうは、クリスチャンにはおなじみの、「信仰によって」とは、具体的にどのようなことなのかを考えながら、神様のみこころを学びたいと思います。私は、この箇所を瞑想しながら、「信仰によって」を3つの表現で置き換えてみました。

1.将来に備えること

 「信仰によって」とは、未来に関することに対して備えることであります。それはまだ起きてはいませんが、将来、きっと起こるであろうという出来事です。でも、それが起きてからでは遅すぎるんです。起こる前に、準備するということが「信仰によって」という意味であります。たとえば、11:7のノアの場合を考えてみましょう。11:7「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました」。ノアは神様から洪水が来るから箱舟を作りなさいと命じられました。それは動物たちも乗せる、とても、大きな箱舟でした。おそらく、ノアは500歳のとき御告げを受け、100年がかりで箱舟を建造したものと思われます。そして、600歳のとき洪水が起こりました。ということは、洪水が起きてからでは、箱舟は作れないということです。100年前から、ノアは備えたということになります。ガビーンであります。もう1つの例は、ラハブであります。30,31節に書いてありますが、彼女は偵察に来た人たちをかくまいました。ヨシュアはエリコを探るために、二人の偵察を遣わしました。ラハブはその町の遊女でありましたが、追っ手から、彼らをかくまってあげました。ラハブは、主がこの地をヨシュアたちに与えておられることを信じていたのです。そして、ラハブは「あなたがたが攻め上って来たとき、私たち一家を助けてください」とお願いしました。偵察隊は「それだったら、私たちがきたとき、窓に赤い紐を結びつけておきなさい」と言いました。やがて、ヨシュア率いる軍隊がエリコに攻め上りました。その町の男も女も、若い者も年寄りも家畜もみんな殺されました。しかし、偵察隊をかくまったラハブの一家だけは助かったのです。ラハブはヨシュアが来る前に、契約を結んでおいていたので助かったのです。その時では、他の人たちと同じように滅ぼされたのです。

 これは私たちの救いにも言えることです。旧約聖書では「主の日」、新約聖書では「世の終わりのさばき」が来るとはっきり告げられています。さばきの日が来てからでは遅すぎるんです。もちろん、死んでからでも遅すぎます。生きているうちに、イエス様を信じて、神様と和解する必要があります。その時では遅いんです。11:28にも、「過ぎ越し」のことが書かれています。「エジプトを脱出する前の夜、初子を滅ぼす者がやって来る」とイスラエルの会衆は聞きました。人々は、羊をほふり、その血を、それぞれの家のかもいと二本の門柱に塗りました。真夜中に、初子を滅ぼす者がやって来ました。血を塗っていた家は大丈夫でしたが、そうではない家の初子は、王様の子から家畜にいたるまで殺されました。つまり、主のさばきが起こってからでは遅すぎるということです。聖書が「信じない者はさばかれる」とはっきり言っているんですから、イエス様を信じて、罪の赦しを受けるバプテスマを受けたら良いです。良い人とか悪い人は関係ありません。キリストの血が塗られているか、塗られていないかが決めてなのです。

