きょうは、イエス様を信じて救われた人が、天国に入るまで、どうしたら良いのかということを学びたいと思います。教会がこの地上に生まれて以来、一度、与えられた救いを失うことがあるのかどうかということが議論されてきました。神学的にはいろんな立場があります。人が一旦、特定の神学を持ってしまうと、聖書をその神学の色眼鏡で見てしまいます。不思議なもので、その色眼鏡をかけると、ある部分は見えても、ある部分は全く見えなくなってしまうのです。本日は、そういう神学の色眼鏡を一旦、はずして、聖書から直接、聞きたいと思います。
1.一度、救われた人が滅びる可能性はあるのか
ジョン・カルヴァンという宗教改革者は、「神の絶対的な選び」ということを強調しました。カルヴァンは、「選ばれた者は、決して最後的に滅びることはない。なぜなら、神様から与えられた恵みを人は断ることができないからだ」と主張しました。私もこういう考えに同調している者のひとりです。なぜなら、救いは神の賜物です。お年玉のように、一旦、くれたものを、神様が「行ないが悪いから返せ!」という訳がないだろうと思うからです。Ⅰコリント3章に、「建物が焼けても、その人は、火の中をくぐるようにして助かる」と書いてあります。これは、信仰者がやって来たことがいい加減であったため、全部焼かれてしまった。でも、その人は丸裸でも、天国だけは入れると言うことでしょう。ヨハネ福音書には「信じるなら、永遠の命が与えられる」といたるところに書いてあります。永遠の命が何かの理由でなくなってしまうなら、それは永遠の命ではありません。クリスチャンは、滅びの列車から、天国行きの列車に乗り換えた存在であり、車内で眠っていても安心であります。でも、カルヴァンの神学にはいくつか問題があります。だれが選ばれて、だれが選ばれていないのか、客観的な証拠はどこにもないということです。もう1つは、救いを「信じて義とされた、天国行きの切符を得た」という1点に置くならば、救われた後の生活がいい加減になる可能性があるという事です。カルヴァンの神学はその当時のヨーロッパ全土に影響を与えました。しかし、教会が段々、堕落してきたのです。なぜでしょう。信仰義認という救いだけにあぐらをかいてしまったからです。18世紀、イギリスにジョン・ウェスレーが現れました。彼は、救いばかりではなく、救われた後の生活について強調しました。救われた人は、恵みによって聖い生活をすべきであると説いたのです。それまでのイギリスは大勢の人たちがアルコール中毒で死んでいました。ところが、ジョン・ウェスレーのリバイバルによって、酒場という酒場が閉店してしまったのです。救われた後、きよめられていくということを「聖化」と呼んでいます。ジョン・ウェスレーのおかげで、聖書から、「聖化」という部分が再発見されたわけです。つまり、救いは義認という点でとらえるだけではなく、天国へ行くまでの聖化の過程でもあるということです。
ところで、ヘブル人への手紙を、そのまま読むなら、震えが来ます。ヘブル人への手紙の記者は、「一度、信じた者でも、滅びる可能性がある」とはっきり告げています。ヘブル6章に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となったものが、堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」と書いてあります。そして、先ほど読んだ、10章の26節以降に何と書いてあるでしょうか。10:26-29「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」ヘブル人への手紙を先入観なしに見るならば、一度、信じた人も滅びる可能性があるということです。カルヴァン主義の人たちは、「これは一種のおどかしだ」とか、「たとえば、の話だ」、あるいは「いや、こういう人たちは初めから救われていなかったんだ」と言うかもしれません。私は救いを機械的に考えるのは間違いだと思います。確かに、本当にイエス様を信じた人であれば、どんなことがあっても天国に入れてもらえると信じます。でも、神を恐れ、救いを全うしなければならないという事も忘れてはいけません。ピリピ2:12も「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とあります。と言うことは、やがて神様の前に立つその日まで、罪を避け、キリストに似た者となるように努力しなければならないということです。私たちは一旦得た、「罪の赦し」と「永遠の命」と言う宝物をこの地上で、キープしなければなりません。
