2025.10.26「思いがけないこと Ⅰペテロ4:12-16」

あるとき、四つ木の首都高インター入口で立ち往生したことがあります。夜10時頃、丹沢のヤビツ峠に水を汲みに出発しました。ところが、入口のバーが上がらないのです。なんと、「ETCカードが期限切れです」とアナウンスがありました。幸い、後続車がなかったので、隣の入口に移動し、指示を仰ぎました。水汲みを断念し、一番近くのインターで降りました。あとから請求書が来てびっくり。首都高全区間乗ったことになり、1900円の請求書が来ました。新しいカードが届いていたのに、取り換えていなかったのです。思いがけないことが起ることが結構あるものです。皆さんは試練や苦しみが突然やってきたときどう対処するでしょうか?

1.いろいろな反応

Ⅰペテロ4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」「思いがけないこと」は、欽定訳ではstrangeとなっています。strangeとは、「変な、予想外の、経験したことのない」という意味です。人生に起こるハプニングとか、トラブル、事故のことであります。私たちは「何か思いがけないことが起こったとき」いろいろな反応を示すのではないでしょうか?心理学では、「反応的」と言うようです。何か思いがけないことが起こったとき、条件反射的に対処するということです。その人の性格とか、これまでの生き方で身に付いたもの、行動様式みたいなものです。普段は落ち着いて、理性的な人でも、何か思いがけないことが起こると、内側から「ばあーっと」その人自身が出てくるということが良くあります。本性とか、地金、素顔みたいなものです。人というのは、普段、何も起こっていない時よりも、何か思いがけないことが起こったときに、良く分かるのかもしれません。では、人は思いがけないことが起こったとき、どのような反応を示すのでしょうか?私自身の経験からこういうものが出てくるのではないかと考えてみました。恥ずかしいですが、私のことです。

➀怒り:「ちゃんとやったのに、なんでこんなことが起こるんだ」という怒りです。いつもいい加減に生きている人は、そうでもないかもしれません。でも、一生懸命準備したり、がんばったりしたのに「とんでもないことが起こった」というケースです。自分でいうのも何ですが、私は用意周到であり、何でも前もって準備する方です。でも、それでも思いがけないこと、予想外のことというのは起こるものです。「なんでだよ!」と怒りが出てきます。これは反応的なものであり、1秒もかかりません。心理学者は「トリガー(引き金)」とか「地雷」と言っています。私たちは、だれかから地雷を踏まれると、どかんと爆発してしまいます。

 ➁恨み:その次に、だれかを恨むのではないでしょうか?「ちゃんとやったのに、なんでこんなことが起こるんだ」と、私は神さまを恨んでいました。これは、クリスチャンになる前から、そうでした。不条理にあふれた家庭や学校生活だったので、運命や神さまを恨みました。クリスチャンになって、「ああ、私は神さまを恨んでいる!」と気づいて唖然としました。それから、自然の法則、物、人に当たるでしょう。車で、電柱にぶつけたときは電柱を恨んだりします。「前の車が道をふさいでいなければ、あんなことにならなかったのに!」と思います。はっきりとした人物がいれば、その人を恨みます。「なんてことをしてくれたんだ?」とさばきたくなるでしょう。相手がいる場合は、トラブルに発展しやすいです。ちなみに、アメリカではI’m sorryは簡単に言わないそうです。ですから、アメリカは訴訟の国であり、弁護士がとても儲かっています。

 ③嘆き:とりかえしのつかないことをした、損失が意外と大きかった。目の前の現実に、どうしても嘆いてしまいます。ちなみに私はよく嘆きます。車をぶつけた時は、その場にしゃがみこみます。テレビや映画で、頭をかかえるシーンを見たことがありますが、同じことをしているのかもしれません。エペソ4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」とあります。そこに「叫び」とありますが、2017訳は「怒号」となっています。パウロは「叫びや怒号を捨て去りなさい」と命じています。私は小学校のとき、よく叫んでいました。私のことを悪者呼ばわりして、だれも私のことを助けてくれないからです。「中学、高校もそうだったなー」と思い出します。機能不全の家庭で育ったので、バリヤーというか、守りがなかったのです。クリスチャンになってから、神さまが弁護し、擁護し、守ってくれると分かりました。それから、あまり叫ばなくなりました。でも、たまには叫びます…家内が一番よく知っています。