蒲郡の石原先生は「日本は、ひきこもりで滅びる。ひきこもりを救うことは日本を救うことだ」と言っています。社会的ひきこもりと不登校が160万人、潜在的ひきこもり(心がひきこもっているが社会生活は送っている)が人口の6-9割もいるということです。しかし、日本の教会がどれほどそれを真剣に受け止めているでしょうか。あんまりいないと思います。「石原先生は、個性的だからなー。また新しいこと始めたんだろう」ぐらいにしか受け止めていないかもしれません。私も昨年、今年の1月、6月にセミナーを聞いて、半信半疑でした。しかし、先日の7月18-19日の服部氏のセミナーに参加して、「ん-、ひきこもりは国民病、文化病だなー」と分かりました。この日本で生まれ、日本で育ってきたので、危機感がない。私自身も、潜在的ひきこもりだと分かったからです。私自身が親と口をきかなかったので、父親になって年頃の息子や娘に何を話して良いか分かりません。教会では「はい、はい」と気を使って話していますが、家ではもくもくと食事を作ります。食事を共にしながら、会話をするということがほとんどありません。5分位いで食べたら、すぐ食器を洗って、牧師室で本を読みます。すると、午後8時「パパ、お風呂入ろう」と電話がかかってくる。「わー、やっとゆっくり出来たのに!」。7時50分頃、電話がかかってくると、「まだ、8時じゃないだろー」と怒ります。大体、子どもの頃、家族団らんなんてなかった。親父が晩酌して、愚痴がはじまり、あばれる前に、立ち去るという生活でした。恵みによって、随分と変えられたと思いますが、「潜在的ひきこもりの可能性大だなー」と思います。ということは、皆さん、ひきこもりで日本が滅びる前に、備えなければなりません。これは「信仰によって」です。崩壊がはじまってからでは遅すぎるんです。教会は前もって、そういう人たちを受け入れ、治療する準備をしなければなりません。日本の教会が社会のニーズに答えてきたのはあまりありません。今が、もしかしたら、社会に貢献し、その上、救いの箱舟に入っていただくチャンスかもしれません。皆さん、滅びとリバイバルはほぼ同時にやってきます。せっかくの収穫がダメにならないように、私たちが働き人となって、収穫に備えましょう。

2.ビジョンに生きること

 「信仰によって」とは、ビジョンに生きるということです。別な表現で言いますと、「そうなったと信じて生きる」ということです。エリコの城を回った人たちは、7日間、何も考えずにただ回っただけではありません。口には出しませんでしたが、「この城は7日目に崩れるんだ」と信じて、歩いたのです。また、ヨシュアがエリコや他の町々を攻め取ったときも、漠然と戦ったのではありません。「足で踏む地を主はきっと与えてくださる」と信じて、攻め上ったのです。ですから、彼らは始めから「勝つんだ、絶対勝利するんだ」と信じて戦ったのです。「負けるかもしれない」「やられるかもしれない」とひっぴり腰で出て行ったら負けてしまいます。32節にある、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルもみなそうです。彼らは「主が必ず勝利を与えてくださる」と信じて戦いました。重要なのは戦い方ではありません。戦い方はいろいろあって良いのです。ギデオンの場合は、壷の中にたいまつを隠しました。真夜中、敵陣の中で、角笛を吹き、つぼを割り、たいまつを掲げました。すると、主が陣営の全面にわたって、同士討ちが起こるようにされ、勝利できました。サムソンの場合は、ジャッカルのしっぽにたいまつを結んだり、ロバの顎骨を使いました。まことに幼稚な戦略でありましたが、主が勝利させてくださいました。ダビデも同じです。ダビデは戦いの天才でありましたが、ダビデ一人がやったわけではありません。それは、主の戦いであって、主が勝利をもたらしてくださったのです。ですから、小手先の戦略とか、方法論ではありません。主が勝利させてくださるという、ビジョンをもって戦うことが大事なのです。

 病気の癒しもそうです。先日、大阪のある牧師からお電話がありました。昔、先生から年賀状が届き、お腹を1回、頭を4回も手術したことを知りました。そのとき、礼拝説教でも引用し、ひとこと祈ったかもしれません。もう、何年も前のことです。でも、先生はわざわざ、「あのときはありがとうございました」とお礼の電話をくださいました。また、ちょうどその時、オーストリアの友人が自分の夢を見たそうです。元気のない弱った姿であったそうです。それで、オーストリアから「こんな夢をみたんだけど大丈夫か」と言う電話があった。そのとき、先生は「ああ、神様は自分のことを知っておられ、祈り人を起こしているんだ」ととても励まされたそうです。それから、見る見るうちに先生の病気が回復したということです。私たちは病気になると、肉体ばかりか、信仰も弱って、祈る気持ちすらなくなります。でも、そういう時に神様は祈り手を起こして、助けてくださる。そうすると、「ああ、神様がきっと癒してくださる。アーメン」。癒されたビジョンがやってきます。すると、そのように体も、心も、癒しに向って行くのです。

