伝道者の書3:1「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」欽定訳聖書は“To everything there is a season, A time for every purpose under heaven。”
となっています。「定まった時期」を欽定訳聖書はseason季節と訳しています。前半のメッセージは「人生の季節」です。また、「時がある」を欽定訳聖書はtimeと訳しています。Timeとは刻々と流れて行く時間ではなく、定まった時のことです。後半のメッセージは「神の時」です。
1.人生の季節
伝道者の書3章1節の前半を、欽定訳聖書を直訳すると、「万物には季節がある」ということです。スイスのポール・トルニエという精神科医は『人生の四季』という本を書いています。本の題名を聞いただけで、「ああ、そういうことだろう」と想像がつきます。保育士の免許を取る人たちは、「発達心理」みたいなことを学ぶのではないでしょうか?胎児のときから3歳までが、結構、重要な時期です。なぜなら、そのとき、「基本的信頼感」を学ぶからです。一般には、「どの学校に入り、どのような教育を受けるか」という知的な面を重んじがちであります。そうではなく、その人の人格の基盤は、幼少期にあるということです。建物でいうと、6歳まで、土台と骨組みができあがるそうです。その後は、壁や内装や設備であります。私は土木建築に5年くらい携わったので、土台と骨組みがいかに重要か知っています。どんな家を建てたいか説明するモデルハウスがありますが、男性と女性の見方が違うようです。一般に、男性はどういう構造になっているか注目します。女性はアメニティというか、流しやお風呂場や調度品を見ます。もちろん、両者とも大切ですが、私は土台と骨組みがあってこその、アメニティだと思います。人生も同じで、学歴とか、スタイルとかお化粧が重要なのではありません。愛と信頼に満ちたパーソナリティが最も重要であり、自分に誇りをもって生きることであろうと思います。そういう人生の土台と骨組みがしっかりしている人は、どんな仕事でも、どんな境遇でも、どんな人々の中にあっても、自分らしい人生を歩むことができます。そのために、重要なのは、自分が神から造られた存在であることを知り、神を恐れつつ、自分の人生を全うするということです。伝道者の書の結論は13章13,14節です。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」
もう一度、主題に戻ります。なぜ、私が「人生の季節」というテーマを選んだのか、お話したいと思います。私には、5歳の孫がおり、ほとんどの日曜日遊びに来ます。私は夕方、車で送ります。祭日などは朝迎え、夕方送るときがあります。家内はずっと孫を面倒見ています。食事、おトイレ、プラレール、パズル、お昼寝、とにかく動き回るので夕方には疲れます。私はたまに車で白鳥の生協や水元公園に連れていきます。孫は我が家をセカンドハウスか、別荘ぐらいに思っているのでしょう。そんな時、「ああ、人生には季節があるな」と思います。子育ての頃というのは、母親はエネルギーにあふれています。睡眠不足にマケズ、具合の悪い子どもにマケズ、反抗期の子どもにマケズであります。私もそうですが、「よくまあ、面倒見たものだなー」と思います。20歳を過ぎると、一人で大きくなったような生意気な口をききます。「学費もかかり、言うこともきかないし、体ばかり大きくなって…」と不満を漏らしたくなります。ある時、私が1歳くらいの子どもをだっこしている写真を見つけました。ぶくっと太っていて、結構、醜いです。その写真を見たら、「ま、いいか。健康で大きくなったんだから」と満足します。ある親たちは、子どもが大きくなって親孝行をするように願っているかもしれません。「子どもは3才まで、親孝行したんだ」ということを聞いたことがあります。そうです、親も子育てが大変だったけど、「あんな可愛い子を授かったんだなー」と感謝するしかありません。ハイハイしていた頃、立ち歩きした頃の写真を見ると、「もう、十分、贅沢は言わない」と思ってしまいます。私が納得したことは、子育てには季節があるんだということです。70歳になって、幼児を育てることは、体力的にも気力的にも無理です。たまに、孫を預かるのがせいいっぱいです。
