2019.6.16「イエスのミニストリー マタイ9:35-38」

ministryは、一般に「聖職者の任務」と訳されています。しかし、これは「神さまの働き」とか「奉仕」という意味に訳すべきであります。イエス様はこの地上に来られて主に、3つのことをなされました。3つミニストリーと言うこともできます。それがマタイ9章にある、教え、福音宣教、そして病の癒しであります。イエスさまはどこへ行っても、これら3つのことをもって神さまと人々に仕えました。さらには弟子たちにも同じことをするように命じておられます。ということは、イエス様の3つミニストリーは今日の教会も負っている使命ではないかと思います。

1.教え

マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え」とあります。イエス様は最初ユダヤ人の会堂で教えました。まもなく、イエス様は人々から「ラビ」とか「預言者」と呼ばれるようになりました。しかし、当時の宗教家たちから妬みをかって、公の場で教えることができなくなりました。そのため、人々の家や野山で教えるようになりました。マタイはイエス様の教えをまとめました。それがマタイ5章から7章まで記されており、「山上の説教」と呼ばれています。おそらく、イエス様は一回であのような説教を長時間なされたのではないと思います。マルコ福音書やルカ福音書を見るとそのことがわかります。でも、マタイはイエス様がこれらの教えを山の上で語られたということにしたかったのです。なぜでしょう?イエスラエルの人たちが最も重んじていた書物はモーセ五書でした。その中で、もっとも大事にしていたのが、モーセの十戒です。モーセは十戒をどこで得たのでしょうか?シナイ山です。シナイ山で神から直接、主なる律法をいただきました。しかし、イスラエルはその律法を守ることができませんでした。イエス様の時代はとても形式的であり、律法主義に陥り、本来の目的から逸脱していました。イエス様は山の上に登り、人々に教えを垂れました。きわだった言い方は「あなた方は…と聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」とモーセの律法を再解釈しているところです。よくみると、モーセの律法よりも、実行することが困難なくらいの崇高な教えです。たとえば、「兄弟に『ばか者』と言うだけで燃えるゲヘナに投げ込まれます。情欲を抱いて見るだけで、姦淫を犯したのと同じです」と言われています。私などいくつ命があっても足りないでしょう。

ロシア文学者トルストイは「山上の説教を小聖書と呼び、聖書は山上の説教で十分である」と言っています。さらにトルストイはこうも述べています。「すべての人間がキリストの教えを実行に移したならば、この地上に神の国が出現するだろう。私一人がそれを実行に移したならば、すべての人たちと自分のために最も良いことをしたことになるであろう。キリストの教えを実行すること無しには、救いは無いのである。キリストの教えを実行するためなら、どのような辛い目に遭わされても、どのように早死にしようとも、私は怖くない」と。トルストイは非常に純粋な人でありますが、生身の人間には実行不可能です。なぜ、マタイがモーセの律法と並べて山上の説教を書いたのでしょう。それは新しい契約における神の律法です。しかも、これは御国の律法であり、霊的に新しく生まれ変わった人が神の恵みによってできるものです。もし、これを実行しなければ救われないとしたなら、誰一人救われないでしょう?これはキリストによって救われ、神の国で生きる人が守るべき律法です。本来なら、御国が完成するときものであり、終末論的なものです。でも、イエス様は、「福音を信じて、御国に入るものはこれを守りながら生活しなさい」と勧めているのです。ですから、パウロの書簡の後半を見ると、山上の説教と同じような教えが書かれています。しかし、世の中の人は、聖書を道徳倫理の本として読むので、ますます迷路にはまってしまいます。小説『塩狩峠』の主人公の長野さんは、良きサマリヤ人のたとえの教え「あなたも行って同じようにしなさい」を実行しようとしました。給与を盗んだ同僚の隣人になろうとしました。逆に彼から「馬鹿にするな」と、恨みをかいました。長野さんは、みことばを守ることがいかに困難か知ることになりました。もし、イエス様の教えを律法として読むならば、モーセの十戒よりも実行不可能なものになり、窮地にはまるでしょう。

