2006.7.30 イエスから目を離さず ヘブル12:1-3

ある牧師が未開の人たちのところで説教しました。「人生とは、マラソンのようなものです」と言いました。通訳者は非常にこまりました。だって、彼らは毎日、狩りのためマラソンをしても、競技のためにマラソンなんかしたことがないからです。今、柏兄弟を始め6人の日本人が、フィリッピンのミンダナオに宣教に行っています。柏兄弟なら、「人生とは格闘技みたいなものです」と言うかもしれません。きょうの箇所には、「競争を走る」と書いてあります。皆さんの中には、運動場などで、久しく、走ったことない方もおられるかもしれません。しばし、ご自分が競技場を走る一人の選手であるというように想像してみてください。短パンにランニングシューズのスタイルで、アンツーカーのグラウンドに立っています。

1.競争を走る

 1節の「多くの証人たち」と言うのは、11章にあげられている信仰の勇者たちです。アベルから始まり、ノア、アブラハム、モーセ、ラハブ、ギデオン、ダビデたちがいました。名前こそあげられていませんが、イザヤやダニエルと思われる記事がありました。「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」ということはどういうことでしょうか。それは、オリンピックのスタジアムを連想したら良いと思います。各時代ごとに、信仰の先輩たちが観客席に並んでいます。旧約時代の族長たち、王様、預言者たちがいます。次は新約聖書の弟子たち、ペテロやパウロたちがいます。さらに進むと、ローマ時代、迫害を耐え忍んだ聖徒たちがいます。中世の教会の人たちがいます。何か彼らのいでたちは、古風ですが華麗です。さらに宗教改革の時代、そして近世の教会の人たちがいます。その中には、ルターやジョンウェスレーもいるでしょう。そして、現代です。この間まで生きていた人たちです。ヘレン・ケラー、賀川豊彦先生、マザー・テレサもいますね。当教会の戸叶長老や山崎長老さんもいます。私を信仰に導いてくれた職場の先輩もいます。この地上で、有名だった人も、無名だった人もいます。この地上では有名だったけど、天国では無名だった人もいるかもしれません。彼らはレースを既に終えた人たちです。雲のように無数の証人たちが「ワーワー」と歓声を上げて、応援しています。では、だれが競技場で走っているのでしょうか?そうです。今、現在、生きている私たちが走っているのです。彼らはサポーターかもしれませんが、私たちこそが実際、走っている選手なのです。私もこの間、53歳になりました。先日、ゴスペルで「鈴木先生は、高齢者かどうかわかりませんが」と祈ってくれた人がいました。複雑な気持ちになりましたが、バトンを次の世代に渡す時期になったのかもしれません。もう、第4コーナーを回った地点なのかもしれません。

 さて、このレースにおいて重要なことは何でしょうか。皆さんも、小学校のころから、運動会でグラウンドを走ったことがあると思います。どんなことが重要でしょうか。そうです。走るときは身軽でないといけません。長靴では走れません。オーバーコートを着たり、バックをぶら下げて走る人はいません。ましてや、両足に重しをくくりつけて走る人はいません。ところが、信仰のレースではそういうことがあるんです。12:1後半「私たちも、一切の重荷とまつわりつく罪を捨てて」と書いてあります。私たちはゴールを目指して走る選手でありますが、それを邪魔するものがあります。まず、重荷であります。信仰生活における、重荷とは何でしょうか。それは神の国に関係がなくて、さらに私たちのエネルギーを奪うものです。私は牧師ですが、色々な集会や大会の奉仕の誘いがあります。ある先生は、教団の○○長、○○委員を兼任しています。それは名誉職かもしれませんが、自分の教会とは全く関係のないことかもしれません。私は申し訳ありませんが、私の信仰と教会の成長に役に立たないものは、切り捨てることにしています。優先順位を明確にしないと、いろんなことにエネルギーが取られてしまいます。皆さんは身軽なスタイルで信仰のレースを走っておられるでしょうか。世の中にはいろんなことにこだわる人がいます。持ち物とか着るもの、食べるものなど、どうでも良いことに、時間とお金を費やしています。住まいの調度品なども、そんなにこだわる必要はないですね。ご飯をもれる茶碗と料理の載せられる皿があれば良いのです。アメニティとかセレブ、流行、みんな商品を買わせるための、ごまかしであります。パウロは「衣食があれば、それで満足すべきです」と言いました。ですから、シンプル・ライフ、身軽な生活こそが、一番なのです。

