2023.5.7「荒野にて Ⅰコリント10:1-13」

試練と誘惑は、ギリシャ語ではどちらも「ペイラスモス」という言葉です。ですから、一方では試練、他方では誘惑と訳すことも可能です。Ⅰコリント10章13節は日本語では「試練」ですが、英語の聖書では、すべてtemptatiom「誘惑」と訳されています。つまり、試練と誘惑は紙一重であるということです。きょうは「試練」ということばに統一しますが、これは同時に誘惑でもあるということを覚えて下さいますようお願いします。

1.試練に敗れる道

 ポイントが分かりにくいと思いますが、イスラエルは敗れる道を歩んでしまいました。Ⅰコリント10:11,12「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」イスラエルの失敗は、私たちにとっての教訓であるということです。「私は大丈夫」という人は、「倒れないように気をつけなさい」とパウロは忠告しています。イスラエルの民はモーセによってエジプトを脱出することができました。そのとき彼らはすばらしい奇蹟を体験しました。海を渡り、天よりの食物、マナを食べました。荒野であっても岩から水が出てそれを飲むことができました。Ⅰコリント10:5「しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」その原因は何でしょうか?そのことは、民数記13章と14章に記されています。彼らは約束の地を目の前にしながら、不信仰に陥り、攻め上ることを断念しました。民たちは泣きながら「われわれはエジプトの地で死んでいたら良かった。あるいは、この荒野で死んでいたら良かった」と言いました。そのため、主はどのようにおっしゃったでしょうか?民数記14:22「わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。」と言われました。その結果、彼らは荒野を40年さまようことになります。カレブとヨシュアの二人を除いた、20歳以上の者たちは、荒野で屍をさらすことになりました。民数記はイスラエルの民が荒野で40年間、どのような生活をしたのか記されている書物です。

 ところで「民数記」はヘブル語の聖書では「ベ・ミドバル」と言います。ミドバルは荒野という意味であり、ベ・ミドバルは「荒野にて」という意味になります。つまり、民数記はイスラエルの民が「荒野でどのような試練(誘惑)」にあったかということが記されてる書物です。このことは私たちにとっても同じことであり、私たちもこの世という荒野を通過して、カナンである御国に旅をしている者たちです。ですから、私たちも彼らと同じような誘惑を受けるということです。彼らは荒野において様々な試練にあいましたが、どう対処をしたのでしょうか?彼らは罪を犯し、ことごとく失敗しましたが、それが私たちへの教訓になるということです。それでは、彼らがどのような試練にあい、どのように反応し、どのような裁きを受けたのか典型的なものを取り上げたいと思います。

 6節には「むさぼり」の罪があげられています。ある者たちは「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ」と大声で泣きました(民数記11:4-6)。もうマナにあきてしまったのです。7節には「偶像礼拝」の罪があげられています。イスラエルの民が、モーセを通して十戒を与えられた、まさにその時に、偶像礼拝に陥りました。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。それだけではありません。イスラエルの民がシティムにとどまっていたとき、民がモアブ部の娘たちと淫らなことを始めました。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に招くと、民は食し、娘たちの神々を拝みました。主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、1日に23,000人が倒れて死にました。9節には「主を試みる」罪があげられています。イスラエルがエドム人の攻撃を避けて迂回しなければならなかった時のことです。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」とモーセに逆らって言いました。そこで主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死にました(民数記21:4-6)。10節は「指導者に対する不平(つぶやき)」の罪があげられています。ミリアムとアロンは、「なぜ主はモーセとだけ話されたのか?」とつぶやきました。主の怒りが彼らの向かって燃え上がり、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒されてしまいました(民数記12:2-10)。さらに、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言いました。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くしました(民数記11:1)。

 私たちはこれらのところから共通点したサイクルを見ることができます。イスラエルの民は荒野を行進していました。そこにいろんな試練が彼らを襲います。暑くて水がない、同じ食べ物ばかりだ。自分たちを導くリーダーへの不満、異教徒たちからの誘惑があります。試練と言うのは、同時に誘惑でもあります。試練にどう立ち向かうか、神さまから試されているのだと気付けば幸いですが、そんなことを考えるゆとりがありません。それよりも、肉によって反応するので、悪い行いが出てきます。むさぼり、偶像礼拝、主を試みること、指導者への不満などの罪です。ここに偶像礼拝があげられていますが、それはまことの神ではなく、自分の願いを叶えてくれる偶像の神を求めることです。その結果、主からの厳しいさばきがくだり、滅ぼされます。このまま彼らは荒野で40年間も過ごし、屍をさらして滅びてしまいます。約束の地に入るのは、カレブとヨシュア、そしてその当時、20歳以下だった人たちと荒野で誕生した子供たちだけです。「民数記」と言うのは、その名のとおり民の人数を数えるという意味です。荒野を行進したときの各部族の人数、そして40年後、約束の地に入る直前の各部族の人数と2回記されています。

