2025.2.23「人生のターニングポイント 伝道者3:1-8」

自分の人生を振り返ると、「あの時が人生の岐路だったんだなー」と思うことがあるでしょう。岐路は英語でturning pointなどと言ったりしますが、もう日本語になっています。turning pointは、「運命などの転機」という意味があります。クリスチャンであるなら、回心して洗礼を受けた時かもしれません。結婚や離婚、就職や転職、良いか悪いか別として、人生のターニングポイントというのがあるのではないでしょうか?不思議なことに、クリスチャンなると多少後悔することがあっても、「ああ、神さまの御手があったんだなー」と納得できるのではないでしょうか?

1.すべてに時がある

伝道者の書3:1,2「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」ヘブル語で「時」は、ゼマーンであり、「定まった時、決定的な時」という意味があります。ちょうどこれと同じギリシャ語はカイロスです。カイロスは「ちょうど良い時、都合の良い時、機会」という意味があります。欽定訳聖書も面白いです。To everything there is a season, A time for every purpose under heaven: A time to be born, And a time to die; A time to plant, And a time to pluck what is planted;「定まった時期は」シーズン(季節)になっています。また、「時」はタイムになっています。英語のタイムは、いわゆる「時の経過」という意味と、「ある決まった時、機会」という両方の意味があります。私たちの人生において、時が流れていますが、決定的な時というのがあり、それが人生のターニングポイントになるということです。ターニングポイントのときは、知性も感情もからだも、暗中模索の状態です。ところが、10年くらいたって過去を振り返ると、「ああ、あれが私のターニングポイントだったんだなー」と分かるものです。車の運転も同じで、カーブを曲がっている時というのは、とにかく集中して運転しています。しばらく行ってから、「ああ、あそこで大きく進路を変えたんだなー」と分かるものです。人生を振り返ると、うまくいったというときもあれば、失敗してしまったということもあります。「後悔先に立たず」と言いますが、まさしくそのとおりです。でも、クリスチャンは主の大いなる御手のわざを信じていますので、失敗も含めて、最善な道へと導いておられるということを認めることができます。まさしく、これは主の摂理です。ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」これはだれにでもあてはまるわけではありません。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのため」という限定条件があることを忘れてはいけません。

伝道者の書3:1「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」。このみことばには「天の下のすべての営みに時がある」書いてあります。「すべての営み」というのは、生死の問題を含めて、日常のあらゆる分野に言えることです。その時というのは、「ちょうど良いとき、あるいは神さまが定めた時」という意味でしょう。農業では、種まきのときや収穫の時というのがあります。建物では、建てるときと壊すときというのがあるでしょう。人間関係では、会うときと別れるときがあるのかもしれません。あらゆることにおいて、求めるときとあきらめるときがあります。パウロはこのように教えています。エペソ5:16「機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」ここで言われている「機会」はギリシャ語のカイロスであり、まさしく「ちょうど良い時、都合の良い時、機会」という意味です。でも、どうして「機会を十分に活かすこと」がそれほど重要なのでしょうか?私は株取引はやっていませんが、売りと買いの時があるようです。商売においては市場調査がとても重要です。なぜなら、人々が買いたいときに売れば、高く売れるからです。売り手市場、買い手市場というのがあるようです。学業はどうでしょうか?10代はとても頭が柔らかくて記憶力が抜群です。20代後半くらいがクリエーション、創造力のピークだと言われています。40代になると記憶力も衰え、発明や発想力なくなります。その分、管理能力や洞察力が増してきます。部長クラスが年配なのはそのためです。よく大学生がアルバイトしてお金を稼いでいますが、私は大反対です。「大脳皮質が活発なとき、どうしてバイトなどするのか?」と腹がたちます。その点、アメリカの大学生はよく勉強します。女性においても、子どもを出産するのに適している年代があるようです。更年期障害も人生のひとつのターニングポイントです。つまり、年齢別に適しているときとそうでないときがあるということです。

