2018.9.9「人生の優先順位 マタイ6:31-34」

 きょうは「人生の優先順位」と題して、聖書から共に学びたいと思います。優先順位は英語で、the order of priorityと言いますが、orderは事物、価値などの「順序、順位、序列」という意味です。また、priorityは「優先事項、順位がより重要であること」という意味です。ものごとの優先順位をさすことばとして、priorityはビジネス用語になっているようです。優先順位ができていない人は、常に忙しく、何かに追い立てられて生きている人です。自分が環境の主人ではなく、奴隷であります。「だって、忙しいんだもの」と常に言っている人は、必要でないけど緊急なことに支配されている人たちです。では、どうしたら自分が環境の主人になり、順位がすっきりした生き方ができるのでしょうか?

1.神の国とその義

 マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このところに「だから」と書いてあります。「だから」というのは一体、どの部分から帰結したものなのでしょうか?このみことばの前に、25節にも、31節にも「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」という心配ごとが記されています。そして、32節「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」「だから…」と続いています。異邦人というのは、神を信じないユダヤ人以外の人を指すことばであり、少々、軽蔑的な言い方です。そういう意味では、私たち日本人も異邦人であります。異邦人の特徴とは何でしょう?「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」、いつも心配している人たちのことです。「心配する」はギリシャ語で「思いわずらう」という意味もあります。テレビのコマーシャルを見ると、そのほとんどが衣食住のテーマを扱っています。最近は人々が食べ過ぎて、ダイエット製品が良く売れています。着る物がないのではなく、流行を追いかけており、ダサくないものを着ることを求めています。土日、近くのショッピングモールに立ち寄る時があります。「こんだけ集まって、何が面白いんだろう。他に行くところがないのか?」と思うときがあります。日本人の関心事は、神の国とその義とではなく、この世の事柄であります。

 この世そのものは罪ではありません。かつて禁欲的なピューリタン信仰が日本の教会に入ってきました。装飾品を身に着けたり、お化粧したらダメと言われました。映画もダメ、ダンスもダメ、ドラムやギターもダメみたいに言われました。それは、この世のものが罪であると考えたからです。正確にはこの世のものは罪ではありません。私たちはこの世の中に生きていますので、この世から抜け出すことはできません。この世のものを正しく用いるならば便利で快適でしょう。ただし、この世のものは私たちを占有し、神の国から遠ざける力があるということを忘れてはいけません。本来、私たちの心は神の国とその義によって、占領されるべきです。そうすれば、すべてのものが与えられることが分かり、心配する必要がなくなります。でも、日本人は、創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。日本人ほど勤勉で真面目な国民は他にいないでしょう。でも、日本人ほど心配し、思いわずらっている国民も他にいないでしょう?ある医師は「5人に1人は一生の間に何らかの精神疾患にかかる」と言っています。あるデーターによると、10人に1人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。「これだけ物質的に豊かな国なのに、どうしてなんだろう?」と思います。日本人は創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。私はそのことが原因であると確信しています。もし、全知全能の神さまが私たちのお父さんだとしたら、必要と守りが与えられます。もし、そのような神さまがいなかったなら、自分で一生懸命働き、自分のことを自分で守るしかないでしょう。でも、いつ病気になって倒れるかわかりません。いつリストラされて、生活できなくなるか心配です。「ああ、私は負け組じゃないだろうか?」とまで思ってしまいます。私もかつて建設会社をやめて数か月、失業していた時がありました。レストランで楽しく食事をしている光景を見て、別世界の人たちのように見えました。ルカ15章に放蕩息子の物語がありますが、そのまんまでした。何のために生きるか分からないので、ただ生き延びるための人生でした。

