2006.3.12 モーセにまさる ヘブル3:1-6

旧約聖書にはイエス様を現している事柄がたくさんあります。その中には、出来事もありますし、人物の場合もあります。これを予表とか予型(タイプ)なとど言います。モーセもある部分ではイエス様と似ています。「似てはいますが、イエス・キリストはモーセにまさるお方ですよ」というのが本日のテーマです。

1.解放者イエス

 モーセはエジプトからイスラエルの民を解放した人物です。イスラエルの民は400年以上も、エジプトに住んでいました。そのうち民の数が多くなり、パロ王は「いつ彼らが敵側に寝返るか」と心配になり、彼らを奴隷として扱いました。さらに、「生まれる男子は川に投げ込め」とまで、命じました。あるお母さんは男の赤ちゃんを3ヶ月間、隠しておきました。だが、隠し切れなくなって、パピルスで編んだ籠に入れてナイルに流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをしようと降りて来ていました。彼女はその赤ちゃんを引き取り、モーセと名づけました。モーセとは「水の中から引き出した」という意味です。モーセは40歳までパロの王子として育てられました。しかし、ある日、喧嘩の仲裁に入ったとき、エジプト人を殺してしまいました。そのとき、自分がヘブル人であることが公になり、ミデヤンの荒野に逃げました。それから40年後、モーセが80歳になってから、神様の召命がありました。主は「今、私の民、イスラエルをエジプトから連れ出せ!」と命じました。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。私は舌が重いんです」とかなんとか言って、何度も断ります。しかし、ようやく立ち上がり、杖を持って、パロのところに行きます。案の定、パロから相手にされません。それで、モーセは、たくさんの奇跡を行ないました。しかし、パロの心はかたくなで、一向にイスラエルを解放しようとしません。しかし、10番目の「過ぎ越しの奇跡」によって、長男という長男が死んだとき、手放しました。モーセは100万人以上の民の前に立ち、紅海を渡って、脱出するわけです。後から追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれ、全滅しました。これが、栄光の脱出、エクダサスであります。

 一方、イエス・キリストは罪の世から、神の民を解放するためにこの世にやってこられました。罪の世の支配者はパロならぬ、悪魔であります。御子は乙女マリヤから生まれ、名前が「イエス」と名付けられした。イエスとは「罪から救う者」という意味です。しかし、すぐ活躍したわけではありません。30歳までひっそりとナザレで暮らしました。30歳になり、ヨハネからバプテスマを受けました。そのとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とお声がありました。父なる神様がメシヤとしてイエス様を任命したわけです。イエス様はナザレの会堂で、イザヤ書61章を引用し、「私は貧しい者に福音を伝え、捕らわれている人を自由にする」と宣言しました。当時の人たちは、モーセの律法を知っていましたが、律法主義によって、がんじがらめになっていました。イエス様はモーセの律法を引用しながら、「私はこういう」と、正しい解釈をほどこしてあげました。イエス様もたくさんの奇跡を行ない、悪霊を追い出しました。しかし、決定的なことは、自分が十字架にかかり罪の贖いを成し遂げることでした。出エジプトのときは小羊が殺されましたが、最後のときは、神の小羊であるイエス様が自ら犠牲となったのです。モーセは「私の名前を命の書から消しても構いませんから、民を赦してください」と破れ口に立ちました。これもすばらしいことであります。しかし、イエス様はご自分の命を差し出し、「父よ、彼らをお赦しください」と全人類のために祈られました。そのため、イエス様は神から捨てられ「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫ばれました。イエス様は死んで、葬られ、陰府に下り、三日目によみがえられました。十字架と復活が決め手になり、全人類の罪が贖われました。それ以来、人々は救い主イエスを信じるだけで、恵みによって救われるようになったのです。

