2006.4.2 初歩の教えにとどまるな ヘブル5:11-6:8

昔、クリスチャンになる前は、桜を見て、「すぐ散るんだから可愛そうだなー」と悲しい気持ちになりました。しかし、今は「ああ、今年も咲いたんだなー、偉いなー」と喜ぶようになりました。自然界も神様から与えられた命を喜び、神様の栄光を現しています。残念ながら、人間は神様から離れているため、与えられた命を喜べないで、逆に恨んでいます。そして、自らの命を絶つ人さえいます。そうなるのは、人間自体が壊れている証拠です。しかし、神様につながったなら、正常になります。神様が今年も、私たちに春を与えてくださったことを感謝します。

1.初歩の教えにとどまるな

6:1「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」。初歩の教えとは、いわゆる信仰の「いろは」であります。ここには、死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗い、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなどがあげられています。残念ながらこの中の、きよめの洗いの教えとか、手を置く儀式はよくわかりません。「ヘブル人への手紙」と言われているくらいですから、祭儀や律法が背景にあるのかもしれません。初代教会では、祭司たちも大勢救われたので、新約的に切り替える必要があったのでしょう。私たちも洗礼準備会とか入門クラスを行います。こういう礼拝説教も、未信者の人でもわかるように、噛み砕いて話しているつもりです。「鈴木牧師は難しい話ができないのか」と言われたら、ま、私もやればできるかもしれません。しかし、自分でも良く分からない難しいことを話したら、会堂いっぱい、クエスチョンマークが浮かんで、しまいにみんな寝込んでしまうでしょう。話す私も寝込むかもしれません。でも、ヘブル人への手紙は、「初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」とチェレンジを与えております。食べ物にたとえますと、「ミルクばっかり飲んでいないで、堅い食物を食べなさい」と言うのであります。

では、具体的に初歩の教えとはどういうことでしょうか?最初、神様を信じるとき、強調されることは何でしょうか?それは、無条件の愛であります。「ありのままで良いよー。あなたの存在そのものがすばらしいよー」と言うことです。赤ちゃんが生まれたときも、そうであります。目が細いとか、口が大きいとか関係ありません。存在そのものがすばらしいんです。親は、赤ちゃんにミルクを与え、おしめを取替え、1から10までお世話をします。そのとき、赤ちゃんは「泣けば」なんでも与えられると思うでしょう。ところがどうでしょうか?3才、4才になりますと、「おしっこはトイレでやって」「危ないからそっちへ行っちゃだめ」「おもちゃを片付けなさい」とか、色々訓練を受けます。同じように、教会でも、神のみことばから「やってはいけないこと」「守るべき戒め」「従うべきこと」「あなたがやるべき使命」などを与えるようになります。いつまでも、「ありのままで良いよー」ということではないんです。我がままであったり、自分の責任を果たしていなかったりする場合は、同じように訓練が必要ではないでしょうか?ところが、霊的に生まれたても、体つきはもう立派な大人です。この世の知識やプライドもあるでしょう。心の傷やトラウマもありますので、簡単にはいきません。何かを指示したり、忠告するものなら「それは律法です。愛じゃありません。私をさばくのですか?」。そんな風に言い返されます。解放のキャンプに行った人は、何でも共依存にしてしまいます。自分に何かを命令する人、何かを指示する人は、共依存ヘルトをかける悪役であります。そういう人は、いつまでも、ありのままの自分で生きていたいのかもしれません。もちろん、クリスチャンは、ありのままで良いし、無条件で愛されています。それは基本的なものであり、信仰の大切な土台であります。私たちは何をしても赦される十字架の贖いの上に生きています。救いは行ないではなく、恵みであります。でも、これは初歩の教えであり、赤ちゃんのためのものです。もし、何歳になっても、赤ちゃんのままであったら、親は悲しい思いをするでしょう。人間の赤ちゃんと同じように、クリスチャンも、成熟を目指して進む必要があります。

