2025.3.16「人間関係の基盤 ガラテヤ5:22,23」

 チャールズ・クラフト師がcontextualization『文脈化』という本を書いています。クラフト師は学者ですが、ナイジェリアに宣教師として働いたこともあります。日本にも何度もお見えになっておられ、「心の癒しや解放」について、実践的に指導してくださったことがあります。今回、『文脈化』という本を読んでいて、愕然としたことをふまえながら、説教の準備をしました。

1.人間関係の重要性

 まず、私が愕然とした本の箇所を引用したいと思います。どんな社会でも、人々は個人的な関心に反応します。そのためには、通常、一緒に時間を過ごすことが必要ですが、この分野では、私たち欧米人にとって二つの困難が生じます。第一に、世界のほとんどの民族は、個人的な関係を築くのに我々西洋人よりも多くの時間を必要としていることです。私たちの友情観は、人間関係を重視する社会から見れば、往々にして表面的なものに映ります。私たちは、二、三回しか会ったことのない人を「友人」と呼ぶことを何とも思っていません。他の民族はそのような人を「単なる知り合い」と呼び、長い間、定期的に会っている人に「友人」というラベルをつけるのです。欧米人が抱える第二の問題は、自分を 「存在する人」よりも 「何かを行う人」として見ていることです。ある人が言ったように、私たちは自分を人間としてではなく、「人間の行い」として見る傾向があるのです。ナイジェリアでは、私が多くの時間を人々と過ごそうと思っても、彼らはそれが十分であるとは思っていないことがわかりました。また、一緒に何かをする予定がないと、なかなか一緒に過ごすことができません。そして、特に理由もなく一緒に過ごすようになると、つい焦ってしまうのです。私の考える「一緒に過ごす」とは、ただ座っておしゃべりすることではなく、何かをして過ごすことだったのです。内部の友人たちは、私は他の宣教師よりもよくやっていると言ってくれましたが、適切なキリスト教の関連性の次元を文脈化することは、あまりうまくできていなかったと思います。

 これはクラフト師をはじめとする西洋人の価値観であり、生活様式です。私はこの本を読んで、私は「何かを行う人」であり、人とおしゃべりをしているのは無駄な時間を過ごしているような感じがしました。2010年頃、香港のベン・ウォン師を招いて、セルチャーチを建て直していただきました。それまでは、「癒しと解放」がおもであり、教会を建て上げるというところまでいきませんでした。ベン・ウォン師から集中的に2年間、「神との関係、人との関係が教会の本質である」ということを学びました。しかし、それは単なる学びではなく、コーチングを実際に行うことだということでした。その後、5年くらい日本人の私たちが「教会の本質」を継続しました。ところが、だんだん参加者が減り、私も2017年にはコーディネーターを降りることにしました。私は「それが、教会の本質ではない。他にもあるはずだ」という結論に達したからです。それから、セルチャーチも常磐牧師セルもやめて、パウロのようにアラビアにこもりました。洋書を読み漁り、翻訳を始めました。そんなとき、クラフト師が書かれた本にぶちあたりました。そういえば、1,2週間前、二人の牧師からお電話がありました。一人は、松戸の岡野牧師からでした。先生は「私のところに遊びに来たい」と言うのです。私は「来なくも良い」と言い放ちました。「要件は何ですか」と聞くと、「癒しのことで少し聞きたいことがある」ということです。話が弾み、25分くらい話していました。その1週間後、水戸の川崎牧師からお電話がありました。「頭を怪我して入院していたのですか?」と聞いてきました。私は「いつの話ですか?」と言い返しながら、その時のことを説明しました。先生は今、月1回しか説教していないそうであり、代わりの牧師を待つオブザーバーであるとおっしゃっていました。さらには、健康上の問題がご自分と奥様にもあったということを話されました。20分以上電話をしていました。「懐かしいなー」と思いました。常磐牧師セルでは、ご両親の看護とか、自分の体調の変化みたいな話題が多かったからです。この二件の電話から、「私は人との関係を喜んでいる」と自覚しました。こういう話し合いは、生産的でないかもしれません。単なる交わりと言えばそれまでです。でも、どこか励ましを受け、どこかリフレッシュされたような気がしました。