私たちはイエス様の教えの中心は何か、主題は何なのかを知るべきです。そうしたら、単なる教えではなく、私たちを本当に生かすいのちのことばになるでしょう。イエス様の教えの主題は「御国、神の国です」。山上の説教は、いわば御国の律法です。イエス様は弟子たちに「御名があがめられ、御国が来ますように祈れ」(マタイ6:9-10)とおっしゃいました。また、「だから、神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらものはすべて与えられます」(マタイ6:33)とおっしゃいました。またマタイ13章において、イエス様はたとえによって「天の御国」がどのようなものなのか教えてくださいました。私たちは天の御国に行ったことがないので、イエス様は地上でよく見かけるものを題材にして、教えてくださいました。イエス様はからし種やパン種のたとえによって、天の御国は、最初は目立たないけれど、知らない間に大きくなると言われました。さらに、天の御国を畑に隠された宝、あるいは値打ちのある真珠にたとえました。これは「天の御国に入ることが何物より、かけがえのないことである」ということです。クリスチャンは人生の半ばで、天の御国を得た存在です。一番大切なものを得たんですから、人生の目的を半分以上果たしたようなものです。地上の生活は仮住まい、この肉体も仮りの入れ物です。私たちに永遠の住まい、栄光の体は天の御国に備えられています。だから、クリスチャンはいつ死んでも良いのです。私たちは死ぬのではなく、天の御国に移り住むのです。

音楽でも、主題(テーマ)があります。聖書もそうですし、イエス様の教えもそうです。もし、主題(テーマ)を最初から知っていたなら、的外れな読み方はしなくなるでしょう。「木を見て、森を知らず」ということわざがあります。これまで多くの神学者たちが博学のゆえに、道から迷い出ました。イエス様の教えの中心は「天の御国(神の国)」です。私たちは天の御国に行ったことはありませんが、とてもあこがれています。ヘブル11:16「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

2.福音宣教

福音とは何でしょう?英語ではgood newsです。しかし、ギリシャ語のエバンゲリオンは、戦争に勝ったという良い知らせでした。イエス様は暗闇が支配している国に、御国をもたらすためにやって来られました。そのために、イエス様は暗闇の支配者を打ち破る必要がありました。悪魔から言うなら、イエス様は侵略者invaderなのであります。福音は最初、バプテスマのヨハネが宣べ伝えました。マタイ3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」その後、イエス様もこのように宣べ伝えました。マタイ4:17「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」イエス様が宣べ伝えた福音は、御国の福音でした。御国とは神の支配であります。「悔い改めなさい」とは「向きを換えよ」と言う意味です。言い換えるなら、「向きを換えて、天の御国に入りなさい」これが福音です。この福音を信じるなら人は救われるのです。私がこのように言うと、「いいえ、福音とは十字架と復活でしょう。イエス様はこのときはまだ十字架の贖いを完成していませんよ」と反論するでしょう。いいい、イエス様が十字架で死ぬ前に、人々は福音を信じて天の御国に入ることができました。マタイ21:32,32イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と荒野で福音宣教を開始しました。そのとき、宗教家たちではなく、取税人や遊女たちが彼を信じました。そして、神の国に入った、つまり救いを得たということです。