では、上級の教え、アドバンストコースとは何でしょうか。英会話でもスキーでも、ゲームでも上級コースというのがあります。いつまでも、簡単なものばかりやってもつまらないです。もっと、歯が立つというか、全力でやるべき対象が欲しくなります。そのためには、訓練を受け、スキルというか、技術を体得していく必要があります。では、キリスト教会の上級コースとは何でしょうか。それは一言で言うなら、キリストの弟子になるということです。弟子はギリシャ語ではマセテーセであり、「学ぶ」とか「倣う」という動詞から来たものです。弟子はキリストに学び、キリストに倣う者であります。また、英語の弟子はデサイプルですが、これは「訓練する」とか「しつけをする」いう言葉から来たものです。つまり、訓練を受けた者こそが、弟子なのであります。訓練を受けたくない人は、成長しない赤ん坊と同じであります。みなさんは、赤ん坊のままが良いでしょうか?それとも、整えられてたキリストの兵士になりたいでしょうか?私はときどき、消防署の前を通るときがあります。彼らは毎日走っています。ときどき、やぐらの上に上り、消火訓練をしています。テレビでも見ましたが、上官から「もうやめろ!」とか「家に帰れ!」などと、どやされています。教会で、奉仕をしている人に同じこと言ったらどうなるでしょうか?教会へ二度と来なくなるでしょう。私は洗礼を受けて半年後、「私もキリストの弟子になりたいです。献身します」と大川牧師に表明しました。なんと、その次の日から、私に対する態度が急に冷たくなりました。「もう、兄弟には気を使わないから」と言われました。悲しい気持ちもありましたが、「弟子とはこういうものなんだ!」と、きりっとした気持ちになりました。

 韓国のクリスチャンがなぜ、弟子訓練がうまくいくか。それは、儒教の教えがあり、親や目上の人を尊敬することが体に染み込んでいるからです。牧師も「ボクサンニー(牧師先生様)」と尊敬されるのであります。アーメン。でも、実力がないと、留守中に、副牧師がその座を奪ってしまいます。もう1つは、兵役の義務があるからです。2年間、うむを言わさず、軍隊に入らされます。そこでは、上官の命令は絶対です。軍隊は、自分の要求とか感情は後回し、任務遂行が第一であります。彼らは、使命のために生きるとはどういうことかを学ぶわけです。そこを出た人が、クリスチャンになりますと、「ああ、キリストの弟子とはこういうもなんだ。キリストの兵士として、司令官を喜ばせるため働きます」となるわけです。日本は敗戦後、すべての権威を否定し、個人の権利だけを主張するようになりました。だから、教育も教会もやりにくいわけです。もちろん、権威主義とか全体主義は反対です。でも、神の国には、神の国の法があり、義務があり、使命があります。ぼーっとしていたら、悪魔にやられてしまいます。それだけではありません。罪を持っていたままでは、教会を破壊する道具として悪魔から用いられてしまいます。神の栄光を現すどころか、キリストの名を辱めることになるわけです。どちらが良いでしょうか?救われたまま、生まれたままの赤ん坊で良いでしょうか。「あれしてくれ、これしてくれ」「これがない、あれがない」と要求することばかりしていて良いでしょうか。上級クラスは、そういう受け身ではなく、与える人になることです。老人ホームに入った人は、何でもかんでもやってもらいます。そうすると、ボケるのが早いそうです。でも、自分で買い物をし、お洗濯をし、あれやこれやとやることがある人はボケない。姑がにくたらしい場合は、何でもかんでもやってあげてください。すぐボケますから。それはともかく、多少、厳しい方が良いということです。

 初歩の教えにとどまらないで、上級(弟子)コースを目指すために、どうすべきか、4つあげてみました。①喜んで訓練を受ける。成熟を目指す人は、注意や忠告を受けてもムカッと来ません。「私のことを本当に愛しているからなんですね。感謝します!」と受け止める人です。②罪を悔い改め、罪を捨てる人です。いつまでも癒しを受けたいと、被害者意識にとどまっていてはいけません。あなたにも罪があるのです。罪を悔い改め、神のきよさに預かる人です。私たちの一番の強敵は、他の人や悪魔ではなく、古い自分です。自己中心の古い人をいつも十字架につけ、キリストの品性を身に付ける人です。③受けるより与える人です。赤ん坊は何でも受けようとします。気に入らないとすぐ泣きます。泣けば良いというものではありません。大人になるとは、自分のことよりも、他の人の必要を考えることです。もらう喜びから、与える喜びに変わりたいです。④試練に耐える、忍耐深い人です。子どもは「今すぐ」であり明日まで待つことができません。とても気まぐれで、うまくいかないとすぐ諦めます。しかし、成熟を目指す人は、神の約束を握りしめ、「3歩前進、2歩後退」しても、めげません。みなさんは、ずーとミルクとか離乳食を食べていたいですか?それとも、肉とか形のあるものでしょうか?子どものときは苦いものとか、辛いものは食べません。しかし、大人になるとピーマンとか、わざびの効いた寿司を食べるようになります。おお、みことばには堅いもの、苦いもの、辛いものがあります。それは、弟子クリスチャンの食べ物です。どうぞ、堅いみことばをお皿の脇に寄せないで、まっこう勝負をさせていただきましょう。実行するのが困難なみことばにこそ、本当の栄養があります。どうぞ、せっかく信仰をもったのですから、強いクリスチャン、強い教会を目指そうではありませんか。

