聖書は私たちの信仰の基準ですから、まず第一に、聖書に何と書いてあるか正しく解釈しなければなりません。それを「釈義」と言います。しかし、私たちには、ものの見方や考え方が既にあるので、全く正統な解釈というのは存在しません。もとになる神学的な考え方を「教義」と言います。また、自分たちが生きている世界は、神さまを信じていません。ですから、聖書の教えを正しく「適用」する必要もあります。これを実践神学と呼ぶことにします。きょうは、私たちが聖書を読むとき、知らず、知らずやっていることを学問的に仕分けしたいと思います。
1.釈義
釈義というのは、聖書のみことばを解釈するという意味です。私たちは聖書を読んでいると、「これはどういう意味だろう」という疑問に必ず出くわします。なぜなら、その当時に書かれた聖書のみことばと、今の時代には文化的にかなりの違いがあるからです。たとえば、聖書の時代は王様、主人、奴隷がおり、身分の差がありました。表現法や習慣も違いますので、今日的にどういう意味なのか調べる必要があります。そのためキリスト教会では、ガイドブックや注解書がたくさん出版されています。昔は「『ハーレーのハンドブック』を買って読むように」と言われました。福音派には『いのちのことば社』があり、日本のために大変貢献してきたことと思います。しかし、今の人たちはあまり本を読まないので、出版社は赤字で、「売れる本」しか出しません。どうしても神学的な本が出版されなくなります。そこへ行くとアメリカはクリスチャン人口が多いので、どんどん新しい本が出版されます。ある人のベストセラーは日本語に翻訳されますが、二番目、三番目の本は翻訳されません。そういう訳でどうしても、私たちが読める本が少なくなります。でも、どんな信仰書や注解書でも良い訳ではありません。私は保守的な信仰ですが、リベラルという「新正統主義」の立場の本もキリスト教書店に行くと並べられています。何をもってリベラルというか、それは聖書の霊感を信じていない神学者や牧師が書いた本です。昔、私はウィリアム・バークレーの注解書を読みました。なぜなら、日本の牧師たちが彼のことが大好きだったからです。聖書のことばの意味とか、当時の背景を知るにはとても良い本です。ところが、彼はイギリスの理神論や合理主義の影響を受けていますので、奇跡を奇跡として捉えていません。実際に起きたものではなく、すべてを霊的に解釈しているのです。
教えの番人として教会には「牧師と教師」が存在しています。エペソ4章に書いてありますが、キリストご自身が、使徒、預言者、伝道者、牧師・教師という5つの教役者を立てました。それは聖徒たちを整え、奉仕の働きをさせるためです。パウロはテモテに、真理のみことばをまっすぐに説き明かすようにと命じています。ある牧師たちは、「間違って解釈するので、聖書を自分で勝手に読まないように、教会の教えから学びなさい」と言います。私はそうは思いません。かつて、ローマ・カトリックは聖書を独り占めして、一般信徒には読ませませんでした。当時は、ラテン語聖書しかなかったので、信徒は教会に行って、解説してもらうしかありませんでした。しかし、マルチン・ルターは、「教会ではなく、聖書に権威がある」とし、聖書を自国語に訳しました。ちょうどグーテンベルグにより活版印刷が発明され、どんどん聖書が印刷され、一般信徒も読めるようになったのです。さらに、聖書は時代にあったように翻訳され、聖書そのものを読んで、理解できるようになりました。私は牧師として「一人で読むと、間違って解釈するのでやめなさい」とは決して言いません。なぜなら、真理の御霊が私たちに与えられているからです。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。当時の弟子たちのときは、聖書が完成していませんでしたし、聖霊も降っていませんでした。だから、イエス様にその都度、教えてもらうしかなかったのです。でも、イエス様が昇天されたあと、助け主、聖霊を送ってくださいました。聖書は聖霊が書いた書物なので、原著者の聖霊に聞くのが一番です。確かに、読んでいて分からないところはあります。私たちはお魚を食べるとき、あるいはケンタッキーフライドチキンを食べるときどうするでしょう?骨は脇にどかして、肉だけを食べるでしょう?はっきり言いますが、聖書において難解なところは、それほど重要な箇所じゃありません。ヨハネ黙示録の再臨の箇所を全部わからなくも良いのです。ローマ人への手紙を全部わからなくても良いのです。ところどころ、重要な聖句がありますので、そのみことばをじっくり読めば良いのです。
