2023.3.12「罪の赦し ローマ3:21-26」

 ローマ人への手紙の鍵のことばは、ローマ1:17「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言われています。4つの福音書や使徒の働きは、何となく物語として理解することができます。しかし、『ローマ人への手紙』になると、急に難しくなります。神学者たちは口をそろえて「『ローマ人への手紙』は聖書の至宝である」と高めています。それをざっくり数回で話すわけですから、「盲人が蛇に怖じず」であります。第一回目は「罪の赦し」について学びたいと思います。

1.罪とは何か?

 罪の赦しを得るためには、まず罪とは何かを知る必要があります。おそらく、この罪はキリスト教しか使わない用語かもしれません。英語で犯罪はcrimeですが、宗教上の罪はsinです。パウロはイエス様と同じように、罪が何なのか具体的に提示しています。ローマ1:29-31「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。」「彼ら」というのは、ユダヤ人、ギリシア人、そしてすべての人たちです。これらは刑法に触れて罰せられないかもしれませんが、神の前では罪と定められる一例です。窃盗や傷害、殺人は入っていませんが、それらを引き起こす貪欲や殺意、争いが罪としてあげられています。では、これらの罪の根源的な罪とは何でしょう?言い換えると、すべての罪を生み出す罪の始まりです。ローマ1:21-23「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」そうです。神を神としてあがめず感謝もしないことが根源的な罪なのです。人は命である神さまから離れてしまったので、心がよどみ、罪や腐敗が入り込んだということです。ある人は「いいえ、私は神なんか知りません」と言うかもしれません。でも、パウロは「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」と言っています。日本に福音が最初に伝えれたのがいつなのか分かりません。ある人たちは6世紀の聖徳太子の頃だと言うし、ある人は16世紀のザビエルだろうと言います。でも、その前から、人間の心に「神がおられること」そして、「罪があること」は啓示されていたということです。異邦人である私たちには罪を示してくれる律法がありません。でも、パウロはこう述べています。「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです」(ローマ2:14)。こうなると、「私は神の存在も知らされていませんでした。罪が何かも分かりませんでした」というのは、単なる言い訳に過ぎないということになります。

 ローマ2章においては律法を持っているユダヤ人に対して語っている箇所です。パウロは「たとえ、律法を持っていたとしても、その律法を守っていないなら神によってさばかれる」と言っています。そして、ローマ3章には罪によるさばきと、罪の贖いと、信仰による義が記されている『ローマ人への手紙』の中心部分に入ります。これら3つの重要な課題が短い箇所に凝縮されているので、神学書を読んでいる感じがします。そのために、私のような説教者が求められます。「それよりも神学者が良いのではないですか?」とおっしゃるかもしれません。残念ですが、多くの神学者は聖書よりも難しく語るので余計分かりにくくなります。私は有名なカール・バルトの『ローマ人への手紙』をいう本を買って読んだことがあります。しかし、日本語自体が分かりません。おそらく、ドイツ語から直訳しているからでしょう。彼の他の本も読んでみましたが、何を言いたいのか分からず断念いたしました。それよりも、英訳の方が分かるのかもしれません。それはともかく、パウロが野球で言うといきなり、剛速球を投げているという感じがします。ローマ3:10「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」そして、ローマ3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず…」と続きます。アメリカから来られた宣教師たちが、このみことばを書いたチラシをさかんに配って伝道しました。クリスチャンになりたての頃の私は「人をこのように罪人呼ばわりしていたら、一人も救われないぞ」と怒りました。

