2006.4.9 信仰と忍耐 ヘブル6:9-15

さきほどお読みしましたヘブル6:9-15節を見ますと、希望あるいは望みという言葉が3回でてきます。それから、確信もしくは信仰という言葉が合わせて3回、そして忍耐が2回です。希望と信仰と忍耐は御国に入るための大切な要素ではないかと思います。

1.希望

 ヘブル書における希望とは、神の安息に入る希望であります。エジプトから脱出したイスラエルの民にとってカナンの地こそが安息の地でありました。ところが、不信仰のゆえにヨルダン川の手前で諦め、荒野を40年間もさまようことになります。では、私たちにとっての希望とは何でしょうか。エルピスという希望の意味を調べてみました。「特に、超自然的事物や来世の救いに対する望み」と書いてありました。ですから、希望を端的に言いますと、来世に対する望みであります。考えてみれば、どの宗教にも来世観があります。神道では常世の国です。仏教では極楽浄土とか、「あの世」と言います。エジプト、チベット、ポリネシアでも死後の世界というものを信じています。人間の本能の中に、来世観というものが組み込まれているのかもしれません。聖書における来世は、御国とか天国、神の国と呼ばれています。ある人が、極楽と天国は2階でつながっていると言いましたが、そんなことはありません。天国は単に死後に行くところではなく、神様が与える報いであり、完成であります。天国があるから、この世の不平等が解決されるのであります。この世では金持ちもいれば貧しい人もいます。生まれたときから目が見えなかったり、足の不自由な人がいます。10歳で死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいます。この地上は不平等で不条理に満ちています。でも、御国はどうでしょうか?イザヤ35:1、4-5「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」。

 もちろん、イエス様を信じたら多くのものがこの地上でも回復されます。でも、私たちの最終的な癒しと回復は御国であります。この世で不自由な人こそ、向こうに行ったら、はち切れんばかりの喜びがあるのです。ですから、御国に入ることこそが私たちの究極的な希望なのであります。逆に言えば、御国がない人、御国に入りそこなった人ほど、不幸な人はいないということです。私たちクリスチャンは、天国に行くのを楽しみにしています。年を取れば取るほど、待ち焦がれるようになります。来世の希望のない人は、老後の問題で押しつぶされてしまいます。みなさん、旅行に行くときはどんな気持ちでしょうか。行ってからももちろん楽しいですが、パンフレットとか、ガイドブックを見ながら準備するのも楽しいですね。「あそこへも行きたいなー」「あれも見たいなー」とか、言いながら、出発の日を待ちます。死ぬことはもちろん怖いですが、あちらに行く希望の方が大きいのであります。先日、TPWのゴスペルワークショップがありました。彼らの賛美は、天国に関したものが多いということに驚きました。「ヨルダン川を越えるとそこは天国だ。俺たちは黄金の道を歩くんだ。そこに行ったら死も苦しみもない。毎日が日曜日。毎日、賛美して暮らすんだ。あんたも行こうぜ、天国へ」。そのような歌詞が多いんです。なぜなら、当時の黒人は奴隷であり、天国に行ったら自由になれると信じていたからです。極端な話、「地上では苦しいのはしょうがないけど、御国に行ったら報われる。御国こそすべてだ」と考えていたわけです。私たちはそのことを逃避だとか、愚かだと思うでしょうか。もちろん、地上においても天国の豊かさを味わえるし、天国の先取りも大切であります。でも、自分たちの行くところ、ゴールがはっきりしている人は、どんな境遇の中でも、喜ぶことができるのです。かなり前、ハリソンフォード主演の映画、インディ・ジョーンズのシリーズがありました。長男がそれにはまって、考古学者になる夢を持ったこともありました。私も脇で随分とビデオを見ました。トロッコで下るシーン、縄梯子を上るシーン・・・とにかく、スリル満点です。でも、どんなことがあってもこの主人公は助かるんです。映画の結末も知っていますから、途中、どんなことがあっても安心して見られます。私たちの人生も途中、いろんなことがあったとしても、最終的には、御国に行けるんです。こういう来世の希望がとても重要です。ヘブル6:19「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」。船の錨(アンカー)はどんな役目をするでしょうか。錨があれば、船は流されないでしょう。私たちの錨とは何でしょうか。御国に入る望みであります。聖歌472は、神の安息を歌った賛美です。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命拾いしぬ。いと静けき、港につき我は今、安ろう。救い主イェスの手にある身はいとも安し」。

