「キリスト」は、もともと「油注がれた者」という意味です。父なる神が、御子イエスに油を注いで、「メシヤ(キリスト)」としてお立てになられたのです。油注がれた方はおひとり、イエス様だけです。しかし、イエス様がご自身の働きをこの世においてできるように、聖霊の油ぎを与えてくださいます。
1.油注ぎとは
使徒4:31「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ」と書いてあります。ギリシャ語で「満たす」は、「一杯にする」「充満する」の受身形であります。これは、ペンテコステの日の「すると皆が聖霊に満たされて」(使徒2:4)と同じことばであります。この2つを正確に訳すなら、上から聖霊が注がれ、全身まるごと満たされたという意味です。まるで、私たちがプールに入って、水の中に潜った時と同じです。水に潜ると、私たちの全身が水でおおわれてしまいます。同じように、聖霊が上から注がれることによって、全身まるごと聖霊に満たされるということです。これは、エペソ5章の「酒に酔わないで、むしろ、聖霊に満たされなさい」とは違います。エペソ5章の方は、私たちの内側が聖霊によっていっぱいに満たされるという意味です。この「聖霊の満たし」は私たちの人格に関するものです。聖霊に支配されることにより、愛、喜び、平安に満ちた生活をすることができます。私たちは内に住まわれる聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます(Ⅱコリント3:18)。ビリー・グラハムが書いた『聖霊』には、こちらの方が主に書かれています。ビリー・グラハムは私たちがキリストを信じたとき、つまり新生したときが、聖霊のバプテスマを受けたことなのだと解釈しています。しかし、ペンテコステ派の人たちは「あなたがたは聖霊を受けていません」と主張します。彼らは、内側の満たしではなく、外側の満たしのことを言っているのです。こういう話は講壇の上から何度も話しているので、今回はしません。でも、一番言いたいことは、聖霊に内側で満たされることと、外側から満たされることは違うということです。使徒3章の弟子たちは、聖霊によって外側から満たされたのです。なぜなら、そのことによって、みことばを大胆に語ることができ、イエスの名によって癒しとしるしと不思議を行うことができたからです。
それではまず、「聖霊の外側からの満たし」と「聖霊による油注ぎ」というのは、同じことをさすのかどうかということを調べたいと思います。旧約聖書において「オリブ油による油注ぎ」が記されています。第一に幕屋やそれに関する用具に油が注がれました。レビ記8:10「それから、モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油注ぎを行った。こうしてそれらを聖別した。さらに、それを祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、また洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別した。」この油注ぎは、聖別のためのものです。つまり、俗物から聖別されて神さまのために用いられるようになるのです。第二は神さまに仕える人たちのためのものです。アロンが大祭司としての油注ぎを受けました(レビ21:10)。また、預言者と王も油注ぎを受けています。主がエリヤにこう命じられました。Ⅰ列王記19:16「また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。」サムエルは最初の王、サウルを任命するとき油を注ぎました。サウルが不従順の罪を犯したので退けられ、ダビデが後継者として選ばれました。Ⅰサムエル16:13、14「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。さて、【主】の霊はサウルを離れ去り、【主】からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」ダビデが油注ぎを受けた直後、主の霊がダビデの上に激しく下りました。一方、主の霊はサウルを離れ去り、逆に悪霊が彼をおびえさせました。旧約聖書においては、上に注がれた聖霊が離れ去ることもあるようです。サムソンの場合がそうでした。主の霊が激しく彼の上に下ると超人的な怪力を発揮することができました。しかし、彼の髪の毛が剃られると「彼の力が彼を離れた」とあり、「彼は主が自分から離れたことを知らなかった」(士師記16:20)と書かれています。サムソンの場合は主の霊が怪力の源であったことがわかります。他にも主はご自身の働きを全うさせるために、ギデオンや他の預言者の上に聖霊を上から与えておられます。問題は、油注ぎと聖霊が上から注がれることが同じかどうかということです。
