旧約の時代は、大祭司は民の代表として神様の前に出ました。そして、民の罪のためにささげ物といけにえをささげました。しかし、新約の時代は、大祭司イエスによって、全く変わりました。そういうものをささげなくても、大胆に神様に近づくことができるようになったのです。旧約の時代だったら、羊とかヤギ、穀物や油を携えて来なければなりませんでした。しかし、きょう来られた方々を見ますと、みんな手ぶらであります。「いや、私は献金を持ってきました」と言うかもしれません。しかし、それくらいで罪が赦され、神様の御前に近づくことが可能なのでしょうか?脅かすつもりはありませんが、その答えとして、キリストがレビ族にまさる祭司であることを2つのポイントで学びたいと思います。
1.神からの大祭司
7章の1つ手前の、6:20をお読みいたします。「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」。7章にもメルキゼデクという名前が何度も出てきますが、なぜ、メルキゼデクという人物が登場しなければならないのでしょうか。実は、旧約聖書では、祭司と言えば、レビ族と決まっていました。そして、最初の大祭司はアロンでした。祭司らが民の代表として、神様の前に出て、いけにえを捧げたわけです。他の部族は、大庭に入ることは許されましたが、幕屋には決して入れませんでした。出エジプト記に書いてありますが、神様の前に出るために、さまざまな律法があります。祭司になるための条件もあり、こまごまとしたことが定められていました。もし、勝手なことをしたら、神様から打たれ、死ぬこともあります。それだけ、神様の前に出るということは大変なことなのであります。みなさんも神様の前に出ておられるのですが、果たして、緊張しておられるでしょうか?それとも、何も考えないでボーっとして出ていらしているでしょうか。旧約でしたら、異邦人は庭にも入れなかったんです。庭の外というか「蚊帳の外」であります。なのに、今日の私たちは神の御座に大胆に進み出ることができるのであります。なぜでしょうか?それは、レビ族にまさる祭司、アロンにまさる大祭司が来られたからであります。ハレルヤ!
イエス・キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司であります。創世記14章に書いてありますが、アブラハムがケドルラオメル軍と戦って、ロトの財産を奪回しました。そのとき突然、現れたのが、メルキゼデクであります。彼はサレムの王であり、同時にいと高き神の祭司でした。メルキゼデクがアブラハムを祝福し、アブラハムはすべてのものの10分の1を彼に与えました。レビの祖父にあたるアブラハムが、メルキゼデクにささげものをしたのです。それが何を意味するのかが、ヘブル7章に書いてあります。一ことで言いますと、イエス・キリストとメルキゼデクが似ているということです。7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」。イエス・キリストはメルキゼデクのように、神からの祭司だということです。メシヤである、キリストの本当の父や母は分かりません。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神から来られたお方です。イエス様はレビ族とは全く異なる、別の経路から来られた大祭司です。イスラエルでは系図がとても重要であります。レビ族にもいくつかの種族があり、色んな奉仕に携わっていました。どこの馬の骨か分からない人が、勝手に祭司になることはできないのであります。でも、イエス・キリストはレビの系図を無視して、神様から直接、来られた大祭司なのであります。イエス・キリストが神からの大祭司であるなら、私たちクリスチャンは、神からの祭司であります。
