2024.11.24「天国のコネクション ルカ16:8-9」

 教会のすぐ近くに住んでいる人たちがいます。また、毎朝、登校の途中に教会を通過する学生たちがいます。彼らの多くは「宗教は怖い、宗教とは関わりたくない」と見て見ぬふりをしているのではないかと思います。教会は神の大使館であり、手続きをすると天国への入国手続きをしてくれます。イエス様がマタイ16章で「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます」と言われました。それはペテロだけではなく、キリスト教会に与えられた権威であると信じます。でも、多くの人たちはキリスト教会に対して無関心であり、とても悲しいです。

1.無関心の罪

キリスト教会では、信仰を持っていない人たちを「未信者」と呼びます。文字から判断すると、「未だ信じてない人たち」という希望的観測があります。しかし、聖書には「不信者」ということばはありますが、「未信者」ということばはありません。積極的な意味では「私は神を信じない、頼ることもしない」と固く思っている人です。一方、消極的な意味では「私はそのようなものに関わりあいたくありません」と無関心を装っている人です。ルカ16章の後半には、神様に無関心だった人の結末が記されています。多くの人たちは、「人間は死んだら無になる。死後の世界なんてないんだ」と考えているでしょう。でも、神の啓示である聖書は何と言っているのでしょうか?ルカ16:19-24ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』イエス様が死後の世界のことを教えていますが、実際にそういう人がいたのか、たとえ話なのかは分かりません。でも、「人間は死んだら無になる。死後の世界などない」という考えをまっこうから否定しています。

金持ちは死んだのち、自分がよみにいることが分かりました。聖書は肉体が死ぬことを「眠る」と言いますが、魂は眠ることなく常に目覚めています。彼は見ることができ、感じることができました。彼は「この炎の中で苦しくてたまりません」と叫んでいます。ラザロやアブラハムのことを覚えていますので記憶もあります。また、「自分の兄弟たちがここに来ることないようにラザロを送ってください」と願っていますので、意思や願望もあります。よみでないのは何でしょう?「希望」です。伝道者の書によみのことが記されています。伝道9:10「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」多くの人たちは、この地上において、「頼れるのは自分だけだ。私は神仏には頼らない」と生きているでしょう。それはそれで結構です。その人の自由ですから。でも、よみに行ったら、そういうものは全く役にたたないということです。この金持ちは自分の思い通りに生き、何不自由なく暮らしていたでしょう。門前のラザロに「〇〇しろ」と何か命じたことがあるのかもしれません。だから、よみにおいて、ラザロを送って水一滴でも私の舌を冷やしてください」とアブラハムにお願いしています。さらには、「兄弟たちがここに来ないように、ラザロを送ってください」とも願っています。地上では富を持っていたので、偉そうにふるまっていましたが、よみではまったく富も権力も役にたちませんでした。「いや、いや、私はよみなんか信じない。そんなの作り話だ」と否定する人がいます。その代わり「あの人は天国に行ったんだ」と安易ななぐさめを与える人もいます。両者とも間違っています。よみは存在し、キリストを信じていない人は間違いなくよみに行きます。「そんなに断言して良いのですか?」と言うでしょう。でも、聖書がそう語っているので、「信じる、信じないは」お任せします。最後は、ご自分で確かめる他はないと思います。でも、気づいた時には手遅れかもしれません。