では、神を恐れるとはどういう意味でしょうか。神様はお友達ではありません。神様はやはり、神様です。でも、恐れるとは、「ああ、神様は私を滅ぼしてしまう恐ろしいお方だ!」と言う意味ではありません。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを閉め出します」と書いてあります。私たちは奴隷の霊を受けたのではなく、神様を「アバ、父よ」と呼べる霊をいただきました。もしも、奴隷なら主人を見てビクビクするかもしれません。しかし、息子ならば恐れません。私の6歳の有悟は、私を決して恐れません。牧師室にも勝手に入ってきます。夜8時になれば、「パパ、お風呂に入ろう」と牧師室にインターホンをかけてきます。私にとっては、夕食後のほっとしたひととき、ゴールデン・タイムなんです。また、いつも「おもちゃ買って」とせがみます。遠慮会釈ない、これが親子です。でも、皆さん、幼子はそれで良いかもしれませんが、息子として成長していくならどうでしょうか。父なる神様のみこころを知り、父なる神様の品性に似た者となりたいと願うでしょう。聖書全体を通して、「救い」を考えてみたいと思います。私たちはイエス様を信じると神の子供になります。この関係はいかなることがあっても、変わらないのです。でも、「私はイエス・キリストを信じるのをやめました。棄教します」と、はっきりと意思を持って、信仰を捨てた人は別です。そういうユダみたいな人はあまりいないですね。口先だけで「主よ」「主よ」と言っている人は、初めから救われていないのです。でも、皆さん、「心からイエス様の十字架と復活は私のためであり、イエス様を救い主として信じます」と告白した人は決して、救いからもれることはありません。これが福音です。もう一度言います。イエス様を信じると神の子供になり、この関係はいかなることがあっても、変わらないのです。でも、皆さん、クリスチャンが罪を犯すとどうなるでしょうか。神様との交わりが壊れるということです。父なる神様と私たちの間に、罪が入ってしまったのです。罪を犯しても、父と子供の関係は失いません。でも、親しい交わりが持てなくなります。では、どうしたら良いのでしょうか。罪を告白して、捨てます。そうしますと、再び、親しい交わりが回復します。本当に救いを得ている人は、神の戒めを無視したり、神の御子を踏みつけたりはしません。また、本当に救いを得ている人は、契約の血を汚れたものとしたり、恵みの御霊を侮ったりはしません。クリスチャンでも、誤って、というかたまたま罪を犯すことはあるかもしれません。でも、本当に救いを得ている人は、好きで罪を犯し続けることはしません。なぜなら、クリスチャンは神によって生まれた者であり、神の種が宿っている存在です。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書かれています。英語で真実はフェイスフル、信仰で満ちているという意味です。ちょっと、真実を信仰と置き換えてみましょう。「私たちは信仰に欠けることがあっても、御子イエスはいつも信仰に満ちている」ということです。つまり、私たちが拠って立つところは、私たちの信仰ではなく、イエス様の信仰なのであります。あくまでも、信仰とは自分のがんばりではなく、イエス様の恵みによって生きるということです。
2.忍耐が必要
ヘブル10:35-39「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」信仰は、あるとき決断するという点の部分が必要です。イエス様を信じるなら義とされ、救われます。でも、これは信仰のスタートであります。ヘブル人への手紙の記者は、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる」と言っています。来るべき方とは、イエス・キリストであります。聖書は、世の終わり、再びイエス・キリストが来られると預言しています。これを再臨と呼んでいますが、私たちは、世の終わり、再臨が来るまで信じ続ける必要があります。