もし、「ローマ人への手紙」を二つに分けるとしたら、1章から5章前半までは罪の赦しのための十字架、5章後半から8章は聖化のための十字架と言えるでしょう。今日は、キリストを信じて義とされた人に対するメッセージであり、アドバンストコース(上級コース)です。だからと言って拒否することはできません。なぜなら、あなたは救われた後、自分に罪があることを発見して驚くからです。前回は行いの罪sinsについて学びました。今日は、アダム以来の罪の性質、単数形の罪sinを取り上げ、これから聖められるべきことをお話ししたいと思います。
1.アダムから来た罪
私たちが罪が赦され義と認められても、私たちの実質はまだ変わっていません。再び罪を犯してしまうでしょう。聖化というのは、霊的に生まれ変わった人が栄光から栄光へと変えられていくプロセスです。義認と新生が点であるならば、聖化は線、プロセスと言えるでしょう。私たちは神さまの前に立つまで、神の子どもとして成長し続けることがみこころなのです。そのことは生まれた赤ちゃんが成長していくことと同じです。前のポイントの復習ですが、ローマ5章の前半までは複数形の罪sinsを取り扱っています。複数形の罪sinsは行いの罪であり、キリストの十字架の血によってきよめられ、赦されました。アーメン。ローマ5章のはじめにありますが、キリストの血によって義と認められ、神との平和を持っているはずでした。ところが、ローマ5章の後半からは、単数形の罪sinが記されています。ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──」とあります。一人の人によって罪が入りの「罪」は、単数形の罪sinです。一人の人というのはアダムです。アダムが犯した罪が、全人類を汚染しているということです。そのため、人がこの世に生まれてきたら、アダムの罪が転嫁されてしまうのです。あの可愛くて無垢な赤ちゃんの中に、罪の種が既に入っているのです。私たちはアダムにあって生まれたので、罪人なのです。罪を犯すから罪人ではなく、罪人であるから罪を犯すのです。これを神学的にはoliginal sin、原罪と呼んでいます。三浦綾子さんが原罪をテーマにして『氷点』を書きました。ルターもカルヴァンも、私たちは完全に堕落しており、自らの力では救いに至ることができないと言っています。問題は「救われたクリスチャンが原罪を持ちつつ、天国まで行くのか?」ということです。このことは次のポイントでお話ししたいと思います。
ローマ人への手紙にはアダムとは別の人物がやって来たと書かれています。ローマ5:15,16「しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。」パウロはアダムは来るべき方のひな型であり、恵みをもたらすイエス・キリストを示しているといううことです。15節「もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです」。16節「さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。」17節「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」さらに19節、20節、21節にも同じようなことが繰り返し述べられています。最初の人アダムが犯した罪によって、全ての人が罪人とされました。しかし、イエス・キリストは義の行為によって義と認められ、多くの人にいのちを与えるということです。アダムの罪に対して、キリストの恵みが支配するということです。たとえて言うと、だれかが上流の水源に毒を流し込みました、そのため下流に住む人たちがその毒にやられて死んでしまいました。しかし、川の途中でだれかが解毒剤をその水に加えました。そこからは水がきよくなり人々は害を受けることはありません。イエス・キリストこそが罪を消し去り、恵みといのちを与えてくださるお方だということです。
あなたはこのように質問するでしょう。「私たちはキリストを信じて罪赦されたはずです。もう、アダムの罪から解放されているのではないでしょうか?もうすでに恵みの中に入っているのではないでしょうか?」とおっしゃるでしょう。そうです。私たちはキリストを信じたとき、まるごと赦され、行ないの罪がキリストの血によってきよめられたのです。問題なのは外側ではなくて、私たちの内側です。霊は生まれ変わりましたが、魂と肉体です。行いの罪sinsは確かになくなりましたが、アダム以来の罪を犯す性質が魂と肉体に残っているのです。それは単数形の罪sinであり、原罪とも呼ばれています。