聖書を教える専門家はヘブル語とギリシャ語を学ぶことは確かに必要です。日本語だけでなく、英語の聖書も読むと良いでしょう。神学校によっては「釈義」を重んじるところがあります。教師の賜物は、語学研究が好きなのです。でも、それは上級コースであり、すべての聖徒が必要なわけではありません。聖書を読むとき最も重要なポイントをいくつか申し上げます。第一は聖書のみことばをそのまま読むということです。いきなり解説書を開いて意味を調べてはいけません。何が書いてあるのか観察するのです。すると、聖霊様が思いがけないみことばを発見させてくれます。第二はみことばを解釈するとき、文脈から解釈するということです。聖書には段落がありますので、10節か15節くらい全体を読んで、意味を捉えるのです。ルターは「聖書は聖書で解釈できる」と言いました。そこが分からなければ、聖書の他の箇所が補足してくれるからです。
最後に、学びの時間として信仰書や牧師の説教を聞いて学ぶということです。でも、絶対やってほしくないことがあります。それは、信条やカテキズムを読みながら、聖書を調べるということです。カルヴァンのキリスト教綱要やウエストミンスター小教理問答書を第一に読みながら、聖書を研究する人がいますが、順番が逆です。詩篇19:7-8「【主】のおしえは完全でたましいを生き返らせ【主】の証しは確かで浅はかな者を賢くする。【主】の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ【主】の仰せは清らかで人の目を明るくする。」どうぞ、神のことばである聖書を信頼してください。恐れないで、ただ聖書をお読みください。ただし、真理の御霊という家庭教師を歓迎しながら、お読みください。私たちは自由に聖書を読める時代に住んでいることを感謝しましょう。
2.教義
第二番目に言いたいことはいわゆる「神学」です。釈義も神学ですが、この場合は「組織神学」です。教義学とも呼ばれていますが、聖書を主題別に学ぶ学問です。多くの場合、旧約聖書を読むときは創世記から順番に読みます。新約聖書では4つの福音書、使徒の働き、パウロの書簡などを順番に学びます。ところが、組織神学の場合は、神論、キリスト論、霊感論、救済論、教会論、終末論…などとテーマごとに学びます。釈義が直線的であるなら、組織神学は縦割りの学問ということになります。ところで、説教には大きく分けて2つあります。聖書を順番に学んで説教するのを「講解説教」と言います。たとえば、マタイによる福音書を1年位かけて説教したりします。私はこれまで20年以上はそのようにやってきました。これは自分が読みたくないところ、あるいは何も学べそうもないところからも語らなければならないので大変です。でも、聖書そのものから教えられるので、実力はつきます。もう1つは「主題説教」です。これは説教者があるテーマを選び、それに沿った聖書のみことばを引用しながら論述していきます。これは牧師が教えたいことを集中的に教えることができます。でも、欠点はどうしても、偏りが生まれてしまうということです。えり好みをしてしまうからです。言い換えると、自分の神学的立場が既にあって、それに合うように話してしまうということです。
実はどの教団教派、教会、牧師においても神学的な立場というのがあります。神学的な立場というのは世界観であり、バイアス(偏見)がかかり、あるものは見えても、あるものは見えないということが起こるのです。マルチン・ルターは信仰義認という神学を発見しました。ほとんどのプロテスタント教会は「信仰により、恵みによって救われる」と教えています。でも、聖書には行いの大切さも教えています。ジョン・カルヴァンは「選ばれた人は救いを失うことはない」と言います。でも、ヘブル人への手紙を見ると、一度救われても堕落する人もいるようです。ジョン・ウェスレーは「キリスト者の完全」を言いました。ホーリネス系の教会は「きよめ(聖化)」を強調します。そして、どこの聖書箇所からも「きよめ」を語りたがります。たとえばヤコブが石の枕をして夢を見た「ベテル」は新生の経験と言います。そして、天使と格闘し、腿を打たれて、イスラエルに改名した「ペヌエル」はきよめだというのです。そういう箇所もありますが、全部そのように解釈しては、聖書理解が乏しくなります。ペンテコステ教会は聖霊のバプテスマを強調します。さらには、「異言を話すことが聖霊のバプテスマのしるしだ」と主張します。歴史的に教団教派はリバイバルから起こりました。それまで隠されていた聖書の真理が、再発見されたに過ぎないのです。伝道者の書が言っているように「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったもの」(3:15)なのです。でも、問題なのは、過去のリバイバルで生まれた教義に執着し、それを変えないことです。ルター派はルターの教義を、カルヴァン派は改革派の教義を、メソジスト派はウェスレーの教義を踏襲してそれを変えないということです。金科玉条という言葉があります。教会を設立した宣教師の教えを金科玉条のように守り続けている教会が多くあります。聖書はもっと広いことを教えているのに、1つの教義に捕らえられ、他の教えを学ぼうとしないのです。そのため、貧しい信仰生活を余儀なくされてしまいます。神学は重要です。しかし、聖書ありきの神学であり、神学ありきの聖書ではありません。