 もう1つ私たちのレースを妨げるものがあります。それは罪です。12:1「まつわりつく罪とを捨てて」とあります。罪はレースそのものをだいなしにします。コースからはずしたり、逆走させたり、反則を行なわせたりします。昔の小学校の運動会は、村や町の祭でした。親たちが重箱を携え、山の上のグランウンドに集まったものでした。子どもたちも走るし、父兄たちも走ります。お昼は、美味しいご馳走が待っています。私が、小学生低学年のころ、だるま競争というのがありました。おおきなはりぼての、赤や青、黄色のだるまをかぶって走るわけです。今でも忘れませんが、一人の女の子が、だるまを前後ろ反対にかぶってしまいました。両腕は出てても、目の部分が後ろに行っています。だから、その子は前が見えないまま走って、コースを外れ、何と山を降りてしまうところでした。また、ある人は勝ちたい一心で、ズルをする人もいます。パン食競争などは、よく、手を使ったりします。それはともかく、信仰のレースを邪魔する罪の中には致命的なものもあります。そのために、完走できないと言うか、途中で棄権をせざるを得ない場合もあります。ヘブル11章の信仰の勇者に名前がのぼっていない、ソロモンもその一人です。ソロモンはイスラエルでもっとも華やかな王様であり、イエス様が「ソロモンの栄華」と引用したほどです。ところが彼の生涯の終わりは、外国の女性に心が向き、ついでに外国の神様を拝むようになったのです。ソロモンは天国に行けたとは思いますが、最後まで勇敢に走った人たちの中には入っていません。私たちも「イエス様を信じます」と洗礼を受けたものの、いつしか、教会に来なくなり、この世の罪に飲み込まれてしまう人もいないわけではありません。今から、19年前、私が亀有に赴任したとき、山崎長老さんは、軽の自動車を買ってくれました。車で一緒に、教会を休んでいる人たちを訪問しようという願い(魂胆)があったわけです。彼らのほとんどは、何かに躓いてしまったのか、「もう行きませんよ」と冷たくあしらうという感じでした。彼らの心はすでに頑なになっていて、「こりゃー、無理だなー」と思いました。

 信仰のレースにおいて一番重要なことは何でしょうか。12:1後半「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いてあります。そうです、忍耐が必要なのです。皆さんもテレビなどで、中距離走とかマラソンを見たことがあるでしょう。イヤー、あれは忍耐です。足がつってきたり、お腹が痛くなるかもしれません。それでも、彼らは走り続けます。パウロは晩年このように言いました。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。パウロは義の栄冠を目指して走りました。そして、パウロは「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言っています。ということは、私たちも栄冠をいただける可能性が充分にあるという事です。ハレルヤ!私はこれまでの生涯を振り返ると、何をやっても三日坊主であり、最後までやり通したものがありません。中学のときブラスバンド部に入りましたが、トランペットを吹かせてくれないので、1週間でやめました。その後、陸上部に入りましたが、これも1週間で辞めました。高校ではボクシング部を半年でやめてしまいました。18歳の最初の給料でトランペットを買いましたが、結婚と同時にやめました。ギターも一時はやりましたが、息子にあげてしまいました。だけど、皆さん、信仰だけは続いています。これはお陰様というよりも、イエス様の恵みによってであります。そうです。信仰生活を続けられるのは、主の恵みであり、あわれみなのです。「俺が、私が信じているんだ」ではなく、信じさせていただいているわけです。私がイエス様を捕らえたのではなく、イエス様によって捕えられている。こういう信仰が、最後のゴールまで私たちを導いてくれるのではないかと思います。どうぞ、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」。

