2023.2.19「異邦人伝道 使徒10:1-8」

エルサレム教会には二種類の人たちがいました。ギリシャ語を話すユダヤ人はヘレニストと呼ばれ、離散したユダヤ人の改宗者でした。彼らはユダヤ教の慣習には余り興味がありませんでした。一方、ヘブル語(当時はアラム語)を話すユダヤ人はヘブライニストと呼ばれ、神殿礼拝を継続して行なっていました。ちなみに、イエス様の12使徒はヘブライニストたちです。

1.保守的な使徒たち

 イエス様はよみがえられた後、使徒たちに「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と約束されました、また、天にお帰りになる直前、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになられました。しかし、使徒たちは異邦人の伝道には消極的でした。使徒7章に書いてありますが、執事のステパノはユダヤ人を糾弾するような説教をしました。サンヒドリンの議員たちは怒って、ステパノを石打ちにしました。その日から、エルサレム教会に対する激しい迫害が始まり、使徒たち以外は、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:1)。迫害を受けた人たちは、ギリシャ語を話すヘレニストたちでした。使徒たちを含めヘブル語を話す人たちは、ユダヤ教に反対していなかったので、エルサレムに留まることができました。使徒8章にはピリポによるサマリヤ伝道が記されています。エルサレムにいる使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わしました。二人は信じた人たちに、聖霊を受けるように手を置いて祈りました。そこでも分かるように、サマリヤを伝道したのは、使徒たちではなくギリシャ語を話すヘレニスト、ピリポだったのです。それから、ペテロは信者たちを励ますために西海岸を巡回しました。リダというところでは、中風のアイネアを癒してあげました。また、ヤッファにおいては、死んだドルカスを生き返らせてあげました。まさしく、ペテロはイエス様と同じようなわざを行ないました(ヨハネ14:12)。しかし、異邦人伝道に関しては、未だに消極的でした。

 使徒10章にはカイザリヤにおける、異邦人コルネリウスの回心のことが記されています。コルネリウスはカイザリアに住むローマの百人隊長でした。彼はユダヤ人が信じる神を信じていました。クリスチャンではありませんでしたが、神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていました(使徒10:2)。神さまはペテロにコルネリウスのところに行かせるために、同じ幻を三度も見せました。詳しいことは第二のポイントで申しあげますが、ペテロの考えを変えるというのは容易ではありませんでした。ペテロは異邦人の救いは否定しませんでしたが、このように考えていたと思われます。「異邦人は汚れているので、彼らと交わると自分も汚れる。また、彼らが救われるためには、モーセの律法を学び、割礼を受けなければならないだろう。」つまり、キリストの福音を信じるだけでは、救われないと考えていました。異邦人が救われるためには、まず、割礼を受けユダヤ教徒にならなければならないと考えていたのでしょう。それは、エルサレムに留まっている他の使徒たちも同じでした。その証拠に、使徒11章にこのようなことが記されています。使徒11:1-4「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れたことを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした』と言った。そこで、ペテロは彼らに事の次第を順序立てて説明した。」このあと、使徒の働き10章に書いてある同じことが長々と記されています。つまり、ペテロが見た幻、御霊が話したこと、御使いが現れたこと、そしてコルネリウスたちが聖霊を受けたことが、繰り返し書かれています。「使徒10章と同じことが、どうして11章にも書かれているのか…」と文句を言いたくなります。でも、それだけエルサレムの使徒たちの考えを変えるというのは困難なことだったのです。ペテロが弁明した後、どうなったでしょうか?使徒11:17,18「『ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。』人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。』

