2025.11.2「肉と御霊 ヨハネ6:55-63」

イエス様も使徒パウロも「肉と御霊」というテーマで語っています。肉というのは古い人の性質であり、肉的という意味です。また、御霊は聖霊でありますが、原文では「霊」としか書かれていないので、人間の霊なのか、神の霊なのか区別できないところがあります。でも、肉的に対して、霊的というふうに置き換えることもできます。教会では、「肉的だとか、霊的だとか」言われていますが、きょうはその真の意味を学びたいと思います。

1.イエスが言われる「肉と御霊」

 前半はヨハネによる福音書から「肉と御霊」について学びたいと思います。おもに、イエス様が語られている内容です。4つの福音書には「5つのパンで5000人を養った」という奇跡が記されています。しかし、ヨハネだけは出来事だけではなく、イエス様の教えが含まれています。奇跡がなされたのは、夕方遅くだったので、このような「長い教え」はなかったかもしれません。ヨハネ6章22節に「その翌日」となっていますので、パンを食べた群衆に語ったのだと思います。ヨハネは「ユダヤ人たち」と言っていますが、パリサイ人と律法学者のことを指していることは間違いありません。彼らはイエス様の側にいながらも、教えや奇跡を受け入れず、たえず反対し、妨害さえしました。そういう訳で、ヨハネ6章はパリサイ人と律法学者を含む群衆と、イエス様の弟子たちに語られたものです。でも、この教えの後で、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去った」(ヨハネ6:66)とありますので、12弟子の他にたくさんの弟子たちもいたはずです。とにかく、「5つのパンで5000人を養った」奇跡はイエス様のミニストリーの頂点でありましたが、その直後の教えによって、急激に下り坂になるのです。イエス様の教えによって、多くの人が躓いて、去って行ったということです。その中心的な教えとは「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにとどまり、私もその人のうちにとどまります」(ヨハネ6:56)です。人々は「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」(ヨハネ6:60)と文句を言いました。

 さて、ここからが問題です。弟子たちを含め、どうして、人々が躓いたのでしょう。イエス様は、その答えとして、このようにおっしゃいました。ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」新改訳聖書が矛盾しているのは、最初は「御霊」と訳して、後半は「霊」と訳していることです。聖書協会共同訳は「命を与えるのは霊である。肉は何の訳にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と訳しています。つまり、この「霊」を聖霊と言う意味の「御霊」ではなく、人間の生まれ変わった霊も含まれていると解釈した方が無難であるということです。第二のポイントで話しますが、霊的に生まれ変わった人には、御霊が宿っているからです。私たちの生まれ変わった霊と神の御霊が最も深いところで、共存しているということです。しかし、ヨハネ6章がそこまで言っているのかは定かでありません。でも、ヨハネ3章には、そのことが書かれています。ニコデモはパリサイ人の一人で、ユダヤ人の指導者でありました。イエス様は「新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)と言われました。すると、ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」と言いました。これに対してイエス様は「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか」(ヨハネ3:10)と言われました。ニコデモは聖書に通じており、とても宗教的な人でした。しかし、イエス様がおっしゃることに対してはちんぷんかんぷんであり、「そのことが分からないのですか」とイエス様から、たしなめられました。実は、このことと、ヨハネ6章の「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにとどまり、私もその人のうちにとどまります」(ヨハネ6:56)と同じなのです。ニコデモと同じように、ユダヤ人たちはイエス様の教えを全く理解できなかったのです。だから、躓いて去って行ったのです。