きょうは、伝道師の就任式があります。これは、日本基督教団のものではなく、当、亀有教会が独自で行なう就任式であります。伝道師も牧師も、神様にお仕えする祭司みたいなものであります。でも、新約聖書においては、イエス・キリストを信じる者すべてが、祭司なのであります。ありていに言えば、伝道師や牧師は祭司長にあたるかもしれません。でも、大祭司は人間ではなく、イエス・キリストです。残念ながら、キリスト教会は歴史において、系図とか階級を重んじる過ちを犯してきました。典型的なのがローマ・カトリックであります。彼らはペテロが教会の首長であり、教皇はペテロの後継者であると考えます。今は、教皇ではなく法王と言うようでありますが、あれはだれもがなれるわけではありません。2000年間、代々、継承しているわけです。また、位階制度の職務につかせるための叙階と言う典礼があります。叙階は、ローマ・カトリックでは大事なサクラメントです。皆さんも、司教とか司祭などという聖職をお聞きになられたことがあるでしょう。そこには、いろんな決まりや制度があるんであります。しかし、プロテスタント教会では、ずいぶん簡単です。教団・教派によって、多少の違いがありますが、按手礼という叙階に似たものがあります。でも、どの教派にも属していない単立教会であれば、「私が牧師です」と言ってもだれも文句は言えません。極端に言えば、「神様が私を牧師に召した」「伝道師に召した」と言っても、言えないわけではないということです。パウロは、「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、キリストと父なる神様からです」と言っています。
では、なぜ、血筋によらず、系図にもよらず、伝道師も牧師になれるのでしょうか。それは、イエス・キリストが大祭司であり、キリストを信じるすべての人が祭司だからです。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と書いてあります。では、伝道師や牧師とは何でしょうか?それは、神様が与えた職務の賜物であり、使命であります。何か、偉いわけではなく、「それを専門にしなさい」と命じられたから、成る、それだけであります。一般的に、教団・教派が、キリストの権威によって、牧師や伝道師を任命します。でも、それは人間から出たものもあり、神様が与えていない場合もありえます。牧師の賜物が与えられていないのに、牧師になった人がいないわけでもないでしょう。大切なのは、神から召されたという信仰がなくてはなりません。正確には、神様から召されたものを教会が承認するということです。もう1つ大切なことは、名称とかステイタスではないということです。「イエス・キリストが救い主であり、神様であり、大祭司である」と本当に受け入れられたのはいつでしょうか。イエス様はこの地上に来て、「私はメシヤだ。救い主だ。私を拝め」と自分の口から言ったことはありません。イエス様が十字架の死まで神と人々に仕えた、その結果であります。本当に、イエスがキリストと受け入れられたのは、復活・昇天後であります。同じように、地位や身分が先に来るのではありません。人々に仕えていくときに、「ああ、牧師だ、伝道師だ」と認められていくということです。しかし、この世では、地位や身分が先にきます。教団・教派も、牧師や伝道師に任命したから、「教会員たちよ、そのように認めよ」というところがあります。ベン・ウォンという香港の牧師がいます。彼は「自分が牧師になります」と言ったわけではありません。みんなが、「牧師になれ」と言ったから、なったということです。つまり、牧師という肩書きが与えられる前から、牧師の働きをしていました。すると、「あなたが牧師になるのが一番だ」とみんなから推薦されたということです。
では、「鈴木はどうなんだ」といわれれば、どこかに隠れたくなります。私ははじめ、志願兵でした。8年間、母教会で奉仕をしました。その間に神学校も行かせてもらいました。8年間、教会に仕えてたんです。すると、当亀有教会から牧師として招聘されたのであります。来る方も信仰が必要でしたが、招く方も信仰が必要だったと思います。私は恥ずかしながら、生まれも育ちも悪いし、知性も中途半端であります。ギリシヤ語やヘブル語は辞書を引けば分かりますが、原典で読むことはできません。品性や行ないも、聖職者などととても言えません。そのことは家内が一番よく知っています。では、何が決め手なんですか。それは、みなさんにも言えることです。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。私たちは、イエス・キリストを信じただけで、神の子になれたのです。血筋とか努力、がんばりではありません。特権であり、恵みです。イエス・キリストは神からの大祭司として来られました。系図も種族も飛ばしたのです。私たちも、イエス様を信じたことによって、系図も種族も関係なく、神の子、祭司となったのです。すべてのクリスチャンは牧師や伝道師ではありませんが、すべてのクリスチャンは祭司として召されているのです。大事なのは、それぞれが神様からの召しにしたがって、生きるということです。