 キリストが地上に来られてから、約2000年たちます。数え切れないほどの人たちが、福音を聞いて、救われ、御国に入っています。福音はエルサレムから始まり、ヨーロッパ、アメリカ、アジアを通過して、今やアフリカまで達しました。もうまもなく地球を一周して、世の終わりが近づいています。なぜなら、マタイ24:14に「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書いてあるからです。もう1つ終わりが近いというしるしは、イスラエルが1948年5月14日に建国したことであります。ご存知のとおり、ユダヤ人は紀元70年に国を失い1900年間も流浪していました。ところが、エレミヤ書やエゼキエル書が預言しているように、ユダヤの民が世界中から集まり国を作りました。ある本に「300万人もの人たちが帰ってきたことは、モーセの出エジプトにまさる」と書いてありました。キリスト教会の一番の悩みは、日本が置き去りにされてしまったのではないかということです。今の日本の関心は「どうしたら景気が回復するか」であります。お金の量を増やしたらよいのだろうか、どうだろうかと悩んでいます。中国を初めとするアジアとの国交もなかなか進みません。少子化問題、老人大国で、福祉が追いつく見込みはありません。新聞やテレビを見ても悪いニュースばかりです。でも、イエス・キリストよる、神の国が私たち日本人にも提示されています。神様は全世界を作ったお方ですから、全世界の人たちを養えないお方ではありません。もし、父なる神様と和解するならば、中国や韓国、東南アジアと和解することも可能になります。政治家や政府高官が、聖書の価値観で生きるならば、日本は変わるのではないでしょうか。本当の改革は、聖書の価値観に基づいた改革しかありません。

私は、自分ところの教会が大きくなることばかりしか考えてきませんでした。もちろん、自分たちが任されている地域のために仕えることがとても重要です。でも、小売店のように、ただ人が来るのを待っていても、らちがあかないような気がします。ステレオタイプと言う言葉があります。「遠くを見る目と近くを見る目。日本全体を見る目と自分の地域を見る目」です。自分ところの教会ばかり考えていたのでは、あの人の問題、この人の問題とこじんまりしてしまいます。そうではなく、日本の救いのために、フォーカスしていく必要があります。先週は、常磐牧師セルがありました。1ヶ月1回、常磐線沿線の牧師たちが集まります。この間は松戸でやりました。牛久の大喜多先生は最近、保守バプテストの代表になったようです。その団体は、教会を開拓することが最大の使命です。そのやり方は、イチゴが増えていくようは方式で、「ストロベリーなんとか」という名前があるそうです。親株から枝が伸びて、そこに根を張ります。やがてそれが独立して、次の枝が伸びていきます。大喜多先生は「癒しや解放も良いけれど、教会が伝道をしないならば不健康になる」とおっしゃっていました。アーメンです。日本にとっても、救いはイエス様しかありません。ペテロは使徒4章で「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言いました。石原牧師と心理学者の服部先生はこのようなことをおっしゃっています。日本は今、終戦1ヶ月前の7月と同じだ。そのときは「日本は勝っている、勝っている」と新聞は嘘をついていた。ところが、8月15日、降伏した。その後、1ヶ月もかからないうちに、日本がらっと変わった。今の日本は滅びようとしているのに、マスコミは本当のことを言えない。しかし、やがて真実が暴露され、戦後のようなことが再び起こる。今、本当に日本のことを考える指導者が必要だ・・・。まもなく日本という国が沈没するかもしれません。経済的な理由か、精神的な理由か、大地震なのか分かりません。でも、それはキリストの福音を宣べ伝えるチャンスでもあります。私たちは崖っぷちに立たされているのかもしれません。日本がそのまま滅びるか、それとも日本がキリストによって救われるか、どちらかであります。1教会だけに目をとめるのではなく、王なる祭司として、日本の救いということにフォーカスをあてて行きたいと思います。1教会のためだけではなく、日本の救いのために何ができるか。祈り求めて行きたいと思います。