 さて、このところに希望があるのでしょうか?Ⅰコリント10:1-4「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」イスラエルは、昼は雲の柱、夜は火の柱で守られました。それらは主の臨在のしるしです。紅海が二つに分かれ、海の底を歩いて渡ることができました。エジプト脱出の際、すばらしい奇蹟を体験したはずです。このところには使徒パウロの解釈が入っています。何と、彼らがバプテスマを受けたと書かれています。また、「同じ霊的な食べ物を食べ、同じ霊的な飲み物を飲む」というのは、贖いを記念する聖餐式のことではないかと思います。さらに、「彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」民数記20章に、「岩から水が出た」と書かれていますが、岩とはキリストだということです。モーセは怒って、その岩を二度打ったために、約束の地に入ることができませんでした。パウロの解釈によると、イスラエルの人たちは、40年間、キリストから恵みを受けていたということです。私たちは旧約聖書は旧約聖書、新約聖書は新約聖書と時間的に分けて考えます。「旧約時代はさばきばかりで、救いはなかった」と決めてかかっていました。ところが、そうではなく、主の恵みがあったのです。

 パウロは1節で「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません」と言っています。兄弟たちというのは、コリント教会の人たちのことです。コリント教会の環境はまさしく荒野であり、偶像礼拝が行われ、不品行が町に満ちていました。彼らはキリストによって救われたにもかかわらず、様々な誘惑を受けて罪に陥りました。教会内でも不品行が行われ、高慢と、分裂分派がありました。この世の罪が教会内に入っており、この世と見分けがつかないくらいでした。そこでパウロは民数記を引用し、イスラエルの失敗を教訓として学ぶように勧めたのです。つまり、「荒野における誘惑を試練として耐え忍ぶことができるか」ということです。肉によって反応して罪を犯すのではなく、キリストの救いを思い起こして、そこに留まるようにと勧めているのです。パウロは、さばきばかりで、救いのないような、民数記の人たちにも救いがあったことを述べています。イスラエルの民は、モーセにつくバプテスマを受け、霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲みました。彼らは荒野を旅しましたが、その道筋にある岩から水がわき出ました。つまり、岩とはキリストであり、キリストが彼らについて来てくださったのです。だから、あのようなイスラエルの民であっても、神が備えた救いの中にあったのです。そのように考えると、荒野はただ空しくて、滅びに向かう行程ではないということです。肉によって反応するではなく、そこに信仰を働かせるなら、荒野にあっても多大な恵みを受けることができるのです。エレミヤ31:1-3「主はこう言われる。『剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。』主は遠くから私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』」

2.試練に打ち勝つ道

Ⅰコリント10:13「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」一般に教会では、13節だけを取り上げてみことばを解釈しようとします。しかし、10章1節~12節までを読むと、試練というものが何であるかが分かります。また、脱出の道も何なのか分かって来ます。そのため、第一のポイントでは、イスラエルの民が何故失敗したのかという教訓を得ることができました。まず、13節に出てくる「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません」とはどういう意味でしょうか?民数記においてイスラエルの民は荒野を行進していました。暑くて水がありませんでした。食べ物もなく、あるのはマナだけでした。最初は美味しく食べられましたが、毎日同じなので飽きてきました。モーセは自分たちを一体どこへ導いているか不満も出ます。それよりも、異教徒の偶像を拝んで、彼らと戯れたら気が晴れそうです。彼らが行進した荒野は、私たちの生活環境と似ているのでしょうか?創世記3章にはアダムとエバが罪を犯してから、エデンの園を追われたという記事が記されています。創世記3:17-18「また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。」大地が呪われてしまって、そこから茨とあざみを生えさせると書かれています。つまり、私たちの生活環境に呪いが入っているということを暗示しています。さらに、このみことば前後を見ると、労働の呪いがあり、結婚生活の呪いがあり、最後は死で終わると書かれています。創世記4章には、兄弟殺し、パフォーマンス指向、復讐の拡大まで書かれています。もし、現代の私たちの生活環境を考えるなら、まさしく創世記における呪いを受け、まさしくイスラエルの民のような荒野を行進しているということになるでしょう。Ⅰコリント10章が言っているように、試練は世の常であるということです。