 現代はあまりにも複雑化しています。教育も複雑、社会構造も複雑、人間関係も複雑です。でも、イエス様はシンプルに生きることを勧めています。マタイ6:26「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」ここで言われている鳥はすずめなのでしょうか?あるいはカラスなのでしょうか?どちらにして彼らはすごいなーと思います。田舎でも、都会でも関係がありません。ちゃんとエサを見つけて生活しています。でも、イエス様は「天の父がこれを養っていてくださるのです」とおっしゃっています。さらにイエス様は「野のゆりのことを考えなさい」とも言われました。野のゆりは、人間のように「働きもせず、紡ぎもしません」。空の鳥もそうですが、「人間のようにあくせく働いていなくてもちゃんと生きているよ」ということです。彼ら自身は自覚していないと思いますが、天の父が彼らを養っておられるということです。イエス様は「ましてあなたがたに、よくして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」とおっしゃっています。このところから、父なる神さまが私たちを養っていて下さるという信仰が必要だということがわかります。空の鳥や野のゆりは、信仰がなくても生きているようですが、人間は信仰が必要だということです。では、その信仰は一体、どこからやってくるのでしょうか?

 やっと戻ってきました。マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」だから、という以下のことばは、すべてが与えられることの条件です。これを第一に求めるなら、父なる神さまがちゃんと与えてくださるという保証でもあります。私たちの人生における優先順位の総括とは、このマタイ6章33節です。異邦人である私たちは、心配や思いわずらいから解放されるために、人生で何が最も重要なのか知らなければなりません。ここでは2つのことがらがくっついています。その2つは「神の国」と「神の義」であります。では、神の国を求めるとはどういうことなのでしょうか?「神の国」はギリシャ語で「神の王的な支配、統治」と言う意味です。神の国では神さまが王様です。もし、私たちが神の王国の住民になりたいと思うなら、この方を王様として心にお迎えし、この方に従わなければなりません。簡単にいうと、神さまに従い、神さまのお世話になるということです。残念ながら、生まれつきの私たちは神の存在を認めないし、むしろ逆らっています。イエス様は「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、change of mind向きを変えるということです。そして、キリストが十字架でなされた贖いを信じるということです。そうすれば、罪赦され、神の国に入り、神の国の住民になることができます。その結果、王なる神さまは私たち臣民を守り、必要を与えてくださいます。「神さまからすべての必要が与えられるので、心配することはない」ということになります。もう1つの課題は「神の義を求める」ということです。これは神さまが正しいとされることを、この世にあっても求めるということです。この世は神さまに反逆し、神さまなしの世界です。このような世界の中で、神さまが正しいとされることを求めることは並大抵ではありません。パウロはローマ12章で「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と言いました。神の義というのは「神のみこころであり、神に受け入れられるものです」。

 鳥や花は、私たちのような意志や考えがありません。私たちは神のかたちに似せて造られたので自由意志があります。本来、自由意志は神さまに喜んで従うためにありました。しかし、アダムが罪を犯してから、「私は信じない」「私は従わない」という間違った方に自由意志を用いるようになったのです。神さまは私たちが自由意志をもって、神の国とその義とをまず第一に求めることを願っておられます。鳥や花はいくらがんばっても、神さまの子どもにはなれません。私たちはキリストにあって、神の子どもという身分が回復されました。神さまが父であるならば、子である私たちを心から面倒見たいと思うのは当然でしょう。私には4人のこどもがあります。私はとても貧しい家で育ったので、生き延びることがテーマでした。でも、キリストの神さまを信じてから、父の心が与えられました。「どうやって4人のこどもたちの学費を賄うことができるのか?」心配したときもありました。そのとき、このように思いました。「私の父は、天の神さまである。そうしたら、4人のこどもたちは、天の神さまにとっては孫である。孫をかわいがらないおじいちゃんはいない。」厳しい時期も何度か通りましたが、神の国とその義とをまず第一に求めたら、何とかなるという体験を通した信仰が与えられました。なまじっか私たちには考えがあるので、心配します。でも、私たちは空の鳥や野のゆりのことを考えて、彼らがどのように養われているか知るべきです。まして、天の父が私たちに良くして下さらないわけがありましょうか。

