2023.4.9「土の器 Ⅱコリント4:7-12」

イースターおめでとうございます。キリスト教はキリストの復活から始まりました。このように私たちが日曜日、礼拝をささげているのは、キリストが二千年前、死を打ち破りよみがえられたからです。イースターのメッセージは福音書から語られますが、きょうはパウロの手紙から語りたいと思います。その目的は、私たちが死んだあとの復活のことではなく、生きているうちに復活のいのちを味わうためです。

1.土の器

 パウロは肉体のことを「土の器」と述べています。おそらく「土の器」は2つの意味があると思います。第一は創世記において、私たち人間が土で造られたと書かれているからです。創世記2章7節「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」人間だけが他の動物と違って、神の霊が吹き込まれた霊的な存在です。ところが、このあと、アダムが食べてはならない木から食べたので、霊的に死んでしまいました。魂だけが異常に発達して、神なしで生きるようになったのです。ですから、堕落後の人間は、肉体と魂の二つで成り立っていることがわかります。そしてこの肉体は死ぬようにさだめられました。創世記3章19節「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」私たち人間は生まれた以上、必ず死がやって来ることを知っています。仏教では「これは定めであり、諦めるしかない」と言うでしょう。中川の近くに「延命寺」というお寺がありますが、「延命処置」みたいに長生きをするようなイメージがあります。でも、人は必ず死ぬのです。でも、忘れてはならないのは、死はあとから来たものであって、最初からあったものではないということです。アダムが罪を犯したので、死が人類に入ってしまったのです。

 第二は、イザヤ書やエレミヤ書には「主は陶器師であり、私たちは粘土である」と書かれています。イザヤ64:6「しかし、今、【主】よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」私たちが土の器であるとは、もろくて壊れやすいということです。イザヤは神さまに「どうか激しく怒らないでください。私たちはあなたの作品ではないでしょうか?」と訴えています。エデンの園がどの辺なのか、聖書考古学者たちが調査をしています。「チグリス・ユーフラテス川の流域のとこかだろう」というのが定説です。ある人がそこの粘土を採掘してみました。赤い粘土で、その成分が人間の肉体とほとんど同じだったということです。人間は酸素、炭素、窒素、カルシウム、鉄、リン…などでてきているそうです。生物学的にはそうかもしれませんが、土の器に魂が入っている存在です。年を取ると、土の器ですから、ところどころに欠けやひび割れが生じてきます。伝道者の書にも、似たようなことが書かれています。伝道者12:6,7「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」おそらく、「銀のひも」というのは寿命のことであり、「水がめ」は肉体ではないかと思われます。そして、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」のです。これは人間の霊が救われるということではなく、神の御手のご支配の中に移されるということです。どこの世界でもそうですが、肉体は滅びても、霊魂は不滅であり、どこかにきっと存在すると信じられています。旧約聖書の死生観は大体、このようなものです。

 パウロはⅡコリント4章7節でこう述べています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」土の器は何かということは既にわかりました。では、「この宝」とは何かということです。宝を持っているのは、クリスチャンだけのことであろうと思います。でも、この宝とは何でしょう?少し前の、Ⅱコリント4章4節に、「神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光」と書かれています。5節には「主なるイエス・キリスト」、6節に「キリストの御顔にある神の栄光」とあります。そのあと10節には「イエスのいのち」とあります。Ⅱコリント5章5節には「神はその保証として御霊をくださいました」とあります。総合的に考えてみて、土の中にあるのはキリスト、あるいはキリストの御霊ではないかと思います。現在、イエス・キリストは天の父なる神の右に座っておられます。しかし、ペンテコステ以来、聖霊によってキリストが一人ひとりのクリスチャンに住んでいるというのが聖書的な真実でしょう。パウロはコロサイ1章で「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言っています。つまり、私たちの中には、キリストが生きておられるということです。そのことは、結局、神の命、永遠のいのちをいただいているということです。Ⅰヨハネ5:11,12「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

