エペソ1章を見ますと「ほめたたえる」という言い方が3回出てきます。その言い方がされている前には3つのことが言われています。神の選び、キリストの贖い、聖霊の証印です。私たちが救いを得るためには、三位一体の神さまが参与しておられるということです。言い換えると、私たちが救いを得るために神の選び、キリストの贖い、聖霊の証印があるということです。パウロは私たちがこのように救われることをほめたたえていますが、救いに関する3つのことを今から学びたいと思います。
1.神の選び
エペソ1:6「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」とあります。「それは」と言っていますの、その前に、ほめたたえられる理由があるということです。エペソ1:4-5「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」このところには、神の選びが記されています。良く見ると、「世界の基が据えられる前から」とありますので、この世界が創造される前から選ばれていたということです。神さまは、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」ということです。ジョン・カルバンは、神の選びを強調した宗教改革者です。同時にカルバンは「はじめから選ばれていない人もいる。遺棄されている人もいる」という二重予定説を立てました。それに対して、アルミニウスが人間の自由意志を強調しました。つまり、自分がキリストを信じたから、救われたのだということです。これらの2つの考えは今でも綱引きのように、右か左か揺れ動いています。神の選びを強調するグループはあまり伝道しません。なぜなら、選ばれているなら、いつか信じるだろうと思っています。一方、人間の自由意志を強調するグループは、なんとかこの人がキリストを信じるように、強く迫るでしょう。もちろん、人がキリストを信じるためには聖霊の助けが必要です。でも、何よりも先に神の選びがなければ、キリストを信じるに至らないということも確かです。なぜなら、神の選びというのは、神さまからの招きだからです。人は神さまから招かれてはじめて、応ずることができるのではないでしょうか?
ローマ9章から11章まで、神の選びが書かれています。創世記には兄エサウと弟ヤコブのことが記されています。まだ子どもたちが生まれていないのに、「兄が弟に仕える」と預言されています。さらに、「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とマラキ1章に記されています。文句を言う人に対して、パウロは「私はあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」という出エジプト記のことばを引用しました。これだけを見ると、「神さまは冷酷なお方だなー」と思うかもしれません。しかし、神さまはエサウがどのような人になるのか、予めご存じだったのです。ヘブル12章にそのことが記されています。ヘブル12:16,17「また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」エサウは長子の権利が与えられていましたが、それを軽んじてしまったのです。そのことによって、彼は「淫らな者、俗悪な者」であることが証明されたのです。神さまは永遠なるお方であり、時間に左右されないお方です。ですから、神さまにとって過去も未来もありません。すべてが現在のことであるかのように見えるのです。イエス様が弟子たち「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネ15:16)」とおっしゃられました。このことは私たちにも言えることです。イエス様を信じた頃は、「私が信じたんだ」と思うかもしれません。もちろん、信じるというのは1つの決断ですから、だれから勧められたとしても、最終的には自分が決心したのです。それは、そのとおりです。でも、だんだん信仰生活を送って行くと、「ああ、私は神さまから選ばれていたんだなー」と分かって来ます。その理由は、自分のまわりに同じ福音を聞いても、信じない人たちがたくさんいるからです。もし、自分が神さまから選ばれていることが分かるなら、その人の信仰は安定します。この先、何があっても大丈夫、神さまから自分は捕えられているという安心感があります。
