2019.6.23「イエスのミッション マタイ16:21-25」

 前回は「イエスのミニストリー」と題して学びました。きょうのテーマは「イエスのミッション」です。ミッションとはどういう意味でしょうか?missionは派遣された人の使命、任務という意味です。海外宣教のことをミッションとも言うようです。ところで、mission impossibleと映画があります。主人公は絶対死なないので安心して見ていられます。では、イエス様のミッションとは何でしょう?イエス様は十字架で死ぬためにこの世に来られたのです。イエス様は弟子たちにも自分のいのちを捨て、十字架を負ってついて来るように言われました。きょうは、十字架の予告、十字架の成就、十字架の結果と3つのポイントでお話しします。

1.十字架の予告

 イエス様はご自分が十字架で死ぬということを少なくとも3回予告しておられます。その最初がマタイ16章です。このところで弟子のペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。イエス様はそのことを否定なさらず、むしろ喜ばれました。ところが、イエス様はその直後、このようにおっしゃいました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロはそのことが納得できず「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱りつけました。ペテロが言ったことばに、サタンが関わっていたということです。そういえば、公生涯に入る直前、悪魔がイエス様を誘惑したことがあります。悪魔が提示した人類救済の道は、十字架の死をバイパスするものでした。今回も、ペテロの肉の思いを借りて、サタンが十字架の死をさけるようにということを訴えています。だから、イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱りつけたのです。イエス様はこの後、少なくとも2回同じことばを弟子たちに語っています。

 では、イエス様の十字架の死は何のためだったのでしょうか?マルコ10章に、イエス様がエルサレムに上る直前にご自分が「十字架で死んで、三日の後によみがえる」とおっしゃっています。これは、三度目の予告と言えます。その予告の直後、弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。弟子たちはイエス様の死を全く理解していないのか、意識的に理解しようとしないのか、どちらかです。なぜなら、弟子たちはイエス様がエルサレムで王様になり、ローマを倒してくれると信じていたからです。その暁には、自分たちが大臣になり、だれがイエス様の右もしくは左に座るか争っていました。その直後、イエス様がおっしゃったことばがこれです。マルコ10:43-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様は「仕えられるためにではなく、仕えるために来られた」とおっしゃいました。その究極な仕え方とは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。もし、「すべての人のための贖いの代価」であったなら、全人類が信じなくても救われることになります。この意味はカルヴァンの限定的な贖罪という意味ではありません。ひとことでは言えませんが、イエス様を信じる人にだけ、適用されるのではないかと思います。パウロは「私たちの罪のため」と言っており、「あなたの罪のため」とか「彼らの罪のため」とは言っていません。イエス様を信じた人たちだけが、「主イエスは、私たちの罪のため死なれた」(ローマ4:25)と言えるのです。クリスチャンは永遠の命をイエス様からいただいたということになります。

 イエス様がこの地上にお生まれになったとき、東方から博士たちが訪ねてきました。絵本なのでは3人の博士がらくだに乗って来たように書かれています。しかし、3人と言われるのは贈り物が3つだったかだということです。でも、実際はキャラバン隊のように、大勢の従者たちを連れてやってきたと考えられます。なぜなら、当時は山賊や盗賊が跋扈(ばっこ)していたからです。それはともかく、博士たちは黄金、乳香、没薬をささげました。しかし、これはとても暗示的であります。黄金は王様にふさわしいものであり、イエス様が王であるということです。乳香は大祭司が用いるものです。イエス様が大祭司であるということです。しかし、没薬は葬りの時に用いるものです。でも、生まれたばかりの子どもに、お線香を捧げる人はいません。もちろん、そういう意味でささげたのではないと思いますが、暗示的です。まるで、イエス様が死ぬためにこの世に来られたようなイメージを与えるからです。ある人が書いた絵があります。イエス様が30歳になり、最後の大工仕事を終えました。イエス様が夕日に向かって、「ああ、きょうの日が終わった」と両手を水平に上げている絵です。しかし、地面にはイエス様が十字架にかかっている影が映っていました。明日から、公生涯に入ることになり、それは十字架への道だということを暗示しています。

 もちろん、地上に生まれた人はだれでも死にます。何故、イエス様だけが特別なのでしょうか?イエス様は本来、神なので死なないお方です。そのお方がひとたび人間の肉体をおとりになりました。不死なるお方が、死ぬことを体験するということです。しかも、死というものが罪の結果、人類に入った忌まわしいものです。神の御子が人類の罪を負って、代わりに死ぬということほど不本意なことはないでしょう。ヘブル書にその目的が書かれています。ヘブル2:14,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