 クラフト師はさらにこう続けています。ナイジェリア人が、「宣教師がやっていることといえば、車の修理かミーティングに行くことだけだ」と言っていましたが、彼らよりはほんの少し増しだったと思います。そして、ナイジェリアの指導者たちが別の宣教師についてどのように感じているか、すぐに知ることができました。宣教師は、来客が玄関に来たときにはきちんと挨拶をするが、次に口をついて出る言葉は、「なぜ来たのか」「何が欲しいのか」というものでした。ナイジェリアの文化圏では、来客が理由を話すまで待つのが礼儀であり、愛です。文化の違いの根底には、人間関係を構築し、維持するために一緒に時間を過ごすという人間の基本的なニーズがあります。ところが、期待される時間の量と種類は社会によって異なっています。しかし、現実には、欧米では多くの人がより多くの人間関係の時間に飢えています。これはおそらく、私たち欧米人が人間の重要な側面に十分に対処できていないことを意味しているのでしょう。例えば、欧米の成人のカウンセリングで表面化する関係性の問題の多くは、両親、特に父親が自分たちと過ごした時間の不足に起因している。そのため、より多くの時間を関係づくりに費やすことは、文脈的にも人間的にも適切なことなのです。引用は以上ですが、もし、私のところにだれかがやってきたら、「ご用件は何ですか」と聞くでしょう。また、もしだれかから電話がかかってきたとき、だらだらと話しはしません。30分も電話している人の気が知れません。しかし、先程の二件の電話とは矛盾しています。親しい友人や家族との時間は無駄だと思いません。それなのに、少し外側のサークルの人たちには、仕事の妨げになると思っているのかもしれません。まだ、業績思考が抜け切れていないようです。ある時、ベン・ウォン師と台湾の牧師が牧師館の一階で泊まったことがありました。二人はとても強い絆で結ばれた主の同労者だそうです。彼らは一晩中、笑ってはしゃべり、しゃべっては笑っていました。私の寝室はその真上だったので、ガンガン聞こえてきました。それにしても、「よく話すことがあるんだなー」と驚きました。

 イエス様も使徒ヨハネも「互いに愛し合いなさい」と命じています。愛にはいろんな形がありますが、時間を共に共有するということも愛ではないかと思います。言い換えると、人と過ごすことが具体的な愛の現れではないかと思います。私が感心するのは、リハビリの人と一緒に歩いている人を見かけるときです。近くにリハビリティション病院があるせいもあり、そのような光景をよく見かけます。普通だったら、さっさと歩きたくなりますがそういう訳にもいきません。コープで車いすのおばーちゃんの買い物を手伝っている人をみかけます。「どれを買いたいのか」ていねいに尋ねています。私だったら、「これとこれで良いでしょう」とさっさと、買い物を終えたいところです。彼らは仕事だから、あえてそのようにしているのかもしれません。では、仕事以外にというか、生産性がないのに、人と過ごすというのはどうなんでしょうか?よく、「寄り添う」ということばを聞きますが、「上から目線」のようで仕方がありません。対等でないような気がします。クリスチャンが隣人を愛するというのは、どういうことなのでしょうか?さきほどの岡野牧師は「人間関係伝道」ということをよくおっしゃいます。私たちは伝道するため、この人が教会に来るために、その人を愛しつつ関係を築こうとします。でも、岡野牧師は「それは、ひも付きの愛であって、本当の愛ではない」と言います。先生は、その人がイエス様を信じようと信じまいと、ただ愛することが重要なんだと言います。『ただ愛すれば良い』という本を書いているくらいですから、よっぽどの信念があるのだと思います。さっきほど、「何かを行う人」のことを申し上げましたが、その人は「なぜ来たのか」「何が欲しいのか」と関係に条件をつけてしまいます。「私にとって益であるなら、あなたと時間を共にしましょう。しかし、私にとって重荷であるなら、結構です」ということでしょう。

 これを家族同志であったらどうでしょう?私の子どもは私が何をしていても「送って」と言います。夫婦でただ、テレビを見ているときもあります。できるだけの家事をしようと、家では働きます。生産性のことを考えたら無駄な気がします。それよりも、1ページでも多くの本を読みたくなります。もし、夫婦のどちらかが寝たっきりになったら、どうなるでしょう?健康な方が「一緒にいても生産性がないので、施設に預けたい」と思ったとしても仕方がありません。家族でも、友人でも、他の人たちであっても、重要なテーマは愛であろうと思います。律法学者がイエス様に対して「神を愛することと隣人を愛することが重要だ」言いました。その後、イエス様は良きサマリヤ人のたとえを話されました。サマリヤ人は、強盗で襲われた旅人の隣人になりました。何の見返りもない、何の生産性もない行為です。でも、それが隣人を愛することだとイエス様はおっしゃりたいのだと思います。クリスチャンは愛とはアガベーであり、それは無条件の愛であるということは知っています。神からの愛は無条件なのですばらしいことです。でも、聖書の「互いに愛し合いなさい」とか「あなたの隣人を愛しなさい」の愛も「アガベーの愛」であります。結論として、人と過ごすこと、時間を共有することは、大切な愛の現れです。「行う人」も重要ですが、「存在する人」であることも、同じくらい重要であることを覚えたいと思います。

