2025.4.6「神に好かれる人 申命記7:7-13」

神様は私たちのように人格をお持ちです。人格というのは、人の格と書くので、正しくありません。人格のもとのことばは、ラテン語でペルソナであり、これは神様にもあてはまることです。聖書全体を見ますと、神様が好きな人物と神様がお嫌いな人物がいることが分かります。申命記7:9「あなたは、あなたの神、【主】だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。」神に好かれる人の、三つの特徴があげられています。それは、神を信頼する人、神を愛する人、神の命令を守る人です。「恵み」を与えると書かれていますが、欽定訳はmercy憐れみになっています。

1.神を信頼する人 

 神を信頼するとはどういう意味でしょう?イスラエルの人たちにとっては、主は、エジプトから自分たちを救い出してくださった神様でした。主は、それまでどのようなことをしてくれたのでしょうか?この「申命記」という名称は、「律法を繰り返す」という意味から来ています。英語の聖書は、Deuteronomyですが、「コピー」とか「写し」と同じ語源です。申命記の読者は二代目の人たちです。不信仰のゆえに、エジプトを脱出してから40年間荒野をさまよい、新しい世代になったからです。だから、もう一度「あなたは、あなたの神、【主】だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神である」と言っているのです。彼らにとって、信頼の反対は、何でしょうか?カナンの土着の神々に仕えるということです。この後、イスラエルは、主がなされたことを忘れ、豊穣の神・バアルを慕うようになります。異邦の民を追い払うことをせず、彼らと交わり、彼らの神々を求めるようになります。ということは、まことの神を信頼せず、偶像の神々を信頼するという背信行為です。旧約聖書で「信頼する」は、新約聖書の「信じる」と同じ意味です。新約聖書では、あまり「信頼する」という表現は出てきません。その代わり、「信じる」という表現がほとんどです。

 へブル11章にはどのような人物が神様から好かれるか書かれています。一口にいってそれは、信仰のある人です。へブル11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11章には、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどが出てきます。彼らが行いにおいても、人格的にも完全かというと、そうでない人たちがほとんどです。特にヤコブは「人を押しのけ、欺く人」でありました。でも、主を求め、主を信頼したので、とても愛されました。一方、ヤコブの兄・エサウはいわゆる良い人物でしたが、霊的なことには無頓着で、長子の権利を一杯の食物で売ってしまいました。福音書を見るとわかりますが、イエス様に癒しを求めて近づいた人たちはみな癒されました。盲人のバルテマイ、長血を患った女性、百人隊長らは、みな、イエス様から信仰をたたえられました。神様に求めるとは、神様を信頼している証拠です。神様を信頼しない人は、神様に求めることをしません。マタイ7章には、「自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。…天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と書かれています。へそ曲がりの子がいて、「パパはケチで何も与えてくれないから」と言われたらどうでしょう?「ああ、そうですか。そうします」と手をひっこめるでしょう。タラントのたとえでは、1タラントのしもべが「蒔かないところから、刈り取り、散らさないところからかき集める、厳しい方だと分かっていました」と言いました。神様はひどい方だと思っていたわけです。そういう人は、神様のために求めたり、働いたりしません。神様は良き神様であり、私たちに良いものを与えたいと願っておられるのです。

 ところが、17世紀啓蒙主義が起こってから、人々は神を信頼しなくなりました。特にフランス革命以降がそうですが、人間の知性と発明が神にとって替わりました。さらには、自然にこの世界はできたのであり、神なんか存在しないのだという自然主義が起こりました。哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言いました。日本にも西洋の考えが教育に導入されました。信教の自由は認められていますが、教育や公共には「宗教を持ち込まないに」なっています。しかし、ほとんどの日本人は偶像崇拝をしていますが、政治家も例外ではありません。聖書的に言いますと、創造者なる神ではなく、豊穣の神・バアルを礼拝しているということです。ご利益を求めるということは、自分の言うことを聞いてくれる神を求めるということです。私たちがキリスト教の神様のことを伝えるとこういう答えが返ってきます。「目に見えない神さまなんか信じられるか。私は目に見えるものを信じます」と。この答は矛盾しています。目に見えるものは既にそこにあるのに、信じる必要はありません。目に見えないからこそ信じる必要があるのです。でも、信じると、その後で、目に見えるものが現れてきます。信仰が先なのです。

 へブル11:1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。欽定訳聖書は、faith is the substance of things hoped forとなっています。直訳すると「信仰とは望んでいることの実体である」ということです。substanceは外観・影などに対しての物の本質・実態、実質という意味です。なんだか、よけい分からなくなりました。その答えがあります。11:3「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」。これらのみことばから察すると、信仰とはまるでそこにあるかのように見るということです。偉大な発明や発見した人たちは、そうなる前に見えたのです。凡人たちは、目に見えてから「そうだ」と言います。信仰は神様が私たち与えられたすばらしい賜物です。そして、神様は私を信頼して求めてほしいと願っておられるのです。神学者の小林和夫先生が「信仰とは神様をあてにすることである」と定義しました。私たちもだれかからあてにされると、喜んで答えたくなります。神様も同じで、ご自分を信頼し、ご自分に求めてくる人を裏切るようなお方ではありません。信仰をもって近づいてくるが大好きであり、豊かに報いてあげたいという善き神様なのです。