もちろん、その前に肉体のいのちが尽きるかもしれません。が、しかし、私たちは個人的な人生の終わりもそうですが、この世が終わり、御国が完成するという時代に生きています。主イエス・キリストが来られたら、死と悪魔が滅ぼされ、罪もなくなります。私たちはその時栄光の体に変えられ、永遠の御国に移されるのです。本当に、この世の人が聞いたら、「お前ら、アホか」ということを真剣に信じています。残念ながら、キリストを信じていない人は、希望がありません。しかし、クリスチャンは、既に永遠に片足を突っ込んでいる存在です。間もなく、この世は終わりを告げます。私たちは、新しい肉体をいただいて、今度は、新しい天と新しい地に移り住むのです。青虫は地面をはい、葉っぱを食べて生きています。ところが、ある時、死んだように動かなくなります。間もなく、背中がパックリ割れ、そこから蝶が出てきます。あの青虫が、蝶になるなんてだれが想像できるでしょうか。蝶はもはや、青虫には戻りません。蝶は天空を舞うのです。私たちも醜い地上の体で蒔かれ、やがては美しい天上の体でよみがえるのです。皆さん、永遠と比べたら、地上の80年なんて、たったの一瞬であります。皆さんは、どちらで暮らす者でしょうか。地上の80年間と暗いお墓の中でしょうか、もしくは天上の住まいにおける永遠の世界でしょうか。わおー、そういうことをまともに考えると、頭がおかしくなりますね。クリスチャンは地上に住んではいますが、天国の国籍を持っている存在なのです。
ヘブル人への手紙の記者は、私たちに何と言っているでしょうか。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」。そうです。信仰には、最後まで、信じ続けるという忍耐が必要なのです。みなさん、こういう忍耐は、世の中が平和な時よりも、迫害に満ちているときのほうが持ちやすいのです。ローマ時代の迫害時、共産主義の迫害時、日本では徳川幕府の迫害がありました。迫害のときには、確かに信仰を捨てる人たちがいます。でも、逆に「絶対、信仰を捨てないぞ!」とかえって、歯を食いしばるのです。一番、問題なのは迫害時ではありません。むしろ平和な時代であります。豊かで平和な時代は、神様を求めようとしません。日本は今、平和な時代です。だから、クリスチャンの信仰も生ぬるく、自分の生活のことしか考えません。インドネシアとか中国、アフリカなどは、迫害、貧困、飢餓があります。だから、人々の信仰が燃え上がっています。この間、インドネシアからエディレオ師が来られました。インドネシアはイスラムの迫害が最も強い国の1つです。しかし、神様はクリスチャンの祈りを聞いて、国を揺り動かしています。昨年、起きた津波、そしてこの間の地震は、伝道できないほどイスラム教が強いところでした。しかし、災害が起きたゆえに伝道ができるようになったということです。今の日本がいつまでも平和が続くと思ったら大間違いです。石原先生が言っていましたが、日本は終戦前の7月だと言うことです。日本は8月15日に降伏しますが、1ヶ月前は、「日本は勝っている大丈夫だ」と新聞で報道していました。ところが、それがみんな嘘だったんです。8月15日から、一瞬のうちに、軍国主義から民主主義に変わりました。心理学者の服部氏は、日本はひきこもりで滅びるとはっきり告げています。ひきこもりは現在100万から160万人いるそうです。ひきこもりになると、働けないし、結婚も出来ないし、子孫も残すごとができません。ところが、服部氏に言わせますと、潜在的なひきこもり、ひきこもり予備軍は60-90%いるということです。また、国の借金は800兆円だということです。いつ、日本が経済的に破綻してもおかしくありません。日本政府はマスコミに圧力をかけ、ひたすら隠していますが、終戦前の7月だと言うことです。もうすぐ、8月15日がやってきます。服部氏に言わせますと、日本は一期に変わる国であるということです。クリスチャンは、教会はそのために備えたいと思います。
