ヘブル人への手紙は、旧約聖書と新約聖書を結びつける、とっても重要な書物です。旧約時代は祭儀を守ることによって、神様に近づき、礼拝をささげました。一般のイスラエル人は、犠牲を携えて、中庭まで入ることが許されました。しかし、幕屋に入ることが許されるのは、祭司と大祭司でした。幕屋は「会見の幕屋」とも呼ばれ、神様とお会いすることができる特別な場所であります。幕屋は2つに仕切られており、手前が聖所であり、その奥が至聖所であります。これから大祭司になったつもりで、中庭から幕屋へとご一緒に入りたいと思います。その前に、ヘブル9:9「この幕屋はその当時のための比喩です」と書かれています。聖書の下段に書いてありますが、「今の時のことをさす比喩です」とも訳すことができます。つまり、幕屋の1つ1つには、象徴的な意味があるということです。幕屋に入りながら、その意味も一緒に学びたいと思います。
1.幕屋の手前
聖所へは簡単に入れません。その手前には、祭壇と洗盤があります。イスラエルの民は清い動物を携えてきました。まず、連れて来た人が、動物の頭の上に手を置きます。「これは私の身代わりです」という意味です。祭司は動物をほふって、その血を祭壇の周りに全部注ぎます。これは罪の赦しを象徴します。祭司はその動物を切り分け、火で焼き尽くします。これは「全焼のいけにえ」と言われ、全き献身を意味します。つまり、「神様の前に自分をささげます」ということなんです。「キリストの血によって、罪を聖めていただいた後、自分自身をささげる」。これが礼拝であります。「わぁー」、こういう気持ちで礼拝をささげておられるでしょうか。ひょっとしたら、「賛美の娘、可愛いなー、お昼一緒に食事したいなー」なんて、よけいなことを考えてはいないでしょうか。そうじゃなく、礼拝は自分自身を神様の前にささげるということなんです。それから祭司たちは、洗盤で身を清めます。白い麻布を織った着物を着て、血を携え、いよいよ幕屋へと入ります。私たちはイエス様を信じることによって、義の衣が与えられます。これを着ていれば、中身がどうであろうとも、神様から「あなたは義である」とみなされるわけです。みなさん義の衣を着ていますか?「いや、きょうはジーンズとTシャツです」。ま、それでも構いません。でも、イエス様を信じると、義の衣が与えられるんです。これを着ていると、サタンからさばかれません。だれからも後ろ指をさされることもありません。罪が覆われているからです。だれかがやって来て、「鈴木!お前が、クリスチャンになる前に犯した罪を洗いざらい、ぶちまけてやるぞ!」と言われても、平気なのであります。
年に一回、「贖いの日」、大祭司はきよい動物の血を携えて、聖所、そして奥の至聖所へと進み行きます。これは、新約的には、イエス・キリストの血を信じる信仰であります。神様に近づくために必要なものは、賛美よりも、むしろ血であります。詩篇95:2「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌を持って、主に喜び叫ぼう」と書かれています。また、詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあります。どちらも、withとなっていますので、「賛美をしながら、賛美を持って」という意味であります。賛美は必要じゃないのですか?もちろん、賛美も必要です。でも、賛美は、私たちのくちびるの果実であり、むしろささげものであります。ペンテコステ系の教会は、賛美をたくさんして、主の臨在を仰ぎます。賛美が足りない場合は、もっと賛美をします。「んー、まだ、足りない」と言って、1時間くらい賛美をするかもしれません。それから、「おー、主の臨在を感じる」と言います。そうではありません。私たちが賛美をたくさんして、神様を天から引き降ろすのではありません。神様はすでにここにいらっしゃいます。では、どうやって、神様の臨在に入るのでしょうか。それは、By blood of Jesusイエス・キリストの血によってです。「イエス様が私たちの贖うために、十字架について、血を流してくださいました。私たちはイエス様の贖いの血を受けている者です。イエス様の血潮を感謝します。アーメン。」これが大事です。十字架の血を仰ぐことによって、私たちの良心が聖められ、主に近づくことを可能にしてくれます。
