契約は、旧新約聖書の中心思想を表す語であります。ということは、契約の意味が分かれば、聖書が大体わかるということです。前にも申し上げましたが、旧約聖書は英語で、Old Testamentと言います。これは、古い契約あるいは古い遺書と言う意味であります。一方、新約聖書はNew Testamentと言います。これは、新しい契約あるいは新しい遺書と言う意味であります。遺書は死んでから有効になります。本来、神様は死なない方ですから、遺書という訳はふさわしくありません。でも、神が人となられた、イエス・キリストは一度死なれました。ですから、新しい遺書と言えば、言えないわけでもありません。では、イエス様の遺言とは、何でしょうか。それは、新約聖書にある1つ1つの言葉であります。その代表的なものを1つ紹介したいと思います。マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。信じてバプテスマを受けるとは、新しい契約に同意すると言う意味であります。ところで、契約には5つの要素が含まれます。当事者、条件、約束、罰則、そして批准であります。批准とは、「契約を確認しました、同意しました」という最終の手続きであります。ただ今から、これら5つの要素を取上げながら、旧約と新約を比較しながら学びたいと思います。
1.契約の当事者
旧約聖書における契約の当事者はだれとだれでしょうか。古い契約と言えば、それはシナイ契約であります。イスラエルの民はエジプトから脱出し、シナイ山のふもとにやってきました。そのところで、神様とイスラエルの民が結んだ契約が、シナイ契約であります。神様がイスラエルの民を選んで契約を結んだわけであります。そして、この契約の仲介者がモーセでありました。では、新しい契約の当事者とはだれとだれでしょうか。神様と新しい神の民です。クリスチャンと言っても良いでしょう。そして、この契約の仲介者がイエス・キリストであります。前も申し上げましたが、イエス様が契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです。キリストの体の中にいたのです。なぜなら、教会のかしらはキリストであり、体は私たちだからです。もし、私たち人間が神様と直接、契約を結ぶなら、100回やっても、100回失敗するでしょう。でも、キリストは失敗しません。Jesus never fails.教会のかしらなるキリストが、私たちに代わって、父なる神様と契約を結んでくださった。これが新約であります。
2.契約の条件
旧約における条件とは何でしょうか。それは、十戒をはじめとする律法であります。律法に服従するということが条件でありました。イスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と口をそろえて答えました。その言葉は、出エジプト記19章、24章、申命記5章に書いてあります。でも、どうだったでしょうか。イスラエルの民は、神様に背いて偶像礼拝を行なうし、安息日は破るし、つぶやくし、ことごとく律法を破りました。なぜでしょうか。それはアダムが罪を犯したために、罪が人間の中に宿っていたからです。アダム以来の人間は、たとい罪を犯さなくても、罪人なのであります。旧約聖書はイスラエルの民の不服従、不信仰の歴史でありました。古い契約は、神様が罪人と結んだという所に限界があります。では、新約における条件は何でしょうか。それは、福音を信じるということであります。なぜ、信じるだけで良いのですか?イエス・キリストが私たちの代わりに、律法を全うされたからです。旧約聖書には「アブラハムが信じて義と認められた」という記事があります。同じように、異邦人である私たちも信仰によって義と認められるのです。ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」。イエス・キリストが律法の呪いを受けられたのです。だから、私たちは信じるだけで、アブラハムと同じ祝福が与えられるということです。みなさん、信じるということは、頭で「神様の存在を信じる」ということではありません。「十字架にかかり、三日目に復活したイエス・キリストを、私の救い主、主です」と信じて、人生をゆだねることであります。
3.契約の約束
旧約における約束は何だったでしょうか。私は2つあるのではないかと思います。第一は、出エジプト19:5-6「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。つまり、イスラエルが全世界に対して、祭司の王国、聖なる国民になるということでした。第二は、約束の地、カナンで安らかに住まうということです。申命記11:9「主が先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で長生きできる」と約束されています。では、新約における約束は何でしょうか。これも2つあります。第一は、私たちが祭司の王国、聖なる国民となると言うことです。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」。私自身、このみことばが開かれて驚きました。「私たちに対する約束は天国に住まうことかな?」と思いました。それだけじゃありません。この地上において、王である祭司として、神様の素晴らしさを証する使命があるということです。自分たちだけが救われて「良かった、万歳!」と喜ぶだけではなくて、祭司として日本の国民を神様のところに連れて行く使命があるということです。なんと、どえらい使命でしょうか!私たちは、亀有教会が大きくなる事だけではなく、「日本の国民がキリストの弟子となるために仕える」と言う大きなビジョンを持つべきであります。
