2025.1.1「クリスチャンの成長 ヨハネ15:4-8」

キリストを信じて洗礼を受けた後、癒しと解放をいただくことをクリスマス前に学びました。その次は、クリスチャンが成長するために、継続して行うことが3つあります。それは、キリストにとどまること、みことばにとどまること、そして教会にとどまることです。生まれたばかりの赤ちゃんが何も食べず、世話も受けないなら、死んでしまいます。同じように、私たちは霊的に成長するために、3つのことが必要なのです。きょうはヨハネによる福音書15章からそれらのことを学びたいと思います。

1.キリストにとどまる 

 ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス様はこのところで、アレゴリカル寓意的に教えておられます。農夫は父なる神様、ぶどうの木はイエス様、ぶどうの枝は私たちクリスチャンのことです。イエス様は「私にとどまりなさい」と命じておられます。とどまらなければ、実を結ぶことができないばかりか、何もすることができないとおっしゃっています。「え?本当ですか?私だって、あなたなしでも、ある程度のことはできますよ」と言いたくなります。しかし、この実というのは、世の人たちが自分の力や努力で結ぶものとは違います。この世では、スポーツや芸術や発明で偉業を残す人たちがいっぱいいます。それらの実と、一体どこが違うのでしょうか?7節には「多くの実を結ぶことによって、父なる神が栄光をお受けになる」と書かれています。多くの場合、数々の偉業の達成はその人自身に帰せられ、神様の栄光にはつながりません。また、16節には「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」と書かれています。その実は、この世限りのものではなく、永遠に残るようなニュアンスがあります。黙示録3章12節には、「私は、勝利を得る者を、私の神の神殿の柱とする。…彼の上に、私の神の御名と、新しいエルサレムの名と私の新しい名を書き記す」とあります。この世にはいろんな記念碑がありますが、新しいエルサレムにおいて、自分の名前があるなら何と幸いでしょう。つまり、私たちはキリストにとどまることしなしでは、実を結ぶことができないのです。

 問題は「とどまる」とはどのようなことを指すのかであります。ギリシャ語ではメノウであり、「留まる、離れないでいる、滞在する、宿る」という意味があります。英語の聖書では、abideという言葉が使われており、「ずっと住み続ける」という意味があります。また、「枝が木であるキリストにとどまる」とは、生命的な意味があります。枝は木から離れては、生きていけません。枝が木にとどまることによって、たえず樹液というか、いのちが木から流れてくるからです。これはキリストに完全に依存している姿を現しています。この世で「依存」は子どものときに、許されることであり、大人になったら、精神的にも経済的にも自立するのが当たり前です。ハンディキャップのある人を除いては、自分で働いて、自活して生きなければなりません。アダムとエバは、最初は父なる神様に依存していました。ところが、善悪を知る木の実から食べてから、神様から独立して生きるようになりました。それまでは、神様に従うことが善であったのですが、堕落後は自分の魂で善悪を判断して生きるようになりました。それだけではなく、霊的な命が絶たれ、肉体も死ぬようになりました。今に至るまで、ほとんどの人たちは神様から独立して生きています。『天は自ら助ける者と助ける』というのは、聖書の教えとは違います。これは「天は、他人に頼らずにひとりで努力する者を助けて幸福を与える」という意味です。自助の精神は良いとしても、神様ぬきの努力は問題であります。『人事を尽くして天命を待つ』というのも、問題があります。どうして、神様と一緒に事を行おうとしないのでしょう。『あとは祈るしかない』という言い方もあります。祈りは最後の手段ではありません。最初に祈り、神様と一緒に行うべきです。このように、この世では、神様抜きの格言やことばがあふれています。私たちクリスチャンも、この世で生きてきたので、「神様、私がやることをどうか見守ってください」みたいに祈ります。キリストにとどまるということは、「キリストからすべての力と知恵と必要をいただく」いうことです。親や人に依存すると問題ですが、イエス様にいくら依存しても問題はありません。