それでは、入口の垂れ幕を通って、聖所に入りましょう。聖所の中は暗いんですが、燭台の光がともっています。目がなれると、あざやかな色彩が目に入るでしょう。幕屋の外側はじゅごんやアザラシの皮で作った天幕です。黒に近い灰色で、あまり見栄えはしません。それはイザヤ書にあるように、イエス・キリストの外側であります。「彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(イザヤ53:2)。この世の人たちは、十字架にはりつけにされたイエス・キリストを美しいとは思いません。新興宗教の人たちは、「なんと、あわれな教祖なんだ」と馬鹿にするでしょう。でも、イエス様の内部はどうでしょうか。幕屋の内部は、亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸でケルビムが刺繍されています。豪華絢爛とはこのことであります。ヨハネ1:14「この方は恵みとまことに満ちておられた」。コロサイ2:9「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。讃美歌に、「聖なる主の美しさ」と言う賛美があります。「聖なる主の美しさと、その栄えを仰いで、まごころもて、み前に立ち、御名をたたえ、あがめよう」。日本語で「美しい」と言う表現は、むしろ女性に使われるのではないでしょうか。「美しい」はギリシヤ語でカロスですが、「善い、非の打ち所のない、立派な、すぐれた」という意味もあります。ヨハネ10:14「私は良い牧者です」とありますが、言語では、「カロス牧者」であります。イエス・キリストは「良い方、美しい方、麗しいお方」なのであります。ある人たちは、「自分は信仰が浅いから」などと言います。信仰の深さを、どこで測ることができるのでしょうか?それは簡単です。「イエス・キリストをどのようなお方として信じているか」であります。「ナザレの大工」として見ているか、それとも、「生ける神の子キリスト」と見ているかであります。あなたがイエス様をどのように見ておられるか、それがあなたの信仰の度合いです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。アーメン。
2.幕屋の聖所
聖所には、燭台と机と金の香壇があります。でも、ヘブル人への手紙9章には、金の香壇が至聖所にあるかのように書かれています。旧約聖書は、香を焚く香壇は手前の聖所にあるようですが、ヘブルの記者はそうじゃないように書いています。一体、香壇はどこにおいていたのだろうか、「秘密」、ミステリーであります。いいえ。このことが「幕屋の秘密」なのではありません。香を焚く香壇は、どこに置いても良いということにしておきましょう。それよりも、幕屋の内部には、燭台と机があります。燭台の枝が7つに分かれて出て、その先にともしび皿がついています。このように、左右対称になっており、アーモンドの花をイメージしています。祭司たちは夕から朝まで、火をともしました。燭台は、「イエス・キリストは世の光である」ことを象徴しています。また、クリスチャンも教会も世の光であります。黙示録には「イエス・キリストが、7つの金の燭台の間を歩く」と言われています。黙示録2:5「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」。これは、個人においても団体においても言えることですが、罪の中にとどまるなら、燭台が取り除かれてしまいます。つまり、世の光としての役目を失い、輝きがなくなるということです。日本基督教団はどうでしょうか?亀有教会はどうでしょうか?そして、あなたはどうでしょうか?プロレスの猪木が「元気ですかー」と叫びます。私たちはお互いに「輝いていますかー」と叫びましょう。もし、輝いていないなら、どこから落ちたかを思い出しましょう。そして、悔い改めて初めの行ないに立ち返りましょう。信仰生活においては、道からそれちゃったり、倒れることもあるでしょう。でも、倒れることは罪ではありません。倒れたら、立ち上がれば良いのです。この間、ドニー・マクラキンがコンサートで賛美していました。「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」です。
