◆聖書箇所: 詩篇23篇 (新改訳2017)
<ダビデの賛歌。>
23:1
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。
私の杯はあふれています。
23:6
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。
私はいつまでも主の家に住まいます。
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本日は体調がすぐれない鈴木先生の代わりに礼拝メッセージをさせていただきます。
先週の礼拝でお伝えしたとおり、頭部の外傷による影響で再検査となったようです。
鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。
私がメッセージを担当する時は、12の小預言書を順番に語っていますが、本日はピンチヒッターということで、詩篇の23篇からメッセージを取り次がせていただきます。
詩篇23篇は、羊飼いである主が、羊である私たちを導き守ってくださることへの感謝と信頼に満ちた詩です。とても有名な聖句なので、暗唱聖句として覚えておられる方も多いと思います。
教会学校でも、「主の祈り」とともに「詩篇23篇」を暗唱しています。
海外の映画やドラマでも、重要なシーンで詩篇23篇を暗唱するという映像が見られることがあります。
大島渚監督の映画、「戦場のメリークリスマス」では、デヴィット・ボウイ扮するイギリスの陸軍少佐が、首から下を生き埋めにされるという処刑シーンで、捕虜たちが詩篇23篇の讃美歌を歌っていました。
本日は、この詩篇23篇をいま一度読み返して、主の臨在の中で、主のいつくしみと恵みとを味わい知る喜びを、みなさんと分かち合いたいと思います。
◆羊飼いである主は、
①満ち足りる心を与え、休ませてくださる。
この23篇の冒頭には、<ダビデの賛歌>と書かれていますので、この23篇は、ダビデ王が自らの体験を歌にしたと考えられます。どういった状況を想い起してこの詩を歌ったかについて、イメージしてみましょう。
ダビデ王の生涯は戦いの連続でした。
ダビデがあまりに多くの血を流したことから、主はダビデが神殿を建てることをゆるさず、息子ソロモンに建てさせたほどです。
<Ⅰ歴代22:8>
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あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。
わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
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ダビデは、外国の敵だけではなく、主君であるサウル王に命を狙われたり、息子のアブシャロムに狙われたりしました。ダビデはこのふたりとは戦いたくありませんでしたので、彼らから逃げまどい隠れていました。
なぜなら、サウル王は主に油注がれた王なので、ダビデは主を恐れて主に油注がれた人には手をかけたくなかったし、アブシャロムは自分の愛する息子だったからです。
そのような状況で生まれたのが、詩篇23篇です。
まず、1,2節を見てみましょう。
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23:1
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
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2節は新改訳2017版の聖書では、今までの新改訳聖書とは少し聖句が変わっている箇所があります。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(新改訳3版)
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。(新改訳2017)
新改訳2017では、「いこいの水のほとり」を「いこいのみぎわ」という言い方に変えています。
この「みぎわ」という言い方は、口語訳聖書で使われている言い回しで、日本語としてとても美しいことから採用されたようです。私もこの「みぎわ」という言い方はすごく好きです。
因みに、昨年新しく改定されて発行された、カトリックとプロテスタントの共同で訳された「共同訳聖書」では、「憩いの汀」と、漢字が使われています。
「礼拝に相応しい格調高く美しい日本語訳を目指した」ということですが、格調高い漢字を増やし過ぎて、聖書がさらに難解になってしまうとしたら、賛否両論ありそうですね。
話は戻りますが、羊飼いである主は、ダビデが敵の攻撃からやっとのことで逃れ、身も心も疲れ果てているときに、食料を与えてくださり、いこいのみぎわで休ませてくださいました。
それゆえ、ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と、心から主を褒め称えています。
また、主はダビデだけではなく、主を慕い求める者たちには、同じように必要を与えてくださっています。
イスラエルの民にとって大きな出来事である、モーセの時代の荒野での40年間も、羊飼いである主は養ってくださいました。
<申命記8:7-10>
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8:7
あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
8:8
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
8:9
そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。
8:10
あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。
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主はダビデと同じように、イスラエルの民たちにも必要を与えましたが、ダビデとは大きな違いがありました。
モーセはイスラエルの民たちに、神が与えてくださった約束の地で食べて満ち足りた時、主をほめたたえなければならないと言いましたが、はたして民たちは主をほめたたえたでしょうか?