第二は、もちろん私たちが御国に住まうことであります。ヘブル人への手紙には「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」(ヘブル12:22)と書かれています。イエス様はヨハネ14章で「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」と言われました。最近の日本人は、死んだ人に対して、「あの人は天国に行った」と簡単に言います。それは嘘です。だれでも天国に行けるわけではありません。父なる神と、イエス様を信じた人だけであります。この地上の人がみんな自動的に天国に行くなら、天国は地上と同じものになるでしょう。天国でも、泥棒に入られないようにドアに鍵をかけるのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストによって罪赦され、神の子供となった人だけが入れるのです。天国への道は狭い門です。でも、それは確かな道であります。イエス・キリストが道であり、真理であり、命なのです。
つまり、クリスチャンのゴールは天国だけではなく、地上でも祭司としての使命があるということです。使命を成し終えた人が、「ハレルヤ!」と天国に凱旋するのです。私が最も尊敬する伝道者、韓国の申賢均先生が今月の初め、天に召されました。海外で250の集会、韓国国内で5300のリバイバル集会を導きました。私はおそらく、10回以上は出席しているんじゃないかと思います。申先生のお得意のメッセージの1つは、ローマの凱旋将軍のお話でした。凱旋パレードでは、将軍が軍馬にまたがり、その後に兵士が続きます。そして、その後には数々の戦利品と捕えられた敵の大将たちです。家に着いて馬から下ります。すると、ドアが開いて、男の子が「パッパー」と駆け寄ってきます。子供をだっこして、ほおずりします。その後、美しい妻が「ダーリン、お帰り」とやって来る。「お、ハニー、無事に帰ってきたよ」と言いながら、熱い口付けを交わす。お風呂に入って、勝利をかみ締める。祝杯をあおった後、妻を抱きしめる。「妻を抱きしめる」というところだけが、頭に残っていますが、クリスチャンは凱旋将軍にならなければならないということです。罪に負けて、やっとこさっとこ、天国にすべりこむというのも良いでしょう。でも、どうせ天国に入るなら、勝利したクリスチャンとして、凱旋したいですね。
4.契約の刑罰
旧約の場合、契約に違反した者に与えられるのは「死」であります。最初の契約は、エデンにおける、アダム契約であります。最初の人、アダムが約束を破ったので、死が人類に入るようになりました。では、シナイ契約以降はどうなったでしょうか。神に打たれて突然、死ぬということが良くありました。他に地面が割れたり、火が降ってきたり、あるいは疫病、毒蛇、ききん、外敵が襲ってくるというようなことが書かれています。それは神の裁きと言って良いかもしれません。では、新約における刑罰とは何でしょうか。まず、イエス・キリストは古い契約違反における罰を十字架で受けてくださいました。ヘブル9:15の後半に「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです」と書かれています。イエス・キリストが契約の違反に対する、罰を全部、受けてくださったのです。神様は、イエス・キリストが十字架の贖いを成し遂げられて以来、すべての人類に対して、怒りをひっこめてくださいました。神様はもう、怒ってはおられません。その代わり、神様は「どうかキリストによってなされた和解を受け入れて欲しい」と懇願しておられます。でも、キリストの贖いを受け入れない人に対して、終わりの日、神様はどうするでしょうか。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように…」。再臨が来ない限り、肉体的に一度死ぬことは免れません。でも、死んだらおしまいではありません。「死後、さばきを受ける」と書いてあります。一方、ヨハネ福音書には、「キリストを信じる者は、さばきに会うことがない」と書いてあります。ということは、神様のさばきの前に、立たなくても良いということです。なぜなら、キリストがその人の代わりにさばかれたからです。しかし、キリストを信じない人はどうなるでしょうか。そうです。その人は、神様の前にじかに立つのです。神様との間には、贖罪者も弁護者もいません。自分の義で、まっこう勝負するしかありません。残念ながら、神の義と人間の義では、全くレベルが違います。人間がいくら正しくても、神の義の前には、全く不完全、不十分であります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・」とあるとおりです。神様は、その人に、それまで犯した個々の罪を問いません。それよりも、「あなたはなぜ、キリストを信じなかったのか。どうして、私の恵みを蹴ったのか!」と問うのです。すべての罪の中で、一番、大きな罪は何でしょう。殺人や盗み、姦淫ではありません。それは、「救い主を信じない」ということが最大の罪なのです。この時、下される神のさばきは、肉体の死ではなく、永遠の死であります。