 何か思いがけないことが起こったときは、だれでも反応するものです。私たちの脳には、扁桃体というアーモンドの形をした記憶の図書館が左右に2個あります。そのところには、怖かったこと、いやだったこと、トラウマ的出来事が貯蔵されています。負の記憶と言えますが、野生の動物にとっては生き延びるためにとっても大事だそうです。気を付けないと、他の動物に食べられてしまうからです。人間も同じで、何か脅威にさらされたときは、扁桃体から大脳に情報が伝わり、反応してしまうのです。心理学者に言わせるとその時間は1秒もかからないそうです。重要なのは、反応をできるだけ穏便にして、次のステップに行くということです。一呼吸おいて、「きっと解決があるはずだ」と考えることです。ペテロは、「…あなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」と言いました。このところには、「燃えさかる試練」と書かれています。実は、第一ペテロの手紙のテーマは「試練」であります。つまり、これはあなたへの試練なのです。自分の失敗、だれかの仕業、自然現象、不慮の事故…様々な不条理をふくめて、これは試練なのです。「試練」の中には、誘惑、試験、障害…いろんな意味が含まれています。神さまや人を恨む理由もあるかもしれませんが、それらは試練なのです。怒り、恨み、嘆きも、短時間だったら許されるかもしれません。しかし、それらは試練の解決にはならないということを心に留めるべきです。試練だったら、何か解決を見つけ、乗り越える必要があります。試練は課題であり、乗り越えるべき山であり、渡るべき川なのです。あなたは、ミッション・インポッシブルの主役、トム・クルーズなのです。

2.解決の道

たとえ、思いがけないことが起こっても、「反応」だけで終わってはいけません。なぜなら、それは試練であり、テストだからです。生協に行く途中、そばやさんがありました。今は閉店していますが、息子さんが道路の角によく車を止めています。私はそれを見るたびに、「危ないなー、交差点に入っているだろう」とぼやいていました。ある日の夕方、買い物から帰ると、お巡りさんが、その車の持ち主に切符を切っていました。持ち主は「罰金払えばいいんだろう。早く済ませろよ!」と叫んでいました。そこには、その車を通報した向かいの主婦もいました。持ち主は、自分の母さんの静止も聞かず、大声で叫び、悪態をついていました。私は「あんたが、いつもそこに駐車しているからだよ」と思いました。でも、彼は反応しているだけで、解決の道を見いだす余裕がないようでした。私も人のことは言えませんが、反応だけではダメであり、次のステップに進む必要があるということです。では、解決の道とはどのようなものなのでしょうか?

Ⅰペテロ4:13「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」ペテロは苦しみや試練には意味があるということを教えています。Ⅰペテロ1章をみると、もっとはっきりしています。Ⅰペテロ1:7「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」試練を通して、キリストによる栄光と誉れがもたらされるということです。表現を変えると、罪がきよめられ、成長し、栄光の姿になるのです。ペテロは試練を「火による精錬」にたとえています。私たちは金がどのように精錬されるか知的に知っています。今は電気や溶媒を使うようですが、昔は砕いた原石を熱い炉に入れて溶かしました。すると、不純物が上に浮かんできます。人々はそれをすくって捨てるわけです。やがて、99%の純金になるのです。では、私たちはどのようにきよめられるのでしょうか?試練、つまり火による精錬を受けると、罪や不純な動機が浮かび上がってくるのでしょう。試練によって、それがだんだん、取り除かれていくのです。解決の道とは何なのでしょうか?それは、試練や苦しみには意味があるということです。それは私たちをきよめるためのものなのです。