 ハワイのウェイン・コディーロと言えば、有名な牧師であり、すばらしい本もたくさん書いています。ウェイン・コディーロが若い頃、ある先生からギターを習っていました。「自分はミュージシャンでないし、これくらいで良いか」みたいに思ってやっていた。すると、ギターの先生が、「そのように考えていたら、永遠に上手にならないよ」と言ったそうです。ウェイン・コディーロは、ギターがうまくなるというビジョンなしで弾いていたのです。上手になるわけがありません。「どうせ私は8人兄弟の7番目、牧師にはなったけど、まあ、亀有止まりだな。日本を変えるとか、ひきこもりを救うなんて、おおげさすぎる。どうせ私は落ち着きのないヤスなんだ」とやっていたらどうでしょう。もう、考える事も小さいし、歩き方も、しゃべり方もこじんまりしてしまいます。いや、そうじゃない。「あと10年少々だけど、神様は一花咲かせてくださる。パウロのように走るべき行程を走りつくして、義の栄冠をいただくんだ」と考えたらどうでしょう。もう、歩き方も、語り方も堂々としてくるでしょう。みなさんも、同じです。「私はキリストの弟子になって、世の終わり大いに用いられるんだ。人々を救いに導き、癒しも行なう」と信じたらどうでしょうか。それとも「私は天国にかろうじて入れば良い。大きな罪を犯さないで、楽しみながら、信仰生活を送ります」と言う人生でしょうか。皆さんに「パワーローマ書」と言う本を薦めていますが、その本の中にこういうことが書いてありました。「主の御前で偉大なことを求めよ」。真の熱心さは、主に求めること、主に期待することからやってきます。私たちは、神からのビジョンを持つべきであります。人が一旦、ビジョンを持ったらどうなるでしょうか。なんと、ビジョンがその人をひっぱって行くのです。あなたのビジョンを見せてください。そうすれば、あなたの人生がわかります。

 今回、愛知県から8名の方々が来られています。そのうちの、6名がフィリピン・ミンダナオ島に短期宣教にでかけます。昨年はカンボジアに行かれた人もいましたが、これも大変なことだなーと思います。あとで、チームの一致と安全が守られ、宣教の前進、そして実が残るようにお祈りしたいと思います。短期宣教は「信仰によって」という言葉が最もピッタリであります。「信仰によってフィリピンに派遣されます!」ということは、旅先において、主が一緒に働いてくださり、救われる人や癒しを受ける人が起こされることを期待するということです。これは、漠然と海外へ観光に行くのとは訳が違います。言葉も文化も違う人々の所へ「福音」を携えて行くわけです。農夫が畑に出て行くときは収穫を望んで行きます。兵士が戦場に行くときは勝利を望んで行きます。こういうミッションの場合は、魂が救われ、神の国がもたらされるように望んで行きます。神の国があなたがたによってもたらされるのです。ハレルヤ!神様がかならず、備えられた魂と出会わせてくださいます。パウロがトロアスにおいて幻(ビジョン)を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願しました。同じように、ひとりのフィリピン人が立って、「私たちを助けてください」と懇願しています。日本は今まで、宣教に関しては、受けてばかりいた国です。このように、少しでも、与える国になったということはすばらしいことであります。彼らは、私たちの代表として行く訳ですから、お祈りしたいと思います。このように、あらゆる面において、私たちは「信仰によって」立つ必要があります。ビジョンを持って、信仰によって立つならば、今の生活が変わってきます。ビジョンがあなたを力強い生活へと導いてくださるのです。