インドネシアでは死んだ人の顔を作ってあげる職業があるそうです。クリスチャンの場合は、まったく手を加える必要がないそうです。なぜなら、「平安そのもの」という顔をしているからです。一方、信仰なしで死んだ人の顔は苦しみと絶望のためか、とてもゆがんでいるそうです。彼らはあごとか、顔の筋肉を調整して、なんとか形整するのであります。世界各国に「臨死体験」の記録があります。ある人たちは、「ああ花園が見える」とか言います。しかし、多くの人たちは、「暗い」とか「落ちる、落ちる」と叫びます。両者ともその人の体験なので、客観的な事実とは言えないかもしれません。しかし、多くの場合、クリスチャンは「ハレルヤ!」とか「感謝します」と主にゆだねきって召されるようです。ラザロの場合は天使たちがアブラハムのところに運んでいます。一方、金持ちは盛大なお葬式はしたかもしれませんが、「死んで葬られた」としか書かれていません。ある聖画を見たら、黒い天使が彼をさかさにして、両足首をつかんで背負っていました。彼は鬼っ子たちのところに連れていかれ、しばられたり叩かれたりしています。よみは地獄ではありませんが、火炎がそこまで近づいており、とても熱いようです。昔、中国セルの姉妹のお母さんが信仰をもって召されました。姉妹はお母さんの枕元に白い衣を着た人が座っていたと言いました。2年後姉妹のお父さんが信仰を持たずに死にました。姉妹はお父さんの枕元に黒い衣を着た人が座っていたと言いました。葬儀のときそのことを聞いて、「どうして私に知らせてくれなかったのですか?伝道したのに!」と言いました。

では、この金持ちは何か悪いことをしたので、よみに行ったのでしょうか?一方、ラザロは何か良いことをしたのでアブラハムのふところ、今でいうとパラダイスに上ることができたのでしょうか?ルカ16:19-21「ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。」その金持ちはいわば、上流社会の人でした。なぜなら、「紫の衣や柔らかい亜麻布」は一般庶民ではなく、貴族か王族が着るものであります。彼は「毎日ぜいたくには遊び暮らしていた」とあります。彼は神を礼拝するため宮や会堂に行ったとは書かれていません。神様に対しては全く無関心であったということです。さらには、門前で腹をすかしている貧乏人には目もくれませんでした。彼の隣人のリストの中には、ラザロは含まれていませんでした。しかし、不思議なことに、聖書にラザロという名前が記されています。一方、金持ちの場合は、名前が記されていません。ということは何を暗示しているのでしょうか?金持ちは、神様にも、貧しい人にも無関心であったので、名前が覚えられていなかったということです。一方、ラザロは貧しいながらも、神様から名前を覚えられていました。おそらく彼は、神様と関係をもち礼拝していたのでしょう。両者の死後の世界は全く違っていました。天と地の違いというのは、このことでしょう。金持ちは、神様の関心の及ばないところよみに落とされました。熱くてのどが渇いて、せめて舌先だけでも冷やしてほしいと願いましたが聞き届けられませんでした。一方、貧乏人のラザロはアブラハムの懐で慰めを受けていました。今でいうと、パラダイスにいたということです。無関心はさほど大きな罪でないように思えますが、意外にそうではないということです。

聖書で無関心な人の典型は、イエス様の裁判を行ったピラトでしょう。イエス様は彼に「真理に属する者はみな、私の声に聞き従います」と言いました。するとピラトは「真理とは何なのか?」とはぐらかしました。ピラトの妻はどうだったでしょう?彼女は「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢で大変苦しい目にあいましたから」(マタイ27:19)と言いました。結局、ピラトはユダヤ人たちの前に立ち、手を洗って「この人の血については私には責任がない。お前たちで始末するがよい」と言いました。つまり、ピラトは最後までイエス様とは関わろうとしなかったのです。ピラトは真理なるお方を目の前に見たのに、彼には罪がないのに、彼が王だというのに、最後まで無関心を装ったのです。ピラトのその後は、ユダヤを治めきれず、皇帝によってガリアに流され、そこで自殺したと伝えられています。それはともかく、せっかく目の前に真理なるお方がいたのに、救いを求めようとしなかったのはまことに残念なことです。この世において信仰を邪魔するものは、立場やプライド、世間体でしょうか?日本では「さわらぬ神にたたりなし」ということわざがありますが、イエス・キリストに対してもそうなのでしょうか?願わくは、そのような偏見や悪魔の惑わしを乗り越えて、主を求める者でありたいと思います。ダビデはこのように祈っています。詩篇30:2-3「わが神【主】よ、私が叫び求めるとあなたは私を癒やしてくださいました。【主】よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。」十字架の犯罪人の一人が「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出して下さい」と言いました。イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と言われました。