 彼らの救済論をまとめると、こういうことなのです。異邦人が割礼を受けてユダヤ教徒になり、それからキリストを信じるべきだということです。でも、コルネリウスのことから、ユダヤ教徒にならなくても、異邦人がキリストを信じて救われるかもしれないことが分かったのです。まだ、彼らの考えは完全に変わっていません。使徒15章でパウロが第一次伝道旅行から、帰って来るまで待たなければなりませんでした。そこでは、議長のヤコブが「異邦人が信仰のみによって救われる」という声明を発表しています。第一のポイントで学ぶことは、エルサレム教会は聖霊を受けて誕生したものの、未だ古い皮袋のままだったということです。迫害のせいもありますが、外に向かって伝道したのは、信徒ピリポ、そして名もないギリシャ語を話す人たちでした。この先、エルサレム教会はどうなったでしょう?経済的にとても貧しくなり、使徒パウロが献金を携えて訪問します(使徒21:17)。異邦人の教会がエルサレム教会を助けようとしたのです。イエス様はかつて、「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」(ルカ5:38,39)とおっしゃったとおりです。これは全世界でこれまでに起ったリバイバルの歴史にも言えることです。最も偉大なリバイバルは16世紀の宗教改革です。その後、ジョンウェスレーによるリバイバル、アメリカのリバイバルが数多く起りました。でも、聖霊の働きが過ぎ去ったあと、教会は守りに入ります。彼らは教義や信条を作り上げ、教会を制度化します。その時に生まれた讃美歌や聖歌を歌いますが、聖霊の火がないのです。現在もリバイバルをもたらした偉人たちの名前が付けられた教会がたくさんあります。もちろん、良いものもありますが、皮袋が古くなっていることを知らないでいるのです。川がせき止められると沼になり、水が腐ってしまいます。聖霊の流れを留めないように、教会は変革させられることを恐れず、外に向かって進む必要があるのです。

2.神の御膳立て

 使徒の働き10章を見ますと、ペテロとコルネリウスの間に、神さまが頻繁に介入していることが分かります。まず、神の御使いが幻の中で、コルネリウス現れました。その次は、ペテロが同じ幻を3度も見せられました。その後、主が幻の意味を語られました。さらに、御霊が人々が到着したことをペテロに告げました。最後には、ペテロが説教している途中、聖霊がコルネリウスたちの上に下りました。現代の教会は聖書を信じると言いながら、幻とか御使い、主の直接的な語りかけを信じません。しかし、使徒10章には、超自然的なことが当たり前のように書かれています。私たちは、神学を信じるべきなのでしょうか?それとも、聖書の出来事は今もあるということを信じるべきなのでしょうか?それでは、1つ1つ順を追って見て行きたいと思います。

 第一はコルネリウスに現れた神の御使いです。コルネリウスはカイザリアに駐屯するローマの百人隊長でした。彼はユダヤ教の神さまを信じていました。使徒10:2「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」ルカ福音書にも、しもべの癒しを求めた百人隊長のことが書かれています。両者とも、ユダヤ人に親切にしている信仰深い人たちです。10章3節から8節までは、神の御使いとコルネリウスとの会話が記されています。「ある日の午後三時頃、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た」と書かれています。午後三時はユダヤ人が祈りをささげる時刻なので、コルネリウスは祈っているうちに幻を見て、神の御使いと遭遇したのでしょう。御使いは「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい」と告げました。まず、コルネリウスの祈りと施しが神さまに覚えられているということです。彼はまだ、クリスチャンでありませんでしたが、神さまは彼のことを覚えおられたのです。マタイ25章には「もっとも小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と書かれています。もう1つは、御使いは「人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンをここに招きなさい」と命じました。御使いはキリストの福音を伝える使命は負っていません。ここでは、神からの伝言を伝え、人々を出会わせています。コルネリウスは「幻は聖書的でない」とか「御使いがいるはずはない」とか言いませんでした。ただちに、しもべたち二人と側近の兵士一人をヤッファにいるペテロのところに遣わしました。

 一方、ヤッファにいたペテロは何をしていたのでしょう?使徒9章の終わりには、一度死んだ、ドルカスという婦人を死からよみがえらせました。そのことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じました(使徒10:43)。あるとき、ペテロは空腹を覚えながら、夢心地になっていました。普通は腹いっぱいになった時、眠くなるのに逆のような気がします。下からおいしそうな食べ物の匂いがしてきたので、夢心地になったのかもしれません。ペテロが見た幻の内容です。使徒10:11-16 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。

