2023.3.26「御霊の法則 ローマ8:1-8」

 前回は信仰義認と古い人の死について学びました。言い換えると複数形の罪の赦しと、単数形の罪からの解放ということを学びました。しかし、私たちには肉があるということを少し話して、それで終わりにしました。本日は肉の問題を取扱いながら、御霊によって生きることの大切さについて学びたいと思います。きょうはウォッチマン・ニーの本を度々引用させていただきます。

1.律法と肉

 私たちの古い人は十字架につけられて一度、死にました。それはアダムから受けている罪、原罪が一度、断ち切られたということです。私は「クリスチャンには原罪がある」とは言いたくありません。何故なら、私たちはアダムから切り取られ、キリストに接ぎ木された存在だからです。私たちのエネルギーの源は、アダムではなくキリストであります。でも、禁酒法の例話でお話ししましたが、酒を作る工場は壊されましたが、酒瓶や樽がとこかに隠されているということです。酒瓶や樽に当たるのが、肉ではないかと思います。肉とはアダムからの罪の残骸であり、罪の性質です。私たちはこの肉からきよめられる必要があります。でも、天国に行くまでこの肉は完全になくなることはありません。この世では私たちは誘惑を受けます。それは私たちの中に罪の傾向性である肉があるためです。でも、たとえ肉があったとしても聖霊によって解放されつつ信仰生活を送ることが可能なのです。ローマ7章には律法と肉について書かれています。パウロは律法と肉の狭間でとても苦しんでいます。ある人はこの葛藤は、パウロがクリスチャンになる前の経験であると言います。しかし、ローマ7章の問題があるので、次のローマ8章の御霊による解放が生きてくるのです。まず、律法と肉の関係をローマ7章から簡単に学びたいと思います。

 7章の前半は私たちクリスチャンは、律法という夫から解放されるためにはどうしたら良いか書かれています。律法は永遠に不滅なので、律法自体が死ぬことはありません。妻と夫のたとえがありますが、妻が死ねば律法の夫から解放されます。でも、本当に死んでしまったら、元も子もありません。どうすれば良いか?ローマ7:4「ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。」そうです。単数形の罪から解放された時と同じように、キリストと共に死に、キリストと共によみがえったことを認めるのです。私たちは律法と別れて、キリストと再婚したのです。新しい夫は、恵み深いキリスト様であります。ハレルヤ!ハッピーエンドで終わるはずですが、別れたはずの律法がちょっかいを出してきます。平野耕一師は『これだけは知ってもらいたい』の本の中で、「多くのクリスチャンは、意識の上で未だ二重結婚の状態にある」と述べています。つまり、ほとんどのクリスチャンは「キリストの恵みだけでは不十分で、律法を学び、律法からも教えられる必要があるのではないか」と考えているのです。パウロは「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(ローマ7:12)とはっきり言っています。律法というのは旧約聖書の十戒とそれに付随する様々な律法だけではありません。実は新約聖書にもたくさんあります。簡単に言うなら、「しなさい」あるいは「してはいけません」という戒めや命令も律法なのです。イエス様が言われた「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ19:19)も律法なのです。

 パウロは「律法の役割と肉の性質」についてローマ7章から述べています。ローマ7:7-11「それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。」第一に律法の役割とは「あなたには罪がありますよ」と教えてくれることです。律法は何が正しいかという神からの規準であり、中立的なものです。第二は律法によって肉が刺激され、それに反抗したくなるということです。「むさぼるな!」と言われれば、「むさぼりたくなる」ということです。私たちも「のぞくな!」と言われれば、のぞきたくなります。「さわるな!」と言われれば、さわりたくなるのです。そのような禁止事項が、かえって眠っている肉を呼び覚ますということです。学校ではたくさんの校則が設けられていますが、子どもたちの肉を逆に刺激していることになります。第三はその結果、自分自身が死んでしまうということです。パウロは「いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました」と言っています。そしてこのように叫んでいます。ローマ7:24「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」この叫びは、パウロのクリスチャンになる前の叫びではなく、罪がわかってからの叫びであります。律法がパウロに「あなたにはまだ罪がある」と教えたからです。

 ウォッチマン・ニー著の『キリスト者の標準』に「律法の教訓」ということが書かれていました。ローマ7章はローマ6:14「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」という言葉を説明し、その記述を現実にするために記されています。問題は、私たちが、まだ律法からの解放を知らないところにあるのです。では、律法とは何でしょうか。恵みとは、神が私たちのために何かをされることを意味し、律法は、私が神のために何かをすることを意味します。神は私に、聖くて正しい一定の事を求めておられます。これが律法です。さて律法が、私に何かをせよとの神の要求を意味するのであれば、律法からの解放とは、神はもやはそのことを私に求めず、神ご自身がそれを備えて下さることを意味するのです。律法は、私が神のために何かをすることを意味し、律法からの解放は、私がそれを行なうことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれをなされることを意味します。私(7章14節の肉につける私)は、神のために何もしなくて良いのです。それが律法からの解放です。7章の問題は、肉につける人が、神のために何かしようと努力しているところにあります。あなたがそのようにして神を喜ばせようとすれば、必ず自分を律法の下におくことになり、そしてローマ人への手紙7章の経験が、あなたのものとなり始めるのです。