2.十字架の成就

 イエス様は3年半の公生涯を終えて、エルサレムにおいて十字架につけられ死なれました。イエス様を十字架につけたのは、長老、祭司長、律法学者たちでした。決定的な罪は、イエス様がご自分を神としたことです。イエス様は冒瀆罪で死に渡されました。しかし、当時のユダヤはローマの支配下にあったので、罪状をカイザルに背く罪としてすり替えたのです。それで、イエス様は、当時、極悪人がかかる十字架につけられました。ある人たちは、「十の字ではなく、Tの字だったのでは」と言います。別に十の形が重要なわけではありません。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」イエス様は木にかけられ、律法の呪いとなられたのです。それは律法ののろいから私たちを贖い出すためでした。つまり、行ないでなく、信仰によって救われるということです。ガラテヤ3:14「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」ある人たちは、キリスト教を「外国の宗教だ」と言います。聖書で外国は異邦の国であり、外国人は異邦人と呼ばれています。もし、聖書の舞台であるイスラエルから日本人を見たなら、日本人が外国であり「異邦人」なのです。本来、私たちは「神の選び」から漏れていた民でした。ところが、キリストの十字架の贖いによって、だれでも信仰によって救われるようになったのです。これはとてもありがたいことです。

 イエス様が十字架でいくつかのことばを発したことが福音書に記されています。注目したい箇所がこれです。マタイ27:50「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」イエス様が大声で叫んだことばとは何なのでしょう?ヨハネ19:30「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」私はイエス様は「完了した」と大声で叫ばれたのではないかと思います。「完了した」は英語の聖書に様々なことばで訳されており、どれもすばらしいと思います。ほとんどが”It is finished!”「終了した」と訳されています。The New English Bibleは”It is accomplished!”「成し遂げられた(成就した)」という意味です。Message Bibleは”It’s done…complete!”「完全になされた」であります。しかし、ギリシャ語の直訳は「完済された」です。どの訳でも構いませんが、イエス様がこの地上に来られた使命(目的)は果たし終えたということです。祭司長や律法学者、長老たちは「十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じる」(マタイ37:42)とイエス様をあざけりました。これこそ最後で、最大の誘惑でした。イエス様は十字架から降りるつもりだったら、降りられたのです。イエス様を十字架につけていたのは3本の釘ではなく、イエス様の意志でした。「どうしても飲まずには済まされない杯」(マタイ26:42)だったのです。イエス様が十字架について、「なだめの供え物」になられたので、私たちに救いがやって来たのです。

 私たちは聖画とか映画から、イエス様が十字架でもだえ苦しんでいるシーンを思い浮かべることができます。確かに、イエス様は霊的、精神的、肉体的にも極限の苦しみを受けておられたことは間違いありません。イエス様は暗闇の中で、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。まさしく、イエス様が私たちの罪を負ったゆえに、父なる神さまから捨てられた瞬間であります。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書かれているとおりです。しかし、この後、イエスさまは「完了した」と叫ばれて息を引き取りました。「完了した」は勝利と歓喜の叫びであったと思います。ヨハネ19:34「しかし、兵士のうちの一人がイエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた」と書いてあります。これは医学的に、イエス様の死因は、心臓が破裂したせいだと言われています。イエス様の心臓が罪の重荷に耐えられなかったという理由もあるかもしれません。しかし、「完了した(成し遂げた)」と叫んだとき、心臓が破裂したのではないかと思います。つまり、勝利と歓喜の中でイエス様は息絶えたのです。そのことを証明するみことばがこれです。ヘブル12:2後半「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル書は「喜びのゆえに…十字架を忍ばれた」と書かれています。イエス様は「これで人類の罪の問題は解決する」と喜んでいたのです。

 私たちの救いは、完成した上に成り立っているということです。神さまはイエス様を十字架の上で死なせることによって、満足されました。もう、私たちの罪については裁かれません。「あなたが犯した罪のかわりに何かをしろ」とは要求なさいません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の負債を全部支払ってくださったからです。まさしくイエス様は「なだめの供え物」になられたので、神さまの人類の罪に対する怒りがひっこめられたのです。もし、救われるために、行ないも必要だというなら、十字架の完全な贖いを汚すことになります。聖書に1万タラントを借金したしもべが赦される譬えが記されています。1デナリが1日分の給与にあたります。1タラントは6,000日分の給与ですから、今で言うと6,000万円です。1万タラントとはその10,000倍ですから、6000億円です。その当時の小さな国の国家予算に相当する額だと言われました。1万年働いても返せない額を赦された人が、「お礼に100万円お返しします」と言ったら「馬鹿にするな」と言われるでしょう。同じように、神さまに「救われるために、私にも良い行いをさせてください」と言ったら、「愚か者」と言われるでしょう。私たちはとうてい返すことのできない罪を、ただで赦してもらうしかないのです。しかし、赦しの背後には、イエス・キリストの多大な犠牲があったということです。もし、このことを知ったなら、申し訳なくて、また罪を犯そうなどとは考えません。