どうもそのようには見えません。
時代はモーセからヨシュアへ、そして士師、サムエルと流れていきましたが、民たちは、いつの時も不平不満だらけで偶像崇拝を行ない、心休まることなく戦い続け、自らの利益だけを考えて過ごしていました。
ダビデとの違いはここです。大切なのは、「満ち足りる心」「満足する心」です
ダビデは、毎日戦いの日々だったにも関わらず、どんな状況でも主の臨在を感じることができ、感謝し、褒め称え、詩を歌いました。ダビデは羊飼いである主によって、満ち足りる心をいただいたのです。
新約聖書では、ピリピの教会の人々にパウロはこのように語っています。
<ピリピ4:11-13>
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4:11
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
4:12
私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
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パウロは弟子のテモテにもこのように語っています。
<Ⅰテモテ6:6-8>
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6:6
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
6:7
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。
6:8
衣食があれば、それで満足すべきです。
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人の欲望というものは、満足する心がない限り際限なく続きます。
心理学者マズローの「欲求5段階説」は、それをよく表しています。
①生理的欲求 (生命を維持したい)
②安全の欲求 (身の安全を守りたい)
③所属と愛の欲求 (他者と関わりたい。集団に属したい)
④承認欲求 (自分を認めたい。他者から価値を認められたい)
⑤自己実現の欲求 (能力を発揮して創造的活動をしたい)
【⑥超越的な自己実現の欲求 (至高体験を経験したい)】
マズローは段階が上がっていくことを良くない事だと言っているわけではありません。
人類の文化の発展には⑤や⑥は必要です。
自己実現するために、夢を追いかけたり、欲求を満たすために努力することは悪いことではありません。
しかし、夢や欲求が、ただの貪欲に変わってしまうとやっかいです。
なぜなら貪欲な心というのは、現状に対する不満に満ち溢れ、自分を高慢にさせ、神のように振舞ったり、偶像崇拝をしてしまったりというように、人をすっかり変えてしまうからです。
そのような姿は、神様が喜ばれる姿ではありませんし、いずれは自分自身が壊れてしまい、周りの人との関係も崩れてしまいます。
ですから、良い羊飼いである主に信頼しましょう。主は私たちの心に平安を与えてくださいます。
「私は乏しいことがありません。」・・・と告白できるほど、満ち足りる心を与えてくださいます。
「緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」・・・羊が安心して草を食べるように、主は私たちに必要なものを与えてくださり、憩いのみぎわで、疲れと渇きを癒やしてくださいます。
それゆえ、主を心から褒め称えましょう。主は褒め称えられるべき御方です。
◆羊飼いである主は、
②たましいを生き返らせ「シューヴ」(שׁוּב)、いのちに至る道をくださる。
次に3節を見てみましょう。
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23:3
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
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「たましい」という言葉は、ヘブライ語で「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)という言葉で表されています。この言葉は、前回のメッセージでも語りましたが、本来の意味は「喉」です。喉は、食べたり飲んだり、息をしたりする重要な部分です。転じて、「飢え渇きや欲望」を持った人間を表します。
ですから、私たちの「ネフェシュ」「たましい」は、いつも飢え渇いているのです。
例えば、<詩篇42:1>には、
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鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
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この箇所は、飢え渇いているたましいが、神を慕ってあえいでいる様子がよく表れています。
そして、「たましいを生き返らせ」の、「生き返らせ」に使われているヘブライ語ですが、それは「シューヴ」(שׁוּב)といいます。シューヴの本来の意味は、「神に立ち返る」「悔い改める」です。
なぜ先ほどから、ネフェシュとかシューヴとかヘブライ語を出してくるかというと、旧約聖書はヘブライ語で書かれていて、その単語には日本語では表現しきれない意味が含まれているからです。
「シューヴ」(שׁוּב)の「神に立ち返る」「悔い改める」の意味が、ここでは、「生き返らせ」になっています。
英語の聖書では、ここは“restore”(リストア) と書かれています。
“restore”は、回復する、元気を取り戻す、生き返る、復帰する、再建する、新しい力を得る、といった意味があるので、ここはやはり「悔い改め」よりも、「生き返らせる」が訳としてはしっくりきます。
いずれにしても、自分の力でたましいが生き返るのではなく、「主が生き返らせてくださる」という受動的なところがポイントです。私たちは、信仰によって創造主である神にすべての主権があることを知っています。