2.人生の優先順位

 後半は私たちの人生においてどのようなことに対して、優先順位を決めるべきか具体的にとりあげたいと思います。人生の優先順位、特に3つのことがらを上げて考えてみたいと思います。第一は時間です。パウロはエペソ5章で「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と言いました。機会はギリシャ語でカイロスですから、「特別な時」という意味です。英語のほとんどの聖書はtimeと訳しています。ですから、今回は「時間の使い方」というふうに解釈したいと思います。神さまは平等にすべての人に1日24時間、86,400秒を与えました。時間は銀行に振り込まれるお金のようなものです。もし、1日毎に自分の口座に86,400円が振り込まれたらあなたはどう使うでしょうか?時間というお金はきょう使い切らなければなりません。残念ですが、明日のために貯めておくことができません。明日にはまた新たに86,400円が振り込まれます。もし、このように時間を考えるなら、「時間をつぶす」なんていう考えは生まれて来ないでしょう。なぜなら「お金をつぶす」のと同じだからです。あなたは、与えられた86,400円という時間を正しく、活かして用いなければなりません。ある人は、いつも何かに振り回されて忙しくしています。なぜでしょう?その人は時間の優先順位のない人です。もし、あなたが時間に対して優先順位をたてていないなら、あなたの空いている時間を人が使うでしょう。あなたは人から「…してください」と頼まれたら断れないタイプでしょうか?もし、あなたが時間に対して優先順位を持っているなら、あなたが時間の主人ということになります。もし、他の人が急に「…してください」と頼んでも、「いえ、今は手がふさがっています。この時間なら大丈夫です」と言うことができるでしょう。

 では、神の国とその義を第一に求める時間の使い方というのはどのようなものなのでしょうか?実はこのみことばの前に、「主の祈り」がありました。これはイエス様が「このように祈りなさいよ」と弟子たちに教えた祈りです。ということは、主の祈りこそが、優先順位のヒントになるということではないでしょうか?マタイ6:9「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」。この祈りは、私たちの必要ではなく、神さまの必要が満たされるための祈りです。神さまは「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」ということを願っているということです。これは言い換えると、「神さまが礼拝され、神さまの支配がこの地に来るように」と言う願いです。ということは、私たちの一日、一週間、一年において、神さまを礼拝すること、神さまの支配がくるような時間をささげる必要があるということです。旧約聖書では安息日の他に、たくさんの行事があり、一週間も聖なる日が続くことがありました。ダビデやイエス様は朝早く、父なる神さまと交わっていました。私たちはユダヤ人ではありませんから安息日という考えはありません。日曜日が聖日であり、安息日に代わるものであるという論法は後の教会が決めたものです。私たちは聖書的な根拠がどうであれ、神さまを礼拝する時間を聖別する必要があります。そして、時間の使い方に対して、優先順位を持つということを決めたらいかがでしょうか?毎日の日課、一週間の予定、一か月と予定を組むと、だらだらと時間を過ごすことが少なくなります。

第二はお金です。家庭での大きな問題は浪費ではないでしょうか?ギャンブル依存はダメですが、欲しいものを買い過ぎて、借金で首が回らなくなるケースもあります。テレビで、ある人が「必要なものと欲しいものの比率は7対3にすべきだ」と言っていました。いわゆる浪費癖がある場合は、特にお金の優先順位を身に着けるべきでしょう。こういう私も、お金の管理は得意な方ではありません。私が気を付けるべきものはアマゾンです。ポチと押すと、すぐ届きます。後から、クレジットの支払が「どーん」とやってきます。エディ・レオ牧師がsign and wonderということを言ったことがあります。sign and wonderは本来、聖書の奇跡を意味することばです。しかし、エディ先生の奥さんはとても買い物好きです。あっちの店でサインします。こっちの店でサインします。あとでクレジットの支払を見て、エディ先生が「ワンダー」と目を丸くして驚きます。近年、若者の間で、クレジットによるカード破産というのがとても多いようです。「カードで買うとポイントも貯まるし、得だ」と考えますが、現金が見えないので落とし穴になります。