結論的に言いますと、旧約聖書の職務のために注ぐ油と、聖霊の上からの注ぎは、全くイコールではないということです。正確には職務のために油を注がれると、そのことを全うできるように、聖霊が上から注がれるということです。つまり、神様がその人を本当に任命したなら、聖霊がその職務を全うできるように力と権威と能力を与えて下さるということです。言い換えると、神さまの職務が与えられていないのに、「聖霊の油注ぎを与えてください」と願うのは的外れだということです。クリスチャンであるならもれなくキリストの証人となるように召されています。でも、恐れや不安があるでしょう。かつての弟子たちも復活の主にお会いしたのに、恐れて部屋の中に隠れていました。しかし、どうして彼らがあのように大胆になることができたのでしょうか?その秘訣がこれです。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」確かに、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職には、任職のための油注ぎが必要です。これをordination叙任といいます。エペソ4章にはキリストご自身が立てたと書かれています。ですから、これらの五職には特別な聖霊の油注ぎがあると信じます。本当にキリスト様から立てられたらの話です。自称であるなら、つまり、キリストが立てたのでなければ、聖霊の油注ぎもないということです。もう一つは、神様に仕えるため、すべてのクリスチャンにも聖霊の油注ぎが必要だということです。それはキリストを証する勇気であり知恵です。また、与えられた聖霊の賜物を開花させ、効率よく動かすためには聖霊の油注ぎが必要です。なぜなら、聖霊は力と能力と賜物の源でもあるからです。聖霊の油注ぎは、霊的なガソリンと同じです。
2.油注ぎの必要性
第二は、聖霊の油注ぎを受ける必要性をもう少し詳しく学びたいと思います。Ⅱテモテ1:6,7「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」このところを、そのまま解釈しますと、パウロはテモテに按手をして神の賜物と聖霊の満たしを同時に与えたようです。聖霊ご自身が神の賜物という考えもありますが、一般に神の賜物とは聖霊の賜物ではないかと思います。不思議なことに、聖霊が上から臨むと、いわゆる聖霊のバプテスマを受けると、聖霊の賜物も同時に現れるようです。使徒19:5,6「これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」エペソの人たちは水のバプテスマを受けた後に、パウロによって聖霊のバプテスマを受けたと考えられます。彼らはそのことによって外側から聖霊によって満たされたのです。するとどうなったでしょうか?「彼らは異言を語ったり、預言したりした」と書いてあります。これは初代教会に度々起こっている聖霊によって満たされたことのしるしです。でも、これを定式化、神学にしてはいけません。そうでないときもあるからです。体験を求めることは良いことです。しかし、いろいろな体験がありますので、それを神学にしてはいけないということです。でも、一般に言われていることは、聖霊を外側から受けると、Ⅰコリント12章のようなことが起こるということです。そのところには、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力、と9つ記されています。これらは聖霊の現れの賜物であり、超自然的な業を行うことができます。パウロはⅠコリント2章で「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」と言っていますが、まさしく聖霊による賜物と力のことを指しています。言い換えると、ことばだけではなく、聖霊の油注ぎによって行ったということです。
世の人は人間の知性や知恵や能力によっていろんなことを行っています。それらは、企業や行政、学校教育、医療、工学、ビジネス、芸術…あらゆるところに必要な源であります。この世においてはそのように能力のある人たちがトップに立って、組織をひっぱっていくようなイメージがあります。では、旧約聖書と新約聖書、あるいはキリスト教会ではどうなのでしょうか?「この世で能力ある人や学問のある人が神様の働きができるか?」というと必ずしもそうではないようです。パウロはⅠコリント1章でこう述べています。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント1:26-28)。召しというのは、神ご自身の働きのために召すということです。旧約聖書で言うと、「油注ぎ」ですが、どんな人たちを召して油を注がれるのでしょうか?必ずしも、知恵のある者や身分の高い人たち、強い者たちではありません。なんと、この世の愚かな者、この世の弱い者、この世の取るに足りない者をあえてえらばれました。それは、なぜでしょう?その人たちがすばらしいことを行ったなら、人々は「ああ、それは彼らではなく、神様がやったんだ」と思うからです。神様はあえて、取るに足りない者を選ばれました。それは、だれも、神の御前で誇ることがないようにするためにです。イエス様の弟子たちのほとんどは、漁師や取税人など普通の人たちでした。彼らは律法を学んだことがないのに、裁判の席で律法の専門家たちと対等に渡り合うことができました。彼らには、聖霊の油注ぎによる神の知恵があったからです。