私は25歳でイエス様を信じて、すぐ神学校に行って勉強することができました。聖契神学校では、ギリシャ語とヘブル語を同時に取りましたが、他の学生が驚いていました。結婚も28歳ですることができ、あっと言う間に4人が成人しました。おかげ様で孫が与えられましたが、60代後半で子育てはできないと思いました。若いときは無我夢中でしたが、孫の世話は怪我をさせると責任が負えないのでとても疲れます。記憶力はずっと衰え、さっき覚えた英単語もすぐ忘れます。まるで「砂に書いたラブレター」です。それでも、忘れる量よりも、覚える量を増やすようにしています。25歳でイエス様を信じられたのが私にとってのターニングポイントです。あの時から永遠の世界に片足をつっこむことができたのですから感謝です。洗礼を受けて1か月後、彼女が去っていきました。「主がエジプトのファラオの心を頑なにした」と書かれています。主が彼女の心を頑なにしたので、私はこのように献身して牧師になれたのだと思います。彼女と友人を失い、辛くて悲しい日々を過ごしましたが、12月の青年クリスマスで解放されました。なぜなら、教会で新しい兄弟姉妹がたくさん与えられたからです。そして、京子さんという教会献身者と結婚することができました。まさしく、25歳で洗礼を受けてから、生きる世界が変わってしまったのです。伝道者の書12章「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」とありますが、まさしくそうでありました。私たちの人生の大事なところに、神さまの御手があると思います。

2.決定的な出来事

 人生のターニングポイントを通過するとき、決定的な出来事があります。たとえば、いままでやっていたことが、うまくいかなくなった。親しい人から裏切られたり、ひどいことをされ、関係を絶たざるを得なかったというマイナスの出来事があります。伝道者の書3:6「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある」。つまり、これまでのものを捨て去ることによって、新しいステップを踏み出すとことがあるのです。私たちはこれまで慣れ親しんできたことを変えるということに、困難を覚えるところがあります。しかし、決定的な出来事が起こったことによって、「よし、変えよう」と決断することができます。私はウィンドウズ7で慣れ親しんできたので、ウィンドウズ10に移行することをずっと渋っていました。しかし、ウィンドウズ7に新しいオフィスを入れたら、ワードが変になりうまく働かなくなりました。いよいよ、重い腰を上げて、ウィンドウズ10に移行しました。また、冷蔵庫も、下から水が垂れているのに、我慢してしばらく使っていました。ところが、ある時に全く冷えなくなったのです。20年近くも使っていたので、コンプレッサーが壊れたんですね。それで、新しい冷蔵庫に買い換えました。階段が狭いので、手すりをはずして、大変でした。でも、今は快適です。伝道者の書3:6「保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある」ということです。 

私は弟子訓練の働きを10年携わり、その後、一緒に奉仕していた牧師たちと長い間、交わりを持っていました。交わりでは「幹事」のような役割を司っていました。当亀有教会の多目的室を交わりの場所として提供してきました。どこかに旅行に行くときは私が幹事をしていました。「交わり会」を仕切る役目もし、ある牧師の話が長いと「長い!」と言うときもありました。万座温泉で牧師たちと露天風呂に入っていました。ちょうど、そこに旅館にお米を届けに来ているお米屋さんも一緒に入っていました。私たちがお風呂をあがるとき、彼が私に「あんた指揮者だろう」と言ったのも頷けます。ある集まりで、ある出来事が起こり常磐牧師会を2007年1月卒業しました。もう一つは、セルチャーチの働きに20年携わっていました。最後には関東地区のコーディネーター、「ものごとを調整する役の人」に任命されました。集会のプログラムを決めたり、奉仕者を割り当てたりする責任を負わされました。でも、私的には「こーでぃねーといけない」とふざけて軽い気持ちでやっていました。ところが、セルチャーチはムーブメントであり、その波が過ぎ去ったと思いました。香港の宣教師が「教会の本質」「コーチング」を教えてくださいましたが、だんだん機能しなくなりました。それでも、続けている牧師たちもおられました。ある時、ある出来事が起こり、2007年1月卒業しました。不思議に、弟子訓練の牧師たちの交わりとセルチャーチの牧師たちの交わりを同時期に離れてしまいました。でも、そのことにより、パウロのようにアラビアの荒野に籠って神さまと交わることができました。それ以来、英語の原書をよみあさり、これぞと思う本を20冊以上(今90冊)翻訳することができました。大和カルバリーの大川牧師とスタッフのみな様に製本して送り付けています。迷惑だと思っているでしょうけど…。