レビ記11章には食べてもよい生き物と、食べてはいけない汚れたものが記されています。豚はひづめが分かれていますが、反芻しないので汚れた動物です。トカゲもダメ、猛禽類もダメです。鱗のないウナギもダメです。おそらく、そのような動物や鳥、爬虫類が入れ物の中に入っていたのでしょう。ペテロはユダヤ人で律法の知識があったので、「食べたことはありません」と断ったのでしょう。幻とともに、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」という主のお声がありました。そのようなことが3回もあったということは、完全であり、徹底的に、という意味です。それくらいしないと、ペテロの頑なな思いは変わらないということなのでしょう。この幻の意味は、「神がきよめた異邦人をきよくないとは言ってはいけない」ということです。

 ペテロがこの幻はどういう意味なのだろうと思いめぐらしていたその時です。御霊が「見なさい、三人の人があなたを訪ねて来ています。さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。私が彼らを遣わしたのです」と言われました(使徒10:19,20)。それで、コルネリウスのもとから遣わされてきた人たちと会いました。彼らは彼らで「あなたを自分の家に招いて、あなたから話を聞くようにと、聖なる御使いから示されました」とコルネリウスからの伝言を伝えました。両者に対する神の超自然的な計らいによって、異邦人に福音が伝えられるのです。

もう一度言います。ペテロには「3度の幻と主のお声」があり、そして御霊が「見なさい、三人の人があなたを訪ねて来ています」というお声がありました。一方、コルネリウスには、神の御使いが「ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンを招きなさい」と命じました。その結果、ペテロはカイザリヤにいる、コルネリウスのところに行くわけです。使徒の働き10章には、幻、神の使い、主の御声、そして御霊の声の存在がはっきりと記されています。ところが、現代の多くの教会は「聖書が完成した今は、そのようなものは不要になった」と言います。これは、時代区分説(ディスペンセーショナリズム)の神学から来たものです。彼らはⅠコリント13:10「完全なものが現れたなら、部分的なものはすたれるのです」ということばを適用しています。しかし、この意味は、主が再臨されたときのことを言っているのであり、聖書の霊感のことを言っているのではありません。ペテロがペンテコステの日、「終わりの日に…青年は幻を見、老人は夢を見る」とヨエル書から語りました。ペンテコステの日から、キリストの再臨までが「終わりの日」なのであり、再臨の日まで、幻や奇跡、主の語りかけ、神の御使いの働きが続くということです。目には見えませんが、神の御使いは今も私たちのために働いています(ヘブル1:14)。主は御霊を通して、私たちの思いに語りかけ、ある場合は、肉声のごとくはっきりと威厳をもって語られることがあります。主は今も生きて私たちのために働いておられます。アーメン。

3.コルネリウスの回心

 使徒10章の後半から、コルネリウスの回心について記されています。少し前の聖書は「コルネリオ」となっていますので、「固有名詞まで変えてしまうのはどうかな?」と思います。ペテロとコルネリウスがあった時、お互いに神さまがどのように介入してくださったかを述べています。その後、ペテロがコルネリオスたちに福音を語ります。そこにいたのは、コルネリオスの他に、親族や親しい友人が呼び集められていました(使徒10:24)。つまり、コルネリオスの妻や子どもたち、それにローマ兵やしもべたちもいたに違いありません。第三のポイントで学ぶべき事は、ペテロが伝えた福音の内容です。コルネリオスたちが回心し、そして、水のバプテスマを受けるまでどのようなことがあったかを学びたいと思います。使徒10:34-36「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」コルネリオスはユダヤ教の知識があり、家族全員、神を恐れ、いつも神に祈りをささげていました(使徒10:2)。彼は単純な異邦人ではなく、ユダヤ教的な信仰がありました。旧約聖書における神さまのことを知っていたと思われます。そこへ行くと日本人は、「神」と言われても、神社や偶像の神しか連想できないので、創造主なる唯一の神を説明しなければなりません。コルネリオスは神さまは知っていましたが、イエス・キリストがどのようなお方なのか分からなかったのです。そのため、ペテロは、キリストの福音を宣べ伝える必要がありました。このことは、私たちにとっても参考になります。