 では、イエス様がおっしゃる「肉と御霊」の違いは何なのでしょうか?イエス様は他の箇所でこのようなことをおっしゃっております。マタイ11:25,26「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」ヨハネ3章では、ユダヤ人の指導者ニコデモに語っています。そして、ヨハネ6章では、ユダヤ人と弟子たちに語っています。躓いたのは、いわゆる群衆ではなく、パリサイ人や律法学者ではないかと思います。彼らは聖書を専門に学んでいた人たちでした、でも、イエス様の教えを全く理解できませんでした。そうです。肉によって理解しようとしていたからです。ここでいう肉とは、生まれつきの考え方や知性です。現代的に言うと、神学校で専門的に学んでも、博士号をとっても、聖書のことばを理解できないということです。それよりも、幼子のような人が、霊によって理解できるということです。霊によって理解するとは、神の啓示によって理解するということです。「啓示」ということばは、revelation「ヴェールを剥がす」と言う意味です。肉は生まれつきの性質、生まれつきの知性と言う意味です。残念ながら、肉は神の啓示を受け入れようとしません。これまで学んできた知性が邪魔をするのです。一方、幼子は何も知らないので、「神さま、教えてください」とへりくだって願います。神さまはそういう人に、ご自分が隠している奥義を示してくださるのです。イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにとどまり、私もその人のうちにとどまります」とおっしゃいましたが、それは奥義なのです。この世の一般的な知性で、神のことばを理解しようとしても無理なのです。皮肉にも一生懸命聖書を学んだパリサイ人や律法学者たちが理解できませんでした。彼らは自分たちの知性や学問を誇っていたので、理解することができず躓いたのです。

 イエス様は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と言われました。これは私のような説教者には、とてもきつい言葉です。私はかつて神学校で学びましたが、そのノートから説教を作りました。なぜなら、学校で勉強しているときとても恵まれたからです。恵まれたというよりも、知的満足が与えられたと言う方が正しいかもしれません。私が恵まれたのだから、これを会衆の皆様にちょぼ出しすれば、きっとうまくいくだろうと思いました。当亀有教会でも自信をもってメッセージしました。家内の京子さんがある場所で「あの頃は、ちっとも恵まれなかった」と漏らしていました。正直、私は愕然としました。今、振り返ると、だれかの教えを借りて、それを自分のものかのように教えていました。そのことを皮肉ると「のりとハサミ」の説教というそうです。確かに知的にはすばらしいかもしれません。でも、会衆の魂には届かないのです。頭の上を素通りするばかりです。言い換えると、それは肉であったということです。イエス様が「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」とおっしゃったとおりです。今はどうしているかというと、静まって神さまに何を語ったら良いか聞こうとしています。私にとって瞑想は、聖霊様からメッセージをいただく必須的なことです。いくら良い教えでも、感動を与える例話であったとしても、肉から生まれたものは肉であり、人を生かすことはできないのです。自分が良く知っている、得意分野は特にそうです。聖霊に頼ろうとしないからです。イエス様がおっしゃったように、父なる神は「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださる」からです。ですから、現代においても、神学校の教授や講壇で説教する牧師も、霊ではなく、肉によって語っている場合があるということです。

 昔、韓国の大伝道者、申賢均師のメッセージを聞いたことがあります。申賢均師はピョンヤンの自由主義神学校で学びました。ある時、すばらしい知性をもって説教しました。ニーチェやショーペン・ハウエルを持ち出し、「〇〇的にこうだ、〇〇的にはこうだ」と言いました。すぐ前におばあちゃんが聞いていましたが、我慢しきれずに寝てしまいました。なんと、首を左右にふって寝るのです。申賢均師はさらに声を大きくして、メッセージを語りました。目を覚ました、おばあちゃんがぼそっと言いました。「先生は、〇〇的、〇〇的とおっしゃっていますが、ずいぶんと敵が多いのですね。私はさっぱり分かりません」と言って、再び寝入ってしまいました。申賢均師は最初「彼らは知性が乏しいので私のメッセージが理解できないんだ」と思いました。ところが、そうではなく、頭で語って、聖霊によって語っていないんだということを悟りました。ある教会に赴任するという前の晩、友人の教会に立ち寄りました。まもなく徹夜祈祷会が始まろうとしていました。申牧師は夕食のもてなしを断り、祈ることにしました。午前2時、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、上から聖霊が臨み、その場に倒されました。今まで3分しか祈ったことがないのに、朝、人がいなくなるまで一人で祈っていたそうです。それからどうなったでしょう?今まで学んできた聖書の知識よりも、まず、聖霊に求めました。聖霊の油注ぎによって語ることにしたのです。申賢均師のメッセージはとても単純になりましたが、人々の魂を揺さぶり、人々を全く変えることができました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」皆さんのすべてが教師や牧師でないでしょう。でも、皆さんが聖書のみことばを読むときは、神の御霊、啓示によって理解するのです。いのちを与えるのは肉ではなく御霊だからです。