 パウロが罪を強調しているのはなぜでしょう?罪が分からなければ、救いも分からないからです。パウロは救いということを「神から義と認められることである」と言っています。これらは、なじみのない法律用語です。一方、ヨハネは「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と言いました。ヨハネが言う救いは、永遠のいのちであり、生命的です。私たちはパウロが言う、法的な意味における救いも知る必要があります。でも、パウロが強調したいことは、罪を犯した人に対する神のさばきではありません。ローマ3章23節は途中であり、24節まで読む必要があります。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず(23節)、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです(24節)。」パウロが最も言いたいことは、神の恵みです。救いは行いではなく、神の恵みです。恵みとは何でしょう?キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められることです。そうです。すべての人間は罪を犯したので、このままでは義なる神さまから断罪されます。でも、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるという恵みがあります。これがキリストの福音です。私たちが救われる前提として、「自分には罪がある。このままでは、神さまから断罪され、滅びてしまう。私は救いが必要です。キリストにある恵みを下さい」と願い求めることが必要です。罪を列挙されると暗い気持ちになるかもしれません。でも、キリスト教の救いは罪からの救いであり、罪の赦しだからです。

2.罪の贖い

ローマ3:24-26「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。」この短い聖句の中に、私たちの罪が贖われるために何が必要なのか、重要なことがぎっしり詰まっています。まず、この箇所が取り扱っている罪について考えたいと思います。この罪は行いの罪、つまり複数形の罪sinsです。ちなみにローマ5章後半からローマ8章は単数形の罪sinを取り扱っています。単数形の罪sinとはアダムから受け継いだ罪の性質のことです。しかし、このところでは行いの罪sinsがどのように贖われ、赦されるのかが書かれています。行いの罪が贖われるためには、キリストの血が必須です。なぜなら、贖うとは代価を払うという意味があるからです。私たちが犯した罪はただでは赦されません。旧約聖書では、身代わりに動物が殺され、祭壇に血が注がれました。レビ記17章には「実に、肉のいのちは血の中にある。…いのちとして宥めを行うのは血である」と記されています。つまり、キリストは私たちが罪の赦しを得るために、十字架で死んで、血を流してくださったということです。だから、パプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)とイエス様に向かって言ったのです。時々、教会では「罪がきよめられる」と言いますが、聖書的には罪の性質がきよめられるという意味ではありません。罪の性質はこれから学ぶ、十字架によって古い人が共に付けられることによってでしか解決はありません。ローマ3章で言っているのは行いの罪sinsであり、キリストの血がそれらの罪をきよめるということです。言い換えると罪が赦されるということです。

 次に学ぶべきことは、「血による宥めのささげ物」です。口語訳聖書は「あがないの供え物」と訳されています。キング・ジェムス訳はpropitation「神の怒りを和らげる宥め」という言葉が使われています。原文のギリシャ語は「ヒラースティリオン」となっています。ヒラースティリオンとは、ヘブル語では「カッポーレス」であり、贖罪蓋のことです。いのちのことば社『新聖書注解』はこのように解説しています。「年に一度、大祭司がイスラエルの罪を贖うために、至聖所にある契約の蓋に子羊の血を携え、その蓋の上に血を七たび注ぎました。それによって民に注がれている神の怒りが取り除かれ、神との和解が回復されました。そのように、神はキリスト・イエスを、神の怒りをなだめ、神との和解をもたらす、『ヒラースティリオン』として計画し提供され、われわれはキリスト・イエスにおいて罪の赦しと神との和解を得ることができるのである。」さらに、高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本でこのように述べています。「なだめ」とは、キリストが人類の罪の代価を支払うために、ご自分の命を捨ててくださったことにより、神の義の要求と律法の要求が満足させられ、罪に対する神の怒りがなだめられたことを意味する。」ヨハネもパウロと同じことを第一の手紙に書いています。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」私たちは神さまは愛であることを聖書から良く知っています。しかし、神さまは義なるお方であり、罪をそのまま赦すことができません。罪は必ずさばかなければなりません。もし、ご自身の義を通すと、すべての人が罪を犯したのですべての人を断罪しなければなりません。でも、神さまは愛なるお方なので、何とか人類を救いたいと願うのです。神さまはご自身の義を満たすために、御子の上に人類の罪を負わせ、御子を私たちの代わりに罰したのです。そのことによって、神ご自身が義であることが示されたのです。