2.イエスから目を離さず

 12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。レースをリタイヤせずに走り終え、栄冠を得るにはどのようにしたら良いのでしょうか。それはイエス様から目を離さないということです。主イエス・キリストはどんなお方なのでしょうか。第一に「信仰の創始者である」と言われています。創始者は別の訳では、指導者となっています。また創始者は英語の聖書では、Authorになっています。Authorとは、物語の原作者であります。イエス様こそ、信仰というノンフィクションの物語を書いた原作者であります。本を書くためには、まずあらすじが必要です。別な言い方をすると、神様の摂理、計画という意味です。物語は、背景、紛糾、サスペンス、クライマックス、結論となります。私たちも救われた背景があります。どんな家庭で生まれたのでしょうか。お父さん、お母さんはどのような人だったでしょうか。家は貧しかったでしょうか、それとも富んでいたでしょうか。どんな学校へ行き、どんなお仕事をされたのでしょうか。その次に、紛糾つまり問題が起こります。人生は平坦ではありません。自分に危害を加える人たちがいるでしょう。試験や仕事の失敗、失恋、病気、いろんなことが起こります。自分で一生懸命努力したけど、うまくきません。「一体、私は何のために生きているんだ!」と悩んだでしょう。そのとき、救い主イエス様と出会いました。ああ、この方こそ、私が探し求めていた「道、真理、いのち」。もう、すべてをささげて主イエスに従いました。アーメン、ハレルヤ!みんな、一人ひとり、人生の物語を持っています。誰一人、同じ人はいません。高村光太郎という人が、「僕の前に道はない。僕の後ろに道が出来る」と言いました。気持ちはわかりますが、道もなく、全く知らないところに行くのは不安です。しかし、主イエス・キリストは私たちを導いてくださる、創始者であり、指導者です。イエス様がわざわざ、天のみくらを捨て、この地上に来られました。イエス様は神の子でありながら、完全な人間として、この地上を歩まれたのです。苦しいことも、悲しいことも、拒絶も、落胆も、孤独も、貧しさも全部、味わわれたのです。なぜでしょう。それは私たちの、創始者であり、指導者となるためです。

 第二番目にイエス様は信仰の「完成者」です。新約聖書がギリシャ語で書かれていますが、創始者はアルケー、「始め」と言う意味です。そして、「完成者」は、テレイオー、「完成」と言う意味です。イエス様が信仰を始め、そして信仰を完成されたということです。イエス様はこの地上を歩まれたとき、父なる神様に完全に従われました。しかも、自分の神としての力を用いたのではなく、神の霊によって、すべてのことを成し遂げたのです。先月、エディ・レオ師が来られました。そのときこのようなことをおっしゃっていました。イエス様は悪魔の誘惑に勝利されました。私たちは、「ああ、イエス様は神の子だからできたんだ」と思うでしょう。しかし、そうではありません。イエス様はご自分の神の力で悪魔を退けたのではありません。もし、そうであれば、私たちには何の希望もありません。イエス様は人間としての力では、悪魔には太刀打ちできません。しかし、イエス様はご自分の神としての力ではなく、人間の力でもなく、神の霊によって、誘惑に勝利したのです。また、イエス・キリストは病の癒し、力あるわざ、様々なミニストリーストをなさいました。私たちは「ああ、イエス様は神の子だからできたんだ」と思うでしょう。しかし、イエス様はご自分の力でなさったことは一度もありません。もちろん、人間の力でもありません。イエス様はご自分の神のとしての力でも人間の力でもなく、神の霊によって父のわざを行ったのです。イエス様は「子は自分からは何もできない」と言われました。イエス様はご自分で、やろうと思えばできましたが、すべてのことを父に聞きながら、神の霊によって行なったのです。ですから、私たちもイエス様のように生きたならば、誘惑に勝利し、神のわざを行うことができるのです。その秘訣は、神の霊と神の力に満たされることです。ハレルヤ!