私は年をとってくると、切実に思うことがあります。「若さは神様のプレゼントだ」ということです。私は散歩をして、女子高校生や若い人たちとすれ違う時に、「神様の作品だ。ああ、神様はなんとすらばらしいのだろう」と神様をあがめます。神様はだれにでも、楽しむことのできる人生を与えておられます。伝道者の書11:9「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め」と書いてあります。でも、その後半には「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」と、恐ろしいことが書かれています。私が学生に望むことは、「バイトなんかしなくて良いから、勉強しなさい」ということです。なぜなら、若い時は記憶力が抜群だからです。私は60歳から、英語の原書を読むようになりました。それまでは、1冊も完読したことがありません。でも、ジョエル・オースチンの本を読み終えてから、150冊以上は読んでいます。でも、カシオのEX-wordという電子辞書を引きながらです。85冊翻訳しました。でも、Deepleという翻訳ソフトが訳してくれます。まことに残念ですが、この間、学んだはずの単語がもう忘れています。まるで、「砂に書いたラブレター」のように、記憶がなくなります。忘れる速度と、覚える速度が拮抗して、まことに情けない限りです。ああ、小さい時から、「日本語と英語をバイリンガルで学べば良かったのに」と後悔しています。人生には季節があります。若い時は記憶力、そして発想力が抜群です。でも、35歳くらいから、がくんと落ちてくるようです。若者が会社に入るとします。彼がいくら革新的なアイディアを出しても、部長は相手にしてくれません。社長をはじめ、管理職はとても保守的です。本当に知恵のある上司は、若い人のアイディア、想像力、イノベーションを活用すべきであります。最近は、大会社に入ることを諦め、ITなど、企業している若者が多いと聞きます。私は「どの会社も雇ってくれない」と甘ったれたことを言わないで、自分で会社を興したら良いと思います。
私の人生は、競馬にたとえると、人生の第四コーナーを回り直線コースを走り、今、ゴール直前かもしれません。私が年を取って一番、思ったのが、「情熱、気力、そして体力が落ちた」ということです。私は若い人が「これやりたい」と熱い心で取り組んでいる姿を見ると感動します。修得高校ではサッカーがとても盛んです。プロの道は狭き門なのですが、そんなの関係がありません。何でもかまいません。熱心さや情熱は若い時に与えられる神からのプレゼントだからです。おそらくソロモンだと思いますが、彼はこう述べています。伝道者2:4-7「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」彼は何でもチャレンジし、その道を究めた人です。彼はあとで「空しい」と言っていますが、神から与えられたものを存分に用いたことは確かです。神様はご自分を信じる人、信じない人に関わらず、自分の人生を楽しめるようなものを与えておられるということです。
私は、ポール・トルニエに言わせると、晩秋かもしれません。トルニエは冬を「死」というふうに解釈しています。冬は木々や草花が眠ります。広葉樹は葉っぱを落とし、まるで死んでいるようであります。動物も虫も冬眠しています。ところが、春になると一斉にめぶき、死んだような木々から葉っぱが出ます。日本では桜が咲きますが、まさしく枯れ木から花が咲き、あとから葉っぱがでます。虫が穴から這い出てきます。私は神様が冬と春を与えているのは、復活を教えているのではないかと思います。仏教などの東洋の考えは春夏秋冬、春夏秋冬と輪廻思想で、何か別のものに生まれ変わると信じています。しかし、聖書の考えは、冬は死であり、春は復活です。そのことを私たちに教えるために、季節が巡るのだと思います。私たちは夜寝て、朝起きます。これは、死と復活の練習であります。西洋では、死ぬことを永眠と言います。しかし、私たちは永眠ではなく、休眠であります。なぜなら、死んだ肉体は、終わりの日によみがえるからです。伝道者の書は「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と書かれています。そして、「すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る」と言っています。旧約聖書は肉体の復活や永遠のいのちについて、はっきり書かれていません。私たちは新しい契約の中で生きていますので、希望があります。キリストにあって、死は終わりではないということです。永遠のいのちが与えられているからこそ、地上での短い人生を有意義に過ごすべきだと思います。その秘訣は、「万物には季節がある」ということです。イスラエルは前の雨のときは種をまき、後の雨が降ったら収穫します。季節ごとに、いろんな祭りがあります。それは、「その時の季節に見合った、行動をするように」という知恵であろうと思います。季節に逆らった行動をすると、うまくいかないばかりか徒労に終わるかもしれません。最も理にかなった生き方は、神様が定めておられる人生の季節に応じた行動をすることです。万物には季節があるからです。