神様は一人の指導者を立ててその人に特別な油注ぎを与え、その団体を導くという御心があるようです。旧約聖書ではモーセ、ヨシュア、ギデオン、ソロモン、ダビデ、ヒゼキヤ、ヨシャパテがそうでありました。新約聖書ではペテロ、ヨハネ、ステパノ、パウロが用いられました。歴史的に、教会の霊的復興、リバイバルが何度も起こりました。ルター、カルヴァン、ジョン・ウェスレーが有名です。最近、『決定的瞬間』というビル・ジョンソンの本を読みました。その本の中に、ウェールズにリバイバルをもたらした、エヴァン・ロバーツのことが書かれていました。彼は、聖霊の飢え渇いている26歳の普通の若者でした。ある日、エヴァン・ロバーツとそのチームに聖霊の火が下りました。聖霊を受けた若者たちがウェールズに伝道に出かけました。最初の集会では17名が出席しましたが、「来るべきリバイバルの兆候である」と言いました。聖霊を受けたわずか1か月後、故郷の何百人もの人々をキリストに導き始めました。その影響が都市に及び、リバイバルの火が燃え広がりました。4ヶ月も経たないうちに、8万4千人以上の回心者が記録されています。ウェールズから、リバイバルはイングランド、アイルランド、ニュージーランド、マダガスカル、インド、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカのアルジェリアや南アフリカに広がりました。社会的な変革も訪れました。公娼館は廃れ、劇場は閉じられ、賭け事帳は燃やされ、サッカーチームは解散し、警察裁判所は休止し、家族の確執は静まり、長年の借金が支払われ、宗派主義と教会主義は没落し、家庭祭壇は再び建てられ、聖書研究は熱狂的になりました。エヴァン・ロバーツは、何度も集会を開き、朝方までそこに残っていました。その結果、彼は疲れ果ててしまいました。ロバーツが現場を離れて間もなくリバイバルは沈静化しました。ウェールズのリバイバルはたった1年間でした。ロバーツは「それは私ではない、私を待つな、神に頼れ、御霊に従え」と呼びかけ、聖霊の雰囲気を作り出しました。神様は聖霊に満たされた一人の人物を用いるということは確かなことです。でも、忘れてはならないのは、聖霊が指導者であるということです。聖霊に満たされ、聖霊に従うように指導する人が用いられるということです。神様はご自分の栄光のため、平凡な人に聖霊を注ぎ、非凡な働きをさせようとしておられます。
3.油注ぎを受ける
聖霊の油注ぎを受けるためにはどのようにしたらよいでしょうか?きょうのメッセージは、聖霊の油注ぎとは、聖霊を外から、あるいは上から満たしていただくということです。初代教会においては、ペンテコステの日「皆が聖霊に満たされた」と、使徒の働き2章に記されています。これはルカ24章で約束された「高き所から力を着せられる」ということの成就です。しかし、満たされたのはこれだけではありません。2回目の満たしがありました。使徒4:31「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」つまり、ペンテコステの日に起きたことが、歴史において繰り返されていくということです。これは、だれから祈ってもらったのではなく、聖霊が勝手に人々の上に臨んで、満たしたということです。ビル・ジョンソンは、三晩続けて聖霊によって感電し、死ぬのではないかと思ったそうです。しかし、日中、レストランで食事をしているとき、突然、聖霊が襲ってきたので、その場に倒れてしまったそうです。歴史的にはチャールズ・フィニー、D.Lムーディが同じような経験をしています。彼らは「聖霊が激しく臨んで、死にそうになったと」証しています。まことにうらやましい限りです。しかし、だれかから按手していただくと、聖霊に満たされることもあります。それが使徒19章に記されています。「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした」と書かれています。また、第二ポイントで取り上げましたが、テモテもパウロの按手によって、聖霊の満たしと賜物をいただいたようであります。でも、テモテのことはもう一か所書かれています。Ⅰテモテ4:14「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。」「長老たち」とありますので、教会の指導者から任命のための按手かもしれませんし、油注ぎのための按手かもしれません。彼らは預言をしながら、聖霊の賜物が与えられるように祈ったのかもしれません。つまり、第二の聖霊の満たしは、だれかから頭に手を置いてもらって祈ってもらうということです。しかし、これは任命式にも行いますので、誤解を招いてしまう動作です。多くの教会は、手を置けるのは牧師か長老だけであると制限しているようです。私は若い頃、たくさんの聖会に出席しましたが、招きがあるときは率先して前に出ていき、講師から按手の祈りをいただきました。