私は福音派のつもりですが、「カリスマ・ペンテコステ派」と呼ばれています。なぜなら、癒しや預言を信じているからです。でも、使徒パウロはどうでしょう?Ⅰコリント14:5以降「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです…私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています」と言っています。イエス様は弟子たちに「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい」(マタイ10:8)と命じています。この命令が12弟子たちだけだとしたなら、他のイエス様の命令はどうなるのでしょうか?聖書を神のことばと信じているなら、全内容も信じなければなりません。極端なディスペンセーション(時代区分説)は「聖書が完成した後は、目覚ましいしるしや奇跡は必要でなくなった。完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです」と言います。しかし、完全なものとは、イエス・キリストの再臨であり、聖書の正典ではありません。ペンテコステの日、ペテロは「終わりの日には、私はすべての人に私の霊を注ぐ、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2:17)と言いました。ペンテコステの日から終わりの時代が始まっています。イエス・キリストが来られる日が、本当の終わりの日であり、それまでしるしや奇跡、癒しや聖霊の賜物は存在するのです。もし、福音宣教しかしないなら、パウロがギリシャで行った宣教のように実りが与えられないでしょう。パウロはその反省も踏まえ「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(Ⅰコリント2:4)と言っています。
なぜ、神学が必要なのでしょうか?それは両脇の極端の溝にはまらないためです。田舎の道は両脇が溝であり汚い川が流れていました。そのため人や車は真中を通る必要がありました。「真理は1つだと言われますが、そうではありません。真理には神さまが許された一定の幅があります。歴史的に宗教改革やリバイバルが起こり、聖書の一部の真理が強調されます。それはそれで良いのです。でも、そればかりにすがっていると他の真理を見失ってしまいます。時代によって右に寄ったり、左に寄ったりします。でも、寄りすぎて溝にはまったら異端になってしまいます。異端までいかなくても、神さまの恵みを制限してしまいます。イギリスでピューリタンの教えが流行しました。これは国教会の形式的な宗教に対する反動です。しかし、「娯楽や贅沢はダメ、清貧に甘んずるのが清い信仰である」と言いました。彼らは「聖と俗」を二つに分けて考えたのです。そうではありません。神さまはこの世界のすべてを創造されました。政治や芸術、音楽、ビジネス、スポーツの世界に対しても、神さまは興味を持たれています。私たちはキリストが来るまで、修道院で暮らすような者ではありません。神の国の全権大使として、世の光、地の塩として、神の知恵とキリストの主権のすばらしさを、この世に現わしていくように召されているのです。
3.実践神学
実践神学というのは、聖書の釈義や教義の上に立てられた、応用編です。教会があるいは、聖徒たちが現実の世界でどのように生きるかを問う学問です。実践神学というと、神学校では説教やカウンセリング、牧会学、キリスト教倫理などを指します。そうではなく、私は聖書が教えている教えを自分が住んでいる世界でどのように適用するかということだと思います。そこには聖書解釈もあれば、教義学も密接に関係しています。なぜなら、私たちは神を信じていないこの世に住んでいるからです。この世の背後には悪魔がおり、神の子たちを惑わせ、キリストの福音をなんとか阻止しようと日夜、働いています。ですから、実践神学とは悪魔の策略に対抗しつつ、真理のみことばをまっすぐに解き明かすということです。Ⅱテモテ2章には、俗悪な無駄話、不敬虔、悪性の腫物、真理から外れた人達のことが書かれています。パウロは彼らを「悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々」(Ⅱテモテ2:16)と定義しています。そうです。実践神学とは悪魔と戦うこと、すなわち、真理による戦いなのです。そのためには、聖書のみことばをその時代にふさわしく適用しなければなりません。真理そのものは永久であり変わることはありません。しかし、どのようにみことばの真理を適用するかが問題となるのです。