 イエス様のご生涯を見たならば、私たちは本当に感動します。イエス様は、十字架につけられました。犯罪者と同じように十字架につけられました。ローマ人から見たら忌み嫌うべきもの、イスラエル人から見たら呪われた存在です。しかし、ヘブル人への手紙を見ますと、仕方なくとか、イヤイヤながらとは書いてありません。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び」と書いてあります。ということは、イエス様は十字架の向こうにどんな栄光が待っているか、それを見て、喜んで十字架にかかったということです。イエス様は十字架の向こうに何を見たんでしょう。大勢の人たちが、罪に苦しみ、滅びに向っています。ところが、十字架の贖いを受け入れた人たちが、重荷を解かれ、光の中を歩んでいます。イエス様は、私たち一人ひとりの顔が見えたのではないでしょうか。だから、はずかしめをもろともせずに十字架にかかったのです。イエス様は父なる神様から捨てられ、陰府に下りました。ところが、3日目に、父なる神は御子をよみがえらせました。それから、御子は天に昇り、父なる神の右に着座されたのです。イエス様は、どん底から、天の高くまでひきあげられました。なんという高低差でしょうか。イエス様は人間となられたとき、どん底をなめられました。申命記33章に、「下には永遠の腕がある」(口語訳)と書かれています。イエス様がどん底まで下られたので、たとえどん底にいる人であっても、イエス様と出会うことができるということです。

 インドネシアにとても冷酷な牧師がいました。彼は笑ったことがなく、とても厳しい人でした。その人がエディ先生のセミナーに出ました。エディ先生は、地上の父親が、天の神様とっても関係があることをお話しました。冷酷な牧師のお父さんは酒を飲んであばれる人でした。彼が祈りの中で、子どものころを思い浮かべてみました。お父さんが酒を飲んでいて、震えている子どもの自分がそばにいました。とっても暗い思い出です。その時、割られたままの窓ガラスが見えました。こういう酔っ払いの人は、乱暴して割れたガラスをすぐ直そうとしません。2,3日前からその窓ガラスが割られていたままでした。彼は「ああ、そういえば、窓ガラスが割れていたなー」とはっきりとその光景が浮かんできました。割れた窓ガラスをよーく見ると、そこにイエス様の顔が見えました。イエス様が割れた窓ガラス越しに、お家の中を見ておられたのです。とっても悲しい顔をしていました。彼はびっくりしました。自分は知らなかったけど、あんなひどい状況の中に、イエス様がおられたのです。彼は泣きました。「エン、エン」と子どものように泣きました。泣き終わったとき、彼は癒されていました。もう、前の冷酷な牧師ではなく、とっても優しい牧師になったということです。私たちも、思い出したくない、暗い過去を1つや2つ、持っているはずです。暗い部屋で一人ぼっちだと思ったけれど、そこにイエス様がおられたのです。親も先生も、友達も分かってくれなかったとき、イエス様があなたの肩に手を置いていたのです。

 最後にこのお話をして終えたいと思います。私たちはレースを走っていますが、一人では完走することができません。実際に、このようなことがありました。あるお父さんの子どもが、生まれたときから体が麻痺して、歩くことも、しゃべることも、聞くこともできません。お父さんは、クリスチャンで、自分の息子を愛しました。その息子が大人になって、手話で伝えました。「お父さん、ボクには夢があるんです。あなたはスポーツ選手を育てるトレーナーです。ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」。トライアスロンといえば、3つの種目が1つの競技になって苛酷なレースです。最初は水泳であり4キロも泳ぎます。その次が自転車、200キロも自転車に乗ります。最後は41.6キロを走らなければなりません。フル・マラソンの距離です。お父さんは、何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。このお父さんは委員会にやって来て、自分の息子の名前を登録しました。委員会の人たちは「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんですか?そんなの、とても参加させられません」と言いました。しかし、お父さんは引き下がらないで説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は彼をボートに乗せます。私がそのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。でも、私はこの自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せます。そして私が彼を押します」。委員会の人たちは、涙を流しながら、レースに参加する許可を与えました。その日、多くの参加者がありました。みんな水泳と、自転車と、マラソンをして、ゴールしました。しかし、このお父さんと息子はかなり遅れました。人々は日が暮れても、帰らないで、彼らを待ち続けました。8時間たって、遠く方から人が来るのが分かりました。お父さんが車椅子を押していました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。私はそのビデオを見ましたが、息子さんが手をあげて満面の笑みを顔に浮かべていました。私たちはみんな罪人で、麻痺しています。私たちは自分の力で、レースを走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。私たちは、それぞれ、信仰のレースを走っています。先に天に行った大観衆が私たちを応援しています。聖霊様が私たちに力を与えてくださいます。イエス様がレースを導いてくれます。でも、それだけではレールを走り終えられるでしょうか。躓いたり、弱って倒れるかもしれません。ところが、最後に、父なる神様が私たちを運んでくださるのです。