 イエス様は十字架で贖いを完了されました。私たちの救いは完了されたものの上に立っています。キリストの十字架の贖いには、足すことも、引くこともできません。私たちは十字架でなされた罪の贖いをただで受けることしかできないのです。これを聖書では恵みと言います。

3.十字架の結果

 マルコ10:43-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」第一のポイントのところを繰り返します。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。イザヤ書53章にも同じようなことばが書かれています。イザヤ書53章は「苦しみのメシヤ預言」として知られています。イエス様の十字架の苦しみとその意味が赤裸々に預言されています。問題は最後の部分です。イザヤ53:11「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」このところに、「多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」と書かれています。何度も繰り返しますが「すべての人」ではなく、「多くの人」であります。ここから分かることは、「全ての人は救われない、万人救済説はなりたたない」ということです。かといって、カルヴァンが言う「限定的な贖罪」というもの賛成できません。カルヴァンは「キリストの十字架はすべての人を贖われたのではなく、選ばれた者だけを確実に贖われた」と言っているからです。では、神さまは全部ではなく、多くの人が救われるということを予知しておられるということでしょうか?現実的には、信じる人もいれば、信じない人もいますので、そうであるのかもしれません。

 高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本の中でこう述べています。「贖い」という概念を示すギリシャ語には次の三通りある。①アゴラゾー。このことばは「買う」とか「代価を払う」などの意味を持っているが、正確なニュアンスは、「奴隷市場の中で奴隷の代価を払う」である。②エクサゴラゾー。これは「アゴラゾー」に「エクス(…の外へ)」という接頭語の付いたもので、ただ単に代価を払うだけでなく、「奴隷市場から外へ連れ出す」ことも意味している。③リュトゥロオー。これは、「解放する」また「完全に自由の身とする」ことを表す。つまり、「贖い」という概念の中に、①まだ解放されていないけれども、代価を支払う。②代価を払って外へ連れ出す。③完全に自由にする。の三種類があるわけである。そして、そのうち②および③は聖書の中で、救われた者についてのみ使われている。それでは、キリストが罪の支払いをされたのは、信じる者に対してであったか、というとそうではない。先述の三種類の「贖い」のうち第一の意味で、キリストはご自分の血によってすべての人の罪の支払をしてくださったのである。そのことは「アゴラゾー」が聖書の中で未信者に関しても用いられていることがわかる(参考:Ⅱペテロ2:1)。しかしキリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由にされたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場につながれたままなのである。キリストは、十字架上で息を引き取られるときに「完了した(テテレスタイ)と叫ばれたが、「テテレスタイ」とは商業用語で「完済した」という意味である。キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払をされたのである。アーメン。

 ということは今現在生きている人たちは、すべての救われる可能性があるということです。すべての人が救いのcandidate候補者です。私たちは人の外見を見て、「この人は救われそうだけど、この人は無理」とか判断しがちです。しかし、自分は正しいと思っている人ほど、信じにくいということも事実です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)と言われました。使徒パウロは私たちは神の国の大使、神との和解をもたらす大使だと言っています。大使として重要な考え方はこれです。Ⅱコリント5:15-17また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」私たちは最後の5章17節だけを見ますが、ポイントはそうではありません。「この人のためにも、キリストは死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。そうすれば、だれでも、新しく造られた者であり、新しくなるチャンスがあるということです。

イギリスのスポルジョンが、肺炎のためまもなく死のうとしている貧しいメイドさんの家を訪問しました。部屋に入ると隙間風をふさぐためにいろんな紙が窓や壁にべたべた貼ってありました。よく見るとその中に一枚の小切手も貼ってありました。今の価値で何十億円の額が書いてありました。彼女は長い間、大金持ちの家でメイドとして忠実に働きました。そのご主人が亡くなるとき、彼女に一枚の小切手を上げたのです。しかし、メイドさんは字が読めないばかりか、小切手の意味すら分かりませんでした。もし、彼女がもう少し前に、お金に替えていたなら、豊かな生活を送ることができていたでしょう。私はこの小切手は、イエス・キリストの贖いではないかと思います。小切手の額は、奴隷市場から自由になれる代価だけはありません。私たちが神の息子、娘として何の不自由もなく暮らせる額が記されています。つまり、天国に行くだけではなく、この地上でも王子、王女として豊かに暮らせる額です。私も仕事で小切手を使ったことが何度もあります。裏書と言って、そこに会社のはんこが押してあれば、すぐその銀行に行って、現金に換えることができます。私たちにとって、裏書の名前はイエス・キリストです。小切手は十字架の贖いで成し遂げられました。しかし、持っているだけではダメです。部屋の隙間風をふさぐため小切手を貼っているとしたら何と愚かなことでしょう。キリストを信じて、奴隷市場の外へ出ましょう。そして、神さまが願っておられる完全な自由な生活を送りましょう。