もう1つ聖所には、机があります。その上には12個のパンが並べられています。パンは毎日、焼いて供えます。祭司たちは、その日の終わり、そのパンを敷地内で食べました。家に持ち帰ることは禁じられていました。イエス・キリストはヨハネ6章で「私はいのちのパンである」と言われました。いのちのパンであるイエス・キリストを食べる、つまり信じる人は、永遠に生きるのです。みなさんは、イエス・キリストを食べましたか?イエス様の言葉を聞いた人たちは、「なんとひどい言葉だろう」とつぶやいて去って行きました。食べるとは、自分の中にとりこみ、キリストと一体化するということです。もし、キリストが毒であるならば、死ぬかもしれません。だれでも、最初は迷ったかもしれません。今も迷っている人がおられるかもしれません。日本人は食わず嫌いの方が非常に多いですね。グルメなどは、「まいうー」なんて食べるくせに、「キリストは結構です」とおっしゃる。イエス様は「いま食べ飽きているあなたがたがは、哀れなものです。やがて、飢えるようになるからです」と言われました。イエス様以外のもので、満腹している人たちは哀れな人たちです。病院には、癌のために余命いくばくもない人たちがいます。でも、イエス・キリストは命のパンです。イエス・キリストを食べるなら、たとえ死んでも生きるのです。私はパンが大好きです。田舎では、もうすぐ、田植えです。今は機械ですが、昔はすべて手作業でした。男衆は苗代から苗を運んできます。そして、田んぼに入いると、大きな型を回して、格子状の印をつけます。その後、あねさんたちが、印の上に稲の苗を植えていきます。子どもの仕事は、彼女らの前に、苗の束を投げることです。「どのくらい投げたらちょうど良いか」考えながら投げます。たまに、「やす、1つほってけれ!」と言われます。「はいよ!」なんて、遊び感覚で面白い。お昼は、パンが出ます。ジャムパンです。ぱくっと割ると赤いジャムが出てくる。これがまた美味しい。当時は、パンがご馳走だったんです。「パン」と聞くと、貧相なイメージを持つ人がいるかもしれませんが、私にとってパンはリッチな感じがします。イエス・キリストは、天から来られた命のパンです。この世にはいろんなパンがありますが、命のパンはイエス様しかおられません。まだ、食べていない方は、ぜひいただいてください。
3.幕屋の至聖所
さて、聖所の奥は至聖所です。聖所と至聖所の間には、隔ての幕があります。これは「仕切りの垂れ幕」とも呼ばれ、その先は、だれでも入れるわけではありません。大祭司が年に1回、「贖罪の日」にだけ入れます。大祭司の衣の裾にはいくつかざくろの形をした鈴がついています。そして、足にはロープが結わえられています。幕屋の外にいる人たちは、鈴の音を聞いて、「ああ、ちゃんと生きている」とわかります。「あれ?鈴の音が聞こえないぞ。もしかしたら、神に打たれたのかもしれない」。そういうとき、大祭司の足についていたロープを外から引っ張るのです。何が起こったとしても、至聖所には入れないからです。ですから、この日は、大祭司にとって、最も緊張する日であったと思われます。やばい罪を隠していたなら、打たれるからです。これだけ、神様に近くということは、大変だということです。さて、至聖所には何があるのでしょうか?それは、契約の箱であります。ヘブル9:4「そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋(しょくざいがい)を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません」。
契約の箱は、神の臨在のしるしです。そして、契約の箱の蓋が、もっとも重要です。なぜなら、主が「わたしがそのところであなたに会う」と言われたからです。箱の蓋は、「贖いのふた」もしくは「贖罪所」と呼ばれ、純金でできていました。一年に一度、贖罪の日、大祭司はヤギと牡牛の血を携え、贖いの蓋の上に振り掛けて、民の罪の贖いをしました。贖いの蓋の両端から、金で作ったケルビムが羽を広げて、中央を見ています。ケルビムは、罪を犯したアダムとエバが二度と、エデンに入らないように見張っている御使いです。ここでは、両脇のケルビムが羽を広げながら、贖いがなされるのを見ようとしています。「贖いの蓋」を、ギリシヤ語では「ヒラステーリオン」と言いますが、「なだめる」と言う意味があります。使徒パウロはローマ3章で、同じ言葉を用いています。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」。また、ヨハネもⅠヨハネ2:2で「全世界のためのなだめの供え物」と言っています。ここで言われている、「なだめの供え物」とは「贖いの蓋」と同じヒラステーリオンであります。どういうことかと言いますと、イエス・キリストが「贖いの蓋」「なだめの供え物」であるということです。「なだめ」というと異教的な感じがしますが、そうではありません。みなさん、人間の罪は神様の怒りを引き起こします。義なる神様は、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に対して、怒りを覚えておられます。旧約聖書を見ると、「神様は罪に対して必ずさばきを下すお方だ」ということがわかります。神様は髭をはやした優しいおじいちゃんではありません。神様は友達ではありません。神様は、1片の罪に対してもさばきを下さなければならない義なるお方です。だから、私たち神様をなめってかかってはいけません。