 ジョエル・オースチン著の『今があなたの時』にこのようなことが書かれていました。1900年代の最初の頃、南部の農民は大きな試練を受けました。ワタミハナ象虫と呼ばれている小さな昆虫が南アメリカから渡ってきて、穀物を急激な勢いで食い荒らしました。農民たちはその虫を取り除こうとあらゆる方法を試しました。彼らはあらゆる種類の農薬で駆除しようとしましたが、効果がありませんでした。結局、すべての農民は、自分たちの穀物と生活源である綿花が食べられるのをだまって見ていることしかできませんでした。彼らはとても落胆し、すべてが終わったように見えました。そのとき、ジョージ・W・カーヴァーという科学者が1つのアイデアを持って現れました。彼は「これまでのように綿花を栽培したら、生き残れないのを知っているだろう。その代わり、ピーナッツを植えてみたらどうだろうか。」と提案しました。人々はまるで新しい通路に立つ牛のように彼を見つめ「ピーナッツだと?俺たちは、ピーナッツで食べて行けっこないよ!」と言いました。しかし、カーヴァーという植物学者は、それでも彼らに語りかけました。彼はピーナッツ・オイルが何百種類の製品に役立つことを説明しました。たとえば、化粧品から塗装まで、ニトログリセリンの成形などです。もっと良いのは、彼はワタミハナ象虫がピーナッツの味が好きじゃないことを発見したことです。最初のピーナッツの収穫時から、これまで見たことのないような繁栄へ彼らをいざないました。農夫たちがこれまで年間に稼いだ額よりも、毎月稼いだ額の方が多かったのです。実際には、ワタミハナ象虫が去った後、農夫たちは綿花作りには戻りませんでした。彼らはピーナッツ作りに完全にまってしまい、世界中で最も多くピーナッツを生産しています。あなたはいくつかの失望落胆を通過してきたかもしれませんが、今が起き上がって、輝く時です。今が、新しい夢を夢見る時です。もし、あなたが新しい態度を取って、新しい機会に対して備えるならば、神さまはワタミハナ象虫が姿を現したとき、ピーナッツへとあなたを導くでしょう。

ビル・ジョンソン師のDefining Moments『決定的瞬間』という本を翻訳しました。その本の中には、マリア・ウッドワース・エッター、エイミー・センプル・マクファーソン、キャサリン・クールマンのことが書かれていました。その本は、劇的な聖霊の注ぎによって変えられた人たちの実話です。私はそれよりも別なところで感動しました。この三人は男性が優位を思われるキリスト教会で、偉大な神の働きをした女性伝道者たちです。ところが共通して言えることは彼女らは何度も離婚をしたということです。ある夫は彼女の働きを反対し、ある夫は不倫をして彼女から去りました。彼女らが離婚したため、保守的な教会から締め出されることもありました。でも、神様は彼女らから油注ぎを取り去りませんでした。むしろ、自由にアメリカ中を歩き回り、救いと癒しと奇跡だけではなく、たくさんの教会が生まれました。彼女らすべてが「夫を主にゆだねます」と祈って、一人で伝道先に出かけたことです。キリスト教会では致命的と思えるような離婚が、彼女たちのさらなる神の働きへのステップになったということです。このようにマイナスのように見える決定的な出来事が、実は新しいステップのための機会になるということです。

3.時にかなって美しい

伝道者3:11「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」欽定訳聖書はHe has made everything beautiful in its time.直訳すると「神はすべてのものをその時にふさわしい美しさに仕上げる」となります。このところから、うまく時が合わるように、神さまの力が働いているということがわかります。美しいというのは、タイミングがちょうど合って物事がうまくいくというイメージがあります。サーカスの空中ぶらんこを見たことがありますが、片方の人が手を放して、別の人の両手をつかむシーンを思い出します。少しでもタイミングがずれると真っ逆さまに落ちてしまいます。すべてに時があるといいますが、最も良いのは、神様が定めたちょうど時に、私たちが合わせるということです。逆な言い方をすると、神様が定めた時でないと、うまくいかないということです。そういう意味では、私たちは神様が定めておられる時を知ることができたら幸いだということです。でもこのところには、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」と書かれています。神様が定めた時に対して、私たちがそのことに応答するということがとても重要だと思います。神様は私たちに計画をお持ちであり主権的なお方です。でも、私たちは神様の計画を知って、決断し、動き出す必要もあります。