 何かの本に書かれていました。少年が一度死んで、天国に引き上げられ、イエス様とお会いしたそうです。自分は帰りたくなかったのですが、父親が必死に願っているので、地上に戻されることになりました。生き返った少年はしばらくの間、不思議な光景を目にすることになります。なんと、「この人の中にイエス様がいる」、「この人の中にはイエス様がいない」と分かったそうです。私たちはその人と会って、しばらく確かめない限り、その人の中にイエス様がいるかどうか、わかりません。でも、その少年は分かったというのですから、本当に不思議です。世の中には、たった二種類の人しかいません。それは、イエス・キリストを持っている人と、イエス・キリストを持っていない人との二種類です。イエス・キリストを持っている人は、永遠のいのちを持っており、いつか肉体が死んでも、栄光の体によみがえる人のことであります。ギリシャ語の「持つ」は、エコゥであり、まさしく「持っている」「保管している」「帯びている」という意味です。つまり、パウロが「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」と言っているのは、キリストのことであることは間違いありません。イエス様はマタイ16章でこう言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」これは人間の本来のいのちの大切さを教えています。永遠のいのちと言っても良いかもしれません。しかし、永遠のいのちは一体どこから手に入れることができるのでしょうか?マタイ16章では「そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」と問われています。イエス・キリストは私たちのいのちを買い戻すために、十字架で代価を支払って下さいました。アダム以来の人間は、一度死ぬことと、永遠のさばきに行くことが決まっています。ところが、イエス・キリストは私たちの罪を贖い、信じる者に罪の赦しと永遠のいのちをくださったのです。何という逆転、なんという福音でしょうか?人間はこの地上に生まれた以上、必ず死ぬ存在です。その死ぬべき人間の最大の課題は何でしょう?死なないで永遠のいのちをいただくことではないでしょうか?もし、生きているうちに、死なない方法を手に入れたら、あとの人生は楽しく暮らすことができるのではないでしょうか?多くの人はやがて突然やってくる死を恐れながら生きています。しかし、クリスチャンにはすでに永遠のいのちが与えられており、死んでも行くところがあります。一度は肉体的に滅びても、栄光のからだに復活するという希望があります。人生の結論が出ているのですから、地上での短い人生を。感謝をもって生きることができます。

 昔、福沢光雄牧師が娘さんとディズニーランドに行ったそうです。そのころ、スペース・マウンティンというのが導入され、娘さんに無理やり誘われて乗ったそうです。他のジェットコースターと違うのは中が真っ暗で、行く先が見えないということです。私も乗ったことがありますが、宇宙ロケットに乗っている感じがします。福沢先生は死ぬほど怖い思いをしましたが、無事に滑り終わりました。そのとき、福沢先生が娘さんに言ったそうです。「もう一度、乗ろう。安全なことが分かったので、二回目はスリルを味わいながら乗れる」と。私たちも人生の終わりが滅びではなく、永遠の御国であるならどうでしょう?たとえ、苦しくて死にそうなことがあっても、最後は無事にたどり着けるのですから大丈夫です。あなたはキリストを持っているでしょうか?キリストを持っている人は不思議に死ぬことが怖くありません。大丈夫、「私は救われている」という安心感があります。仏教の住職が信者さんから「死んだら極楽に行くことができますか?」と尋ねられたそうです。真面目な住職は「ああ、私も死んでみないと分からないなー」と答えたそうです。死んでからでは遅すぎるのです。死ぬ前にキリストを信じて、永遠のいのちをいただくことが必要なのです。中には、「死ぬ直前に信じますよ」と言う人がいます。でも多くの場合、死ぬのが怖くて、信じる余裕がなくなるそうです。それよりも、生きているうちに永遠のいのちを頂いて、死ぬまで、楽しく、有意義に暮らす方が良いのではないでしょうか?イエス様のことばです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

2.死といのち

使徒パウロはキリストのいのちが、この地上においても豊かに働いているということを語っています。多くの場合、イースターのメッセージは死後の希望、世の終わりの復活のことにポイントがあてられます。もし、そうであればすべての希望は死後に持ち越すということになります。しかし、パウロの手紙を見るなら、苦しみや迫害の中でこそ、キリストのいのちが現れると言うことを述べているようです。Ⅱコリント4:7b-10「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」測り知れない力とは、キリストのいのちであることは間違いありません。パウロは伝道旅行の際、石打ちされて何度も死にそうになりました。しかし、再び起き上がり次の町で伝道を続けました。「倒れそうで倒れない、死にそうで死なない」その理由とは何でしょう?なぜ、パウロがおきあがりこぼしのように再び立ち上がることができたのでしょう?それは、パウロの内側にキリストのいのちがあったからです。パウロたちは宣教をしているとき、迫害や困難を受け、それはまさに、イエス様の死を身に帯びるような状態でした。死にそうになると、どうでしょう?イエス様のいのちがパウロたちから現れてくるのです。言い換えると、普通何でもないときは、そのいのちは現れてきません。迫害や困難に受けたとき、それに打ち勝てるように内側からいのちが現れるのです。それは、「十字架の死と復活の法則」と言えるのではないでしょうか?ローマ6章5節の口語訳です。「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」しかし、パウロは宣教活動において、死の様にひとしくさせられて、さらに、復活の様にひとしくさせられるという経験をしたのです。