2.初歩のすばらしい体験

 ヘブル6:6,8「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。・・・しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます」。ここで起こる問題は、一度、信じた者が堕落する可能性があるかどうかということです。聖書は、はっきり可能性があると告げています。しかし、かっこ付きであります。福音的に理解するならば、一度、イエス様を信じた者はその後、どんな生活をしようと天国には行けます。なぜなら、永遠の命は信じたとき、賜物として与えられたからです。でも、その人は地上で堕落する可能性があります。8節で「やがて呪いを受け、ついには焼かれる」と書いてあります。おそらく、これは永遠の滅びではなく、その人がなして来た行ないのわざが火でやかれ報われないということでしょう。なぜなら、Ⅰコリント3:15「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」と書いてあるからです。その人は、すべてを失いますが、焼けどしながらも天国に入ることはできるということです。李光雨先生がこのようなことをおっしゃっていました。「怨念をエネルギーにして生きている人がいます。彼らはたとえ十字架と出会っても、怨念を手放そうとしません。そういう人は私たちの範囲を越えています。怨念を抱えたままでも、天国になだれ込むことはできますから、それはそれで良いでしょう。」イエス様を本当に信じたら、永遠の命はもらえます。でも、この世で堕落する可能性はあるということです。ある先生がおっしゃいました。この世でもっとも麗しい人はだれですか?それはクリスチャンです。では、この世でもっとも醜い人はだれですか?それはクリスチャンです。堕落したクリスチャンは、未信者よりもタチが悪い。未信者は神を恐れます。しかし、堕落したクリスチャンは神を知っていて、恐れないからです。キリスト教国にはそういう人たちがいっぱいいます。イエス・キリストを呪いのことばに使ったりしています。

 しかし、ヘブル書が言わんとしていることは、「クリスチャンが堕落するか、しないか」ということではありません。「このようなすばらしいことを味わったなら、堕落する可能性はなよ。いや、堕落する方がおかしい」と言っているのです。では、初代教会の人たちはどのような経験をしたのでしょうか。4節と5節にあります。第一は天の賜物を知る。第二は聖霊にあずかる者となる。第三は神のすばらしいみことばを味わう。第四は後にやがて来る世の力を味わう。すばらしいですね。使徒パウロは第三の天に上った経験があります。初代教会の人たちは聖霊に満たされ、異言や預言を語っています。彼らは力で満たされ、悪霊を追い出したり、さまざまな奇跡を行ないました。新しいぶどう酒である、聖霊に酔って喜び賛美していました。彼らはイエス様を頭で信じただけではなくて、そういうすばらしいことを味わったのです。「そういうことを味わった人が堕落する可能性があるだろうか?」とヘブルの記者は言うのです。すると、現代の教会がいかに、そういうことを味わっていないかということです。日本のキリスト教会の大半は、頭で信仰を理解します。日本基督教団は哲学に近い。福音派は「神のすばらしいみことばを味わう」「聖霊にあずかる」というところまでは行くかもしれません。しかし、「天の賜物を知る」とか、「やがて来る世の力を味わう」ところまで行く人が少ないように思います。なぜなら、神秘主義だとかカリスマだとか言って、求めないからです。その点、ペンテコステ教会は違います。悪霊を追い出し、さまざまな奇跡を行ない。聖霊に酔って喜び踊ります。立川だったか、あるペンテコステ教会では、毎日曜日、礼拝が終わると牧師先生が一人ひとりに按手する。そして、みんな帰って行くそうです。ちょっと、共依存的なところがあるかもしれませんが、それだけ聖霊の体験を重んじているということです。キリスト教は西洋まわりで伝わってきたので、本来あった、そういう脂っこいものがなくなって、さっぱりしてしまった。何でも頭で理解する文化に影響されてしまったのかもしれません。でも、アジアとか南米、アフリカは、体験的に学習するとことがあります。どちらかと言いますと、聖書の世界はアジアであり、体験的であります。みことばを体験し、聖霊を体験し、天国を体験し、神の力を体験する。だから、神様から離れるということが稀になるということではないでしょうか?