御国、神の国というのは、神の支配であります。領土はやがて目に見えるかたちでやってきます。今は、御国の招待状だけであります。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われて必要なことは何でしょう?それは服従です。なぜなら、神の国の王様は神さまです。神の国に入りたいなら、「分かりました。従います」と服従しなければなりません。こういうことを聞くと「え?服従なんて嫌です。必要なのは信仰でしょう?」と答えるかもしれません。確かに人は福音を信じて救われます。でも、信じることと服従はコインの裏表であります。神を信じるなら、神に服従すべきなのです。イエスさまがエリコの町を通過されようとしました。そのとき、取税人ザアカイが先回りして木の上に隠れていました。イエス様は上を見上げて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたのところに泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は身勝手です。ザアカイの都合も聞かないで、「きょうあなたの家で泊ることにしている」と告げました。もし、ザアカイが手帳を出して、「きょうは予定がふさがっています。それに急に客を連れて行くと家内に嫌な顔をされます。来週だったら大丈夫です」と言ったらどうでしょう。イエス様は来週なら、十字架にかかって死んでしまいます。今しかチャンスはありません。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えました(ルカ19:6)。あとでイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。では、ザアカイはいつ救われたのでしょう?ザアカイは十字架と復活の福音を信じて救われたのでしょうか?そうではありません。ザアカイは「急いで降りて来なさい」ということばを聞いて、「急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えたとき」救われたのです。厳密に言うなら、木から降りる途中です。つまり、イエス様の命令に従ったときです。このように、人が救われるためには、イエス様のことば(福音)に従う必要があるということです。なぜなら、神の国とは神のご支配だからです。

では、イエス様の十字架と復活は不要なのかというとそうではありません。十字架と復活以前は、神の国の門はせまくてよく分かりませんでした。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」まるで、狭いドアから人々が神の国に入ろうとしているようであります。ところが、イエス様が十字架で贖いのわざを終了されてから、神の国の門がぐっと広く開けられたのです。それを案じするみことばがこれです。マタイ27:50-52「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」アーメン。イエス・キリストの十字架の死は贖いの死でありました。キリスト以前は、大祭司が年一回、犠牲を携えて至聖所に入ることができました。しかし、キリストは一回で永遠の贖いを成し遂げてくださり、キリストの血によって大胆に恵みの座に近づくことができるようになったのです。また、十字架の死は、サタンのかしらを打ち砕きました。それによって、サタンは自分が所有していた死と陰府が敗北したために、捕えていた魂を吐き出してしまったのです。私たちの時代は完成した福音を宣べ伝えることができます。パウロもガラテヤ書で「異邦人も福音を信じるだけで救われる」と言っています。ガラテヤ1:8「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」世の終わり、いろんな異端がはびこり、「信じるだけではダメだ。行いも必要だ」と主張しています。もし、「行ないが必要だと言う」なら、イエス様の十字架と復活を否定することになります。私たちが救われるために信じる他に、一体、何ができるというのでしょう。

福音を信じるということをもう一度確認したいと思います。福音とは御国の福音であり、神のご支配がやって来たと言うことです。私たちは方向転換をして、神のご支配を受け入れる必要があります。なぜなら、神の国の王様は神さまだからです。世の終わり、イエス・キリストが十字架と復活によって、贖いの道を完成してくださいました。ですから、私たちは私のために十字架にかかり三日目によみがえられた救い主キリストを信じるのです。キリストを信じた時から、私たちは神の国に入りました。「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)。アーメン。

3.病の癒しと悪霊追い出し

イエス様のミニストリーの三分の一は、病の癒しと悪霊の追い出しでありました。しかし、今日の教会は、このことを排除し、教えと福音宣教しか行っていません。では、なぜ、イエス様はこの地上に来られて、病を癒し、悪霊追い出されたのでしょうか?ルカ11:20「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」他の福音書から「神の指」とは、聖霊であることが分かります。つまり、人々から悪霊が追い出されていると言うことは、彼らの国が打ち負かされているということです。同時にそれは、神の国が来ているしるしだということです。イエス様は病の癒しばかりではなく、目の見えない人や手のなえた人を癒し、死人さえよみがえらせました。それらも同じで、神の国がこのところに来ているという証拠だったのです。本来、そういうことが起るのは、御国が完成された、千年王国のことであると信じられていました。イザヤ書35:4-6心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」イザヤ書は第五福音書とも呼ばれ、good newsがたくさん預言されています。その一つが世の終わりの出来事です。世の終わり、メシヤが来て、このようなことが起るということを預言しています。バプテスマのヨハネが、牢獄から「来るべき方はあなたですか?」と弟子たちを送って、イエス様に尋ねました。イエス様は「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き…だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:5,6)と言われました。病の癒しや奇跡は、来るべきメシヤのしるしであり、同時に神の国が来ていることのしるしでもありました。なぜなら、御国には病気や障害がないからです。