私たちは金銭の優先順位を体得する必要があります。お金はマモンと言われ、使い方を間違えると怪物のようになります。私たちがお金の主人であり、お金が私たちの召使であるべきです。エディ・レオ牧師がそのためには、十分の一献金がすばらしい方法であると教えておられます。聖書で十分の一の記載の最初は、アブラハムがメルキゼデクにささげたことです。彼は戦利品の中から十分の一を捧げました。旧約聖書マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私をためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかためしてみよ」と書かれています。本来、私たちは神さまをためしてはいけません。ところが、この箇所だけに、「私をためしてみよ」と書かれています。つまり、「十分の一を捧げて私が本当に祝福しないかどうか試してみよ」ということです。ということは実際にやってみた人でないと分からないということです。さらにマラキ3:11「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。」と書いてあります。これはどういうことかと言うと、十分の一を捧げることは、畑の周りに柵を設けることになります。その柵があるので、他の動物があなたの畑に入って、産物を食い荒らさないということです。旧約聖書には「あなたの初なりを宮に持ってきなさい」ということばもあります。ですから、捧げるための極意は、給与をもらったときにすぐに献金として分けるべきです。使った後、余ったら捧げるとなると決して成功しません。お金に対する優先順位を身に着ける一番の方法は、十分の一献金です。くれぐれも、これはやった人でなければ分かりません。信仰の先輩たちに聞くと、「本当にそうだったよ」と顔を輝かせて答えてくれるでしょう。

第三は力です。力とは私たちの体力、知力、能力、技術力と言えるでしょう。力に対する優先順位というのがあるのでしょうか?前のメッセージで伝道者の書から「すべてには季節seasonがある」とお話ししたことがあります。若い時は体力だけではなく、記憶力や想像力もすぐれています。ですから、ゲームや遊びはほどほどにして、勉強やスポーツに励むべきです。そういう意味では学校教育はいじめがなければ良いところです。若さはいつまでもあるわけではないので、将来のために投資することが大切です。また、仕事や立場によって本分というのがあります。職業によって、自分にとって最優先すべきものは何なのか、そこにエネルギーを注ぐべきです。どうでも良いことにエネルギーを裂いてはいけません。「人助け」と称して、よく人のおせっかいばかりしている人がいますが、自分の責任をまず果たすべきです。子育てのときは、子どもに本当にエネルギーを取られます。でも、これも子どもの将来のための愛の投資です。今どき、「この子が親孝行してくれるか?」などと考える親はいないでしょう。ある人が「子どもは三歳まで、十分親孝行してくれた」と言いました。年を取れば、だんだん体力と記憶力が衰えてきます。若い頃のように無理がききません。でもこの時期には、洞察力、管理能力、総合的な判断が最高潮の時です。また、次の世代にこれまで培ってきたノウハウを伝える重要な役目もあります。ちなみに老後にゆっくり旅行に行こうなんて無理です。まだ、足腰がきくころに出かけるべきです。このように人生の各ステージにおいて、優先順位が違ってきます。でも、体力、知力、能力、すべてのことに言えることですが、学ぶ時間、鍛える時間を常に取らないと、衰えていくばかりです。神のご栄光のために、一生勉強、一生研究、一生訓練することが必要です。

もし、あなたが「人生の成功の秘訣は何ですか?」と答えたら何と答えるでしょう?もし、あなたが死ぬ前に、子どもに「このことが一番、大事なことだよ」と伝えたいことは何でしょう?あるパン屋さんが、死ぬ前に息子を呼んでこう言ったそうです。「サンドイッチのハムは薄く切ろよー」。何かさみしいですね。私だったら「人生で大事なのは優先順位だよー」と言いたいです。その時、添えたいみことばはマタイ6章33節です。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」私は親が子どもに残せる最大の遺産は信仰だと思います。信仰の極致は、滅びないで永遠のいのちを持つと言うことです。永遠のいのちを持っていたら、地上の人生はおまけみたいなものです。でも、その子がひとり立ちして生きるためにも信仰が必要です。いつまでも、親が一緒にいて助けることはできません。でも、人生のすばらしい秘訣があります。それは人生の成功の秘訣でもあります。たとえ、子どもに遺産を残せなくても、人生の優先順位における信仰を与えることができたら大丈夫です。最後にリビング・バイブルでマタイ6章33-34節をお読み致します。「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えて下さいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神様は明日のことも心にかけて下さるのだから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。」