2.神の時
季節と同じような表現ですが、伝道者の書3章には「時がある」とも書かれています。2節からしばらくお読みします。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」ヘブル語で「時」は、t[eであり、「時、正しい時、季節」です。t[e(エト)は「季節」という意味もありますが、あえて「時」という風に訳したいと思います。欽定訳も“a time”と繰り返し出てきます。私はヘブル語のt[e(エト)は新約聖書のカイロスにあたるのではないかと思います。エペソ5章には「機会を十分に用いなさい。悪い時代だからである」と書かれています。原文のギリシャ語は、カイロスkairo,jです。カイロスは過ぎ去っていく時間ではなく、特別な時を意味します。「時期、機会」とも訳されます。つまり、伝道者の書3章の「時」と同じ意味です。私たちも日常生活において、タイミングが良いとか、タイミングが悪いとか言ったりします。潮に満ち引きがあるように、私たちの人生にもちょうど良い時、うまくいかない時があるんだということです。
イエス・キリストは地上において、御父が定められた「時」に従って、生きておられました。まず、イエス様が公生涯に入ったときの最初のことばはこれです。マルコ1:15「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これは、旧約聖書のメシア預言が成就したということです。また、世の人々が福音を受け入れるもっともよい時でもあるということです。ヨハネ2章にはカナの結婚式のことが記されています。母マリアがイエス様に「ぶどう酒がありません」と訴えました。イエス様は「女の方…わたしの時はまだ来ていません」と冷たく断りました。また、悪霊がイエス様に対して、「まだその時でないのに、もう私たちを苦しめるに来たのですか」(マタイ8:29)と文句を言っています。ヨハネによる福音書では、イエス様が贖いの死を遂げることを「時」と呼んでいます。ヨハネ7:30「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」とあります。でも、いよいよその時が迫るとどうでしょう?ヨハネ12:23,24「「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」と言われました。最後にイエス様が言われました。ヨハネ17:1「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」…このように、御子イエスは、父が定めた時に従って行動していたことが分かります。もちろん、イエス様はメシアであり救い主です。でも、私たちの模範として、この地上で過ごされたことは確かです。イエス様が地上に来られた第一の使命は、ご自分が人類の罪を負って死ぬということです。でも、それは偶然に起きたのではなく、歴史上、もっともふさわしい時でした。しかも、イエス様は過ぎ越しの子羊として、特別な日に、十字架にかかられたのです。イエス様は御父の救いの計画を実行するために、この地上に来られ、それを成就したのです。
私は「時」というのは、単なる偶然ではなく、時を支配しておられる神様と深い関係があると思います。このことを考えると、私たちにも神様の計画があるのではないでしょうか。神様は全知全能で、永遠なるお方なので、初めから終わりまで、全部お見通しであります。いわゆる「運命」を私たち一人ひとりにもお持ちだということです。しかし、この運命は、単なる運命ではなく、divine destny であります。キリスト教会では「摂理」とか「聖定」と呼んだりしていますが、平たく言うと「私たちに対する神の永遠の計画の一部」であります。パウロものこのように述べています。エペソ1:4、5「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」神様は私たちをキリストにあって選び、ご自身の計画をその人を通してなさりたいと願っておられるということです。もし、私たちが神様の召命に答えるなら、神様はその力と賜物を与えてくださるはずです。クリス・ヴァロトンは、自分がどのように召されたのか本に書いています。彼が18歳のとき、「もし神がいるなら、母を治してくれるなら、…私の命の続く限り、あなたに仕えます」と祈りました。翌朝、お母さんは完全に癒されましたが、一週間後、声がありました。「私の名前はイエス・キリストである。私があなたの母を癒せば、あなたは私に仕えると言ったが、私はそれを待っている!」。