2.大祭司の務め
大祭司とはどのようなことをするのでしょうか。詳しい内容は、ヘブル8章、9章、10章に書かれています。しかし、7章後半にも少し書かれています。7:24-27「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」大祭司の役目は、神様と民の間に立って、とりなすということです。とりなすとは、旧約では、民の代表として祭司が罪のいけにえをささげ、罪の赦しを求めました。特に大祭司は、年に1度、小羊の血を携えて、至聖所に入りました。至聖所は幕屋の奥にあり、神の箱が安置されています。神の箱の蓋は、贖罪所と呼ばれ、そこに血を注ぎかけます。これは、民全体の罪が贖われるもっとも重要な儀式でした。でも、ここにも書かれていますとおり、大祭司が人間であること、またささげるいけにえが動物であることから、限界がありました。そのため、イスラエルの民は、毎日、毎年、様々な犠牲をささげる必要があったのです。でも、ヘブル書が言いたいのは、「罪のない大祭司が、ご自分のからだをいけにえとしてささげた。キリストはただ一度であがないを成し遂げたので、いけにえは不要だ」ということです。みなさん、イエス・キリストが神の小羊として、十字架で血を流したので、罪の贖いはもう不要なのです。神様はキリストの贖いで満足されたので、罪のために捧げものを持ってくる必要はなくなったのです。わおー、これが新約の恵みです。手ぶらで来て良いのです。でも、厳密に言うならば、それではダメです。イエス・キリストの血潮を信じる、信仰が必要です。つまり、「イエス・キリストによって、私の罪が贖われたことを感謝します」という信仰です。
イエス・キリストが十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください」と祈って、ご自分の体をささげられました。イエス様が十字架にかかられたのは、ちょうど小羊がささげられる過ぎ越しの祭の時でした。イエス様は神の小羊として、ご自分の血をささげたのです。だから、イエス様のとりなしと犠牲によって、私たちの罪は赦されたのです。その結果どうなったでしょうか。父なる神様と私たちの間に、道が開かれたということです。マタイ福音書に書いてありますが、イエス様が息を引き取られたその時、神殿の幕が上から下までまっぷたつに裂けました。そのことは何を象徴しているかと言いますと、神様と私たちをへだてるものがなくなったということです。ヘブル4:16にすばらしいみことばがあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。恵みの御座とは、神様がおられるところです。なんという恵みでしょうか。ですから、大祭司イエス様がすべてのことを成し遂げたので、神様との間には、人間も、儀式も一切不要だということです。ローマ・カトリックでは、神様に近づくためにイエス様の他に必要なものがたくさんあります。ミサという儀式が必要です。神父が神様と信徒の間に立つでしょう。祈祷文とか良い行ないも必要です。でも、聖書は「イエス・キリストが唯一の道である」と告げています。牧師が神様との間に立つのではありません。一人ひとりの信仰によって、だれでも大胆に父なる神様のもとに近づき、助けを得ることができる。これが新約の恵みです。
すると、第一ポイントの牧師や伝道師の務めとはどのようなものになるでしょうか。それは、イエス様を紹介して、神様のもとにお連れするということです。もっと言うと、「イエス様がおられるので、イエス様と一緒にやってください」と、その人とイエス様とくっつけることなんです。「私がその人を救わなければならない」。「私がその人を変えなければならない」。「私がその人を命がけで守る」。気持ちはわかりますが、そんなことできるわけがありません。人を救うのは神様であり、人を変えるのは神様であり、人を守るのも神様です。そうしますと、伝道師や牧師は、楽な仕事だなーと思うでしょう。そのとおり、結構、楽な仕事です。もちろん、悲壮な顔をして、がんばっている方々もおられるでしょう。でも、神様がなさる分と、私たちが行なう分をわきまえていたら、結構、楽であります。逆に、私たちが神様の分野に立ち入り、神様の御手を動かそうとすると、重労働になります。