でも、神の選びは永遠に固定した選びではありません。エペソ1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」このところに「この方にあって私たちを選び」と書かれています。「この方」とはだれでしょう?エペソ1:5「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」そうです、神さまは「イエス・キリストにあって私たちを選び」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」のです。そのことが分かると、キリストにあって選びの幅がぐーんと広がっているとは思えないでしょうか?イエス様はいちじく桑の木の上に隠れているザアカイを見つけました。そして「ザアカイ、急いで降りて来なさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。ザアカイはさぞ、びっくりしたでしょう?「イエス様が自分の名前を知っておられるとは?」、「しかも、私の家に泊まることにしているとは?一体どういうことなんだろう?」イエス様が選んだなら、父なる神さまはそれを否定することができません。神の選びの問題は、私たちの有限な知性で理解することは全く不可能です。でも、自分が信じてやったという信仰は、自分の意思が頼りなので不安定です。でも、神さまが、キリストにあって私を選んでくださったという信仰があるなら、この先、どんなことがあっても大丈夫です。エペソ1:6「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」私たちはキリストにあって選ばれた存在です。
2.キリストの贖い
エペソ1:12「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」二回目の「ほめたたえる」ですが、その前にほめたたえるべき理由があるということです。7節から11節までは、キリストの贖いについて記されています。エペソ1:7「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」この1節にキリストの福音が凝縮されています。なぜ「キリストの血」が贖いに必要なのでしょうか?旧約聖書では人が罪を犯したなら、きよい動物を身代わりに献げる必要がありました。祭司は動物をほふり、血を祭壇に注ぎました。そのことによって、その人が犯した罪が赦されるのです。でも、どうして血なのかというと、レビ記17:11「実に、肉のいのちは血の中にある。…いのちとして宥め(なだめ)を行うのは血である」と書かれています。血というのは命なのだということです。血を注ぐとは、命を差し出すということです。「宥める」はヘブル語では「カーファル」ですが、「覆う、赦す、あがなう、罪などを償う」という意味があります。つまり、罪はただでは赦されないということです。自分の身代わりに動物の血を注ぐ必要があったということです。まさしく、そのことはイエス様が十字架で血を流されたことと同じです。イエス様の死は殉教の死ではなく、私たちの罪の贖うための死だったのです。父なる神さまはイエス様の血をご覧になって、私たちの罪を赦してくださるのです。しかし、問題になるのは、「イエス様が流された血が全人類のためであったか」ということです。ジョン・カルバンは選ばれた者たちのためであり、それは限定的であったと言います。確かに聖書には「私たちの罪のために」と二人称で書かれています。「彼ら」とか「彼女ら」という三人称では書かれていません。贖いを受けた人たち自身が「キリストは私たちの罪のために死なれた」と言うのです。
エペソ1章には、その答えを導き出しているかもしれません。エペソ1:7「このキリストにあって、私たちはその血による贖い」とありますが、贖いはギリシャ語でアポリュートシスですが、「身代金を払って奴隷を自由にしてやる」「キリストの死を代価とする罪よりの贖い」という意味があります。「アポ」は接頭語で「分離」あるいは「完了・完成」を意味します。「リュートシス」だけでも、「身請け」や「贖い」という意味がありますが、「アポ」を付けることによって、贖いが完了している、あるいは奴隷から自由になっているイメージがあります。つまり、アポリュートシスは、キリストの贖いを受けて、奴隷市場から出た人のことを言うのではないかと思います。では、もう一箇所開きたいと思います。Ⅱコリント5章にそのことを示唆する箇所があります。パウロは、Ⅱコリント5:15「キリストはすべての人のために死なれました」と言っています。それは言い換えると、「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させた」(Ⅱコリント5:19)ということです。でも、それは神から人への和解であり、まだ完成していません。だから、パウロは「キリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい」と言っています。つまり、私たちがキリストによってなされた和解を受け取るなら、本当の和解が成立するということです。総合的に申しますと、キリストは全ての人の罪のために代価を支払ってくださいました。そのことによって神さまが罪人に対する態度を変えたのです。ご自分の怒りをひっこめられ、キリストを信じる者の罪を赦し、ご自身の義を与えると約束されたのです。