38節の「私の義人は信仰によっては生きる」とは、旧約聖書のハバクク書からの引用です。ハバククの頃は、ユダ王国に末期的症状が起きてきていました。彼らは神様との関係も形ばかりでいのちがありませんでした。神の預言者たちは「もうすぐ、主が強暴なカルデヤ人を興して、攻め上ってくる」と預言しました。ところが、国の指導者たちは、しらんぷりして安逸を貪っていました。ハバククは、「多くの預言者たちが、何度も警告しているのに、この国はどうなってしまったんだ!」と嘆きました。ユダ王国は、経済的には富んでいたかもしれませんが、霊的には全く不毛の地でした。まともに神を信じている人たちが、ものすごく少ない悪い時代だったのです。そういう状況の中で、「私の義人は信仰によっては生きる」と言ったのです。ハバククは、その絶望的な状況のなかでさらに何と言っているでしょうか。ハバクク書の最後です。ハバクク3:17‐19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」このみことばは、今の日本を現しています。日本は本当に霊的に不毛な地です。福音の種を蒔いても、蒔いても、芽が出ません。たとえ、芽が出たとしても、石地やいばらの地に蒔かれた種のようで、豊かな実を結ぶことができません。
今月の初め、蒲郡に行ったとき、大阪の遠藤牧師が「日本の教会の現実」について、ある教会リサーチをもとに、このようにお話しされました。クリスチャン人口は現在、0.22%。1教会の礼拝出席は24人である。日本の教会で一番多いのは10名から15名。日本の教会の65%は一年間、ひとりも受洗者が起こっていない。洗礼者は1年間に平均1.3人。そして、受洗者のほとんどが、2.7ヶ月後には教会に来なくなる。1つの日曜学校の平均は9名。教会の45%が日曜学校を持っていないので、実際の平均はもっと少ない。これが日本の現実であるが、私は今後、日本が2つの教会に確実に別れていくと感じる。1つは霊的な不況の中で、形だけになって行く教会。もう1つはその中にあってもいのちを持って前進していく教会。向こう10年間で、牧師が高齢化して無牧になる教会が数え切れないほど出てくる。そういう流れがある中で、間違いなく神様は、生き生きとした命を持った教会を作っていかれている、あるいは残しておかれている。私はそれを温室効果と呼んでいるが、温室効果のある教会というのは、どんなに気温が低くても、その中では収穫がもたらされる。そして、温室効果をもたらすことができる教会は、いのちを中に含んでいる。そして、温室は何かと言うと、神の現実を知っている教会である。教会全体を見ると、非常に厳しいものがあるが、神様はその中から確実に、生きた素晴らしい教会を生み出す時期に至っている。宣教学的に言うと、ある国にリバイバルが起こるときには、国家的な危機とか問題が起こることが重なっていること多い。日本はなかなか、崩れない国であったが、60‐90%が潜在的ひきこもりである。それは確実に国家を崩壊させる大きな出来事である。ここに教会が結びつくことができると、大きな収穫があると思う。今までの教会は福音だけを伝えるか、社会福祉をする教会か2つに分かれていた。ひきこもりに対する対応は、教会が福音を宣べ伝えると同時に、社会に仕えて、キリストの愛を現す出来事である。
遠藤牧師は淡々と日本の教会の悲惨さと希望について語ってくれました。私はこれまで他の教会はともかく、自分の教会が大きくなれば良いと思っていました。しかし、それは我がままな教会です。そうではなく、日本が救われるために、私たちに何が出来るか。日本を救うために、私たちを用いてくださいという願いに変わりました。石原牧師は「日本はタイタニックで言うと、65%が水に浸かっている状態。もうまもなく、船は垂直に傾き、悲惨な状態で沈没してしまう」とおっしゃっていました。私たちはまもなく沈むタイタニックの中で、サービスが悪いとか、食事や音楽がどうのこうのと言ってられません。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。私たちはキリストの愛といのちを持って、滅び行く日本のために仕える教会になりたいと思います。ヘブル書は「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる」と言っています。義人とは新約聖書では、クリスチャンのことです。私たちはどんな霊的不毛な時代にあっても、忍耐をもって信仰によって生きるのです。もうしばらくすれば、来るべき方が来られます。「主よ、この町に来てください。この日本に来てください。そして、救いとみ栄えを現してください」と祈り求めましょう。