2.天国のコネクション

同じルカによる福音書16章に「不正な管理人のたとえ」が記されています。前半は神様の救いに対して全く無関心な人たちのことをお話しました。後半は神様の救いを、手段を選ばずに求めた人のことをお話したいと思います。彼はある金持ちの管理人でしたが、不正を働いて、主人の財産を隠匿しているのがバレて、クビになりそうでした。「どうしよう。土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。そこで、悪知恵が浮かびました。ルカ16:4「分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。」と言って、負債者たちを呼んで証文を書き換えさせました。油百バテを50バテ、小麦百コルを80に書き換えさせました。これまでも、主人の財産を浪費してきたのに、さらにダメージを与えるとんでもない行為です。自己保身のため罪を重ねている管理人に対し、主人は何と言ったでしょう?ルカ16,8,9主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」このたとえは、道徳的にも律法に照らし合わせても、罪の行いです。でも、主人は彼がしたことをむしろほめています。たとえの解釈の原則は、中心的な意味は1つだということです。イエス様は1つのことを教えるために、不正な管理人のたとえをお話されたのです。では、このたとえの中心とは何でしょう?それは「備える」ということです。不正な管理人はこれまで取引していた業者に貸しを作り、クビになっても再就職できるようにコネを作ったのであります。彼は光の子らよりも賢い人でした。では、このたとえの中心的な教えとは何なのでしょう?それは9節の「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」ということです。一方は辞めさせられたあとの再就職先、もう一方は死んだあと永遠の住まいに迎えられるためのコネクション作りです。

このところで理解しにくいことばは「不正な富」です。不正な富は、原文ではマモナースであり、「財宝、富、人の全所有物」という意味です。決して、「不正」という意味は含まれていません。しかし、マモナースは擬人化されており、「主人」になりえるということです。つまり、お金が自分の主人になり、自分が奴隷になる可能性があるということです。この世の富、マモナースにはそのような悪の力があるということです。しかし、この不正な管理人は、マモナースをうまく使い、再就職の備えをしました。そのことは、私たちが持っている、あらゆるマモナースを使って、永遠の住まいに迎えられるように備えをせよということなのです。ある程度、手段は選ばなくて良いから、知恵を働かせて賢くふるまいなさいということです。さきほどの、無関心な人とは全く違います。この人は永遠の住まいのありがたさを知っている人です。自分が死んだあと、なんとか天国に迎えられるように備える人です。このような人をイエスさまは「賢い行いだ」とほめてくださるのです。極端な話になりますが、天国、永遠の住まいに入ることほど、かけがえのないものはありません。「死後の世界はない。死んだら無になるんだ」と考えている人は、それで良いかもしれません。でも、死後はよみに行くのか、それともパラダイスである天国に行くのか、2つに1つだと分かったならどうするでしょう?ぜがひでも、どんな犠牲を払ってでも、天国に行きたいと願うでしょう?残念ながら、近年は、天国は安売りされています。昔は、地獄ではなく極楽に行くことが最高の希望でした。しかし、西洋からキリスト教の教えが入って来て、天国ということが良く言われるようになりました。本当はよみに行ったのですが、人々は「天国に行ったんだから」と慰めます。それはサタンのウソです。真っ赤なウソです。すべての人が天国に行けるのではありません。イエス・キリストを信じた人だけが、天国に行くことができます。もし、だれでも自動的に天国に行けるのであれば、ありがたい救いではなくなります。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」言われました。ペテロも「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言いました。