その後、彼は結婚し、30歳とのきイエス様が突然、お風呂場に現れました。「私はあなたを諸国の預言者として召しました。あなたは王や女王の前で話すことになります。そして、首相や大統領に影響を与えるでしょう。私は、あなたが世界中の市長、知事、大使、政府高官と話すための扉を開くでしょう。あなたは多くの国々の父となり、多くの国々を繁栄と自由と平和に導くでしょう。私はあなたの口に私のことばを置きます。」このビジョンは30分ほど続き、イエス様は彼の人生に起こるであろう他の多くのことを告げました。では、彼がすぐ預言者となったかというとそうではありません。さらに10数年、車のサービス・ステーションのオーナーとして働きました。彼は山の中の小さな教会の信徒の一人でした。そして、1998年、彼が43歳のとき、ビルジョンソンが牧会するベテル教会に呼ばれ、預言者として認められました。43マイナス18=25年間の準備期間があったということです。現在、彼はまさしく、預言者としてキリスト教会だけではなく、政治や経済界で働いておられます。ベテルの超自然神学校の創設者の一人であり、預言の教授でもあります。
クリス・ヴァロトンの召命体験は少々、特別な感じはします。しかし、たとえイエス様が現れてくださらなくても、神様は私たち一人ひとりに計画をもっておられます。また、生まれつきの才能と聖霊による賜物を与えておられます。クリス・ヴァロトン師は多くの人たちに預言を求めてきますが、彼は泥の中に隠された金を発掘してあげるようにしています。多くの場合、神様がその人に、思いと願いを与えておられます。しかし、心の傷と罪と悪霊によって、どれが神様からものなのか分からない人がほとんどです。もし、その人が、将来、神様に用いられる偉大な人であるなら、悪魔もだまってはいません。ターミネーターのように、その人を無能にするか、抹殺を図るでしょう。最も重要なことは、自分が何に召され、どのようなことを果たすのかという神の計画を知るということです。それさえわかれば、情熱をもって、ゴール目指して進むことができます。私は23歳のとき、英語の仕事をしたいと思って建設会社を辞めました。そして、25歳のとき会社の先輩から伝道され、洗礼を受けました。半年後、会社をやめて神学校の基礎科に入学、それから教会で働きました。33歳で当亀有教会の牧師として働き始めました。本当に不思議な人生ですが、やはり25歳の洗礼が人生の転機になったのではないかと思います。神様の計画は全部事細かく定められているのではなく、要所、要所、定められていると信じます。大切な時、クリティカル・ポイントだけを神様が定めており、他は私たちの自由意志に任せておられます。
旧約聖書のヨセフは17歳のとき、兄弟たちの恨みを買い、エジプトの奴隷に売られました。もし、ヨセフが、自分が見た夢を自慢して言いふらさなければ、苦難の道を歩まずとも、エジプトの宰相になれたのかもしれません。彼は13年間、鉄のかせによって苦しめられ、ようやく、その時がやってきました。エジプトのファラオが不思議な夢を見ましたが、だれも解き明かすことができなかったのです。彼は牢獄から、王宮に出向くことになりました。彼はすっかり謙遜になって、「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせて下さるのです」(創世記41:16)と答えました。ヨセフは、まさしく、奴隷から宰相になりました。ダビデは17歳のとき、ナタンから次期イスラエルの王の油注ぎを受けました。ところが、サウル王のねたみを買い、13年間の逃亡生活を余儀なくされました。ダビデがユダの王になったのは30歳、イスラエルの王になったのは33歳です。なんという長い年数を待ったのでしょうか?私たちも神様から「あなたはこれをしなさい。こういうことをする人になります」と言われても、今日明日、なるとは限りません。失敗したり、邪魔されたり、躓いたり、いろんなことが起こります。それでも、諦めないで信じ続けていると、やがて道が開けてきます。パウロは「神の賜物と召命は、取り消されることがない」(ローマ11:29)と言いました。私たちが諦めることがあっても、神様の方が私たちのことを諦めないということです。神様は私たちに自由意志を与えておられるので、その召命を断ることもできます。実際、地面に神からのタラントを隠したような人がいるかもしれません。しかし、神様が召して下さったとき、大切な時を逃してはなりません。もし、神様に全面的に自分をささげるなら、車のナビゲーターのように、目的地へとあなたを導きてくださいます。途中道を間違えても、神様はナビゲーターのように、「この道を行きなさい」とお声をかけてくださいます。思うようにいかない時もあるでしょう。でも、神さまが与えた計画がなるように主が助けて下さいます。