2.忠実なるイエス

 ヘブル書3章には、「モーセが神の家全体のために忠実であった」と2度も書かれています。一方、イエス・キリストは「ご自分を立てた方に忠実である」と書かれています。家と家を建てる者とはどちらが、栄誉があるのでしょうか。家を建てる者であります。ちょっと見ただけでは何のことなのかわかりません。私はこういうことを言っているのだと思います。モーセは神の家のしもべとして忠実でした。一方、イエス・キリストは神の家の支配者として忠実であったということです。もちろん、家を建てた方は父なる神様です。モーセもイエス様も忠実ではありました。しかし、モーセは神の家に対して、イエス様は神の家を建てた神様に対して忠実でありました。家はギリシャ語ではオイコスですが、これは家族とも訳せる言葉です。モーセは40年間もイスラエルの民を荒野からカナンの一歩手前まで導きました。モーセほど謙遜で忠実な人は他にいなかったかもしれません。人々は「水が飲みたい、腹が減った」といつも不平不満を並べ立てていました。ある時は、「なんでお前だけが主の前に立つんだ。我々だってそれができるはずだ」と反抗しました。そのたびに、モーセは主の前に出て、とりなし、導きをいだだきました。モーセも人間ですからたった1回だけ癇癪を起こしたことがありました。そのとき、杖で岩を二度も打ってしまいました。確かに岩から水が出ましたが、本当は命じるだけでよかったのです。たった1回の過ちで、モーセはカナンの地に入ることができませんでした。100万人以上の民と40年間も付き合って、120歳になってピスガの頂で約束の地を見て、死んだのであります。モーセほど神の家に対して忠実な人はいませんでした。忠実、これは神の人が持つべき、もっとも重要な資質であります。使徒パウロも忠実な人でした。パウロは主が私を忠実な者と認めてくださったので、それに答えたわけです。忠実は英語ではfaithful、信仰に満ちたとか真実に満ちたという意味であります。つまり、信仰に満ちた人、真実に満ちた人が忠実な人だということです。神のしもべにとって、最も大切な資質は忠実さであります。すばらしい賜物や大きな能力もあればこしたことがありません。でも、忠実さがなければ砂上の楼閣であります。賜物や能力のある人に限って、忠実さがないのは残念なことです。私もイエス様の前に立ったとき、「善かつ忠なるしもべだ」と言われたいなーと心から思います。神の人モーセから学ぶ第一のことは、忠実であります。

 では、イエス様はどうでしょうか。イエス様もモーセと同様に忠実でありました。でも、イエス様は神の家と言うよりも、神の家を建てた神様に忠実であったということです。しかも、イエス様は神の家を忠実に治めるお方です。6節「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」。なぜ、こんな分かりきったことを述べているのでしょうか。おそらく、その当時「あのイエスよりも、モーセの方が偉大だ」と思っていた人たちがいたからでしょう。ヘブル書の記者は、「モーセは神のしもべであったが、イエスは神の家を治める御子である」と言いたかったのです。ですから、当然、何に対して忠実であったかという違いが出てきます。モーセは神の民に対して忠実でありました。それは神の民に仕えることを通してであります。一方、イエス様は父なる神様に対して忠実でありました。それは神の民を治めることを通してであります。祭司や律法学者からクリスチャンになった人は、モーセには従うけれど、イエスにはどうかな?と思っている人がいたのでしょう。そうではなく、神の家を治める御子イエスに従うべきであると教えているのです。私たちの時代には、こういうことはさほど問題にならない話題であります。でも、イエス様はどのように神様に忠実であったのか、知るならば、私たちの信仰がものすごく強められます。イエス・キリストは神の家の代表者として、父なる神様に忠実でした。あらゆる律法を全うし、父なる神様に死に至るまで忠実でした。それはどういうことかと申しますと、私たちの代表として神様に忠実であったわけです。ですから、神様はイエス様に従う者たちすべてが、「ああ、あなたがたも忠実な人たちだなー」と見えるわけです。モーセは確かに忠実でありましたが、そこまでの影響力はありませんでした。しかし、御子イエス様は神の家を忠実に治める者として、神様に忠実だったのです。私たちは「イエス様の忠実」という大きな傘の下で、忠実とみなされている者たちなのです。なぜなら、イエス様が私たちの代わりに律法を全部全うし、私たちの代わりに父なる神様に従順だったからです。こんなありがたいことはありません。