2.パウロが言う「肉と御霊」

 使徒パウロも「肉と御霊」ということを教えています。ローマ8:5-8「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」ヨハネ6章と比べて、ローマ8章は少し込み入っています。このところには、肉と御霊の他に、律法ということばが出てきます。律法は正しくは「法則」であります。律法にも2つあって、いわゆる律法の法則と御霊の法則です。私たちの肉は、いわゆる律法の法則と御霊の法則のどちらかに従わざるを得ないのです。では、ローマ人への手紙が言う「肉」とは何なのでしょうか?ローマ6章にはアダム以来の「古い人」は十字架につけられて滅びたと書かれています。私たちクリスチャンは、イエス様を信じてバプテスマを受けると、古い人に死んで、新しい人に生まれ変わるのです。私は「クリスチャンはアダムから受け継がれてきた原罪も断ち切られて、今やキリストに接ぎ木されている存在だ」と考えています。ローマ6章において古い人に死んだのに、7章になると「罪に対しては一度死んだのに、律法によって生き返る、ああ私はみじめな存在だ」とパウロは嘆いています。私はクリスチャンは古い人には死んだけれど、肉は残っていると考えます。では、肉とは何でしょうか?ウォッチマン・ニーは肉には三種類あると言っています。第一はパウロが言う、肉の働きです。淫らな行い、汚れ、好色…敵意、争い、そねみ、憤り等です。汚れた性質が残っているということです。第二は自我「己れ」です。己れで満ちている人は、多くの考えや意見を持っています。マルチン・ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる、それは私の己れだ」と言いました。第三は生まれつきの性質や能力や才能です。善良な人、頭の良い人、音楽のできる人、運動神経抜群の人がいます。それは良い肉と言えるでしょう。

 パウロは「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)と言っています。私たちは「この世で影響力のある政治家や大学教授、芸能人が救われたら、良い働きができるだろ」と思います。たまには、いるかもしれませんが、ほとんどはそうではありません。なぜなら、生まれつきの才能に頼り、神さまに頼っていないからです。その証拠に、うまくいくと自分を誇ります。「肉」といのは、古い人アダムに源を置く、すべての活動です。クリスチャンでない人は、すべてアダムに力の源を置いているのです。神の一般恩寵というのがありますので、かなりのことはできるようになっています。しかし、いざその人がそれらの才能によって、神に仕えようとしたら、とたんにバランスが崩れてしまいます。クリスチャンは「すばらしくて感動はするけど、何かもの足りない」と思うのです。それは、自分たちの霊が感動していないからです。長い間クリスチャンをやっていますと、この人は肉でやっているか、霊でやっているか分かってきます。私も毎週、ここで語っていますが、口には出さないかもしれないけど「今日は力がある」「いや、今日は少し弱いかも」と分かるのです。なぜなら、会衆の皆様は霊が目覚めているからです。メッセージを知性ではなく、霊でキャッチしているからです。私も最初の段階は知性に訴えますが、最終的には皆さんの霊に届くように願って語っています。なぜなら、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらさない」からです。では、肉ではなく、御霊によって仕えるというのはどういう意味なのでしょうか?肉は古い人アダムに力の源を置くと申し上げました。一方、「御霊によって」とは、まさしく聖霊に力の源を置くということです。私たちは直ぐ、「それは聖霊の賜物でしょうか?」と答えるかもしれません。聖霊というのは、私たちの内に生きておられるキリストのことです。ガラテヤ2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」そうです。聖霊の個々の賜物の前に、聖霊ご自身が賜物であることを知る必要があります。それは、キリストが聖霊によって私たちの中に住んでおられるということです。ですから、私たちは新しい力を求めるために、どこかに行く必要はありません。もう、すでにキリストがあなたの生きておられるからです。