かつてドイツにおいてナチス・ドイツが独裁的な支配をしたことがあります。その時、教会は俗的な世界と、霊的な世界を分離して考えていました。ヒトラーは教会に信仰の自由を与える代わりに政治に口を出すなという協定を結ばせました。その当時、ドイツには敬虔主義という聖書を読んで、そのように生きる真面目なグループがありました。しかし、彼らはナチス・ドイツの悪政にはダンマリを決め込んでいました。なぜでしょう?この世の俗的なことに、神さまは関知していないと考えていたからです。そのとき、敢然と立ち向かった牧師がいました。ボンヘッファーです。彼はヒトラー暗殺に加担したかどで処刑されました。カール・バルトと共に「イエス・キリストのみがこの世の支配者である」と宣言しました。平和な時代では、「教会における主と、政治における主は同じだ」言えるかもしれませんが、その当時は違いました。ドイツは宗教改革が始まった国なのに、どうして悪魔が支配する国になったのか不思議でたまりません。それは、聖書の真理を正しく、適用していなかったからです。
スコット・アレンという人が『聖と俗の違いを超えて』という本を書いています。19世紀後半から20世紀にかけて自然主義はヨーロッパやアメリカをはじめとする世界各地に野火のように広がりました。自然主義とは、理神論から発展したもので、この世界は神なしで一定の法則で動いているという考えです。理神論、ダーウィン主義、そして自然主義が文化的に優位に立つにつれ、西洋の教会は徐々に世界の片隅に追いやられてしまいました。自然主義と妥協したのがリベラル、自由主義教会です。しかし、それらを全く否定する教会は根本主義と呼ばれました。彼らは、聖なるものと俗なるものを二つに分けて生き延びたのです。リベラルの教会は、社会運動を促進しました。一方、根本主義の教会は「この世のものは汚れているので深く関わらないように」と教え、宣教活動のみを行いました。霊的な領域、つまり神、聖書、伝道、教会への出席、フルタイムの奉仕者、祈りなどの領域は聖なるものとされました。一方、科学、人間の理性、政治、経済、社会活動など、自然主義に支配されたものは世俗的であるという烙印が押され、避けられるべきものとされました。さらに拍車をかけたのが、福音派の「患難前携挙説」です。いずれ患難時代がやってくるが、教会はその前に携挙され患難から免れるという考えです。そうなると、消えてなくなるこの世を良くしても無駄なことです。この世は仮そめであり、本当の希望は天国しかないと考えます。私もそうでしたが、福音派の多くの教会は魂の救いと教会開拓ばかりを行っています。「この世のことはこの世の人達に任せればよい、私たちは一人でも多くの人が天国に入れるように救霊に励むべきである」という考えが主流です。
しかし、20世紀から「神さまにとって、聖も俗もない、なぜなら世界を創られた創造主だからである」という考えが生まれてきました。これを分割された考えに対して、全体的なというホーリズムという理論が生まれました。アメリカの宗教界では「政教分離」が主流です。神は「個人の信条」であるなら、ナチス・ドイツの二の舞を踏むことになります。19世紀、オランダ人、アブラハム・カイパーはホーリズムの先駆者でした。彼は牧師の息子として生まれ、神学校に入り、小さな教会の牧師になりました。彼は「自分の人生のすべての分野、そして自分が行うすべてのことに神の真理をもたらそう」と、多くのことを行いました。彼は政治家であり、国会議員を務め、1901年から1905年までオランダの首相を務めました。また、全国の教会の指導者、神学者、牧師でもありました。現在、私たちが「世界観」と呼んでいる考え方の重要な開発者でもあります。彼は教育者であり、現在1万4千人以上の学生が在籍する主要なアムステルダム自由大学の創始者でもあります。ジャーナリスト、作家としても活躍し、82歳になるまで2つの日刊紙を編集していました。献身的な夫であり、二人の娘と五人の息子の父親でもありました。彼のキリスト教の信仰は、彼の人生のあらゆる分野に浸透していました。何がカイパーを動かしたのでしょうか?彼は、すべてのことにおいてイエス・キリストの主権に完全にコミットする人生を情熱的に追及しました。カイパーにとってイエスの主権は「神学から芸術、政治から科学、個人から組織全体にまで及んでいたのです。カイパーはキリスト教を単なる霊的、神学的なシステムではなく、総合的な世界観、人生観として捉えていたのです。
ビルジョンソンが『天がこの地に侵略する』という本を書きました。彼は福音派が唱える「患難前携挙説」を否定します。なぜなら、「神がこの世が回復された直後に壊すような愚かなことはしない」と言います。ビル・ハモンは、「聖徒を整えるというのは、政治、ビジネス、教育、医療、芸術、あらゆる分野に聖徒を送り出すことである」と言っています。なぜなら、彼らには神が共におられ、神の知恵、知識、預言、創造力をこの世に向かって発揮することができるからです。昔、ダニエルがバビロンという最もひどい国で、最も優れた指導者として活躍しました。私たちは神の法則と、聖霊の力によって、御国をもたらす大使として働くように召されているのです。