何か思いがけない出来事はどんな意味があるのでしょうか?ローマ5:3-4「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと」と書いてあります。椰子の木は聖書的な木だと言われています。詩篇92:12「正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの杉のように育ちます。」台風が来ると、大きな松の木は倒れてしまいます。ところが、椰子の木は別です。地面すれすれに木をたわませながら、乗り越えます。それと同時に、地面に深く根を張るそうです。「今度、同じような台風が来ても大丈夫だ」と思うのです。私たちも試練を乗り越えるたびごとに、人格がきよめられ、信仰が増すのではないでしょうか?確かに、失敗や事故は損失を招きます。私も車のバンパーを自分で直しましたが、専門家に任せた方が良かったと思いました。風呂釜の修理もそうでした。おそらく修理代は半分だったかもしれませんが、「無駄な労力だったなー」と反省しました。でも、色んなことを勉強しました。お陰で、いくらか専門家に近づきました。今度、同じことが起きたら、もっとスムーズに修理できるでしょう。セールスで、変なものを買わされる場合があります。でも、「授業料だと思えば良い」と聞いたことがあります。怪我や損失は生きた勉強なのです。

物事のせい、人のせい、神さまのせいにするところがあるでしょうか?自然には定まった法則があり、この法則を破ると必ずやられてしまいます。高いところから落ちると怪我をするのです。安いものを買うと、当たりはずれがあります。無茶なことをすると、事故にあう確率が高くなります。クリスチャンになると「どうして神さま、教えてくれなかったのですか」とか「どうして神さま、事故から守ってくれなかったのですか」と言いたくなります。後から気づくのですが、「聖霊様が、低い声でささやいていたなー」と思うときもあります。少し静まって、聖霊様の導きを仰いでいれば、回避されたこともたくさんあったでしょう。私たちはどんなことがあっても神さまを恨んではいけません。ヤコブ1章にはこのように書かれています。ヤコブ1:13,17「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。…すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」そうです。私たちの神様は良き神さまであり、私たちに最善を願っておられるのです。誘惑にはまったのは、私たちの欲であり、罪であったのです。でも、一回転んだら、次から転ばなければ良いのです。「転んでもただでは起きない」、そこから大事な教訓を得るのです。

 私は詩篇119篇のこのみことばが大好きです。詩篇119:67「苦しみにあう前には私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。」そして、詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」詩篇の記者は、あとから「苦しみにあったことが幸いであった」と述べています。なぜなら、神さまのみことばとおきてを学ぶことできたからです。そうです。私たちは苦しみを通してでしか、学べない所があるのです。私も4人の子どもを育てましたが、老婆心から「こうしちゃダメだよ」と子どもに言い聞かせたことがあります。でも、子どもは言うことを聞きません。私もかつてそうだったように、痛みを通してでなければ学ぶことができないのです。でも、私たちの父なる神さまは私たちを愛しており、すべてのことが益になるように働いておられます。ですから、失敗したり、試練にあったときは、このみことばを思い出すと良いです。ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」パウロは「知っている」と言いましたが、これは知的にではなく、体験的に知っているということです。これからも知り続けるということです。

3.喜びの先取り

 Ⅰペテロ1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」もう一か所、引用いたします。Ⅰペテロ3:13「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」ペテロ第一の手紙の主題は「試練」ですが、試練で終わるのではなく、「喜び」に終わるとはっきり述べています。究極的には、キリストが再び来られるとき、すべてが報いられて喜びに終わるということです。しかし、信仰によって、試練のまっただ中でも、「喜ぶ」ように勧められています。試練や苦しみを乗り越えた後なら、だれでも喜ぶことができます。まだ、トンネルの出口が見えない、この先、どうなるか分からなくても、信仰によって喜ぶことができます。車のバンパーを塗装しているときも、「本当に仕上がるのだろうか」と心配しました。風呂釜を修理するときも、「本当に水漏れは直るのだろうか」と心配しました。他にもたくさんありますが、「果たしてものになるのだろうか?」という心配がありました。しかし、今現在は、4つか5つの問題が解決しており、あの時は何だったのだろう。解決がこのように来るのだったら、「喜べば良かったなー」と反省しております。試練や苦しみにおいて、最も良くないのは自己憐憫です。「神さまがいるのに、どうしてこんなことが起こるんですか?」とそこに座り込んでいる人がいます。テレビで子どもを事故か事件で失った母親を見るときがありますが、悲しみの淵から立ち上がろうとしません。彼らは明らかに犠牲者であります。ずっと、死んだ子どものことを考え、部屋も片づけられません。私は同じ立場を経験していないので、何とも言えませんが、立ち上がって前に進めないだろうかと思います。もう一度言いますが、試練や苦しみにおいて最も良くないのは自己憐憫です。起きたことを恨み、そんな自分の運命を憐れんでいます。「だれでも、キリストにあるなら、古いものは過ぎ去り新しくなる」と信じます。必ず、運命の逆転があることを信じます。