そういう訳で、私たちはイエス・キリストを信じるときに、罪赦され、救いをいただくことができます。だからと言って、私たちの功績にはなりません。パウロは「これは神の豊かな恵みによることです」と言っています。つまり、神さまが救いの手立てを全部、完成してくださったのです。あとは、その救いを受け取るだけで良いのです。ですから、私たちは誇ることはできません。エペソ1:8「この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」「奥義」というのは、ミステリーであり、秘儀です。簡単には分からないということです。私は「聖書からイエス・キリストが十字架で死んで、血を流されたことが私たちの救いの根拠です」と言えます。しかし、初めから分かっていたわけではありません。正直、私はそのことを知らないで、主イエス・キリストを心にお迎えしました。それで、回心したわけです。後からキリストの十字架が救われるための根拠だったと知りました。「なぜ、2000年も前に、極刑の十字架で死んだお方が、私と関係があるのだ思いました」。頭では全く分かりませんでしたが、何かワープしたような感じでした。たぶん、いくら知的に説明しても分からないのではないかと思います。だから、奥義、ミステリーなのです。
おそらく、父なる神さまによって選ばれた人に、聖霊が働いて奥義の箱をパカーッと開けてくださったのではないかと思います。これをキリスト教用語では「啓示」と言います。自分から研究して分かったというのではなく、あちらから開示してくださったというのが正しいと思います。聖歌450番に「何ゆえみ神は」という賛美があります。3節に「何ゆえ、主イエスを救い主と信じ、救われしか知るをえねど、わがより頼む主は、ゆだねたる身とたまを、守りえたもうと、確信するなり」とあります。英語の賛美を直訳しました。1節「私は、神の不思議な恵みの理由がわかりません」3節「私は、聖霊が人に罪を悟らせ、みことばを通して、イエスを明らかにし、彼の信仰を創造することが分かりません。しかし、私は私が誰を信じているかは知っています…」と続きます。全部分からなくても、私のために十字架で死んで、三日目によみがえられた方にゆだねるということです。信仰にはこのお方にゆだねる(任せる)というという決定的な要素があります。全部分かったなら信仰はいりません。全部分からなくても、「このお方だったらきっと大丈夫」と身を任せてみて、「あ、本当だった」と分かるのです。私は信じてから分かりました。ここにお集まりのクリスチャンの皆さんも、おそらく同じではないでしょうか?どうぞ、また信じていらっしゃらない方は、試しに信じてみてください。信じたら分かる世界だからです。
3.聖霊の証印
エペソ1:13,14「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」3つ目の「ほめたたえる」は聖霊に関することです。このところに、福音を聞いてそれを信じた人に対する聖霊の働きが2つ記されています。第一は「証印を押す」ということです。原文のギリシャ語は「封印する」です。穀物袋にその内容を確認して渡すばかりにして封印するのにこの語を用いました。また、認証や保証のために印を捺すという意味もあります。英語ではsealedとなっています。昔、王様がだれかに手紙を送るとき、その手紙を丸めてそこを紐(ひも)で結びます。その結び目にろうそくの蝋を垂らし、自分の指輪の印を捺しつけるということです。それは王が封印したという権威しるしです。だれかが配達するのでしょうが、本人の手許に届くまではだれも開けることができません。もし、勝手に開けたら、死刑に処せられるでしょう。同じように、私たちもイエス様を信じたら、聖霊によって封印されていますので、天国に行くまでだれもその命を奪うことができないのです。かなり前に、千葉県の稲毛浜海浜プールにCSの子どもたちを連れて行ったことがあります。そのプールは海に面しており、プールから海岸にも行くことができます。しかし、そこにはゲートがあり、係員が立っています。そこを通るとき、手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬、ヒヤッとしますが肉眼では見えません。ところが、海岸から帰ってくるとき、係員が手の甲にブラックライトと当てます。すると、スタンプがくっきりと見えるではありませんか。私たちはだれが救われているのか分かりません。しかし、天使は聖霊の証印を見分けることができるのではないかと思います。