では、私たちは何を差し出して、天国のコネクションを持つことができるのでしょうか?それはマモナースです。考えてみたら、私たち自身が所有しているものは1つもなく、すべてが神様から預けられたものです。私たちすべては神様が与えてくれたマモナースの管理人です。それはキリストを信じている人も、信じていない人もそうです。マモナースは、金銭や財産が第一の意味ですが、私たちの健康、時間、賜物、能力、機会なども含まれます。前のポイントのある金持ちはどうだったのでしょうか?彼は、紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。金銭と財産と時間を神様と関係を作るために用いませんでした。ただ自分が楽しく暮らせばよいと贅沢三昧の生活をしていました。さらには、門前のラザロのことにも無関心で、何もあげようとしませんでした。天国への投資が全くゼロでありました。だから、神様から名前すら憶えられていませんでした。一方、貧乏人のラザロは、「父アブラハム様」とかイスラエルの神の名を呼んで、救いを求めながら生きていました。何もないので、ただ、神様に頼るしかありませんでした。自分の時間と存在を投資していました。だから、死んだあとアブラハムの懐、今でいうパラダイスに迎えられたのです。なぜ、「今でいう」というかというと、イエス様が復活してから、よみの一部が引き上げられ、パラダイスになったからです。パラダイス、つまり天国はイエスさまが復活後作ってくださった、安息の場所です。この先に来る、千年王国と新天新地への待合室なのです。でも、単なる待合室ではなく、神様の臨在と恵みがあふれているところです。そういうわけで、自分が任されている富や財産、時間や賜物をささげて、神様とコネクションを持つということは欠くことのできない、必須の課題なのであります。あなたは、やがて来る死後の世界のために、神様と友達関係を作っておられるでしょうか?

さて、ここからがメッセージですが、2つあります。第一は、天国に入る備えをせよということです。これは自分が生きているうちに、キリストを信じて神様とコネクションを持てということです。この世の多くの人たちは、死後のことには無関心です。人間は死んだら無になるという唯物論を信じています。あるいは、「家の宗教」ということで日本古来の宗教に囚われています。そこから抜け出して、「まことの神様に出会い、キリストを信じて、永遠の御国に入りたい」と願う人は本当にまれです。イエス様はマタイ7章で「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」と言われました。日本においてキリストを信じるためには、世間体も人間関係も後回しにする必要があります。ある人は職業も結婚も棒に振ることになるでしょう。片腕を失ったり、片目を失うこともあるかもしれません。全身そろって、ゲヘナに落とされるよりはましです。また、マタイ13章では「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」と言われました。彼は自分が持っているすべてを売り払って、その宝を畑ごと買いました。彼はその土地の所有者でなかったのですが、宝を得るために、畑全部を買ったのです。まさしく、彼はマモナースを使い尽くして、永遠の住まいを手に入れようとしたのです。私たちはあらゆるものを犠牲にしても、天の御国を得る、神様とのコネクションを持つ必要があります。

第二は天国への投資です。ルカ16章の金持ちは毎日贅沢三昧に暮らし、天国に投資することはありませんでした。イエス様はマタイ25章で「最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」と言われました。つまり、神様の報いが受けられるということです。イエス様はマタイ6章で「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。」と言われました。献金や施しは、天に宝を蓄えることになり、やがてそれが自分のものになるということです。多くのクリスチャンは天国は平等であると勘違いしています。天国はまず、御国と言われる千年王国があります。そのあと、新しい天と新しい地に永遠に住まうことになります。千年王国は報われる場所であり、この地上でいかに忠実であったによって程度が違ってきます。私たちはさまざまなマモナースを神様から預かっています。イエス様は「あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか」と言われました。ですから、私たちが預かっている金銭や財産、賜物、健康、時間、機会に対して忠実に管理する必要があります。そのことが、やがて来る御国において多くのものを任せられることになるからです。私たちが神様のために、教会のために、小さな者たちのためにささげるのは、いわば投資であります。御国への投資は間違いありません。この世には詐欺師がいっぱいおり、儲け話を持ってきて人をだまします。でも、私たちは永遠を見据え、真実な神様もとで与えられたものを忠実に管理するのです。