ですから、私たちはアダムからの罪の流れを断ち切り、キリストにある恵みの支配、いのちの支配を受ける必要があります。その解決が次のローマ6章に書かれています。でも、その前に理解しておくべきことがあります。ローマ5章の後半に何度も記されていることです。「恵みの賜物」「恵みと義の賜物」「恵みも満ちあふれました」「恵みもまた義にあって支配し」とあるように、聖化も恵みだということです。ある人たちは救いは恵みだけど、聖められることはそうではないと言います。だから、「聖書を読み、罪を悔い改め、良く祈り、自分を神さまにささげなさい」と勧めます。勧めていることは良いことなのですが、「救われてから、恵みではなく、行いが必要だ」みたいな誤解を与えてしまいます。そうではありません。聖書を読むことも恵み、罪を悔い改めることも恵み、良く祈ることも恵み、自分を神さまにささげることも恵みなのです。でも、それはどういう意味でしょう?私たちの内におられるキリストがその力を与えてくれるということです。逆に自分の頑張りでやろうとすると、かえってぎくしゃくし、アダムの罪がぶり返してしまうのです。つまり、肉でやろうとしないで、御霊によって歩めば良いのです。そのことは次のメッセージでお語りしたいと思います。でも、その前にすべきこと、理解すべきことがあります。それは信仰によって、古い人、アダムに死ぬということです。
2.古い人の死
ローマ6:6-8「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」このところには、十字架についたのがイエス・キリストお一人ではないと書かれています。なんと、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅ぼされたと言っています。二番目の十字架は「共なる十字架です」この十字架は私たちの罪を赦すためではなく、私たち自身が死ぬための十字架です。聖化を強調する教会では「古い自分に死になさい」「自我に死になさい」とよく言われます。ある教会では牧師が講壇から「死ね、死ね」と言うものですから、席に座っていた若者が「お前こそ死ね!」と叫んだそうです。私も神学校で「まだ罪がある。また聖められていない。古い自我に死になさい」と何度も言われました。私も「死にたい」と祈りましたが、死にきれないで基礎科を卒業しました。卒業後、大川牧師が「これ読んでみなさい」と古ぼけた本を渡してくれました。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』という本でした。神学校ではジョン・ウェスレーの『キリスト者の完全』という聖化について学びましたがよく分かりませんでした。しかし、ウォッチマン・ニーの本を読んで、驚きました。なんと、「あなたは既に死んでいる」と書かれていました。「あたたたたたーっ!お前はもう死んでいる」の『北斗の拳』みたいです。ウォッチマン・ニーは「しかし、どのように死ぬことができるでしょうか。私たちの何人かは、この罪ある生命から逃れるため、ずいぶん努力したでしょうが、それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しているということを認識することにあります」と言っています。
ローマ6:3「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」という聖句をウォッチマン・ニーはこのように説明しています。「ある時、私は小さな本を取り上げ、その中に一枚の紙きれをはさみました。そして、その本を上海に郵送しました。ところで、紙はどこに行ったでしょうか。本だけ上海に行って紙はここに残っていることができるでしょうか。できません。本の行く所に紙切れも行きます。なぜなら、それは『本の中にある』からです。」つまり、私たちがキリストを信じたとき、神さまは私たちをキリストの中に入れて下さいました。キリストが十字架につけられたとき、私たちも一緒に十字架につけられたのです。そして、キリストがよみがえられたとき、私たちもよみがえったのです。「キリストにあって」私たちが死んだということは、単なる教義の問題ではなく、永遠の真実です。救いも聖化も信仰であり、恵みです。私たちが救われたときどうしたでしょうか?「キリストが十字架によってなされた贖いを信じます。アーメン」と信じて救われました。行いではありません。同じように、私たちが古い人に死ぬために努力する必要はありません。「キリストが十字架で死なれたとき、私も一緒に死んだことを信じます。アーメン」と信じて、聖化を得るのです。もちろん聖化は点ではなく、線ですが、古い人に死なないと始まりません。でも、これも信仰であり、恵みなのです。つまり、古い人に死ぬということは、アダムから転嫁されている罪が断ち切られるということです。キリストがよみがえられたとき、あなたも一緒によみがえり、新しい人になったのです。このことがないと、聖化、神の子としても成長もありません。でも、「本当でしょうか?私は本当に死んでいるのでしょうか?信仰によって受け止めるということも分かりません」と言うかもしれません。