2.信仰

 「信じる」はギリシャ語でピステゥオーですが、何か事物を信じることであります。聖書では、「福音を信じる」あるいは「神、キリストを信じる」というふうに用いられます。しかし、日本語の「信仰」は、どちらかと言うと、対象はどうでも良くて、信心そのものがすばらしいという意味合いがあります。「いわしの頭も信心」と言われるように、どんなものでも信じていたら何かご利益があると考えます。だから、ある人によっては仏様、またある人にとっては観音様、ある人にとってはキリストさんでも良いということになります。「うちは仏教だから」と言う人がいますが、仏教でもいろんな宗派があり、その由来を知っている人は稀です。身内に死んだ人が出たときだけ考え、普段の生活では関係ありません。そういう人たちにとっては、対象はどうでも良いのです。信じる心が大切なのであります。しかしみなさん、何でも信じて良いでしょうか?風を引いたら風邪薬を飲みます。薬箱をあけて、何でも良いから飲もうなんていう人はいません。結婚するのでも、誰でも良いという訳にはいかないでしょう。「男だったら誰でも良い」「女だったら誰でも良い」という人はいないでしょう。やはり、自分の人生を任せられる人を選ぶでしょう。神様も同じではないでしょうか。自分の人生を任せられる。信じるに価する方を信じるべきでしょう。イエス・キリストは私たちのために命を投げ出してくれました。十字架につき、三日目によみがえり、父なる神様への道になってくれました。今週は受難週であり、来週は復活祭です。使徒パウロはⅠコリント15章で信じる内容について語っています。「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと。」つまり、私たちは架空の出来事を信じているのではなく、事実に基づく信仰であります。この世の多くの人たちは、教祖が勝手に作ったものを信じています。信じるためには、ちゃんとした根拠がなくてはいけません。しかし、事実(インザファクト)、キリストはよみがえり、死を打ち破ってくださったのです。福音の事実を信じていく、これが信仰です。

 でも、信仰は私たちが信じるというよりも、信じさせていただくという面もあります。私たちが数ある神様から、キリストを選んだのではありません。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」とあります。つまり、キリスト様が私たちを選んで下さったので、私たちが信じられたということなのです。もしこのことが分かるならば、信仰生活が楽になります。つまり、自分が握っているという信仰であるなら、何かの拍子に手放してしまうかもしれません。でも、キリストによって自分が握られているならば、信仰生活を力まなくてもやって行けます。ペテロが誘惑にまけてイエス様を3度も知らないと言いました。しかし、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われました。ある時、ペテロが嵐の海を二三歩渡ることができました。しかし、波を見て怖くなり、沈みました。その直後、イエス様がペテロの腕をつかまえて引き揚げてくださいました。その絵があるそうですが、イエス様がペテロの手の平ではなく、腕を捕まえている。ペテロもイエス様の腕をつかんでいます。つまり、ペテロが離しても、イエス様が離さないということなんです。これが信仰です。自分の信仰だけだと不安がありますが、イエス様の信仰には間違いはありません。やがて私たちも年老いて、自分がだれかも分からなくなるかもしれません。アメリカの日系人牧師がある本に書いてありました。信仰生活、何十年も経つおばあちゃんが、今、召されようとしたとき、「南無阿弥陀仏」と唱えたそうです。福沢満雄先生は子供のときから日蓮宗を学び、お経を全部そらんじているそうです。先生は、もし、「私が訳がわからなくなって、お経を唱えたら、面会謝絶にしてくれ」と身内に頼んでいるそうです。私だってボケたら、若い頃覚えた、「1つでたほいのよさほいのほい」を歌うかもしれません。でも、信仰は霊の領域ですから、ボケとは関係ありません。たとえ、自分がだれか分からない。あるいはキリストが誰かも分からなくなるかもしれません。でも、大丈夫です。神様は私たちの名前をたなごころ、手の平に書き記しておられます。「神様は私を離さない」、これが本当の信仰です。