 私たちは信仰を頭で理解するだけではなく、もっと体験する必要があります。そのためには、こういう一方的な教えではなく、交互に、個人的に、熱く交わる必要があります。イエス様もおそらく、そうではなかったかと思います。なぜなら、寝食を共にし、一緒に出かけ、そこで見て、聴いて、実際に行なったりしました。先週、TPWのワークショップがありました。こんどの5月の連休は名古屋に来るそうです。しかし、東京のドニー・マクラーキンと重なってしまいました。アンドレは、「ドニーの方に行っても、あなたたちを愛しているよ。でも、ドニーは亀有に来てくれるかい?」とおっしゃっていました。TPWは日本に既に10回以上も来ています。今回も、名古屋、大阪、群馬、東京とぐるぐる回っています。「来てくれ」と呼んでもいないのに、TPWは「この日、行くから」とやって来るんです。半分、押しかけであります。でも、小さなワークショップも喜んで奉仕してくれます。もう、体臭までわかるくらい、親しくしてくれます。そういう意味で、アラバマはカルフォルニアよりも濃いですね。そう、キリスト教は、本来、濃いんです。私も韓国に3回くらい行きましたが、韓国の牧師の聖会に数え切れないくらい行きました。そのたびに私は、前に出て、先生方から按手を受けました。韓国では按手は当たり前で、それがない聖会は淋しいようです。日本人も先生も按手をしますが、韓国の先生方はグー、グーと力を入れ、本当に祝福しますという感じがします。ベニーヒンも祈りますが、100メートルも離れたところから、「タッチ」なんて、ちょっと冷たい感じがします。松戸の津村先生は「どうせ愛してくれるんだったら、腹いっぱい愛して欲しい。ちょっとだけ愛するくらいなら、愛してもらわない方がましだ」と言われました。だから、津村先生も個人個人、じっくり祈って下さいます。おそらく、初代教会も愛が濃かった。聖霊の賜物を与えようと、ペテロやパウロは手を置いています。クリスチャンたちも、天の賜物を知り、神のすばらしいみことばを味わい、聖霊に酔って喜び賛美しました。だから、「そういうことを味わった人が堕落する可能性があるだろうか?いや、あるはずがない」とヘブルの記者は言うのです。

 それとくらべて日本の教会は本当によそよそしいです。特に関東の教会は冷たいと言われます。主にあってもっと濃く熱くなりましょう。セルでも天の賜物を知り、神のすばらしいみことばを味わい、聖霊に酔って喜び賛美したいですね。そのためには覚悟が必要です。傷つくことを恐れないということです。近寄れば、必ず「えー?こんな人だったの?」ドッキリすることはあります。本音で言い合うと、結構、傷つくものです。でも、そこを越えると本当に親しさが湧き上がってきます。多くの人たちは、最初の段階で、身を引いてしまいます。もう1つは、聖霊様に期待しましょう。人間の魅力とか人間の器量には限界があります。そういうものを求めえていると必ず失望します。そうではなく、お互いの間にいらっしゃる、聖霊様に期待するのです。そうすると、聖霊がダイナミックに働いてくださいます。初代教会のような体験をお互いに求めましょう。そうするならば、簡単に落ちることはありません。もう、この世の喜びでは満たされなくなります。天国のぶどう酒に酔うなら、この世の酒はまずくなります。さらに、自分が人々の救いと癒しのために用いられたらもっとすばらしいですね。神様に用いられる喜び、自分を通して聖霊様が働く喜び。これを体験しましょう。みなさん、イエス様を1度でも、信じたなら必ず天国に行けます。でも、同じ天国に行くなら、恵まれて行きましょう。イエス様を信じているなら、恨みや憎しみを持っても天国に行けます。しかし、どうせ天国に行くなら、そんなものは手放して、おめでたいクリスチャンになりましょう。