ローマ6:11同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ウォッチマン・ニー自身も苦しんでいます。「私は回心後、自分が死んでいることを認めるようにと教えられました。私は1920年から1927年まで、認め続けたのです。しかし、自分が罪に対して死んでいることを認めようとすればするほど、自分がますます生きていることを知ったのです。」7年間苦しんで、彼は「認める」ということの本当の意味を知りました。『認める』はギリシャ語でロギゾマイですが、帳簿や会計に関して勘定することを言いします。この勘定ということは、およそ地上で私たち人間が正確にすることのできる唯一の仕事です。風景を書いたり、歴史家の記録することとは違い、絶対間違いのないものは、それは数字です。神はなぜ私たちに、私たちが死んでいるものと認めるように言われたのでしょう。それは私たちが死んでいるからです。神は、私たちがすでに死んでいることを認めるようにと言われます。それは、そのように認識することによって私たちが死ぬためではなく、現に私たちが死んでいるからです。神は、事実でないことを事実として認めるようにと言われるのではありません。これは自分に対する信仰ではなく、キリストに対する信仰の問題です。『主よ、私はあなたにあって信じます。また、あなたにあってこの事実を認めます』この信仰告白に、終始生きようではありませんか。」アーメン。
ほとんどがウォッチマン・ニー師の引用でした。簡単に言いますと、古い人というのはアダムに付く自分です。私たちは聖められるため、古い自分に一度死ぬ必要があります。でも、本当に死んだらおしまいです。かといって、自分で自分を殺すこともできません。しかし、解決は私たちがキリストを信じる時点で与えられていたのです。ただし、私たちが古い人がキリストと共に十字架につけられていることを知る経験は後なのです。私たちがキリストを信じたとき恵みによって罪赦され義とされました。この事と同じように、私たちが恵みによって、神がキリストによってなされたことを受け取れば良いのです。ガラテヤ書にはこれらのことが要約されています。ガラテヤ2:19「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」そうです。ここでは完了形(正確にはアオリスト形)で書かれています。そして、ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」これが聖化であり、聖めです。
3.献身の勧め
私たちの古い人は一度十字架で死にました。アダム以来の罪は断たれ、キリストに接ぎ木されました。私はアダムから受け継いだ原罪は共なる十字架によって解決されたと信じます。私たちはアダムから切り取られ、キリストに接ぎ木された存在だからです。でも、私たちには肉があります。これはアダムである古い人の「残骸」と言えるものです。罪の性質が私たちの中に残っているということです。このことを説明しているたとえが『キリスト者の標準』に記されています。「政府がもし徹底的な禁酒運動を行なおうとすれば、どのような手段をとればよいだろうか。国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランデーなどのびんを1つ残らずこわしてしまえば、それで問題は解決するだろうか。もちろんそうはいかない。その背後に醸造工場があれば、びんだけ処理しても工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解放は望めない。飲酒問題を恒久的に解決しようと思えば、国中の醸造工場、蒸溜装置などが取り除かれなければならない。私たちは、その工場と言える。私たちの行為はその生産物なのである。主イエスの血は、生産物、すなわち私たちの罪の問題を処理した。したがって、私たちがすでに行なったことの問題は、これで解決をみるわけである。しかし、神はその点で終わりとされるだろうか。私たち自身の存在についてはどうだろうか。私たちが犯した罪はすでに処理されたが、私たち自身は、どのように処理されるべきであろうか。…主は生産されたものと同時に、それを製造する工場も一掃されたのである。」アーメン。この続きがあることを私は説明できます。