「イエス様、私があなたの手になります」。「イエス様、私があなたの口になります」。「イエス様、私があなたの代わりに支配します」。これだと、カルトになります。牧師はさしずめ教祖です。神様に手がないのでしょうか。神様に口がないのでしょうか。神様はご自分で考えることができないのでしょうか。そうじゃないですね。神様は万能であり、すべてのものを持っておられ、すべてものを支配しておられます。私が間に入り込んで、何かをやろうとするなら、かえって複雑になり、神様の働きを邪魔することになります。ある先生がおっしゃいました。「聖霊様のおじゃまをしないように」。聖霊様が、ご自分のご意志をもって、なさるのですから、余計なことはしなくて良いということです。こういうことが分かりますと、非常に楽な気持ちになって奉仕ができます。
でも、私たちクリスチャンにも、牧師にも伝道師にも、神様から与えられた使命というものがあります。神様はご自分がしないで、「あなたがせよ」と命じていることです。神様はしようと思えば、何でもできるのですが、あえてしないことがあります。それは、福音を宣べ伝えることです。福音を宣べ伝えることは、すべてのクリスチャンに与えられた使命です。では、牧師にも伝道師は何をするのでしょうか。それは、自分も福音を宣べ伝えると共に、クリスチャンに福音を宣べ伝えるように教えるということであります。さらに、もう1つは、神様から与えられた賜物をフルに用いるということです。聖書には神様から与えられる、たくさんの賜物が記されています。教えること、指導すること、仕えること、憐れみを示すこと、与えること、助けること、管理することなどがあります。他に聖霊様が知恵の言葉、知識の言葉、預言の言葉を与えます。他に、生まれつき与えられた才能や努力して勝ち取った能力、お金、体力、声、手足・・・みんな神様からの賜物です。神様は私たちの体を通して働きたいのです。神様は私たちの口を通して働きたいのです。神様は私たちの賜物を通して働きたいのです。主役は私たちではありません。主役はいつも神様です。神様が私たちを通して働くので、栄光は私たちのものではなく、常に神様のものなのです。こういうふうに理解すると、「奉仕って楽だなー」と思いませんか。もし、私たちが何かできるとしたら、それは神からの恵みなのです。私たち自身から出たことではありません。なぜなら、神様が私たちに預けたものを、私たちが用いたに過ぎないからです。
大祭司イエス・キリストが贖いに必要な一切を成し遂げてくださったのです。ですから、私たちのやることというのは、わずかなことなんです。そして、何か1つでもできたら、それは神さまの恵みです。しかし、律法主義は、「それくらいじゃダメだ。もっとがんばれ」と言います。律法主義は、神様に頼るのではなく、自分のがんばりや努力に頼ります。その人にとって神様のイメージは、仁王様のように怒っている神様です。かつての私も業績指向で、数にこだわっていました。大きな教会を目指していました。早天祈祷会、徹夜祈祷、断食祈祷、特別伝道集会、チラシ配布、訪問伝道、家庭集会・・・ありとあらゆることをしました。それでも教会は大して大きくなりませんでした。そのとき、「パウロや神様は、きっと歯がゆいを思っているんだろうなー」と思いました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んだとき、そうじゃないと分かりました。「そんなにがんばらなくて良いから。大切なのは恵みなんだよ」と教えられました。神様はすべてを所有し、何でもできるお方です。でも、神様は一緒に働きたいのです。新約の祭司がなすべき重要なことがあります。それは、神様と人々の手をつなぎ合わせるということです。宗教は英語でリリジョンと言います。そのもとのラテン語は、「再び結ぶ」という意味があります。神様と人とを結ぶ役目をする、これが祭司の役割です。神様と人が結ばれたら、もう大丈夫です。最初は、手助けして、一緒に行動するかもしれません。でも、いつまでも助ける共依存的なことはしません。その人が神様と共に生活する。これがゴールです。また、新約では、動物のいけにえをささげることは不要です。新約の祭司がささげるのは、感謝と賛美のいけにえです。使徒パウロは、贖われた人々を神様のところにお連れする、「これもいけにえだ」と言いました。滅びの運命から、生かされた体をもって、神様と人々に仕えたいと思います。