しかし、みなさん、義なる神様は、同時に愛なるお方です。神様は人間から罪を取り除いて、なんとか愛することはできないかとお考えになられました。どうされたのでしょうか?動物では限界があります。ご自分のひとり子「御子イエス」に、全人類の罪をかぶせ、御子を代わりにさばいたのです。神の怒りが御子イエスの頭上にくだりました。そのとき、イエス様は「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか?)と泣き叫びました。御子イエスは父なる神様から断罪され、地獄に落とされたのです。イエス様の叫びは、本来、私たちが地獄から叫ぶべき言葉だったのです。しかし、すばらしいことが起こりました。御子の死によって、神様の怒りがなだめられたのです。神様は御子の死によって、満足したのです。今や、神様は十字架の贖いによって、怒りをひっこめ、どんな罪人でも、あわれみをもって赦されるのです。もはや、私たちは「神様、あわれんでください」と言わなくても良いのです。なぜなら、キリストの十字架によって、神様はあわれみ深いお方に変わられたからです。神様は本来、変わらないお方なのです。でも、キリストの贖いを通して、罪人に対する、態度を変えてくださったのです。みなさん、どんな罪人であっても、キリストのもとに来るならば、神様の怒りが下ることはありません。夏になると雷が鳴り響きます。私は栃木の那須で仕事をしていたことがありますが、本当に、雷がすぐ近くに落ちます。鎌の上とか、ゴルフのクラブに落ちたりします。なんと、入れ歯に落ちるケースもあるようです。都会の空を見ると、ビルの上には必ず避雷針が立っています。避雷針の高さの半径に当たる所には雷は落ちないようになっています。神様の怒りは罪に対して落とされます。でも、イエス様は十字架にお架かりになり、今や、罪の避雷針になってくださったのです。イエス様のところに身を寄せるなら、あなたの罪は赦され、裁きに会うことはないのです。新約の私たちは神様の御座に大胆に近づくことができるようになったのです。ハレルヤ!
今、鈴木崇巨先生の書かれた「牧師の仕事」という本を読んでいます。その本の中に、「礼拝の構成と流れ」と言うことが書かれていました。「キリスト教の礼拝は、懺悔をもって始めるのではなく、主への賛美を持って始めます。幕屋の礼拝において、祭司が手足を洗う前に、まず第一に全焼のいけにえをささげ、その良い香りが天に昇ることによって受け入れられることをしなければなりませんでした。クリスチャンもまず主に受け入れられなくては、懺悔の祈りすらできません。主イエス・キリストの十字架の血によってあがなわれて受け入れられているので賛美の祈りが出てきます」。私は「懺悔の祈り」と言う、名目で祈ったことはあまりありません。「悔い改め」なら、もちろんあります。私たちは神様に近づく時に、自分の罪や足りなさに気が付くかもしれません。もちろん、そういう自覚も大切です。でも、私たちがもっとも注目すべきことは、キリストの贖いによって、すべての罪が赦されている。父なる神様はもはや怒ってはおられない。こちらが「あわれんでください」と言わなくても、すでにあわれみをかけていらっしゃるお方です。みなさん、恵み深い神様に近づくとき、「罪なんかもう犯したくない。あなたのように聖くありたい」と自然となります。人から、「悔い改めなさい」とか「その所を変えなさい」と言われると、よけい頑なになります。これは、「北風と太陽」の話と同じです。でも、私たちがキリストを通して、神様に近づくとき、おのずと変えられていきます。神様の方は、無条件の赦しを与えておられます。問題は、私たちが神様の前に心を開くことです。私たちはキリストの血によって、至聖所におられる神様のもとに大胆に近づくことが許されています。ダビデは、詩篇23篇で「私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」と歌いました。「あなたと私」の関係になったんです。主イエス・キリスト様と「あなたと私」という深い関係にならせていただきましょう。