罪を生産する私たちの古い人はキリストととも十字架につけられ死にました。キリストにあるなら、アダムの原罪からは解放されているのです。私たちはすでにキリストの命の中にあるのです。でも、私たちの体にしみこんでいる罪の残渣(残りかす)があります。たとえて言うと、醸造工場は壊されましたが、縁の下や車のトランクに酒瓶がまだ隠されているかもしれません。私たちの体の中にある罪の性質を「肉」と呼んでいます。この肉がだんだん清められて行くことを聖化というのです。私たちが天国に行くまで肉からは完全に解放されることはありません。でも、神さまは肉に打ち勝つことができるように聖霊を与えてくださいました。「ガラテヤ人への手紙」は、御霊によって歩むならば、肉の欲を満たすことはないと書かれています。
イエス・キリストが十字架で血を流されたことにより、罪の贖いが完成しました。私たちはキリストを信じることによって罪赦され、義と認められました。さらには、キリストが十字架につけられたとき、私たちの古い人も十字架につけられていたのです。それは、アダムから受け継いだ罪の性質を断ち切るためでした。両者とも恵みであり信仰によって得られるものです。これが結論ですが、パウロはもう1つ私たちがなすべきことがあると言っています。それはローマ6章後半のみことばです。ローマ6:11-13「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」このみことばは、罪に対して死んで、神に対して生きている人に対する勧めです。「これまでは、不義の道具として自分のからだを罪に献げて生きてきました。しかし、キリストと共に生かされた者は手足を義の道具として神に献げよ」ということです。私たちはだれかを礼拝しなければなりません。アダムに付く者は、自分の欲とこの世に身を献げて生きてきました。しかし、それは究極的にはサタンに仕えることだったのです。なぜならサタンはこの世の神であり、罪人であった私たちを所有していたからです。しかし、今度はキリストの尊い血で贖われ、さらには古い人に死んで、新しい人になりました。だったら今度は、自分を神に献げて生きるのは当然ではないだろうか、ということです。この世界は真空を好みません。私たち人間も何かに満たされて、何かを礼拝するように造られているのです。「いや、私は神にも、サタンにも仕えません」ということは不可能なのです。もし、私たちの心が主イエスよって満たされていたなら、サタンもこの世も、そしてアダムの古い生き方も私たちを邪魔することはできません。どっちつかずの、二心のものが最も危険なのです。ウォッチマン・ニーはさらに私たちに勧めています。
「ここにおいて問題になるのは、私たちの意志です。私自身の頑固さは、自己主張に徹した意志は、十字架に行かなければなりません。そうして私は、自分自身を神に完全に明け渡さなければなりません。洋服屋に生地を渡さなければ、洋服は作ってくれません。また建築家は、もし私たちが建築材料を提供しなければ、家を作ることはできません。それと同様に、もし私たちが自己の生涯を主に献げなければ、私たちの内にあって主がご自身の命をあらわして下さるように期待することはできないのです。少しも残す所なく、少しも理屈をつけないで、自分自身を主に献げ、御旨のままに用いていだだかなければなりません。ローマ6:13『あなた自身を神にささげなさい』。」ウォッチマン・ニーはもし、聖化、聖められることを望むなら「自己を神にささげる」ということがどうしても必要であると述べています。しかし、この意味は私たち普通に解釈している献身とは違います。私たちの「古い人」(そのままの本能や能力、生まれつきの知恵、力、その他の賜物)を献げるという意味ではありません。パウロは「死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ」るように勧めているのです。つまり、古き創造に属する何物かを献げることではなく、死から復活へと移った物だけを献げるということです。かつてはアダムという古い人が命の源でした。しかし、今はキリストと共によみがえり、キリストが私のいのちの源となりました。ここに至るならば、すべてのものは私のものではなく、主のものであるからです。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました。私たちはキリストと共によみがえることよって、アダム以来の罪から解放されたのです。私たちのからだは私たちのものであって私たちのものではありません。私たちは罪から解放されたからだを神に捧げることによって、肉の働きから解放され、栄光から栄光へと主の御姿に変えられていくのです。