ですから、主の偉大さを恐れるとともに、受動的にすべてを受け入れて、主の大きな力強い御手の中に身を委ねることで、身も心も霊も、安心することができるのです。
さらに3節後半はこう続きます。
「御名のゆえに私を義の道に導かれます。」と歌われているとおり、主は私たちを、御名のゆえに「義の道」、つまり、「いのちに至る道」へと導いてくださいます。ほんとうに主への感謝にあふれます。
続く4節。
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23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
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人生は山あり谷ありです。「信仰をもっていたなら災いが起こらない」などというわけではありません。
聖書に出て来る信仰者たちも、実に多くの苦難に見舞われています。
私たちも、いつ災いに見舞われるかわかりません。いつ天に召されるかもわかりません。
しかし、たとえ人生の暗闇の中にいたとしても、主がともにおられるという祝福があります。
「主がともにおられる」というのは、主の臨在をいつの時も感じることができるという幸いです。
「主は与え、主は取られる」のですから、恐れずに主と歩めば良いのです。
次の聖句、「あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」と読むと、羊飼いが羊をピシーッ!とむちで叩いたり、杖でオラオラーーっと小突いたりしている図が浮かんでしまう人がいるかもしれません。
しかし「むちと杖」というのは、羊飼いが猛獣を追い払うために使ったり、迷っている羊を正しい道に導くために使った道具です。
聖書ではイエス様を羊飼いに例えたり、人間を羊に例えたりしますが、それは人間には羊の性質に似ているところがあるからです。羊は動物の中でも、おっとりしていて弱いし、頭も良くないし、目も悪いし、何も考えずに他の羊と同じことをしてしまいます。
例えば一匹崖から落ちると、後ろからついていった羊たちが次々と崖から落ちてしまうといった感じです。
だからこそ、しっかりと導いて守ってくれる羊飼いが必要なのです。
主が羊飼いであるならば、どんな苦難が起こっても、主がともにいてくださるから恐れることはありません。
愛をもって導いてくださる、主のむちと杖こそ、私たちの大きな慰めとなります。
次に5節を見てみましょう。
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23:5
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。
私の杯はあふれています。
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敵が迫って来ていても、主は食卓を整えてくださるというのは、主からの特別な守りを表しています。
敵の前でも平然と食事が出来るくらい、私たちの安全を保障してくださるということです。
また、今までの聖書は「油」と書かれていましたが、新しい訳では「香油」に変わっています。
このことからも、この油そそぎは、任職の油そそぎというよりも、良い香りの香油をたっぷり注いでいただくことによって、安心や喜びが、杯いっぱいになるようにあふれるという意味になります。
羊飼いである主は、私たちの「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ) たましいを「シューヴ」(שׁוּב)生き返らせてくださいます。
そして、いのちに至る道をくださり、敵から守り、喜びで満たしてくださるとは、なんと幸いなことでしょうか。
◆羊飼いである主は
③惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる。
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23:6
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。
私はいつまでも主の家に住まいます。
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「いつくしみ」と訳されている「トーヴ」(טוֹב)は、以前も出てきた言葉です。
「トーヴ」は「良い」という意味で、「トーヴアドナイ」は、「主は永遠に良い御方」を意味する言葉です。
主は私たちに、惜しみなく良いものを与えようとしておられます。
「恵み」と訳されている「ヘセド」(חֶסֶד)は、神の真実な姿、永遠にゆるがない愛と憐みを意味します。
トーブもヘセドも神のご性質を表すためによく使われる重要な言葉です。
「いつくしみと恵み」が追いかけて来るとは、いつくしみと恵み、主の臨在に包まれていることを意味します。
「私はいつまでも主の家に住まいます。」と言ったダビデはこのように願いました。
<詩篇27:4 >
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私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
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ダビデは、神との交わりの場である神の宮に行って礼拝をすることが最大の喜びでした。
彼は、主の臨在の中で主との交わりを第一とすることで、主の栄光を周りの人々に表していったのです。
ダビデから後の時代に、イエス様は人の手による神殿を壊されました。
そしてイエス様御自身の身体をもって神の宮を建ててくださり、私たちが自由にキリストの身体である教会に集い、主との交わりができるようにしてくださいました。(ヘブル10:19-25)
私たちが主の臨在の中で礼拝する時に、聖霊なる神様が確かに働いてくださいます。
羊飼いである主は、惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる御方です。
私たちもダビデのように、詩篇23篇を歌い、主の臨在があふれる宮の中で主を礼拝し、主の栄光を周りの人々に表していけるように祈っていきましょう。