 かなり前に、『土方のおやじ』という穐近牧師の本を読んだことがあります。穐近先生ご夫妻は戦後、アメリカから派遣された日本人宣教師です。ひばりが丘に自分で教会堂を建てました。しかも、地下2階、地上3階の鉄筋コンクリート製です。建築士一級を持っている息子さんに頼らず、自分で地下を掘り、「イエス様どこに柱を建てましょうか?」とイエス様に聞いて建てたというのですから驚きです。私も土木建築に5年携わったことがありますが、その当時のお写真を見て、まるで要塞のようであり、とても驚きました。かなり後ですが、新しい会堂を建てるとき、あまりにも頑丈過ぎで、壊すのが大変だったそうです。穐近先生は、幼子のようにイエス様に頼る信仰であり、その信仰がイエス福音教団の牧師たちにも行き渡りました。私はその団体が開く聖会に10数年参加しましたが、先生の弟子たちは神学校も行っていないのに、信仰にあふれ、恐れを知らない牧師たちばかりでした。幼子のように、イエス様に頼るということが、いかにすばらしいことか教えられました。

 救われたばかりのクリスチャンも、何十年たったクリスチャンであっても、イエス・キリストにとどまり、その方から力と助けを得るということは重要課題であります。ガラテヤ2:19,20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」パウロは自分自身にたよるのではなく、自分のうちに生きておられるキリストに頼ることが信仰だと言っています。私たちはキリストから独立して生きるのではなく、キリストが私の内から現れてくださるように、キリストと共に生きるのです。イエス様は私を通して働きたいと願っておられるのです。もちろん、あなたの知識や力や賜物も努力も必要です。でも、それらを全部含めて、イエス様が私と共に働いてくださるのです。

2.みことばにとどまる 

 イエス様はさらにこのように言われました。ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」さらに、ヨハネ15:10「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」これら2つの聖句を統合しますと、みことばとはイエス様のことばであり、それはまた、父の戒めでもあるということです。「でも、それは聖書のことばでしょう」と言うかもしれません。もちろん、聖書のことばなのですが、イエス様が、神様が私に語ってくださる生きたことばです。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」のであるとマタイ4章で言われました。聖書は神様の一般的なみこころを書いた書物です。私たちは聖書を読み、聖書を学ぶ必要があります。でも、神様が私に聖書を通して語りかけてくださいます。そのことばに私たちが留まるようにということなのです。なぜ、こんなことを言うのでしょう?当時、パリサイ人や律法学者たちは、だれよりも多く聖書を学んでいました。また、だれよりも、神様の戒めを守っていました。でも、彼らの行いは偽善的であり、宗教的でした。かたちだけで、命がなかったのです。私たちも聖書を学ぶことによって知的な理解を深めることができます。しかし、聖書を勉強することと、みことばにとどまることとは必ずしも同じではありません。どちらかと言うと、聖書を勉強するというのは、自分の理性が主であり、それに従うか、従わないかは自分次第だというニュアンスがあります。言い換えると、自分の理性に反することは従わないということです。一方、みことばにとどまるとは、神様の御声を聞いて、それに従うというということです。たとえ理性に反しても、自分の意思に反しても、みことばに従うということです。