3.神の報いを期待すること

 「信仰によって」とは、神の報いを期待することです。「報い」と聞きますと、なんだかいやらしいと思うかもしれません。もちろん、人からの報いとか、この世における報いを期待するのは間違っています。イエス様は「人々から称賛されたり、返礼を受けた場合は、天における報いは少ない」と言われました。逆を返せば、この世の報いではなく、神様からの報いは期待して良いということです。ヘブル11:6後半に「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。このみことばは、「神様が報いてくださることを信じなさい」と言っています。

 それでは、モーセの場合はどうだったのでしょうか。ヘブル11:24-26「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」これは、旧約聖書に書いてありませんので、ヘブル人への手紙の解釈だと思います。モーセはだまっていれば、エジプトの第二王子として安楽に過ごすことができたでしょう。しかし、成人したとき、自分がヘブル人であることを明らかにしました。当時、ヘブル人はエジプトの奴隷ですから、そしりを受けるのは当たり前です。モーセはエジプトの宝よりも、ヘブル人であることによる受ける苦しみ選んだのです。なぜでしょうか?それは、神様の報いの方が、エジプトの宝よりもまさると考えたからです。榎本保郎師は「新約聖書一日一章」でこのように言っています。「モーセがエジプトの宮殿にいたなら、人間的に見れば悲運の波にもまれることもなかったであろう。宮殿で、平穏無事に、毎日酒を飲み、多くの人々に仕えられて、人間的には楽しい生活を送っただろうと思われる。けれども彼は、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選んだのであった。彼はそこを出て、多くの人に憎まれ、多くの人に突き上げられながら、あの荒野を導かれて行った。私はいつ読んでも、モーセがカナンの地を前にして、神から『与えた地に導き入れることは出来ない』と言われたくだりには、胸が詰まってくる」と、そのように書いてありました。でも、モーセは報いられました。なぜなら、イエス様が変貌の山にいたとき、モーセとエリヤが呼び戻されたからです。イエス様はモーセにエルサレムで遂げるべき最期のことを相談しました。最期のこととは、原語ではエクサダズ、出エジプトであります。

 モーセの他に、名前があげられていない人たちが36節からあげられています。「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ・・・」ここだけを見ると、神の人ほど割に合わない人はいないですね。おそらく、牧師や伝道者も割に合わない職業でしょう。しかし、中には大勢の人を集め「タッチ!」なんてやって、お金を儲けている人もいないわけではありません。もし、この世で、真剣にキリストの弟子として生きていこうと思ったなら、割りに合わないことがたくさん出てくると思います。イエス様の弟子たちも、そういう不満をもっていました。マタイ19章後半にこのような会話があります。そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「そのとき」というのは、青年の役人が財産を捨てられないために、悲しんで去って行ったときです。ペテロは「何もかも捨てた」と言っていますが、何を捨てたんでしょう。イエス様は「ペテロ、立派なことを言うけど、お前が捨てたのは、小さな舟と網くらいだろう」とは、言いませんでした。マタイ19:28「そこで、イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます』」。私たちが12の座に着くとは思いませんが、「その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぐ」ということは確かです。マルコ10章には、「その100倍を受けない者はない」と書いてあります。ガビーンであります。神様は私たちがやった小さなことを、虫眼鏡で拡大して評価してくださる感じがします。

 マラキ書は旧約聖書の最後の書物ですが、神に仕える祭司たちはこのようにつぶやいていました。「神に仕えることはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう」(マラキ3:14)。世の終わりは、愛が冷えるのでこのような誘惑が大きくなります。でも、神様を恐れる者たちに対してはどうでしょうか。マラキ3:16「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。『彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ』」。主のもとには、記憶の書があります。その中には、私たちがなしたことがすべて記されています。悪いことや犯した罪は、キリストの血潮で消され、良いことだけがクローズアップされているのではないかと思います。あわれむとは、そういうことであります。私たちは主にあって、宝物なのです。天において、すばらしい主の報いが待っています。ですから、人から認められようと、認められまいと、主の前で、誠実な歩みをさせていただきましょう。こんな小さな私たちでも、父なる神様から覚えられていることを感謝します。