 ところで、なぜ、試練と苦しみの真中で喜ぶことができるのでしょう?それは、ローマ8章28節にあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」そうです。神さまが働いておられるからです。”Building a story brand” という本を読み、翻訳したことがあります。その本から、すべてのドラマのストーリには共通点があることに気が付きました。ドラマには7つのストーリがあります。第一はキャラクター、人物です。最初に普通の顔をしたヒーローが登場します。第二は問題が起こります。ヒーローは平和に暮らしていたのですが、突然、問題が起こりました。爆発、誘拐、災害、戦闘などです。第三は助け手との出会いです。ヒーローは問題を解決しようともがいていますが、助け手が現れます。第四は助け手が示す計画です。不思議なことに、助け手は問題を解決するためのアイディア、資源、力を与えてくれます。途中を飛ばして、第七は成功です。昔、『スターウォーズ』という映画がありました。主人公を助けるのが、ヨーダというジュダイ・マスターです。ヨーダが主人公を訓練し、フォースを自由に操ることができるようにしてくれました。ファルコンに乗っていた、ハリソン・フォードも助け手の一人です。

その先は、みなさんもご存じのとおり、危機一髪で、デス・スターを爆破することができました。いろいろ困難はありましたが、結末はハッピーでした。もう一度言いますが、試練や苦しみの中で、必ず助け手が与えられます。それは人であったり、何かの解決策、何かの製品であったりします。その道の専門家がいたら、すぐ解決できるのですが、そこまでたどり着くのが大変です。でも、必ず助け手が与えられ、そのことによって解決が与えられます。今はインターネットの時代なので、ある項目を入れると、「パーっ」と出たりします。私たちには全知全能の神さまがおられるので、聞けば教えてくださいます。ヤコブ1:5「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」

 最も忘れてはならないことは、自己憐憫に陥らず、信仰をもって喜ぶということです。喜びは力です。ネヘミヤ8:10「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(口語訳)と書かれています。イエス様が十字架におかかりになる前夜どうだったでしょうか?ルカ福音書22章にゲツセマネの祈りが記されています。イエス様は弟子たちに祈るようにお願いしました。ところが、彼らはみんな寝入ってしまいました。イエス様が「みこころなら、この杯を私から取り去ってください」と苦しみもだえて祈りました。そのとき、「御使いが天から現れてイエス様を力づけた」とあります。イエス様ほど試練と苦しみに会われたお方はいません。ところがヘブル人への手紙はこのように言っています。ヘブル12:2「…この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」すごい!イエス様は「しかたなく」「いやいやで」ではありません。喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架を忍ばれたのです。ペテロが言わんとしている、試練を乗り越える喜びです。まだ、そうなっていないのに喜ぶということです。イエス様も十字架の向こうにやってくる栄光を喜んでおられたに違いありません。”No cross no crown”「十字架なくして冠なし」という格言があります。ということは、栄光を受けるためには、試練や苦しみが必要だということです。私たちはできれば、試練や苦しみを避けたいと願います。イエス様も「みこころなら、この杯を私から取り去ってください」と願いました。でも、最終的には、喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架を忍ばれたのです。

 インターネットからの引用です。「天然ダイヤモンドは、地球の奥深くで高温高圧にさらされて誕生します。地下120キロを超える深さ、900〜1300°Cにも達する強烈な熱と45キロバールを上回る圧力、そして数百万年から数十億年という悠久の時の流れ。人間の想像をはるかに超えて、この奇跡は起こります。炭素が結晶化し、ダイヤモンドが生成されるのです。」ダイヤモンドができるため、超高熱と超圧力、超長い時間が必要だということです。私たちが試練や苦しみに会うのは、栄光に変えられるためなのです。嘆き悲しむのではなく、信仰によって喜びたいものです。