3.忍耐

 私たちは天国に行くまで、信仰を持ち続ける必要があります。忍耐とは信じ続けること、あるいは待ち望むことであります。ですから、希望と信仰と忍耐は三位一体なのであります。忍耐のギリシヤ語は、「根気よく待つ」あるいは「辛抱」という意味です。英語ではlongsuffering、「長く苦しむ」という意味であります。長く苦しむというのは、リュウマチとか痛風などの病気を連想させます。お相撲さんの稽古場に行くと、「辛抱」という額があるんじゃないかと思います。相撲の解説でも、「よく、辛抱したなー」と言います。まわりを見ても、あまり辛抱できない人と辛抱できる人がいます。スケートの荒川静香さんも、よく辛抱しました。8年前の長野では、プレッシャーに耐えかねて転倒、10何位。もうやめようと思った。実際、大学生のときは第一線から離れて、アルバイトをしていたようです。お母さんに信仰があった。信仰と言って良いのかわからないけど。彼女は、2年前の世界選手権で優勝。だれかが「もうやめて良いよ」と言ったら、やめていた。でも、だれも、「やめて良い」と言わなかった。オリンピックの前の年、採点方法とかが自分に合わなくて、またダメだった。しかし、静香は諦めなかった。採点法に詳しい、コーチに替え、またやり直しました。それで、この間のトリノです。日本人だれもメダルを取った人がいなかった。荒川静香さんの金メダル1ケです。まさしく、価千金であります。あれで、私もフィギア・スケートを習いたいという人が多く出たそうです。本当に、日本中の人に希望を与えました。

 なぜ、信仰だけではなく、忍耐が必要なのでしょうか?もし、イエス様を信じて、即天国に行くのであれば忍耐は必要ありません。イエス様を信じた後も、この地上でしばらく信仰を持ち続けなければならないからです。この世は神と敵対しています。ですから、この世で信仰を持って生きようすると、数々の試練や迫害、誘惑が襲ってきます。「私には全然、戦いはありません」と言う人は、この世と妥協しているクリスチャンかもしれません。しかし、キリストの名を掲げ、敬虔に生きようとするなら、どうしても迫害が起こります。中国は毛沢東の文化大革命以来、キリストの迫害が続いています。宣教師という宣教師は国外に追放され、すべての教会の門が閉じられました。純粋に信仰を守ろうとする人は地下に潜るしかありませんでした。潜るったって、地面の中にではなく、「秘密に」ということです。ある実の姉妹二人が当局に捕らえられました。その当時の拷問はものすごく過激でした。右と左の足それぞれにロープを結わえ、1本のロープを1頭の牛につなぎ、もう1本を別の牛につなぎます。当局は、「信仰を捨てたら許してやる。どうだ、キリストを捨てるか」と聴きます。もし、「ノー」と言えば、両方の牛を鞭打って、別方向に走らせます。これは大変なことになります。妹の方が「お姉ちゃん怖いよー」と言いました。お姉さんが輝いた顔で、「お前には見えないか。ほら、天が開けて、イエス様が待っておられるよ」。二人はキリストを否まなかったので処刑されました。信仰は1度だけ信じるだけではなく、たとえどんなことがっても、信じ続ける必要があります。なぜなら、この世は信仰と敵対するからであります。

ジョン・バニヤンという人が『天路歴程』という本を書きました。クリスチャンは都を目指していました。ところが、その途中に、「空の市」、バニティ・フェアーがあります。「空の市」には、あらゆるものが売られています。金銀・宝石だけではなく、人の命まで売られています。でも、その本は言っています。都は「空の市」を通って行かなければならないと。私たちはこの世を通っていかないと、天の都には入れないのです。残念ですが、この世の誘惑、試練、苦しみを逃れることはできません。だから、信仰の他に忍耐が必要なのです。でも、試練や苦しみには良い点もあります。ロマ5章「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてあります。そうです、試練や苦しみは私たちのキリストの似姿に整える、ノミになるのです。ある人が牧師のところに行って、「私が忍耐強くなるように祈ってください」と頼んだそうです。牧師は、「どうか、この兄弟に多くの試練を与えたまえ!」と祈ってくれたそうです。私たちの品性の中に、「忍耐」が生まれたら、多くのものがうまくいきます。結婚も忍耐が必要です。子育も教育も忍耐が必要です。仕事も奉仕も忍耐が必要です。でも、その先には練られた品性、キリストの義の実が待っています。忍耐を通して、多くの収穫を得ることができるのです。途中で諦めてしまう人は、収穫を得ることができません。忍耐の後に、多くの収穫が待っているのです。詩篇126「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」。