2.人間関係の基盤

 ガラテヤ人への手紙5章には御霊の実が記されています。ガラテヤ5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」ある聖書学者たちは、「これらすべては、愛の一面として見ることができる」言います。言い換えると、リストを1つ1つ並列的に区別するのではなく、愛という1つの質を詳しく説明したものであるということです。チャールズ・クラフト師も愛には8つの側面があると言っていますので、これを参考にしたいと思います。

 第一は「喜び」です。人生の中で喜びをもたらすものは何でしょう?喜びは主に個人的、内面的なものと考えられているかもしれません。しかし、チャールズ・クラフト師はこう述べています。「世界のほとんどの人々にとって喜びの第一の源は、互いの関係の質にあると思います。このような人間関係の中で、キリスト教の愛の喜びを体験できることは、どんなに幸せなことでしょう。夫婦関係の中で愛し愛されることを学ぶ喜び、子どもを授かる喜び、子どもが成人するまでの様々な段階を経て学び成長していく姿を見る喜び、これらはどんな人々にとっても潜在的な喜びのリストの上位に位置づけられることでしょう。」しかし、私は「きれい事すぎるなー」と思いました。夫婦関係、親子関係、友人関係は遠慮会釈がありません。他の人には言わないことをズバッと指摘するところがあります。ショーペンハウエルの「山嵐の論理」のごとく、近づけば近づくほど、互いが持っている棘によって、傷つけ合ってしまうでしょう。親しい関係であればあるほど、贖い主キリストを間に置かなければ、互いに愛し合うことはできないのです。

 第二は「平安」です。「平和」と訳している聖書もあります。チャールズ・クラフト師はこう述べています。「平和にも、内面と外面の両面があります。私たちは、イエスが内なる癒しを通してもたらす自由の中で、人々が自分自身と適切に関わることができるようにする文化的に適切な方法を見つける必要があります。・・・異なる集団の人々が一緒に礼拝することで自動的に人間関係が平和になると考えるのは甘いかもしれません。最も良いのは、改宗するとき、お互いの敵意を十字架につけることです。エペソ2:16「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」まことにそうであります。私たちは敵意を持って生まれてきました。自分を憎み、親を憎み、不当な扱いをするすべての人を憎んできました。パウロは「主イエス・キリストによって、神との平和を持っている」と言いました。神との平和を持っている人がはじめて、他の人と平和を持とうと言う気持ちになるのです。キリストの打たれた傷により、痛んだ心が癒されることにより、はじめて人を愛す愛が生まれてくるのです。

 第三は「寛容」です。寛容は英語の聖書ではlongsuffering「長く苦しむ」と訳されています。ですから、「寛容」よりも「忍耐」の方が良いのです。実際、チャールズ・クラフト師はpatience「忍耐」とはっきり訳しています。忍耐は、おそらくすべての社会で美徳とされていることでしょう。しかし、やはり、忍耐がどのように表現されるかは異なるかもしれません。イエス様は「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」(マタイ17:17)とおっしゃったことがあります。でも、それは怒りではなく、学ぶことの遅い弟子たちに対する愛から出たことばではないかと思います。親は子どもを育てるとき、最も学んだことは「忍耐」でありましょう。私は4人の子供から忍耐を多く学びました。しかし、それは自分の子供だから我慢ができるのであり、血が繫がっていなければ、プッツンということがありえたと思います。教会でも、仕事場でも、ときには怒りを爆発したくなるときがあるかもしれません。私も役員会で、一歩手前で我慢できたのは主の恵みだと思います。あとから、「どうしてはっきり言えなかったのか、臆病者」と思う時があります。でも、5年くらいたってから、「あれはあれで良かったんだ、なぜなら忍耐を学ぶことができたから」と思えるようになります。どこでも、反対する人や否定的なことを言う人はいるものです。そのとき、「ああ、神さまが私に忍耐を学ぶために置いているんだ、ありがとうございます」と感謝すれば良いです。