エペソ1章には私たちが救われることは永遠の昔から定まっていたと書かれています。エペソ1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」使徒パウロは「母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神」(ガラテヤ1:15)と言っています。神様の選びは私たちが生まれるずっと前にあったということです。詩篇139篇には「書物」とあります。黙示録20章には「様々な書物」というのがあります。つまり、私たちの人生に関する計画書があるのではないかと思います。私はそれをdivine destiny「神の運命」と呼びたいです。そこには、いつどこの国に生まれ、どのようなことを行い、いつ死ぬか」まで書かれているのではないでしょうか?だから、伝道者の書3章には「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と言っているのではないかと思います。イエス様はマタイ6章で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(マタイ6:27)とおっしゃっています。これは、人の寿命のことだと思います。不摂生をすると寿命が縮まります。また、悪魔は私たちを殺そうとしていますので、羊飼いなるイエス様に頼る必要があります。おそらく、神様の計画は大事なところは決められていますが、その他のことは私たちの選択と実行に任されているのではないかと思います。人生において決定的なこと、救いに関すること、結婚、果たすべき神の使命、大事な人との出会い…そういうものは定まっているのではないかと思います。問題は、神様がさだめた計画どおりに、私たちが応答するかどうかということです。

イエス様が「王子の披露宴のたとえ話」をされたことがあります。王は人々に招待状を前もって出しています。その後、招待した客にしもべたちを遣わして「食事ができたのでおいで下さい」と招いています。ところが、招待されていた人たちはことごとく断りました。ある者は、王のしもべたちを捕まえて殺しました。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払いました。招待した人たちがふさわしくなかったので、今度は、「大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招くように」言いつけました。披露宴は客でいっぱいになりましたが、その中にふさわしくない人もいました。彼は備えられた礼服を着ていなかったので、放り出されました。前もって招待されていた客たちとは、イスラエルのことです。一方、大通りで招かれた人たちというのは異邦人のことでしょう。礼服とはイエス・キリストを信じることだと考えられます。もし、これを私たちの救いと考えるならどうでしょう?神様はご自分が選んでいる人に、招待を何度か出すということです。それでも、断る人が出てくるということでしょう。その人が、救われるチャンスはあと何回あるのでしょう?そんなにないと思います。義母のナオミが故郷のベツレヘムに帰ろうとしたとき、ルツはすばらしい決断をしました。一方、オルパは自分の民とその神々のところに帰って行きました。ルツはベツレヘムでボアズと巡り合い、ダビデとイエス様の系図に加わることができました。

神様は私たち一人一人に特別な計画を持っておられます。神様は「このことは絶対逃してはいけない」という肝心な計画を持っておられるます。そのためには、あなたが気づくように知らせて下さいます。聖書のみことば、だれかの声であったり、環境であったり、直接、聖霊が語ったりします。それでも従わないなら、その計画は他の人に渡るか、失墜してしまいます。マリアは御使いが現れて「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その子をイエスとつけなさい」と言われました。マリアは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのことばどおりに、この身になりますように」(ルカ1:38)と応答しました。前に引用した「『決定的瞬間』という本に、マリア・ウッドワース・エッターのことが書かれていました。彼女は13歳で洗礼を受けたとき、イエス様から「街路や垣根に出て行って、失われた羊を集めよ」と言われました。ところが、結婚後、その相手と宣教師になろうと考えていました。やがて6人の子どもが生まれましたが、うち5人は若くして亡くなりました。夫は宗教に興味がなく、聖職に就くという彼女の夢にもあまり協力的でありませんでした。彼女は伝道者としての召命に踏み出すことに葛藤し続けていました。そして、彼女は死にかけるほどの重病になりました。35歳のある夜、親愛なる救い主が幻の中で彼女のそばに立ち、面と向かって話し、彼女はこの世で何をしているのかと尋ねられました。「主よ、私はあなたのぶどう園で働きます」と言いました。主は「いつ?」と聞かれたので、彼女は「仕事の準備をしたら」と答えました。主は「あなたが準備をしている間に、魂が滅びていくことを知らないのですか?今すぐ行きなさい。私はあなたと共にいる」と言われました。それから彼女は立ち上がり、聖霊による癒しと奇跡の伴う女性伝道者になりました。