イエス様はラザロの墓の前で涙しました。人類が死によって、飲みこまれているからです。でも、イエス様は「憤りを覚えた」と二度も書かれています。これは、これはイエス様が「この死を何とかしなければならない」と死に対して憤っていると言うことです。その後、イエス様は「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうすると、ラザロは布で巻かれたまま、墓から出てきました。これも同じで、世の終わりに起ることを、今現在、イエス様がなされたということです。つまり、イエス様が御国を持ってこられたので、死が打ち負かされたということです。つまり、病の癒し、悪霊の追い出し、障害者の回復、死人のよみがえり…これら全部は神の国がイエス様によってこの世にやって来たということのしるしだったのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションされたのです。デモンストレーションというのは、展示販売です。私はいつもスーパーマーケットの売り場の話をします。でも、テレビ・ショッピングでもやっていることに気づきました。電化製品とか、便利な器具など、視聴者の前で、実際にやっています。周りの人々が「わー」とか言ってもりたてます。「今ならこのお値段です。30分以内、オペレータを増やしてまっています。ダイヤルはこちら、お間違えないように」とか言います。デモンストレーションです。肉体の癒しを体験した人々は、「私もメシヤを信じて、神の国に入りたい」と思ったことでしょう。ただ福音を宣べ伝えただけだと、信じる人々はそんなに起こされないでしょう。なぜなら、神の国は目に見えないからです。イエス様は「ちょっとでも、神の国を見せてほしい。神の国の前味を味わせてほしい」という人々の願いに応えられたのです。

しかし、今日の福音宣教はデモンストレーションなしのことばだけの福音宣教です。だから、救われる人が少ないのです。人々は神の国が本当に来ているかどうか分かりません。使徒パウロは自分の福音宣教のことを語っています。Ⅰコリント2:3,4「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」パウロはコリントに来る前にアテネに寄りました。でも、伝道はかんばしくありませんでした。なぜなら、パウロはことばだけで伝道しようとしたからです。アテネは「ああいえば、こういう」という哲学の本拠地でした。パウロはことばだけではダメだ「御霊と御力の現れ」が必要であると反省しました。残念ながら、現代の教会は「目覚ましい奇蹟やしるしは聖書が完成してからは不要になった」と言っています。それは、「現在そういうことがないので、そうなんだ」と自分たちの体験に神学を合わせているだけなのです。言い換えると、自分たちの不信仰を弁明しているだけなのです。イエス様は天にお帰りになる前、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちにお命じになれました。さらに「 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し…病人に手を置けば病人はいやされます」と保証されました。つまり、福音宣教に「病の癒しと悪霊追い出し」は付随するものだということです。ランディ・クラークは「病の癒しはおまけではなく、クリスチャンの主要なミニストリーである」と言っています。ビルジョンソンは”The supernatural power”でこう述べています。「イエスは、悪魔が働いているこの地に、神の国の力をどのようにもたらすか見せるためにミニストリーされました。私たちのミニストリーもイエスを同じことをすべきです。私たちは、神の国がもたらす奇跡から離れて、奉仕することはできないのです。」イエス様は病人を見て、「天国に行けば癒されるから我慢しなさい」とは言われませんでした。「弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書いてあります。イエス様からあわれみの心がほとばしり出て、癒しを行ったのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と言われました。「働き手」の「働き」は「行い」「わざ」「活動」と同じ意味のことばです。イエス様は3つの働き、教え、福音宣教、そして病の癒しと悪霊追い出しをされました。そのイエス様はご自分と同じことをする働き手を求めておられます。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。私たちは収穫のことを心配しなくても良いのです。働き手を送ってくださるように祈れと言われています。御国の拡大のために、私たちが主の働き手になりましょう。