 第一のポイントは、ペテロは「イエス・キリストはすべての人の主です」と言ったことです。主というのはギリシャ語でキュリオスであり、「主人、所有者」という意味です。しかし、その当時、ローマのカイザルもキュリオスと呼ばれていました。ですから、「主」という意味には、神であり、礼拝を受ける存在ということが含まれているのです。その頃すでに皇帝礼拝が始まっていたと思われます。コルネリオスが「ローマのカイザルではなく、イエスがキュリオス、主である」と言われたとき、覚悟が求められたに違いありません。私たち日本人は、伝道するとき、「イエスは救い主」と言いますが、「イエスは主である」ということを言いません。そうなると、その人は困った時だけイエス様にお願いするご利益信仰になってしまうでしょう。ですから、最初から「イエス・キリストは私の人生の主、神である」と信じることが重要です。そうでないと、いつまでも自分が主人で、イエス様が私の言うことを聞く救い主になってしまいます。これだと自己中心的な信仰であり、神さまに従うような信仰は生まれません。

 第二のポイントは、イエス様が地上でどのようなことをなされたのかです。多くの日本人は、イエス様がマリヤから生まれたというクリスマスのことは知っています。カトリック教会の教えもあり、馬小屋がイエス様の人生の始まりだと思っています。しかし、イエス・キリストは永遠の昔から父なる神とおられ、人類を救うために、2000年前に人となってこの地上に来られたのです。ペテロはナザレのイエスが、何をなされたのかとても良くまとめています。36節では「平和の福音を宣べ伝えた」と言い、38節ではイエスの行い、つまりミニストリーが語られています。イエス様は地上でどんなことをなされたのでしょうか?使徒10:38「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」これは、イザヤ書61:1「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」の成就です。旧約聖書を知っている人なら、「ああ、それはメシヤ預言の成就だ」と分かるでしょう。しかし、一般のユダヤ人は旧約聖書の預言とナザレのイエスは別者だと考えていました。コルネリオスは、「イエス様がなされた行いを聞いて、そのお方は旧約聖書が預言していたお方なんだ」と分かったのではないでしょうか?

 第三のポイントは、イエス様がなされた罪の贖いです。ペテロはイエス様の十字架の死と復活の証人でした。不思議なのは、イエス様の死よりも、よみがえられて自分たちに現れてくださったことを強調しています。日本の伝道は、十字架の死は強調しますが、よみがえりのことは付け足しみたいです。パウロはテモテに「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です」(Ⅱテモテ2:8)と言われました。使徒の働き全体を見てもわかりますが、人々は十字架の死よりも、復活を強調していることは驚くべきことです。私はよみがえりを強調しているのは、罪の贖いが既に完成しているためだと思います。残されているのは信じること、それを受け取ることです。だから、ペテロは「預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています」(使徒10:43)と言ったのです。するとどうなったでしょうか?

 使徒10:45「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。『この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。』」彼らは信仰告白もしていません。洗礼準備会もしていません。役員会の諮問も受けていません。なのに、聖霊が彼らの信仰を認めて、彼らの上に下ったのです。彼らは聖霊の生まれ変わりと、聖霊のバプテスマを同時に受けた稀な人たちです。でも、ペテロは信仰に必要な最低の福音は語っています。彼らはペテロが話している間に信じて、そして回心したのです。神さまはこのように私たちが必要だと思うようなことを排除して、「大事なことはこれなのだ」と教えて下さいます。水でバプテスマは信じた人のしるしであり、救われるための条件ではありません。いつの時代であっても、人間主導の教会ではなく、聖霊主導の教会でありたいと思います。