もう1つは「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」と書いてあります。保証はギリシャ語でアラボーンと言って「手付金」という意味です。つまり、聖霊が救いの手付金として与えられるということです。私たちは救いのために何も払っていません。本来なら、私たちの方が手付金を払うべきでしょう。ところが、神さまの方から、「良く信じましたね。私の許に来るまでこれをもって生活しなさい」と聖霊を与えて下さるということです。土地とか建物など、高価なものを購入するときは、1割くらいの手付金を払います。すると、その土地とか建物を持ち主は他の人に売ることができません。ある時がきたとき、残りの金額を払います。そうれば品物が全部はいるということです。ですから、私たちは聖霊が与えられることを軽んじてはいけません。聖霊を持っていれば、完全な救いを後でいただけるからです。だれでも、キリストを信じた瞬間、聖霊がその人の中に住まいます。ローマ8:9 「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」言い換えると、キリストを信じていて、キリストの御霊、つまり聖霊を持っていない人は一人もいないということです。このことは2,000前、ペンテコステの日から実現可能になったのです。
ウィットネスリー著『神の永遠のご計画』という本にこのようなことが書かれていました。もし、あなたがスイカを買うとしたら、あなたの目的はこのスイカを食べて消化することにあります。言い換えれば、あなたはこのスイカをあなたのうちに摂取しようとしています。どのようにしてこの事がなされるのでしょうか?まず初めにスイカをまるごと買います。次にそれを薄く切り分けます。それから三番目にこのスイカが胃に入る前に、それがジュースになるまでかみます。順序は、スイカ、切られたもの、そして最後にジュースです。これら三つは異なるものでしょうか、それともただ1つのものでしょうか?これは三一の神の最も良い説明であると思います。ほとんどのスイカは、あなたの胃よりも大きいものです。あなたの口がそんなに小さく、のどがそんなにほっそりしているのに、どのようにして大きなスイカを飲み込むことができるでしょうか?あなたが食べるのに適当な大きさになるまで、それは切り分けらればなりません。それから、いったんそれが食べられたら、それはジュースになります。切り分けられたものはスイカではないでしょうか?ジュースはスイカではないでのでしょうか?もし私たちがそれらはスイカではないと言うなら、私たちは極めて無知な者であるに違いないのです。御父はまることのスイカによって例証され、御子は切り分けられたスイカによって、最後にその霊はジュースによって例証されています。さて要点がおわかりになったでしょう。すなわち、御父は御父であるばかりか御子でもあります。また御子は御子であるばかりかその霊でもあります。言い換えれば、このスイカは食べるために切り分けられたものであり、私たちの内側ではジュースでもあります。食べられると、そのスイカは見えなくなります。初めは、スイカはテーブルの上にありました。しかしそれが食べられると、そのスイカは見えなくなります。初めは、スイカはテーブルの上にありました。しかし、それが食べられると、そのスイカは家族全員の中にあるのです。
ウィットネスリーが言わんとしていることは、神さまの永遠の計画とは、私たちの中にご自身を分け与えることであったということです。父なる神はあらゆるものの宇宙的な源です。神は見えない方で、また近づきがたい方です。では、どのようにして私たちの中に住むことができるでしょうか?どのようにして私たちは見えない父を見ることができるでしょうか?しかし、神の神聖な按配により、神はご自身を人に得させるために、御子イエスの中にご自身を入れられました。御父は、あらゆるものの無尽蔵の源として、御子イエスの中に具体化されています。御子イエスは受肉しましたが、そのことによって神を人の中にもたらしました。キリストの中には、神だけでなく人もいます。御子イエスは人間の生活し、死を経験しました。しかし、死からよみがえり、昇天されました。最後の段階はキリストが父のみもとから、聖霊を私たちの内に送り込むことです。聖霊とは何でしょう?父なる神は霊であり、キリストも霊です。神さまの永遠の計画は、神ご自身とキリストを合わせながら、聖霊として私たちの中に入り、住むことだったのです。キリストを信じているなら、聖霊によって三位一体の神さまがあなたの中に住んでおられるのです。