2.神を愛する人 

 神に好かれる人の第二の特徴は、神を愛する人です。申命記7:9「主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。」「恵みの契約を千代までも守られる」というのは、神様の好意を受けた状態であることは間違いありません。聖書以外の神様で、「私を愛しなさい」という神様はいないのではないかと思います。大体は、近づきがたい、恐ろしい神様です。神様は愛なるお方ですが、私たちにもご自分を愛しなさいとお命じになられています。申命記6:5「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」このみことばは、新約聖書の各書にも引用されている有名なみことばです。これは言い換えると、全身全霊をもって神様を愛しなさいということです。かなり前のことですが、礼拝に年に数回しか来ない姉妹がこう言いました。「行きたいという気持ちはあるのですが、体がそちらに向かないのです。いろんな用事があって」と言いました。「面白いなー」と思いました。この人は、心と体が別々に働いているということです。私たちも「そうしたい気持ちはあるのですが」と言い訳をします。本来なら、気持ちである心と行いが一体でなければなりません。しかし、神様を愛せよと言われても、まず、神様が私たちを愛していることを知らなければなりません。

 では、神様はイスラエルを愛していたのでしょうか?その根拠とは何でしょうか?イザヤ43章には有名なみことばがあります。イザヤ43:1だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」そして、3、4節「わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」ここで言われているヤコブとはイスラエルの別名です。神様がイスラエルを愛している第一の理由は、彼らを創造し、彼らを形造ったからです。第二は彼らを贖ったからです。贖いというのは罪から買い戻すという意味であり、買い戻すためには代価が必要です。それが、主はイスラエルを買い戻すために、エジプトを身代金とし、クシュ(エチオピア)とセバを彼らの代わりとしました。なかなか、解釈をするのが難しいですが、出エジプト記を見るとある程度分かります。イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、つまり贖われるとき、どうだったでしょう?エジプトのファラオは簡単に彼らを手放しませんでした。でも、最後に血を塗られていない家の長男が死ぬということが、王様から奴隷、家畜まで起こりました。それでやっと、ファラオは降参して、彼らを手放しました。言い換えると、エジプト人は代価を払ったということです。イスラエルはこれらのことを忘れてしまったのです。イザヤはこのように嘆いています。イザヤ1:2、3「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

これを新約聖書的に解釈すると、父なる神は、私たちを罪から解放するために、ひとり子イエスを十字架につけて殺したということです。Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」父なる神様は私たちを救うために、ひとり子を犠牲にするしかなかったのです。ひとり子イエスに私たちの罪を負わせ、彼を罰することによって、私たちを赦すことができるという論法です。私たちの知性では理解しえないことですが、神の義と神の愛を両立させるために、これしかなかったということでしょう。私たち異邦人はイスラエルではないので、神の創造もエジプトからの脱出も聖書を読まない限りは分かりません。先ほども申し上げましたが、世の中では自然主義思想が支配しており、創造主を認めようとしません。私たちも学校では進化論を土台した教育を受けているので、父母には感謝するかもしれませんが、神様には感謝しません。また、キリストの十字架の歴史性は認めますが、私たちの罪のためであったということは、ミッションスクールだって教えないでしょう。信仰を強要してはならないというきまりがあるからでしょう。だから、「人々からイエスは救い主と信じられている」と教える程度でしょう。

そこへ行くと私たちクリスチャンはこの2つをクリヤーした人たちです。創造主なる神を信じ、また、イエス・キリストによる罪の贖いを信じたということです。その結果、神様の愛を知り、私も神様を愛しますということが起こるのです。イエス様は「多く赦された者は、多く愛する」と言われました。新約聖書でイエス様を最も愛した人物はマグダラのマリアでしょう。ルカ7章には「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」と紹介されています。彼女はイエス様の復活の一番目の証人でした。第二は十二弟子のヨハネです。彼は自分のことを「イエスが愛しておられる弟子」とヨハネ福音書で紹介しています。ヨハネは最後まで生き延びて、黙示録を書きました。その次はペテロかもしれません。彼は三度イエス様を知らないと言いました。その後、「私を愛するか」と三度も問われました。みなさんはどうでしょう?神様を、イエス様を愛しておられるでしょうか?では、その愛はどのように具体的に表れるのでしょうか?ヘルンフート兄弟団を設立したチンツェンドルフがまだ、青年のときです。彼はキリストの十字架の前で立ったまま2時間も動くことができませんでした。その絵の下には「私はあなたのためにすべてのことをしましたが、あなたは私のために何をしましたか」と書かれていました。その時、彼は、罪の身代わりとしての十字架にかけられたキリストの愛に捕らえられ、キリストにすべてを投げ出して献身しました。神への愛というのは、私たちの全身全霊をささげることではないでしょうか?「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