 しかし、それだけでは救われません。私たちが救いを得るためには、そのことを信じる必要があります。ローマ3:26「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」ローマ3章には二種類の義があります。第一は神ご自身が義であるということです。神の義は御子イエスを罰することによって血による宥めのささげ物として現わされました。第二は、御子を信じる者を義と認めるという神の義です。私たちは信仰によって義と認められ、恵みによって救われるのです。ローマ人への手紙では、救いを言うとき「罪が赦される」というよりも、「義と認められる」というような言い方をしています。パウロは法的な意味を強調しています。なぜなら、神の律法が罪を犯した人を訴えるからです。でも、キリストを信じるなら、神の義が与えられ、その人はさばかれることはありません。そのことをローマ4章で「アブラハムが信仰によって義と認められた」ことを繰り返して説明しています。問題は、キリスト教会がその通り信じているかということです。多くの教会は「犯した罪を悔い改めて、キリストを信じる」と言います。「悔い改めとは、自己中心の罪を認め、神さまに『ごめんなさい』と謝ること、罪を悔いることです」と言うかもしれません。しかし、ローマ人へ手紙を見ると、「悔い改め」とか「ごめんなさいと謝る」とか、「罪を悔いる」という箇所は1つもありません。罪の贖いは父なる神さまと御子イエスが一方的になされたことであり、私たちは人間は、全く関与していません。だから私たちは神さまからあわれみを引き出すような祈りはしなくて良いのです。神さまに「ごめんなさい」とお詫びして、罪を悔い改める必要はありません。真の悔い改めとは「自分が罪人であることを認め、キリストによって神さまが私を救ってくださる」と考えを変えて信じることです。

高木慶太師師は「ヨハネの福音書の中に『悔い改め』ということばが一度も使われていないのは、なぜだろうか?『信じる』ということばは、救いと関連して99回も使われているにも関わらず…」と言っています。キリストによる救いの手立ては完成されています。私たちは救われるために信仰の他に何もいりません。私たちが完成されている救いに手を加えるなら、それこそ不完全にしてしまうでしょう。恵みによって救われるとは、行ないは一切不要であり、信仰のみによって救われるということです。十字架で流された血によって、すべての罪の負債が支払われ、神の怒りが宥められたからです。

3.信仰による救い

 ローマ人への手紙4章から5章11節までは、「信仰によって義と認められる」ということが長々と書かれています。前のポイントで「アブラハムが信仰によって義と認められた」ので、罪の悔い改めは必要ないと言いました。果たして、そうなのか第三のポイントでそのことを確認したいと思います。ローマ4章に記されている人物はアブラハムです。少し、ダビデとサラのことも書かれています。パウロは弁証論的にくどくど書いていますが、信仰義認の内容です。では、聖書の流れにそって「信仰による救い」について学びたいと思います。

 まず、ウロは創世記15章に記されている主のことばを引用しています。ローマ4:3なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。「義と認められる」ということばが、4章3節、5節、6節、9節、10節、11節、13節、22節、23節、24節、25節、そして5章1節、9節、計13回出てきます。これらのほとんどが「信仰によって義と認められる」ということなのですが、「〇〇ではなく」と否定しているものがあります。第一は、「行いではなく、信仰によって義と認められる」ということです。もし、行ないによって義と認められられるのならどうなるでしょう?そうすれば自分を誇ることができます。もし、働いて得られるものであれば、それは報酬であり、恵みではありません。エペソ2:8,9「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」教会はこのようなことを人々に要求するかもしれません。聖書を十分に読んでいない。礼拝に来ていない。酒やたばこを飲んでいる。素行がどうも怪しい。では、イエス様の隣で十字架につけられた犯罪人はどうだったでしょうか?彼はこれまで死罪に値する悪行を犯してきたのでしょう。彼は「良いことをしろ」と言われても無理です。なぜなら、両手両足を十字架につけられているからです。これから死ぬのですから、聖書も読めないし、教会にも行けません。また、彼の信仰告白は怪しいものです。彼は「イエス様。私を思い出してください」と言っただけです。それに対して、イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。彼は100%罪赦され救われたと思います。行いはなくても、信仰があったからです。