もう一箇所、パウロの証言を引用したいと思います。Ⅱコリント1:8-10「兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」このことはエペソでの迫害であろうと思われますが、他の説もあるので何とも言えません。とにかく激しい、耐えられないほどの圧迫の中で、パウロは何かを発見したようです。苦しみのどん底で、パウロは「自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです」と言っています。もうダメだと思ったとき、そこから何かを発見できるということです。それは、死者をよみがえらせてくださる神さまに頼るという信仰が与えられるということです。そうするとどうでしょう?「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」もう一回り信仰が大きくなり、「神はこれからも救い出してくださる」という希望が与えられたということです。私たちはなかなかそこまでは行きません。苦難の中で「どうか救ってください、助けてください」と祈るだけです。もちろん、それは自然ですが、父なる神さまはもう一歩先に進んでもらいたいということです。つまり、死ぬような苦しみの中で、自分自身に頼ることをやめて、死者をよみがえらせてくださる神さまに頼る者となるということです。それはまさしく、キリストの死の様にひとしくなるなら、さらに、キリストの復活の様にもひとしくなると言う、法則にあずかるということです。何と言うことでしょう?どん底まで落ちないと分からないことがあるということでしょうか?パウロのような死さえも神さまに明け渡し、ただ復活の力が現れるように願うというのは、究極的な信仰のように思えます。

もう一度、Ⅱコリント4:10-12を引用させていただきます。「私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。」12節には、「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです」と書いてあります。「私たち」というのはパウロたちのことです。「あなたがたのうちに」とは、コリントの教会の人たちであり、聖書を読んでいる私たちのことです。つまり、パウロたちが経験したことが、私たちのうちにも働くということです。私たちは「ああ、パウロは大変だったなー。おきあがりこぼしのように死からよみがえったんだ。すごいなー」と思います。それだけではなく、私たちも環境や状況が違うかもしれませんが、死に渡されるようなことがあるのです。迫害であったり、事故や病気、あるいは目的を達成できるかできないかの瀬戸際など、絶対絶命の時があるはずです。そういうときは普段の信仰では足りません。死も生もご支配しておられる、父なる神さまにゆだねるしかありません。

イエス様も十字架で死なれたとき「わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と祈られました。ところが、その三日後、父なる神は死者の中からイエス様をよみがえらされました。「よみがえらされる」というのは、常に受身形です。何故なら、死んだ人は自分で生き返ることができないからです。完全に神さまを信頼しなければ、不可能なことです。これは、ゆだねてみないと経験できないことです。私はアメリカに行ったとき、クリスチャンのお宅にプールの飛び込み台あるのを見ました。最初は怖くて、遠慮しました。しかし、他の人もやるので、勢いで試しに飛び込んでみました。死ぬことはありませんでした。ちゃんと浮かんできました。それで味をしめ、夕方まで数えきれないほど飛び込みました。日本に帰って来てからも、あるホテルのプールでやってみました。とても楽しかったです。譬えは、軽かったですが、キリスト様の死に飛び込むなら、父なる神さまがよみがえらせてくださるということです。ローマ8:11「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

使徒パウロが言っていることは、私たちが死んでからよみがえるということだけではありません。今、生きているこの肉体において、よみがえりのいのちが現れるということです。最初に申し上げましたが、私たちの肉体は「土の器」です。落ちれば割れる、土の器です。火のような試練に耐えられないかもしれません。でも、私はあの賛美を歌っていていつも不思議に思います。一般に土の器は火の中を通されて、作られたものです。陶器や土器は火の中で通ってこそ、強く固められます。ですから、土の器は火に対してはとても強いのではないかと思います。土の器が弱いのは外からの圧迫であり、打撃です。パウロは「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません」と言いました。英語の聖書はpressed on every side「四方八方からプレスされる」となっています。そして、yet not crushed.「しかし、クラッシュしない」となっています。普通、土の器だったら、壊れても当然です。でも、「プレスされてもクラッシュしない、圧迫されても壊れない」のです。私たちは生きていていろんなプレッシャーに会います。いや、毎日がプレッシャーかもしれません。そのため、心も体もクラッシュ寸前の人もいるでしょう。でも、キリストの復活のいのちがあるので、壊れそうで壊れない、死にそうで死なないのです。なぜなら、「死の様にひとしくなるなら、さらに、キリストの復活の様にもひとしくなる」からです。私たちは土の器の中にキリストのいのちという宝を秘めています。それは神の栄光の輝きです。では、どんなとき、土の器からキリストのいのち、神の栄光の輝きが見えるでしょうか?それは、土の器が欠けたり、土の器にひび割れが生じたときです。普通だったら、そのまま壊れてしまうでしょう、土の器ですから。でも、その欠けたところ、ひび割れたところから、神の栄光の輝きが漏れ出てくるのです。それはキリストのいのちであり、私たちの内なる人です。内なる人とは、救われた魂のことです。外なる人とは、滅びゆく肉体です。確かに外なる人が圧迫を受けたり、ひどい目にあうことがあります。

でも、パウロはこう結論付けています。Ⅱコリント4:15,16「すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」そうです。恵みと感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。ですから、ですからどうなんでしょう?「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」土の器である外なる人は衰えていくでしょう。でも、キリストのいのちを受けている内なる人は日々新たにされています。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです。」(Ⅱコリント3:18)。アーメン。