 私も洗礼を受けてまもなく、「聖書を毎日読みましょう」と指導されました。あるときは、「毎日、旧約聖書を二章、新約聖書を一章読みましょう」と言われたこともあります。そうなると、義務的になり、味も素っ気もなくなります。その後、ディボーションを学び、ゆっくり時間をかけて聖書を読むということを行いました。そのときから、「聖書を、聞きながら読む」という習慣ができたように思います。つまり、「聖霊様、ここから私に何を教えているのですか?」と願いながら読むということです。人によって、読む量や、読む速度が違います。でも、そこから主が語っておられるみことばをいただくという姿勢はとても重要だと思います。近年「預言カフェ」なるものが流行り、預言の賜物を持っている人たちのところにクリスチャンがでかけます。そして、預言をその人からいただくわけです。私は、全部否定はしません。私も聖会に行って、何度も預言をいただいたことがあります。でも、気を付けなければならないのは、占いのように、預言を求めてはならないということです。神様はすでに、私たちに語っておられます。正しい預言は、私に神様が語っておられることの確認であります。大体は、私自身に語っておられたことを預言の賜物を通して語ってくれます。ですから、基本的には自分で聖書を読んで、自分で神様のお声を聞くということです。とても地味ではありますが、道を踏み外すことはありません。パウロは聖書のみことばがいかに私たちの信仰生活に重要か述べています。Ⅱテモテ3:16,17「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」私たちの信仰生活は、旅と似ています。ジョン・バニヤンの『天路歴程』はそのような書物です。主人公のキリスト者はつまずいたり、迷ったり、誘惑にあったりしながら、天のエルサレムを目指しています。彼は常に聖書を持ちながら旅を続けていました。聖書は、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。第一は「教え」です。どの道を行くべきか教えてくれます。第二は「叱責」です。道を踏み外したら、叱ってくれます。第三は「修正」です。脇道に逸れたら、正しい道に戻してくれます。第四は「指導」です。どのように歩んだら良いか指導してくれます。

 聖書のみことばは食べ物にたとえられています。信仰に入ったばかりの人は、ミルクや柔らかい食べ物が必要です。Ⅰペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」詩篇19篇には、みことばは純金よりも麗しく、蜂蜜よりも甘いと書いてあります。詩篇19:10「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」アーメン。へブル4章には、神のことばは両刃の剣よりも鋭いと書かれています。へブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」つまり、自分の考えが正しいかどうか、聖書のみことばで判別できるということです。また、パウロは神のことばは私たちが身に着けるべき、武具の一つであると言っています。エペソ6:17「御霊の剣、すなわち神のことばをとりなさい」とあります。イエス様が悪魔の誘惑に勝ったのは、聖書のみことばを引用したからです。自分の考えではなく、「聖書にこう書いてある」と言ったのです。キリスト教は聖書の宗教と言っても過言ではありません。「宗教」という言葉を使いたくないのですが、私たちの信仰と聖書を切り離すことはできません。なぜなら、聖書は神の御心を啓示している完全な書物だからです。

 私は職場のクリスチャンの先輩に、「世の中は進歩しているのに、そんな古い書物が役に立つのですか?」と言いました。先輩は「鈴木君、もしそれが真理であったなら、変える必要はないでしょう」と言いました。「なるのほどなー」と思いました。有名人の聖書観をお聞きください。「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである。」マルチン・ルター。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます。」ゲーテ。「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」ナポレオン。「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている。」リンカーン。

3.教会にとどまる  

 二箇所みことばを引用させていただきます。ヨハネ15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ヨハネ15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」イエス様はご自身にとどまるように命じながら、こんどは「互いに愛し合う」ように命じておられます。これはいいかえると、私たちはイエス様にとどまるだけではなく、クリスチャン同志が互いにつながり合う必要があるということです。考えてみれば、ぶどうの木につながっている枝は私個人だけではなく、他の兄弟姉妹も同じです。私たちはキリストのいのちを共有する有機体です。使徒パウロはそのことをキリストのからだなる教会につらなる器官として、Ⅰコリント12章で説明しています。ですから、私たちが霊的に成長するためにはキリストの教会にとどまる必要があるということです。教会というのは、単なる集まりではなく、キリストのいのちを共有している神の民ということができます。そして、教会の第一の命令は「互いに愛し合う」ということです。残念ながら、キリスト教会の歴史において、他のことを第一にしてきたので、混乱と争いが生じてしまいました。教義を優先したり、あるいは儀式を優先したり、あるいは教会という組織を優先してきました。現代において数えきれない教団教派があり、「互いに愛し合う」よりも、互いに競い合うライバル関係にあります。自分の教団あるいは、自分の教会を守るために、他の教会員と交わらないようにしています。間違った教義が入ると困るからです。残念ながら教義で一致することはありえません。なぜなら、私たちの知性や経験はみな違うし、限界があるからです。それよりも、キリストにあって「互いに愛し合う」という戒めを何よりも第一にすることが重要なのです。