 私は座間キリスト教会でスタッフとして仕えていた時、言動において度々失敗し、大川牧師から冗談半分で「そこつ者」と言われたことがあります。この本の召使は私そっくりなので、愛着を感じますので、もう少し引用させていただきます。仮にあなたが、まことにそこつな召使を使っているとします。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。彼が一日中何もせずにじっとしておれば、何の役にも立ちません。しかし、少なくとも損害は与えません。ところがもし彼に「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言えば、すぐさまトラブルが起るのです。彼は立ち上る拍子に、まずイスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。それから大切なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。あなたが彼に何も要求しないなら、彼のそこつさは分かりませんが、何かするように頼んだとたんに、彼は本性を表わすのです。あなたの要求は正統です。しかし、彼がどうかしているのです。彼は、座っている時も働いている時同様にあわて者です。彼がじっとしている時にも彼の存在の中にあるそこつさは、あなたの要求によって外に表われるのです。私たちは生まれつき皆罪人です。神が私たちから何もお求めにならなければ、すべてはうまくいくのですが、何か求められるや否や、私たちの罪性は暴露します。律法は私たちの弱点を表わします。もしあなたが、私をじっとすわらせておいて下さるなら、私は欠点のない者と思えます。しかし、もし何かをするように求められたなら、きっと失敗するのです。それでも私を信頼して第二のことを要求されれば、私はそれにも失敗してしまうでしょう。聖い律法が罪ある人間に適用される時、その人の罪性は必ず全面的に暴露するのです。

 皆さんは、律法は守るために神さまから与えられたものだと思っていたかもしれません。そうではなく、律法は破るために与えられたのです。言い換えると、律法は「あなたには罪があります。あなたは律法を守り行うことができません」と教えているのです。パウロはローマ7章24節で「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」どん底から叫んでいます。パウロはすばらしい質問を投げかけています。「だれが…救い出してくれるのでしょうか」と。この「だれが」に大きな意味があります。今まで何ものかを探していたのですが、今度はその希望がキリストにあります。今まで、問題の解決を自己の内に見出そうとしたのですが、今度は自分を見ずに救い主を仰いでいます。もはやパウロは自分の努力に頼らず、キリストに全期待をかけているのです。私たちも律法によって、自分は全く、弱く、かつ望みのないものであることを知ることでしょう。しかし、ガラテヤ書にあるように、律法はあなたをキリストのもとに連れて行く養育係り(ガラテヤ3:24)なのです。

2.御霊の法則

 パウロは「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と、どん底から叫びました。その直後、ローマ8:1-2「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」と言いました。パウロの一連の叫びは、ガラテヤ2章20節と根本的に同じものです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ローマ人への手紙7章には「私は」ということばが何度も出てきました。「私は本当にみじめな人間です」が、苦痛に満ちた叫びの頂点でした。続いて解放の叫びは「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」であります。ウォッチマン・ニーはこう述べています。クリスチャン生活とは、「変化させられた生活」だと思っていますが、実際はそうではありません。神は私たちに「置き換えられた生活」、「代わりの生活」を提供して下さったのです。そして、キリストが私たちの内なる代理者であられるのです。キリストのいのちは、私たちが自分で作り出すものではありません。それは、私たちの内に再現されたキリストご自身のいのちなのです。アーメン。この本の中で、一日、数回はカッとなる夫婦のことが記されていました。二人は「どうか私たちが耐え忍ぶ力が与えられるよう神さまにお願いして下さいませんか」と頼みました。ニー師は「それは私にはできないことです」と言いました。二人は「え?それはどういう意味でしょうか?」と問い返しました。ニー師はこのように答えています。あなたがたに必要なのは、忍耐ではありません。キリストなのです。神は、謙遜とか、忍耐とか、聖潔とか、愛とかを別々の賜物として私たちに小売りなさるのではありません。神はすべての必要を満たすために、ただ1つの賜物―御子イエス・キリストを与えてくださったのです。そして私が、自己の内に主の生命が現されるために主を仰ぐとき、彼は私に代わってへりくだり、忍耐強く、愛に満ちて下さり、私の必要とするものをすべて満たして下さるのです。アーメン。