 第四は「親切」です。親切はギリシャ語で「善、正しいこと」という意味があります。

第五は「善意」ですが、ギリシャ語では「善い、正しい」という意味があります。つまり、日本語では、「親切」と「善意」というふうに区別されていますが、両者はほとんど同じです。ですから、2つをまとめて、善、goodnessということになります。マタイ5章に「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。」とあります。このみことばは、父なる神は善なるお方であることを教えています。私たちは「この人が私に良くしてくれるから、私も良いことをしよう」と思います。しかし、神の子どもであるなら、悪人とか善人とか関係なく、こっちが先に、良いことをしてあげるということです。これが、親切であり、誠実ということです。でも、こちらの親切が無駄になる人います。箴言30:15蛭には二人の娘がいて、「くれ、くれ」と言う。飽くことを知らないものが三つある。いや、四つあって、「もう十分だ」と言わない。その人がとても依存的で、人から受けることが当たり前だと思っているなら、こちらは控えていくべきでしょう。しかし、原則的には親切が先です。二度、三度、裏切られた場合は差し控えても大丈夫だと思います。イエス様は七度までとおっしゃいましたが、わが子以外にそれができるでしょうか?

 第六は「誠実」です。ギリシャ語はピスティスですから「忠実」あるいは「信仰」と訳すべきです。私は子どものころから何をやっても三日坊主でしたが、信仰だけは40年以上も続いています。これは自分から出たことではなく、やはり御霊の実です。クラフト師はこう述べています。ヘブル語でもギリシャ語でも、聖書の中で信仰という言葉は「忠実」、つまり関係する者に忠実に応答する特徴を持っています。ヘブル11章6節に、「信仰がなければ、神を喜ばせることはできない」と書かれています。ですから、私たちは、人々が自分の文化的生活の中で神への忠誠をどのように表現したらよいかを見出す手助けをすることが必要なのです。…日本は人間関係、特に親子の情を大切にする文化があります。でも、福音書を見ると「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:26)と書いてあります。神さまを信じていない、周りの人たちが「なんてひどい信仰なんだ」と批判するでしょう。キリストに忠誠を誓うと、人間関係に剣が入ることが多々あります。悪魔は日本人の特性を良く知っていますので、親しい人を用いて、私たちを信仰から離そうとするのです。だけど、一度、キリストの弟子として従うことを決めると、不思議に反対が収まるものです。

 第七は「柔和」です。クラフト師はこう言います。柔和は弱さと解釈される可能性が高いので、多くの人々にとって困難なことかもしれません。しかし、柔和はイエスが最もよく模範とした性質です。イエスは、その資格からして要求しうる名誉に背を向けました。イエス様がエルサレムに入城するときあえて子ロバに乗りました。神であり、力あるお方が、あえて柔和なお姿で来られたのです。柔和とは自分の力を制御できるという徳目でもあります。

第八の「自制心」は、個人と集団の両方に影響するものです。箴言25:28「自分の霊を制することができない人は、城壁のない、打ち破られた町である」と書かれています。セルフ・コントロールは、人間関係においてとても重要です。私たちはある意味で仮面をかぶって生きています。この仮面をペルソナと言って、職場や教会など会う人によって使い分けています。営業の人は笑顔で接する必要があります。特に異性に対しては、自分の欲望を押さえなければなりません。でも、本心を偽り、仮面でごまかしていると、ある時、ばっと出てきます。私はお酒はやりませんが、お酒に酔うと本心が出てきます。クリスチャンは自分の意思力でなんとかなると考えてはいけません。ダビデの罪は他人事ではありません。私たちは神を恐れ、聖霊の助けによって、自制心を保つことができるのです。アルコール依存症と戦っている人が「一日、一日の積み重ね」と言っていますが、私たちも日々、守られる必要があるのです。

 愛には8つの側面があり、それは喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制です。これは、すべてに私たちの人間関係の基盤になる徳目です。私たちは自分の徳によってこれらのものを現すことができます。あるいは、生まれつきこのような人徳を持っている人もいるでしょう。でも、愛は神からくる無条件の愛であり、返礼を求めません。ひも付きでないということです。私たちはなんとかこの人が救われてほしいと愛の奉仕をするでしょう。でも、うまく返ってこないことがほとんどです。善いことをしても、かえって誤解されたりすることもあります。ガラテヤ6章にはこのように書かれています。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう」(ガラテヤ6:9,10)。伝道者の書11章には「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」と約束されています。人間関係を築くためには愛が必要です。でも、その愛は人間の愛では不可能です。神が下さるアガペーの愛、無条件の愛をいただくなら奇跡が起こります。神の愛が私たちに迫っているのでそうするのです。