最近は按手して聖霊の満たしをいただくことをインパーティションと呼んでいます。impartとは、「分け与える、授ける」という意味があります。ですから、インパーティションとは手を置いて、だれかに自分が満たされている聖霊を分け与えることです。厳密には、聖霊は人に与えることはできません。でも、劇的な満たしを経験した人は、他の人にその満たしを与えることができるようです。ランディ・クラークは、イリノイ州の小さな教会の牧師でしたが、聖霊に飢え渇いていました。彼はダラスで開かれたジョン・ウィンバーの癒しの集会に行きましたが、聖霊の力に打たれ続け、震え、泣きながら床に倒れてしまいました。二回目はヴィンヤードのチームを自分の教会にお招きしました。ブレイン・クックと言う人からインパーティションを受けました。ランディはその時の体験をこう述べています。「あまりの力強さに、ダラスで起きたことをインパーティションとは思えなくなったほどです。電線をつかんだような感じでした。体中に電気が流れているような気がして、体が震え始めたのです。あまりの強さに、翌日には関節が痛くなりました。」ジョン・ウィンバーの時から10年後、トロント空港ヴィンヤードチャーチに招かれました。その直前、フロリダに行き、ロドニー・ハワード・ブラウンから再び満たされるように祈ってもらいました。彼が、「これはあなたの手にある神の火です。家に帰って、あなたの教会のみんなのために祈りなさい」と言うと、神の力がランディの上に降ってきました。そのあと、トロントに行って奉仕すると、ものすごいことが起こりました。4日間のつもりの集会が、40日も続いたそうです。ビル・ジョンソンの本にこう書かれていました。「この刷新運動は、初年度に55,000以上の教会に広がりました。運動の最初の数年間で、300万人以上の人々がトロントでの注ぎを受けるため訪れました。多くの人々が、その訪問中に著しく癒され、神によって触れられました。そして、彼らが帰国すると、リバイバルの火が広がっていったのです。」
しかし、物語はこれで終わりではありません。ある時、アフリカのモザンビークで宣教していたハイディ・ベイカーが疲れ果てて、ランディ・クラークの集会にやってきました。彼女はランディがまだメッセージをしているのに、前方に走り、祭壇にひざまずき、両手を上げて叫び始めました。ランディは説教をやめ、彼女の上に手を置いてこう言いました。「神は知りたがっています、あなたはモザンビークという国を望んでいますか?目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞き、足の不自由な人は歩き、死者はよみがえり、貧しい人は良い知らせを聞くようになります」と言いました。ハイディ・ベイカーに神の力が稲妻のように襲い、まるでオーブンに入れられたような感覚に陥りました。彼女は7日間、動くことができず、夫のローランドは彼女を抱き上げて運ばなければなりませんでした。ハイディ・ベイカー夫妻はモザンビークに帰りましたが、20人の盲人のために祈ったはずなのに、誰も見えることができませんでした。諦めないで続けていると、自分と同じ愛称で呼ばれている3人の「ママ・アイダ」という盲人たちが癒されました。その後、死者がよみがえるなど、しるしや不思議、奇跡がどんどん放たれるようになりました。2000年2月7日に、モザンビークを大洪水が襲いました。この悲劇の中で、この国では神への飢えが生じました。リバイバルが勃発し、加速度的に国中に広がっていきました。その年の12月、500以上の教会が建てられ、子どもたちの学校が再建され、宣教が拡大的に進みました。
聖霊の油注ぎを受けたなら、できないことができるようになります。リバイバルが起こるよう、どの教会でも祈っているでしょう。でも、リバイバルは聖霊の油注ぎを受けた少数の人から始まるのが原則です。学問や経験がない人であっても、聖霊の油注ぎを受けたら、全く別人になって、豊かに用いられます。満たしを受ける共通した秘訣は、第一は飢え渇きです。第二は完全な明け渡しであり、聖霊に屈服することです。聖霊の油注ぎが強く臨むと、打たれて死ぬような経験をします。でも、それが良いのです。一度死んだ人は聖霊によって自由に動かされるからです。