3.神の命令を守る人   

 申命記7:9「あなたは、あなたの神、【主】だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。」神に好かれる人の第三番目は、神の命令を守る人です。「好かれる」とは書かれていませんが、「恵みの契約を千代までも守られる」と約束されています。「恵み」はヘブル語で「ヘセド」ですが、「良いこと、善、いつくしみ」という意味があります。「一代」ではなくて、「千代」というのもすばらしいですね。でも、神さまの命令を守ると言われても、何を守るのでしょうか?旧約聖書の場合、命令とは律法であり、戒めでした。私たちは十戒を想像します。確かに申命記は、「主のおきてと定めと命令をいつも守りなさい」と言われ、十戒をはじめ数多くの律法が記されています。律法つまり、主のご命令をもう一度与えるというのが、申命記の主題だからです。きわめつけは、申命記28章です。その1、2節「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。」その後、主の命令を守ることの祝福が記されています。ところが、15節から「もし、命令に従わないなら、呪いがのぞむ」ことが、48節まで記されています。ざっと数えても、呪いの数の方が、祝福よりも3倍も多いです。これだけ、口をすっぱくしてイスラエルの民に命じたのに、簡単にやぶってしまいました。イスラエルの歴史は、まさしく不従順の歴史と言えます。

 新約聖書で、神の命令を守るというのはどういう意味なのでしょうか?ある時、金持ちの青年がイエス様のところに尋ねてきました。彼は「永遠の命を得るためにはどんな良いことをしたらよいですか?」と聞きました。その時、イエス様は「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」と言われました。彼は「どの戒めですか」と言いました。イエス様は「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。その青年は「私はそれらすべてを守ってきました」と胸をはって答えました。この時、イエス様は十戒を彼に伝えました。でも、彼は後で、悲しい顔をして去って行きました。なぜなら、イエス様が「あなたの財産を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、私に従って来なさい」と言われたからです。さて、神の命令とは何でしょうか?彼は十戒を守っていると言いました。イエス様は「完全になりたいなら」と二つの命令を与えました。第一は、財産を売り払い、貧しい人たちに与えることです。第二はイエス様に従うことです。青年は悲しみながら去っていったということは、イエス様の命令には従わなかったということです。言い換えると、神から好かれなかったということです。もう一人の例は、ほうとう息子の兄です。彼は、父にこう言いました。ルカ15:29「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。」兄息子は「父の戒めを破ったことは一度もありません」と言いました。このたとえの兄息子は、パリサイ人や律法学者たちのことです。結論として、神の戒めと命令を守ったからと言って、神さまからの好意を受けているということではないということです。 

 イエス様は世を去る前に、弟子たちにこう言われました。ヨハネ15:10,12「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ここでも、戒めがありますので、命令ともとらえることができます。しかし、イエス様が贖いのわざを成し遂げられた後、ヨハネはこう述べています。Ⅰヨハネ2:7,8「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。」古い命令とは、父の戒めであり、十戒をはじめとする律法に間違いありません。イエス様はこれを、神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛するという2つの戒めにまとめられました。十戒はエジプトから贖われたイスラエルに対して、契約の条件をして与えられたものです。しかし、異邦人である私たちに十戒が与えられていないから守らなくても良いということではありません。でも、十戒や律法を含む総合した戒めがあります。それはイエス様に聞き従うということです。アダムとエバには十戒や律法は与えられていませんでした。たった1つだけ、「知識の木から食べてはならないという」命令でした。アダムとエバは善悪を知る必要はなかったのです。それまでどおり、神様と共に歩んで、聞き従っていれば良かったからです。それは今日も同じです。確かに十戒や律法はどういう戒めなのか勉強する必要はあります。イスラエルは勉強しても守れませんでした。それよりも重要なのは、神様との交わりの中で、御声を聞いて、従うということです。イエス様はヨハネ10章で「その羊たちはわたしの声に聞き従います」と言われました。命令とはイエス様の御声に聞き従うことであろうと思います。そういう人が神から好かれ、結果的に祝されるのです。

 私たちはどんな人を好きでしょうか?自分を信頼してくれる人、自分を愛してくれる人、そして、自分の言うことに従ってくる人ではないでしょうか?私たちはそういう人には自分のすべてをささげても愛したいと思います。決して、そういう人たちを裏切ったり、捨てたりはしないでしょう。神様も私たちと同じような人格、ペルソナをお持ちです。私たちが神様を信頼し、神様を愛し、神様の命令に従おうとするなら、どうなるでしょう。神様は喜んで私たちを愛し、好意を持たれ、ご自分が持っている良いものを何でも与えたいと思うでしょう。もちろん、私たちは不完全であり、神様を悲しませることをしてしまうことがあります。でも、神様は私たちの心の動機をご存じであり、私たちを見捨てたりはしません。神様の恵みと真実と愛に感謝します。