 パウロは私たちの内に働いてくださるキリストの生命を、「いのちの御霊の法則」と呼んでいます。ローマ7章とローマ8章には「律法」ということばが度々出てきますが、正確には二種類の律法があります。1つはモーセの律法をはじめとする神からの律法です。もう1つは法則です。口語訳はこれを原理と訳していました。「聖書協会共同訳」がそのことを配慮してとても良く訳していますので、その聖書から引用したいと思います。ローマ7:25私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕えているのです。ローマ8:1-4従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰させられたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。」律法は私たちに罪があることを知らせてくれるだけで、私たちを救ってくれません。私たちには肉のゆえに、罪を犯して死に至ります。これが「罪と死の法則」です。しかし、パウロは肉に打ち勝つことのできる、もう1つの法則があることを発見しました。ローマ8:2「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。」私たちの内に働いてくださるキリストの生命が、「いのちの御霊の法則」です。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』でこのようなことを述べています。厳密に言えば、法則とは、1つの例外もないことが立証されるまで吟味された、概括的なものです。もっと簡単に定義すれば、繰り返し繰り返し生じる何ものかであると言えるでしょう。そのことが生じるたびに、それはいつも同じ方法で起るのです。もし私たちが、新しい法則にあって生きていれば、古い法則は余り意識しなくなるでしょう。古い法則はいぜんとして存在しているのですが、もはやその支配力はなく、私はその把握の中に留まっていないのです。だからこそ、主は、マタイによる福音書6章に「鳥を見よ、野の花を考えてみるがよい」と言っておられるのです。もし私たちが鳥に、引力の法則に恐怖を感じていないかと尋ねることができたら、鳥はどう答えるでしょうか。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからです。」鳥の内に飛ぶ力を備えている命があるばかりでなく、その命は、これらの生物に全く自然にまた持続的に、引力の法則に勝たせる命の法則を持っているのです。しかし、引力は依然として存在しています。もしある厳寒の朝、早起きして、地上に深々と降り積もった雪の上に死んでいるすずめを見つけるとすれば、私たちはただちに引力の法則の永続性を思い出すでしょう。しかし鳥は、生きている間はそれに勝ちます。鳥の内にある命は、自分たちが引力の法則に勝つという意識を支配しているのです。アーメン。つまり、罪と死の法則は依然として作用しているのですが、神はもう1つの法則、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則を介入させてくださったのです。

 最後に私たちはもう1つのことを知る必要があります。パウロはダメ押しするかのように、再び、肉のことを言及しています。新改訳聖書から引用します。ローマ8:5-8「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」このところに、はっきりと「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」と書かれています。ウォッチマン・ニーの本から、もう一度、引用させていただきます。日常生活において、律法から解放されたとは、どのような意味を持つのでしょうか?それは今後、神のために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようと努力することなど、決してしないということです。「なんていう教義だ!」と言われる方があるでしょう。また「なんという誤った教えだろう。あなたは正気ですか?」と問う方もあるでしょう。しかし、もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」置くことになります。私は死によって律法の要求から全く解放されたのです。今なお神の律法は存在しています。事実古い律法より無限に厳格な「新しい戒め」があるのです。しかし神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。あなたのうちに働かれるのは神です。律法からの解放は、神のみ旨を行なわなくても良いということではありません。それは私たちが無法者になるようなことを、決して意味しているのではありません。その反対です。それが意味するところは、私たちが、神のみ旨を自分の力で行うことから解放されているということです。アーメン。ウォッチマン・ニーは、このことを知ったとき「主よ、あなたは本当に私から、何も要求しておられないのですか。では私はこれ以上あなたのため、何もしなくて良いのですね」と飛び上がって叫んだそうです。

 この積極的な答えが、肉ではなく、御霊にあって生きるということです。私たちは肉において何かをしようと努力すれば律法の罠にはまって、死んでしまいます。そうではなく、私の内におられるキリストの御霊により頼むのです。それは努力ではなく、信頼です。苦しみあがくのではなく、キリストにあって安息することです。私は元来、せっかちであり、汚れた思い、軽率なことば、批判的な心の持ち主です。車を運転するときに、ばーっと出てきます。でも、私は運転する前に祈ることにしています。すると、ある地点にくると、せっかちさが静まり、軽率な思いはしますが、口から出なくなります。出るときもありますが…。つまり、自分を変えよう、変えようとすることは無駄な努力だということを知りました。この本から学びました。自分がこのようなことに対して、キリストにあって死んだものであることを認め、神の御霊が、私に欠けている潔さ、謙遜、柔和を作り出して下さるために、御霊を仰ぐことにしました。かつては、「そうしてはならない」と自分に言い聞かせても、5分もたたないうちにケロっと忘れ、してはならないことをしていました。鳥のたとえでもあったように、御霊に信頼すれば、御霊が自動的に働いて下さるということです。肉で努力しようとすれば、逆に御霊が働けなくなるのです。日本人はよく「がんばれ、がんばれ!」と言います。それは、キリスト様を知らないで、肉の力で生きる人たちのことです。私たちは「がんばれ」と肉で努力して、神さまを喜ばすことはできません。神さまもそのことを望んではいません。神さまは私たちに聖霊を与えてくださいました。内なる聖霊をキリストの御霊と呼びます。キリストの御霊が私たちの中にいて、私たちを動かして、神さまの御旨を行なわせてくださるのです。何度も言いますが、努力ではなく、キリストの御霊を信頼することです。御霊を仰ぐなら、意志も、行ないも生じてきます。