 ところで、救いを受けたクリスチャンがどうして教会にとどまるべきなのか、いくつかのポイントをあげて説明させていただきます。ジョエル・オースティンは説教の最後に、入信の決断をせまる祈りをし、そのあと、「聖書を土台とする教会に属してください」と勧めています。そうです。救われたばかりのクリスチャンは、正しい聖書理解に基づいた教会に属さないと、せっかくの信仰がおかしくなります。しかし、何が正しくて何が正しくないのか、その基準も不確かなところがあります。あえて言うなら、聖書自体が持つ権威に従うということです。キリスト教は聖書の宗教(このことばは使いたくありませんが)だからです。エペソ2:19-21「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」パウロが言う「聖徒たち」あるいは「聖なる宮」というのは、教会のことです。そして、その教会は、キリストという要の石(礎石)の上に、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられているべきなのです。下から順番に言うと、礎石という岩板、その上に基礎、その上に建物が建っています。教会の基礎となるものが、使徒たちの教えと預言者たちのことばです。これはいいかえると、聖書ということができます。つまり、教会の教えは「使徒たちの教えや預言者たちのことばと矛盾していないか」ということが問われます。啓蒙主義の思想を受け、19世紀から、この考えを根本から覆す自由主義神学が台頭しました。20世紀には、新正統主義という自由主義と妥協した神学がほとんどの教会に影響を与えました。はっきり言って、私たちの理性にあうかどうかではなく、聖書が神の霊感によって書かれた神からの書物であることをそのまま受け取るべきなのです。解釈の幅はもちろんありますが、歴史的に培ってきた正統主義を尊重する必要があるということです。

 教会に属する必要性の二番目は、「互いに愛し合い」「互いに仕え合い」「互いに建て上げ合う」「互いに教え合う」ことを実行するためです。私たちが信じる神様は、三位一体の神様です。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合い1つになっています。その神様のかたちに、私たちは似せて造られました。だから、クリスチャンが孤立して信仰生活を送るというのは、神様の御心ではありません。教会は旧約聖書では、「カーハール」で、新約聖書では「エクレーシア」です。両者とも「神の民」という意味であり、個人ではありません。イエス様も主の祈りで、このように教えています。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」(マタイ6:9)。神様は「私たちの父」なのです。祝祷の前に「わが父よ」と賛美しますが、本当は「私たちの父よ」と賛美すべきなのです。音符にはまらないので、仕方なくそうしています。残念ながら、西暦313年コンスタン・ティヌスがキリスト教をローマの国教にしてから、教会を制度や組織にしてしまいました。聖職者が教会を占有し、「互いに仕え合う」「互いに教え合う」ことを禁じました。ルターの宗教改革で「万人祭司制」が神学的には回復しましたが、実際は中世のなごりが残っています。教会は建物や制度や組織ではなく、父なる神を仰ぐ、キリストによって贖われた民のことです。私たちクリスチャン自身が教会なのです。では、「だれがこの教会を指導するのですか」と疑問が生じてきます。マタイ16章でイエス様ご自身が「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」とおっしゃいました。イエス様がこの教会のかしらなのです。さらには、パウロはこのように述べています。エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」使徒、預言者、伝道者、牧師、教師は五職と呼ばれ、キリストご自身が与えた賜物です。聖霊の賜物はⅠコリント12章やローマ12章に記されていますが、エペソ4章はキリストの賜物です。教会のかしらなるキリストがご自身の教会を建てるように、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を任命してくださるということです。

クリスチャンが洗礼を受けて成長するためには3つのものにとどまる必要があります。第一はキリストにとどまる、第二はみことばにとどまる、第三は教会にとどまるということです。そうすれば、イエス様からいのちが流れ込み、健全に成長することができます。