先週、鹿野姉が『天国は本当にある!』と言う本を紹介していました。作者は17回天国に連れて行かれ、地獄を2回見ることができました。その本の前半に「地獄の穴」という記事がありました。・・・主は私を天国の門の外に連れて行かれました。私たちが山頂に到達して、そのてっぺんを見ると、深い穴から蒸気と黒い煙が出ていました。その穴は火山の火口のように見え、その中では、多くの人たちが炎で燃やされていました。人々は、大やけどを負ったことがある者だけが分かる苦しみの中で、絶叫していました。人々には髪の毛がなく、裸の状態でした。彼らは虫のようにくねくねともだえ、火炎が彼らの体を燃やしていました。その穴に閉じ込められていた人々は決して、そこから逃れることができませんでした。彼女は「主よ、私の両親はどうなりましたか?彼らは救いを受けませんでしたが、良い人々でした」と尋ねました。イエス様は、「私の娘よ、すまないが、私を知らない者たちは、どうしてやることもできないのだ」と、悲しい声で答えました。翌日、その本の記者は再び煙の出る穴に連れていかれました。なんと、立ちこめる煙の中に、お母さんがいました。私に手を伸ばして「熱すぎる、熱すぎる」と悲鳴を上げました。私に助けを求め哀願する母の目、それはひどく生々しいものでした。母はイエス様を知らなかったので、主さえも彼女を助けることができなかったのです。私の父、継母、そしてたった19歳で死んだ親しい友達も皆、地獄にいました。彼らの姿もやはり自分が覚えている通りでしたが、罪の罰のゆえに、苦悩でゆがんでいました。私はそれ以上見ることが出来なくて、目の前の恐ろしい光景から顔をそむけてしまいました。そのとき、主が沈黙を破られました。「私の娘よ、私がこのことを見せた理由は、どんなに良い人であっても、私を受け入れないならば地獄に落ちてしまうという事実を、あなたが完全に悟るようになるためだ」。・・・ある人たちは、天国もなければ、地獄もないと言うでしょう。でも、そうではありません。作者がこのように述べています。「天国が実際にあるという事と同じように、地獄もやはり実際にあるという事実を知る必要があります」。
5.契約の批准
批准(ひじゅん)とは、「契約を確認しました」という最終的な同意の手続きです。旧約聖書のことは、ヘブル9:19以降に書かれています。モーセが、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけたという、「契約の血」であります。では、新約ではどのようになっているのでしょうか。イエス様が「過ぎこしの食事」の後、杯を取りながら「これは私の契約の血です。多くの人のために流されるものです」(マタイ26:28、マルコ14:24)と言われました。ルカ福音書には「私の血による新しい契約です」と書いてあります。イエス様は、モーセが言ったことを意識していたに違いありません。これは「イエス・キリストの血によって、この契約が成立した。もうだれも、この契約を破ることは出来ない」ということです。私たちも契約書ができあがると最後に、朱肉を付けた印鑑を押します。「ペタン」、これで完成であります。昔の武士は、血判を押したりしました。イエス・キリストは、ご自身がいけにえとなって、血を流されたわけです。そう考えますと、私たちクリスチャンは、キリストの血を振りかけられた者、あるいは血が塗られた者と言うことが出来ます。イスラエルの民がエジプトを脱出する前の夜、小羊を殺し、その血をかもいと柱に塗りました。血が塗ってある家は、主のさばきが通り過ぎました。主の使いは、その家にどんな人が住んでいるか関係なく、門とかもいの血を見て、通り過ぎたのです。「過ぎ越し」とは、神の怒りが過ぎ越すということです。皆さんは、キリストの血を受けていらっしゃいますか?
かなり前に、CSの子供たちを連れて、稲毛海浜公園プールに行ったことがあります。そこはプールなんですが、行きたければ、すぐ近くの海辺にも行くことが出来ます。プールと海へ通ずる門の脇には係員が立っています。そこを通過する時、係員が、手の甲にスタンプを押してくれます。押された時はヒヤっという感じがしますが、色はほとんど透明なんです。乾いたら、どこにスタンプが押されたのか分からなくなります。海辺で、少し遊んで、またプールに戻ってきます。プールの方に入ろうとすると、係員が、虫眼鏡のような機械を手の甲に当てます。すると、肉眼では見えないんですが、機械の光に反応するのか、スタンプがはっきり見えるんです。一種の蛍光塗料なんでしょうけど、くっきりあざやか、驚きました。この世では、クリスチャンもノンクリスチャンも見分けがつきません。でも、御使いは、この人は契約の血が塗られているか、塗られていないかわかるんじゃないでしょうか。中国から来られた兄姉がたくさんおられますが、こんなことを聞いたことがあります。クリスチャンのお母さんが危篤状態のとき、白い服を着た人が枕元に座っていたそうです。数年後、今度はお父さんが危篤状態になりました。お父さんはクリスチャンではなかったそうです。その時は、赤い服を来た人が枕元に座っていたそうです。赤か黒か忘れましたが、明らかにお母さんのときとは、別の御使いであったそうです。私はそのことをお父さんの葬儀のときに聞いて、「何で、早く、教えてくれなかったの」と言いました。見える人には、見えるということです。それにしても、天国に連れて行く御使いと、陰府に連れて行く担当の御使いが違うのでしょうか。ちょっと、怖い感じがしますが、契約の血をいただいているかどうかが重要であります。良い人か悪い人は関係ないのです。キリストの血が塗られているか、塗られていないかが重要なのであります。
新約聖書では、「新しい契約」は、バプテスマ(洗礼)と聖餐式と深く関係があります。悔い改めてバプテスマを受けるならば、その人は「新しい契約の民」として神の契約の中に入れていただくことができます。また、聖餐式は、その契約を確認するときであります。イエス様は、御自分の血を「私の契約の血」と言われました。それゆえに、十字架におけるイエス様の犠牲は新しい契約を結ぶ上で最も重要な意味を持つのであります。アダムの堕落後、神によって結ばれた恵みの契約は、契約の仲保者キリストによって完全に成就しました。今や、キリストを信じるすべての民族、国民に提供されるようになったのです。ですから、今や全世界の罪人は、ユダヤ人であっても異邦人であっても罪を悔い改めて、イエスを救い主と信じるならば、契約の約束である永遠のいのちを神様からいただくことができるのです。