 第二は犯した罪の悔い改めとそれに対する償いが必要かどうかです。4章6節以降には、ダビデの事が記されています。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯し、それらを隠し通していました。預言者ナタンが彼を責めたとき、ダビデはこう言いました。Ⅱサムエル12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。」彼は罪を認めただけです。詩篇32篇にはこのように書かれています。詩篇32:5私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。確かに、ダビデは主の前に自分の罪を告白しています。でも、それに対する償いはしていません。昔、有名な伝道者の証を聞いたことがあります。彼は洗礼を受ける前後したことがあります。無賃乗車をかなりやっており、それを駅員にお詫びしに行ったそうです。駅員はびっくりして、赦してくれたそうです。その教団では、盗んでいたものは返すようにという教えもしていたようです。そうなると、結構ハードルが高いような気がします。でも、バプテスマのヨハネは人々にこう言いました。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」(ルカ3章8-14)。私はバプテスマのヨハネは旧約最後の預言者だからと思っています。私はある教団の神奈川教区のCSキャンプでカウンセラーの奉仕をしたことがあります。小学校5年生の男の子がイエス様を信じました。そのことを夜のリーダー会で報告すると、「あの子は、悔い改めが徹底していない」と言われました。その子はクリスチャンホームの子どもらしく、CSの担当教師が普段の行動を良く知っているのでそう答えたのだと思います。それにしても、「小学校5年生がそんなことできるのだろうか?」と思いました。私たちは信仰の実を求めがちであります。それは人が信じて、新生したら、聖霊の恵みによって生まれてくるものだと思います。しかし良い行いを条件にしてはいけません。

 ある人たちからは「信仰のみによる救い」を「安っぽい恵み」「安易な信仰主義」「ただ信ぜよ主義」などと言う非難が浴びせられるかもしれません。使徒パウロも「善をもたらすために悪を行おう」(ローマ3:8)と同じ非難とそしりを受けていました。この点についてロイドジョンズ博士はこう述べています。「信仰のみによる義認の教理は、誤解される危険性がある。人々はそれを聞いてこのように批判するかもしれない。『ここに、良い生活を奨励しない人がいる。彼は、人の良い行いに何の価値もないと言っている。したがって、彼が言っていることは、“あなたは何をしてもかまわない、罪を犯したいだけ犯しなさい”と言うことである。』この意味で信仰のみによる義認メッセージは誤解される危険性がある。救いが完全に恵みによるというメッセージも同じである。したがって私はこう言いたい。『もし、われわれの説教がそのような批判とそのような誤解を生み出していないなら、それはわれわれが本当に福音を説教していないからである』。アーメン。人間は救われるための条件が付けられた方が、本物のように見えるでしょう。この世の宗教にはすべてそのような条件があります。それを満たした人は、「自分は救われている」と思うのかもしれません。しかし、それは人間的な宗教であり、サタンの罠でもあります。行いで救いを得ようとするなら、「これで良い」ということはありません。イエス・キリストによる救いはあまりにも高価なので、私たちが恵みによって受け取るしかないのです。なぜ、救いが私たちとって無料なのでしょう?なぜ信じるだけで救われるのでしょう?その答えは、ただ主イエスがその価を完全に払って下さったからです。信じる者が永遠のいのちを贈り物として受け取ることができるようにと、キリストはご自身の尊い血という代価を払って下さったのです。最後に一言加えます。神さまから義と認めらることは、赦された罪人以上のことであることを覚えて下さい。