ある時、親友の若木先生が尋ねてこられ「この本、とても良いよ」とプレゼントして下さいました。先生は日本語で読んだそうですが、私にはその原書“how people change”という本をくださいました。せっかくもらったので読まない訳にはいきません。2020.7.11-9.29まで、2か月半かかってやっと読み終えることができました。この本はまさしく、Ⅰコリント10章と民数記のことが書かれていました。でも、メッセージではなく、教科書もしくはカウンセリングの本です。きわめつけは、民数記におけるイスラエルが遭遇した試練をHeat(熱)と名付けていることです。その本から少し引用させていただきます。「この世では、私たちは皆、何等かの試練という熱の下に生きている。マークには、決して満足しないように見える上司がいる。アンの夫は、結婚関係よりも釣りに熱心だ。サラは、慢性的な痛みに耐えている。ティムの10代の息子は、13歳になった時から問題ばかり起こしている。レイチェルの教会は、大きな苦痛を伴う分裂を経験した。ジュリーは、昇進に伴う重荷と戦っている。ブルックは、退職金のほとんどを悪い投資によって失ってしまった。フレッドは、心臓病と闘っている。ジェニファーは、体重を管理することができない。ボブは、遺産を受け継ぐ前のシンプルだった生活を恋しく思っている。ジェイソンは、怒りっぽい父親を避けるためにあらゆることをしている。アレックスの体は、老いに勝てなくなっている。」…これらは人生の荒野で経験する熱、つまり試練です。筆者はⅠコリント10章にあるイスラエルの民の罪深い反応について述べています。それは誘惑の熱であり、偶像礼拝、異教徒のお祭り騒ぎ、性的不品行、主を試すこと、不平です。その本から再び引用します。「私たちも、皆、自分たちの人生の熱に、このように反応しているのである。ジルはあまりに不平ばかり言っているので、彼女の友人たちは彼女を避けるようになった。エドワードはお酒をたくさん飲むことでプレッシャーに対処していた。テッドは神が決して祈りの答えてくださらないのに、教会に行く価値があるのか考えていた。ドリューは愚かなテレビ番組で、毎晩自分を麻痺させていた。マイクは何が何でも、上司の尊敬を得ると決心していた。バーバラは、誰も彼女のことを真面目に受け止めてくれないので、スモールグループをやめる決心をした。デボラは、嫉妬心にとりつかれていた。」引用は以上ですが、よくいろんな人の罪深い反応を上げたものだと感心しました。

さて、人生の荒野における試練あるは誘惑に対する勝利はどこにあるのでしょうか?Ⅰコリント10:13後半に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」と書いてありました。つまり、「脱出の道がどこにあるのか?」ということです。Ⅰコリント10章1節から4節にすでにその解決が述べられていました。彼らはプテスマを受け、霊的な食べ物、霊的な飲み物を飲みました。それは、キリストの贖いを覚えるための聖餐式です。また、霊的な岩であるキリストから飲みました。脱出の道は、十字架でありキリストご自身です。アーメン。私たちはだれでも荒野で試練に会います。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません」と言われているとおりです。でも、民数記のイスラエルは、罪深い肉によって反応しました。また、さきほど引用した本には「自分たちの人生の熱に、このように反応しているのである」と述べられていました。そうではなく、試練にあった場合、十字架とキリストによって対処すれば良いのです。そのことを短く述べているみことばがあります。ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」この箇所に、自分が既に十字架で死んだこと、そして生きているのは自分ではなく、キリストが私のうちに生きていると書いてあります。解決は、自分の肉で試練に反応するのではなく、私の内におられるキリストに働いてもらえば良いのです。私の悪いところは、思いがけないことが起ったとき反応することです。私もそのことを学んでいます。

以前、ウォッチマンニーの『勝利を得る命』からメッセージをしたことがありました。もし、誘惑に対する勝利があるとしたらどのようなものでしょう?どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか?ウォッチマンニーはこのように言われました。「勝利を得るのは、あなた自身の問題ではなく、キリストがあなたに代わって生きてくださることです。私たちは命を変化するのではなく、命を交換することです。私たちは何ももがく必要はありません。交換さえすれば、すべての事は成し遂げられます。」結構、分かり易そうで、分からないかもしれません。おそらくこのようなことだろうと思います。私たちは何か問題が起こると、「私がなんとかしなければならない」と出ていきます。それで、うまくいくときもありますが、うまくいかないときもあります。しかし、罪深い肉によって反応すると結果は悲惨です。私たちはたくさん失敗しないと、キリストに頼ろうとしません。もう、授業料を払うのはやめましょう。そうではなく、まず十字架を自分に適用します。生きているのは私ではない、キリストとともに十字架につけられているからです。その次は、私の内に生きておられるキリスト様に登場していただくのです。「私にはできません。どうぞ、あなたが解決してください」と身を引くのです。言い換えると、キリスト様に信頼するのです。不思議なことに、キリスト様が平和な解決を与えてくださいます。キリスト様が忍耐を与えて、感情的にならなくても良いようにしてくれます。十字架とキリストこそが脱出の道です。

エレミヤ書17章は本日のメッセージを別の方向から説明している箇所です。エレミヤ17:5-10主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」この箇所には、私たちが生きている世界は荒野であると述べています。人々は焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住んでいます。暑くて、日照りで死にそうです。そのため、人々の口から不平不満が出てきます。しかし、主に信頼する者はどうでしょう?「その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない」とあります。このところには、主に信頼して試練に勝利した者への報いが記されています。神さまは真実なお方であり、試練を乗り越えるとき、豊かな実のりを与えてくださるのです。試練は誘惑にもなります。「神は私を顧みてくれない」と信仰を棄てるかもしれません。それは私をきよめ、私を成長させるための糧なのです。試練の時こそ、自分に死んで、キリストに生きることを学ぶ絶好のチャンスなのです。その時、これまでにない、勝利を味わい、「自分の力ではなく、キリストに頼ろう」という信仰の歩みが生まれるからです。