 最初、肉的というのと霊的ということを申し上げました。肉的と言うのは、才能や力に頼ることです。一方、霊的というのは内におれるキリストの御霊に頼ることです。この世のほとんどの人たちは、自分の才能や力や知性に頼っています。何も問題はありません。でも、彼らが何かの賞を取ると誰を誇るでしょうか?自分を誇ります。自分の才能やがんばりや努力を誇るのです。しかし、クリスチャンの場合は、御霊に頼っているので、自分を誇ることはできません。しいて言うなら、自分を用いていてくださる神さまを誇ります。ブラジルのサッカー・チームに、ネイマールという超有名な選手がいます。彼は熱心なクリスチャンであり、ある大会で勝利したとき、100% Jesusというはちまきをしていました。「宗教的メッセージ」ではないかと批判されましたが、「試合後のセレモニーでの行為を罰する方法はない」とブラジルの審判員が言ったそうです。スポーツや芸能の世界でも敬虔なクリスチャンがいることを感謝します。キリスト教会では、長沢崇史牧師が沢山のすばらしい賛美を作っています。当教会でもいくつか賛美していますが、『いのちの木』という賛美をすると心が躍ります。本当に天から与えられた賛美という感じがします。当教会でもブラックゴスペルがありますが、ソロの方が賛美するときがあります。歌っている途中、急にスイッチが切り替わったようになることがあります。ハイブリッド車でいうと、ガソリンから電気に代わったと言う感じです。私たちも自分で気づいていないかもしれませんが、途中から内におられるキリストが語る時があるのではないでしょうか?マタイ10章に「何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です」とあります。

 問題は、キリストの御霊に頼らないで、自分の肉でやる時です。ローマ8:8「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」とあります。実はこのことは律法と対比して考えるべきなのです。最初、律法という法則と御霊の法則があると申し上げました。実は私たちの肉は、律法に過剰反応して、それを実行できないばかりか、それと反することをしてしまうのです。律法が「それをせよ」と命じれば、「しない」のです。逆に「それそしてはいけない」と命じれば、「する」のです。律法は神からの正しい要求であり、善なるものです。ところが私たちに住む、罪、つまり肉がそうさせないのです。しかし、ガラテヤ2:19「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と書いてあります。このみことばは、ローマ6章と7章にも何度も書いてあります。私たちは律法に対して死んだのです。そして、神に対して生きているのです。これを「律法からの解放」と言います。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』と言う本でこう述べています。「律法から解放されたとは、どのような意味を持つでしょうか?それは今後、神のために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようと努力することなど、決してしないということです。『なんという教義だ!』と言われる方があるでしょう。また『なんという誤った教えだろう。あなたは正気ですか?』と問う方もあるでしょう。しかし、もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を『律法の下に』置き、死ぬことになります。しかし、神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。」アーメン。

 なんと素晴らしい知らせでしょう。私たちの内に働いておられるのはキリストの御霊です。私たちは神のみ旨を自分の力で行うことから解放されているのです。内におられるキリストの御霊が一緒にやりましょうと後押ししてくださるのです。もちろん、私たちの意思も力も必要です。でも、「どうか一緒にやってください。あなたが私の力の源になってください」とお願いすれば良いのです。私たちの意思が弱いとき、まったくやる気が起こらない時もあります。もし、朝、布団から出たくないという時もあるかもしれません。そういう時は「イエス様、私は起きたくありません。イエス様…」と言っていると、むくっと、起き上がることができるでしょう。私たちの意思にもキリストの御霊が働いてくださいます。正直に、「私は嫌です、弱いです、辛いです…」と言うとどうでしょう?内側から、自分にはないやる気が起こってきます。これは本当です。しかし、自分の意思や力やがんばりでやろうとすると、律法の法則にはまりこみ、とんでもないことになります。この世の人はそれでやっていますが、私たちはキリストに御霊に頼るのです。内におられるキリストの御霊がしてくださいます。これが肉ではなく、御霊によって生きるということです。使徒パウロがこう言っています。コロサイ1:27「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。ピリピ4:13「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」。この世では、しなければならないことは次から次と起こってきます。「しなればならない」という律法ではなく、「イエス様、一緒にやってください」と願えばよいのです。