 Ⅱテモテ2:11-13にすばらしいみことばがあります。次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」これは、使徒パウロが言ったことばです。「私たちは真実でなくても、彼は真実である」とは、どういう意味でしょうか。この真実という言葉は、faithfulですから、忠実とも訳せる言葉です。英語の聖書には真実も忠実も区別がありません。ですから、このところを「私たちは忠実でなくても、イエス様は常に忠実である」と当然置き換えることもできます。つまり、私たちはイエス様の真実、あるいはイエス様の忠実さによって、救われているということです。私たちはよく「心から」という表現を用います。「心から愛します」「心から信じます」「心から従います」「心から悔い改めます」。とは言っても、心がそんなに純粋で、1本気なわけがありません。妻を愛しますと言いながら、あの女性も良いなと思うのが男性です。もう罪を犯しませんと約束しても、すぐ、悪いことを考えます。人間の心ほどいい加減なものはありません。もし、「あなたの心の全体を管理して、すべての悪い考えを撤去せよ!」と言われたら、ノイローゼになってしまいます。私たちはいい加減なところがあるんです。不真実なところ、不忠実なところもあります。でも、それらを全部含めて、イエス様によって、真実な者、忠実な者としてみなされているということです。

ヘブル語に「贖い」を表わすことばは、2あります。1つはゴエールであり、これは先週学びましたが、買い戻すという意味です。もう1つは、カーハールと言う言葉があります。これは覆うという意味です。私たちの罪は贖われる必要もありますが、同時に、覆い隠してもらう必要もあるのです。イエス様を信じると、義の衣で覆われます。義の衣を着ていますと、神様からは「あー、あなたには罪がない。イエスと同じ義なる人だ」と見えるわけです。内側には多少、罪や汚れがあったとしても、義の衣で覆われていれば平気です。

もう、15年も前のことですが、ある方からラムのハーフコートを贈られました。警官が着るような、黒のコートです。その方は、「これを着るとボロ隠しになって良いよ」と言って私にくれました。本当に、コートを着ると、下に何を着ても平気ですね。ラム、小羊の皮のコート、良かったですね。彼は、私と一緒に教文屋館で2年間勉強したことがあります。彼は信徒牧師になるため、私は教団の試験を取るために勉強しました。その人が「いつぞやはお世話になりました」と言うんですね。「えー、失礼ですがどなた様でしょうか?」と聞きました。私が座間教会でスタッフしていた頃、こういうことがありました。「近くの病院で入院していましたが、召されたのでお葬式をして欲しい」と2,3人来られました。まもなく、亡くなられたご老人が運ばれて来たのですが、なんと浴衣だけのスタイルです。講壇に毛布を敷いて、しばらくの間、そのご老人を守ることになりました。葬儀屋さんがくるまで、かなり時間がありました。もう一人のスタッフと「ちょっと気持ち悪いですね」とか言いながら、守っていたのです。あとから分かったのですが、そのご老人は山梨で牧師として働いておられたのですが、引退後、ご病気になられ座間の近く(相模原病院か北里病院)で入院していたわけです。一緒に付き添ってこられた人の中に、コートをくれた人が混じっていたわけです。おそらく、教会の信徒だったのでしょう。それで私たちの教会で葬儀をしてくれたので、その方は恩義を感じて、あのスタッフにお礼を差し上げたいと思ったわけですね。長い話・・・。で、メッセージと何の関係があるのでしょう。そのご老人は牧師として神様に長年仕えた人でありました。でも、死んだ時には、山梨を離れ、どこかの教会の講壇に浴衣1枚で寝かされていたということです。私がスタッフとして少しお手伝いしましたが、その信徒はそのことに感謝して、ラムのハーフコートを下さいました。いろいろ考えてみて、私たちは覆いが必要なんだなーと思います。死ぬときは本当に素っ裸です。地位も名誉も関係ありません。でも、イエス様を信じているならば、どんなに汚れた人であろうとも、義の衣が与えられます。また、イエス様を信じているならば、どんなに不忠実でも、忠実な者とみなされます。ここに、私たちのよりどころがあるんだなーと思います。「よりどころ」なんと良い言葉でしょうか。イエス・キリストの真実、イエス・キリストの忠実さこそ、私たちのよりどころです。私たちの信仰深さ、私たちの真実さには限りがあります。でも、イエス・キリストは大丈夫です。神の家の解放者であり、忠実なお方であるイエス・キリストに従って行きましょう。